絶対に孤独にならない世界

小早敷 彰良

一光景

「起きたくないよねぇ。こんな風の強い日だもの。でも大丈夫、君なら出来るって。いつも頑張ってるんだし今日も出来るよ。もう少しだけやってみよ?」

「本当嫌だ。もう無理、辛い。」

「だいじょーぶ。平気平気。」

 矢継ぎ早に励ましてくる彼女に駄々をこねながらも、私は下半身から身を起こす。

 この茶番は毎朝のことだ。なんて気持ちの悪い光景だと言われそうだが、自由に振る舞えるのは一人暮らしの特権だろう。

「昨日の課題も終わってない。学校でなんて言われるか。」

 特に学級委員長。彼女は自分の進路を政治家と定めているため、若いうちから社会貢献に勤しむ厄介な人物だ。

 一番始末に負えないのは彼女がポンコツであることだ。自分たちの技量を見極めて、一昼夜で終わらない課題の量に抗議することこそが、あのひねくれた煙草臭い担任の意図だったのだろうに、彼女はそれに気づかないばかりか、全員にそれを実行することを指示したのだ。

 担任の愉快そうな視線と、抗議の声を封殺する彼女の目線を思い出す。

 とばっちりを食うのはいつだって我々クラスメイトだ。まったくもって嫌になる。

「課題が終わらなくても何とかなるって。どうせみんな終わらないんだよ?」

「だとしてもなんだか嫌じゃないか。もやもやするというか。」

「ああ、それはわかるけどさ。」

 にこにこと元気付けてくるのは彼女の常だ。そう設定しているとはいえ、よく出来るな、と私は彼女を他人事のように眺める。

「ご飯作っといたよ。和食。好きでしょう?」

 テーブルの上にはもちろん大好きな、炊きたての白米が、脂ののった焼き鮭と濃い目のお味噌汁、おひたしを前に湯気を立てている。脇に佇む炊飯器はお代わりがたっぷりあることを示していた。

「用意してくれてありがとう。愛してるよ本当。」

 頬を抑えて照れた彼女の柔らかな栗毛が揺れる。節目の瞼には長い睫毛が瞬いており、まるで星が散るかのようだった。

 えくぼを浮かべながら彼女は椅子を引いて、私を食卓に座らせた。

「じゃあ食べたら行ってらっしゃい。今日も頑張ってね。」

「うん、頑張る。」

 彼女に答えて手を合わせる。

「いただきます。」

 そう言った瞬間に彼女はかき消えた。



 まだ登校まで時間がある。箸を置いてお茶を飲み終わるまではゆっくり出来る。少し早く起きてしまった。どれも課題の憂鬱のせいだ。

 私は端末を操作して、世界のニュース番組を選択する。すぐに部屋の壁一面にそれが映し出された。

「相変わらずろくなニュースがないな。」

 壁の前で腕組みをするのは、オールバックを鈍色に光らせたロングコートの男だった。彼は細長い手足を持て余すかのようにソファに腰掛けている。この国の家具はこの男の体格には見合わないようだ。

「仕方ない。面白いことはそう起こらない。」

「退屈だろう?」

「もちろん退屈だよ。最悪の気分。」

「なら殺人事件でも起こさないか? 紛い物でもかまわない。人間種は増えすぎだ。争いは良いぞ、スカッとする。」

 嬉々として話す彼を無視して複数の画面をニュースに切り替える。実のところ全番組の中でニュースが一番好きだ。どんなに自分一人の一感情が酷いものだとしてもこの世界は回っていくのだと確信させるからだ。

「つまらん。お前はこんな、素敵なことをする気は無いのか?」

 彼が指差したのは、たった今速報で入ってきたニュースだった。

『速報をお伝え致します。御茶ノ水駅前で連続殺傷事件が発生しました。9名死亡、重軽傷者多数。また、殺傷箇所、人数比は現在調査中です。犯人はマーシーと共に逃走中。この影響で電車は一部運休しております。火急の用がない方はご自宅にて待機を、……。』

「学校は?」

「火急の用だね。」

「とんでもない社会だな、おい。」

 彼が通学用鞄を投げて寄越す。横のポケットに挿しておいたペンが飛ぶが彼は一切気にしていない。

「俺が付いて行こうか?」

 粗暴な行動に反して優しい提案をする彼にしかめっ面を返す。彼が一体何を考えているかは手に取るようにわかる。

「そんなことしたらどんな目で見られるかわかっているでしょ?」

「ああ。朝の女ならともかく、俺みたいなのを連れていたらな。」

 彼は抑え切れない、といったように笑い出す。

「まだ自尊心が残っていたんだな。あんなに駄々をこねていた癖に。」

「煩いよ。」

 けらけらと哄笑を続ける彼の手からヘアゴムを奪い取る。しっかりと髪をくくり、頭を振れば多少なりとも意識が切り替わっていく。

 家の中にいた安寧の時は終わって外出して戦う時だ。

「じゃあ、今日も見守っててね。それ以外はしなくて良い。」

「それが実現するかはお前次第さ。」

 哄笑を納めて、にやり、と彼は不敵な笑みを漏らす。これだから彼は油断ならない。自ら育てたものとはいえ、気を抜けば意識を奪い去られてしまうのではないかとすら思わせる、そんな薄ら寒い笑みだった。

 お気に入りのローファーに足を入れる。甘いチョコレート色のそれは私の足取りに合わせて軽やかな音を立ててみせた。

 玄関から、テレビを消したことを確認する為に振り向いた時、既に彼の姿はかき消えており、テレビもきちんと黒い画面を映している。流石私だ。



「うわ、駅火災で全面運休? しかも振替輸送なしだって。」

「最悪、学校無理だな。」

「もうスタバ行かへん?」

 駅に置かれた電光掲示板は、読み辛い速度で事件状況を伝えていた。朝報道されていた事件の犯人は余程感情的な人物らしい。

 同じ境遇らしい学生や会社員がスマートフォンを手に持っている。

 ざわつく地下鉄構内で、彼らと同じく、私は電話をかけていた。

「そういう訳で今日学校休みます。わざわざ地下鉄の方まで行ったんですけれど、どの駅も運休です。」

『まぁ仕方ねぇな。教員もちらほら休んでる。俺も近所に住んでなきゃな。』

 おそらく煙草を吸っているのだろう、大きく息を吐く音がする。

「学級委員長には。」

『言っておく。最近あいつは調子に乗りすぎだ。』

 吐息の音に電話越しにまで煙たく感じる。

『そろそろ潮時だな。学級委員長は辞めてもらおう。』

「学期の切替時期で辞めるのが自然じゃないですか。」

『なんで俺がそんなことを考えなきゃならん? 辛いならセルフセラピーでもすれば良いんだ。』

 じゃあ、と言葉を残して電話は切れた。

 思わずスマートフォンを見る。散々文句を言ったがこうなると後味が悪いじゃないか。がしがしと頭を掻いてみてももやもやは晴れない。

 こんな時の手は一つしかない。

 地下鉄構内の物陰にそっと隠れる。監視カメラには写っているが問題はない。人目につかないところで擬人化するのはマナーの問題だからだ。


 これはただの科学技術だ。

 二十数年前に現れて、瞬く間に人間の生活の根幹となった擬人化技術だ。批判も多い。この擬人化がなければ駅での足止めだってなく、学級委員長は委員長のままだったはずだ。

 だとしても人間は甘美な成果物から目をそらすことは難しい。満月から目をそらし難いのを何故か思い出してしまう。

 私はしっかりと望みの姿を思い浮かべながら、踵を数回鳴らす。本来、擬人化にはこんな儀式めいたことは必要ない。しかし擬人化の際、生活から意図的に切り離す行動を取っておくことを世間では推奨されている。生活と擬人化の分化に失敗したのがニュースに載るような犯罪者たちだ。

 目を瞑って呟く。

「あの人に会わせてくれ。私の心の内にいるあの人に。」

 何度も何度も呟く。

 かつかつがつかつ、ごっごっ。

 何度かの靴音にいつしか二人目の中低音が混ざる。


「よお。来たぜ、俺が。」


 顔を上げると、待望していた彼が太陽のような笑顔を浮かべていた。

 髪は群青色で短く切り揃えられており、上半身のラフな無地のTシャツに対して、腰から下のみ白銀色のプレートアーマーを装備している。その様子は不揃いで、不安定で、それでいてずっと見ていたいような不思議な印象を受ける。


 これが、私の心の具現化だ。正確には最も健康的で誇り高い感情の擬人化だ。

 人間は孤独への苦悩の末に、自分の感情を擬人化する技術を手に入れたのだ。


「血の匂いがするな、人間も随分と騒がしい。こんなところさっさと離れるに限る。それとも何だ、解決しに行くか?」

 戦場は大歓迎だ、と付け加える彼は、流石、自分の心であると断言出来るほど好戦的だ。

「残念だけれど戦うのは面倒が多すぎる。怖いし。」

 ぱちくりと目を瞬かせる彼は私の恐怖を一切理解出来ていない。それもそうだろう。私が彼を擬人化する際には決して恐怖は入れないようにしている。健康的とは言えないからだ。

 ちらり、と彼は視線を走らせる。

「そうだな。てめぇの言う通り、面倒そうだ。」

 先程よりも悪化している電光掲示板情報を横目で見て、彼は心底嫌そうに鼻を鳴らした。

『犯人は尚も逃走中。心身の分裂を起こしております。遭遇した場合大変危険ですので、無理に交戦しようとせず、身の安全を確保した後、速やかにご通報ください。』



 ある企業が開発した擬人化技術により、人類は自分の心を擬人化し具現化、あたかも別の個人として生まれたかのように、共に生活出来るようになった。

 この技術の肝要な部分は、「自分が望んだ感情を擬人化することが出来るが、自分の中にある感情しか産み出せない」というところだ。

 例えば、他人を呪ってばかりいた人間は、愛情深い性格の擬人化を成し得ない。欠片さえない感情は人を模し得ない。

 この技術が生まれてから随分と自己啓発本が増えた。自分の中に感情を生み出しさえすれば理想の人格と暮らせるのだから、目の色を変えて自己改革に走るのは無理のない話だ。

 その反面、自分以外の感情への配慮は急速に失われつつある。自分の理想が目の前にいるのに他者を省みる余裕なんてない。人生の時間はあまりに有限だからだ。

 理想を具現化出来るようになってから、自殺率は大幅に低下した。出生率も成婚率も低下しているらしい。

 人の孤独を癒した代償は重く、社会も変革の一途をたどっている。

 この擬人化技術と擬人化された感情を、人間と区別して「報酬(マーシー)」と呼ぶ。



「それで、あの愚直な女は更迭か。良いじゃねぇか。迷惑を散々かけられたんだろう?知る義務を怠るというのも罪だ。自業自得だろ。」

 言い切る彼は躊躇いもなく定番のフラペチーノを吸い込んでいく。私はというと期間限定のフルーツティーを少しずつ舐めていた。

「確かに何度も呪った人だけれど、破滅されると何だかもやっとするのよね。しかもあんなにあっさり。劇的な出来事によって転落した方がまだ納得するのに。」

「そういうもんかねぇ。」

 話し相手を務める私のマーシーは長い手足を持て余すかのように石像にもたれかかっている。その前に設置されたベンチに腰掛けて、私は自分の感情に自己の状態を伝えるべく、言葉を探していた。

 石像を中心とした駅前広場は電車運休を知って地上に舞い戻ってくる人間でごった返している。私と同じく、マーシーを連れた人物が大半だ。人間かマーシーか、見た目で判別するのは難しいが、親密そうな二人組ならば高確率でどちらかが人間ではない。自分をよく知って愛してくれる人物を見つけるならば、自身の感情が最適な選択肢である現代に相応しい光景だ。

「にしても交通網の麻痺が著しい。感情災害とは言い得て妙だな。」

 マーシーが弄る私のスマートフォンの画面を覗き込む。

「事件発生がこの駅で、ここまで目撃談をばら撒きながら逃げてるだと。話を信じるなら凄まじい速度だな。」

 ただでさえ横に細長いこの都をさらに裂くように、交通網の運行停止を示す警告表示は真っ直ぐに増えていく。

 私が加えたストローからは、ずごり、と空気を吸う音がする。

「流石に進路予測を立てての警告じゃない? じゃなかったらこれ飛行機の速度でしょこれ。」

 いや、あり得ることだ。

 内心、自分で言ったことを否定してしまう。

 人の感情は時に人智を超えることがある。悦楽の擬人化から自身の子供を産み落とさせた人間もいた。生殖的には自慰行為となるべき過程で新たな生命が生まれた。そう報道されたことは記憶に新しい。

 神秘的なその報せよりも、思ったよりも世間で話題にならなかった世論の様子の方が私は気になった。まるで誰しもがしていることを黙認するかのような対応だと思ってしまった。

 新たな生命の誕生という奇跡を成し得る擬人化だ。だからマッハ速度での走行も、実は夢物語ではない。それでも尚否定する根拠は別の要因だ。

「ここまで感情災害を撒き散らしたら、途中で止められるでしょう。ケーサツも感情武装してるじゃない。テレビで見たよ。」

「あ、また事件状況が更新されたぜ。すげぇな、高速道路の高架の破損だと。」

 映像で投影される状況は確かに、粉々になった高架を見せつけてきていた。

「県をまたいだみたいだ。このままだと海を渡りそうだな。」

 一体どんな心地なのだろう。感情に飲み込まれているであろう主を私は想像する。強力な感情は擬人化の枠を超えていることがままある。視界に入れた人間の目を腐らせたマーシーの事件はつい最近だ。これもその類ではないか。

 不意に感じた嫌な感覚に身震いする私を他所に、私のマーシーは情報収集に余念がない。

「何だこの挙動は。制御が全く出来てねぇな。ご主人は何をしているのやら。」

「もしその被害報告が本当ならだけど、強すぎるんだよ。人間に制御は無理。」

「育てたのはてめぇだってのに勝手な話だな。」

「育てたように育たないくせに。」

 それもそうか、と彼はからからと大笑した。

 御茶ノ水から数駅の駅前広場は快晴によって弛緩した空気を保っていた。その空気に彼の手放しの笑顔は青空に良く映えている。

 周囲を通り過ぎる人々も、やることがなくなった朝に相応しい爽やかな表情を浮かべている。

 私は一つ大きく伸びをして、腰掛けていたガードレールから飛び降りた。

「帰ろっか。ニュース映像なら家でも見られるし、今日はもう電車動かないっぽいし。」

「そうだな、帰りに商店街を冷やかしていこうぜ。」

「二つ角の弁護事務所にいるマーシー嫌いの職員さんに見つかると大変だよ?」

「大丈夫だろ。奴がしてくるのは嫌味だけだ。全くアイツはあんな姿勢で今のご時世やっていけんのかね。」

 彼の大きな左手が私の手を取って絡まる。引かれた手に少しよろければ勝ち誇った笑みを浮かべるのは何故なのか。仕返しに引っ張り返してみてもびくともしない。得意げな顔はその色を深める。思わず一緒になって笑ってしまった。


 歩を進めようとしたとき、爆音が彼の手元からした。

 驚いて飛び上がった拍子に握った手に爪を立てる。

 より笑みを深めた彼と痛い耳に腹を立てて、立てた爪を一回滑らせる。

 彼の手に少しも傷はついてくれなかった。



 ※


 爆音がしたと錯覚した。鼓膜が痛い。彼が右手に持つスマートフォンが鳴っている。聞いたことのないアラーム音だ。

「貸して。」左手を差し伸べる。

 彼はおそらく「もちろんだ。」と言ったのだろう。人外の速度で手渡されたそれは即座に手に収まった。

 無機質な文字が流れている。こんな機能があったとは全く知らなかった。私は認識した文字に従って行動を開始する。

「マーシー、私を連れてここから離れて。」

 すぐに彼は握った手を離し、横抱きに私を抱え上げた。目線が十数センチ上がる。不安定な重心に慌てて彼にしがみつく。

 その間、既に彼は走り出していた。

 いや走り出すという言葉は一切正しくない。私たちは空中を跳躍していた。ビルを使っての反復横跳びの様な格好だ。眼下では道路に流れていた車たちが速度を上げているのが見える。このスマートフォンは人気メーカーの物だ。きっと私と同じく緊急災害速報を伝えられたのだろう。警報は未だ鳴り続けている。

 画面には外洋に出ようとした矢印が真反対に折れ曲がっていた。



 彼が何かに気がついて、勢いをそのままに道路に降り立った。

「どうしたの?」答えはない。

 摩擦による熱が道路を焼き、白銀色の火花が散る。

「歯ァ食いしばれよ!」

 横抱きにされていた視界が半回転する。抱き込まれたであろうことに気がついてから、衝撃に備えたのだと意図を理解した。

 私は彼の肩越しに空の有様を目撃したからだ。

 それは赤黒い矢印だった。三角形をした赤黒マーブル模様の肉塊が黒い尾を引いて、減速することなく飛翔していた。それを追いすがるのは肉塊と比較すれば塵のような大きさの光線だ。あれはきっと感情災害の際に出動する警察か消防のマーシーだろう。そうでなければ、蹴散らされてもなお向かって行く理由がない。

 マーシーは宿主となる人間の感情そのものだ。傷つけば精神に異常を来たす。あんな、肉塊に近づくそれらがやっているように、破壊と再生を繰り返すなどとは正気の沙汰ではない。そんなことをするのは狂人でない限り、仕事や義務感があるものだけだ。

 より強い力で腕の中に引き込まれて視界が遮られる。

「舌噛むなよ。」私のマーシーは静かに囁いた。


 次の瞬間、およそ感覚という感覚が消え失せる。息が出来なくなる程の衝撃が空間を満たしている。

「大丈夫だ。俺に任せろ。」

 遠のきそうな意識の中、彼の声だけが青い空に鮮明だ。

 状況はこれ以上ないほど悪い。それでも彼がいることで漸く正気は保たれている。

 肉塊はビル数棟を貫いて止まっていた。飛行時と違い、それはその全容を明らかにしていた。直視しただけで涙が溢れてくる。

 驚いて目元を擦ると、手の甲が真っ赤に染まった。涙ではなく、毛細血管が崩れて流血している。それでも私はそれを見るのを止められない。

 私のマーシーが様子に気がついた。

「俺だけを見てろ。」

 彼の背中で、言葉にするだけで穢れるそれは遮られた。

 感情災害というのは自分の行動で逃れづらい。被害を拡大する最大要因だ。ほっと息をつく。

 遮られた視界の隅で、もがれたビルの上層階がゆっくりと傾いていく。

 こちらでない向こう側に倒れていくのが不幸中の幸いだと言おうとして、言葉をつぐんだ。

 飛び出た眼球が一本の細く赤い針を伴って私たちの眼前に揺れていた。

 眼球は肉塊に繋がれており、その眼球の主を指し示している。眼球と目が合う度に視界が揺れる。本体程有害ではないが、感情災害特有の有害性現象だ。原理もよく知っている。慌てて目線を逸らす。

 周囲を見渡すと無数に眼球が伸びて、それぞれの標的を見ている。

 一番近くにいるのはブレザー姿の少年と凛とした黒髪の乙女だ。少年の手にも乙女の手にも銀色に輝くナイフが握られている。擬人化技術の応用によって作られた、この世の物とは思えない程精巧な作りをした美しさのものだが、肝心の人間はどちらがマーシーなのか想像もつかない。

「あれは何ですか!」玉を転がすような少女の声がする。

「わからない!」焦った低音の声が答える。

 振り返るとスーツ姿の男性が少女を抱きかかえて飛びさすったところだった。彼がいたであろう場所には棘が渦を巻いていた。

「攻撃してくるのか。」

 言葉と共に強く引き寄せられて顔を上げる。彼は笑っているように見えた。焦りきり歯を食い縛るとこのような表情になる。きっと私も同じ表情をしているはずだ。どこまでいっても彼は私なのだ。

 思わず彼に強く抱きつく。

「お願い。」

「任された。」

 即座に帰ってきた返答の気持ち良さに、そのまま高笑いしてしまう。


 醜い感情というものがある。憤怒や嫉妬、悪意といった醜く強い感情、それらの擬人化はそのまま戦闘能力を持っている。だからそれらを擬人化し人前に出すことは恥であり社会不適合者の烙印を押されてしまう。今朝、私の悪意の擬人を連れて家から出なかったのはそういう訳だ。

 でも何だって例外は残されている。それが今のような、自分を守らなければならない状況だ。感情災害の際、全感情を擬人化することは正当防衛の内に含まれ許されている。危険を孕んでおり何度も法廷で議論されているが、今この瞬間には許された行為だ。


 高笑いが止められない。好戦的な感情を引き出している影響は精神に多大なる影響を与えていた。もちろん悪影響だ。現状を打破するためにすることはそれに拍車をかける。

 自分の心を好き勝手に作り変えるのだから当たり前の話だ。

 彼の髪が逆立つ。顔面に皺は寄り、鋭い歯が剥き出しにされる。瞳孔が増えてそれぞれがばらばらの方向を睨みつけた。

 これが私の心だ。これでも取り繕った方だという事実に、更に嗤ってしまう。

 周囲の其処此処で雄叫びが聞こえてくる。きっと誰もが正当防衛を開始したのだ。本人にとっては大事な、目も当てられない外見のバケモノが何体も立ち上がる。これらの元は全て、枝を伸ばす肉塊と同じものだ。ただ一つ他者を傷つけなかったという一点のみを除いて同じ感情なのだ。

「目標は突破だな。腕が鳴るぜ。お前も気張って生きてろよ。」

 辛うじて人型を保った彼が四つん這いに近い姿勢を取る。左腕に私が抱えられているが先程までの優しさはなく、人型の荷物と認識されているのではないかと思うほどの持ち方だ。

 そのまま前方に向かって飛び出すのだろう。自分の感情だ、何を感じるのか手に取るようにわかる。彼と同じく、私は戦いの高揚感に身を任せて、破壊衝動に身を委ねた何者かを嘲ってやる。


 二人分の哄笑は周囲の目を引くに十分だった。

 閃光のような彼の走りを全ての目は直視した。途端、彼らの視神経から末端まで火に炙られたような痛みを発する。意図を感じて反らしたのは辛うじて理性を保った人間と彼らの相棒のみだった。

 感情による外傷というのは古くは呪いと呼ばれていた。今は全て引っくるめて感情災害である。強烈な感情によって放たれた呪いは狙い通り、彼を直視し続けた者の神経を焼き切ったようだ。

 走る度に動きを止めていく肉塊に、私はお腹を抱えて笑い転げてしまった。




 ※



「つかれた。」

「おう、そうか。俺は満足してるぜ。毎日あれなら良いんだが。」

 勘弁してください、と返答する元気すらない。昨日あんなに動いた身体は鉛のように重い。テレビは昨日の映像を繰り返す機構と化していた。

『昨日の感情災害から一夜、街は復興を始めています。またも民間人の戦闘と対処に頼った公的機関の対応について大きな批判の声が寄せられております。専門家によると、感情災害が起こるようになり個人の資質に左右される分野が広がった現代において、採用の基準を大幅に見直すべきではないかとの指摘がされております。素質の持ち主の義務化にまで踏み込んだ大胆な意見を本番組ではCMの後、特集致します。』

 テレビを勢いをつけて消せば、群青色のマーシーからは大きな不満の声が漏れた。極度に疲労している為、静止する気力も感情の再構築もままならない。怒るにも興奮するにも体力は必要なのだと人は忘れがちだ。

 肉塊は数時間、警察や消防、私含む民間人と大立ち回りを演じた挙句、自壊した。核となる人間が死亡したのだ。数々の呪いはさぞ苦しかっただろう。口内から大量の毛髪が検出、血管はすべて裏返り、最も注目を集めた眼球の無残さといったら。

「本当に怖い話ね。」

「迷わず向かっていって呪いをぶつけたお前も大差ないさ。そういうところが良いんだけれどな。」

 ソファに寝転んでいる私の頭をマーシーが撫でる。ゴツゴツしたそれが滑る様は石が転がるようだ。柔らかさは一切なく髪が何本も絡まって抜けていく。昨日負の感情を彼の構築に混ぜた後遺症だ。それでも温かいのだから離れ難い。ここには自分しかいないが、技術はそれを忘れさせてくれる。

 温かさを捕まえて頬を擦り付ける。

「つかれた。」

「おう。お前は休め。俺はここにいるから。」

 太陽のような笑顔を眼窩に閉じ込めて目蓋を下ろした。彼は私の感情の一部だ。彼よりもずっと多くの負の感情を持っている私の頬にも同じ笑みを浮かんでいる訳はない。

 けれども彼がいる事実は変わらない。その一点のみだけで晴れやかな気持ちが心に広がっていく。

「良い笑顔だな。」

 言葉と共に撫でる手の感覚が遠のいていくのを、私は喜びを持って受け入れていた。目を覚ましても愛する彼はそこに居続けている。

 彼へ何か言葉にしようとして、止めた。


 眠りに落ちた後も、彼は頭を撫で続けていた。

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絶対に孤独にならない世界 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa

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