火車
超獣大陸
車内談話
無数の光が並んでいる。
深夜零時の道路の上に匣を乗せた車輪が止まった。
闇の地平線の彼方まで道は行き、列は続く。
みな黒塗りの、まるで葬式行列のような、こんなにも、無数に存在するというのなら――その全てに人間がいるとは想えない。
鎮(しず)かな、幽かな気配。
もしかして――この中に、いるのだろうか。
わずかに兆した疑い。
無音に堪えきれず、運転席の先輩に問いを投げた。
「先輩。……ちょっと質問いいですか?」
なんだよ、と彼が低い声を返した。
見れば、彼は眼鏡の下で不機嫌そうに顔を歪めている。
いや、不機嫌なのではない。
いつも通りだ。
彼は出会った頃からそういう顔だった。
彼が常に陰りを抱くのは、霊的なものに詳しいからだと聞いている。
だから、彼を頼り、彼に訊ねたのだ。
「……幽霊って本当にいると思います?」
「おいおい。大学生にもなって、そんなこともわからないのか」
呆れた声。
彼は視線を逸らさないままに言う。
明らかに僕を馬鹿にしていた。
我ながら――子供じみた質問だった。
けれど、こんな夜だから。こんな匣の中だから。
不思議な心地になっていたに違いない。
一時の迷いだったのだ。
でも――良かった。いないのならば安心できる。
すいません、と小さく謝った。
そこに、先輩は冷たい声で。
「いるに決まってるだろうが」
平然と、突き落としてきた。
いるんですか、と漏らすと、いる、と断言された。
「本当ですか……? 幻覚とかではなく?」
訊ねたのは自分なのに、何故か、少し必死になって言葉を返す。
先輩はしかし、まったく平然と言葉を紡いだ。
「近しい人が死んだ時、その人の声が聞こえ、姿が見えるといった話が多々ある。この事実に幻聴や幻覚とレッテルを貼るのは簡単だ。だが、認識としてはそれも真実だろ」
「幻が真実? アベコベじゃないですか」
「その二つに境界はないさ。『幻という真実』を認識するんだよ。人は通常の知覚の上に記憶や思考による『付加情報』を付け加える。この付加された情報は否応なく人の認識を支配し、行動のレベルにまで影響を与える。――通りがけの猫が、唐突とした物音が、違った意味を認識させる」
境界はない?
それは人間の数だけ真実がある――と言う虚言の類ではないのだろうか?
そうだ。
これは科学の話をしているのではない。
先輩が語るのは、あくまで人間個人に即した―――科学ではない空想だ。絵空事だ。ただ、そうとも考えられると言う一つの意見に過ぎない。
それでも……受け入れてしまう自分がいた。
どのような理屈を並べたところで、変わらないものは確かにある。
夜道は恐い。
墓地は恐い。
どうしよもなく寂しい時、家族の声が聞こえた気がした。もちろん幻聴だった。
だからこの時、外界に変化はないのだ。
あるのは脳内の化学現象だけなのだ。
――狂っているといえばそれまでだけど。
大なり小なり、人はそういう傾向を持っている。
その体験を否定されるのは――良い気がしないものだ。
だから、先輩の理屈は少なくとも表面上は心地いい。
だが、簡単に受け入れてしまうのも上手くない。
「……先輩の理屈なら、幽霊は一人の前にしか現れないはずですよね。全部個人の体験って事になるんですから」
申し訳程度の反論をすると、否定はすぐに挟まれた。
「確かに通常、付加された情報は他者と共有されることはないな。だがこの情報が集団に流布した時、情報自体が人の認識に影響を与えてしまうこともある。
神秘体験は究極的には個人のものだが、共有する媒体がない訳じゃないだろ。昔話とか宗教とか怪談とか、今はSNSもこれに含まれる」
知っている―――共同幻想というやつだ。
特定集団内における認識の共有。
閉鎖された集団では、見えないモノが当事者たちだけに見えたり、聞こえたりする事が稀にあるのだとか。
何かの講義で習ったことがあるが、それは現代社会では否定されるべきオカルトとして認知されている。
――だから、僕はこれを幽霊の類とは認めなかった。
でも先輩は否定しない。否定できないものだと語る。
人は己の認識と現実の齟齬(そご)からは決して逃れることはできないのだから。
逆さまに、世界の神秘も心の幻想も、否定されてしまっている。
解き明かされた神秘は、特別な価値をなくす。
心の幻想は―――縋(すが)る意味を薄れさせる。
複雑な心境だった。
安心したけれど、あって当然だったはずの足場が揺らぐような、そんな心地がした。
「西洋の妖精も日本の妖怪もまた同じだ。広い意味では都市伝説も同じだろうな。そして古いものほど『付加情報』は明瞭で、人間臭いところがある。そこが堪(たま)らなく楽しいんだが――いや、不謹慎だったな。すまない」
と、先輩は其処で饒舌を止める。
喋り過ぎたという自覚はあるのだろう。場所が場所ということもある。
しかし、そうか……幽霊はいるのか。
「つまり幽霊は人の心の中にいる、と」
結局、都合の良い方に折れた僕は、どこか気の抜けた言葉を呟いていた。
先輩はそこで、少し困ったように笑った。
「ロマンチックな言い方をするなぁ。まぁ確かに、そういう言い方もあるわな」
この時ちょうど、行列が歩みを取り戻した。
止まっていた時間が動き始めたのだ。
緩慢にだが、弔いの行列は前へと進む。
外は相変わらずの無音であった。
――大丈夫。
周りは行く彼らは他者であって死者じゃない。
そうだ。
心があるから幽霊が生まれる。
ならば、そこには誰かの『付加情報』が存在するはずだ。幻想を生み出す心の闇が。
だから『あの噂』にも、人は何か特別な意味を見出しているはずなのだ。
「じゃあ、ついでに一つ良いですか」
ついでにとは言ったが、僕にとってはこちらが本題だった。
「『死人を乗せて走る車』っていうのは何を意味していると思います?」
先輩が缶コーヒーを口元に運ぶ。
無音が続いた。長い空隙が生まれる。
急に、全てが緩慢に戻った。
……時間の回る速度が狂っているのか。
いや、事実。先輩は少しの間考え込んでいたのだ。
そうして、片頬をつり上げて歪に笑った。
「そいつはカシャだな」
――唐突な単語に、理解が追いつかない。
「かしゃ?」
かしゃ、とはなんだ?
「火の車と書いて火車。元々は仏教の言葉で、亡者を地獄に運び、罪人を責めるために現れる燃える車輪を指していた。今は、妖怪の一種だな」
「火の車輪ですか。ヒトダマみたいな」
車輪が燃えているのか。浮かんでいるのか。
では、違うの……かもしれない。
聞きたかったのは海から逃げる自動車の話なのだ。
火よりは水に近い気がする。
しかも幽霊―――ではなく、妖怪なのだそうだ。
「その車には、人が乗っているんですか?」
「人は乗せられる側さ。代わりに火車には牽引する者がいる。地獄で罪人を管理する獄卒(ごくそつ)たちだ。奴らは一般に、鬼のような姿で描かれる」
急に話に現れた………鬼。
鬼ならば何とはなしに知っている。
荒々しい毛髪、牛の如き角、剥き出しの牙、人を喰らう人に似た化物。
地獄の底から来た彼らが、火の車を引いている。
――そういえば、行列の先を走る車のテールランプは赤い線を引いている。
だから――どうという事ではないが。
「火車は寿命の尽きた人の前に現れる。これは初め、仏法を遵守することを説くための概念だった。善行を積んだ者には仏の使いが、悪業の深い者の前には火車が訪れる。故に火車自体は嫌悪すべきものではなかった」
ついては近世の説話集『新著聞集(しんちょもんじゅう)』にこんな話がある、
と先輩は続けた。
「室町時代、浄土宗の増上寺には徳の高い音誉上人(おんよしょうにん)という僧がいた。ある日、彼は人々にこう語った。臨終の間際には必ず幽鬼が火車を引いて迎えに来る。だから極楽往生を望む者は生前の内に善行を積みなさい、と」
子ども騙しだ―――と言いかけて止めた。
幽霊はいるのにあの世がないはずもない。
あっても僕は困らない。
「当然、人々の多くは火車来現など信じなかった。それに気付いた上人はこう続ける。私はもうすぐ寿命を終える、お別れだ、と。驚く人々を置いて、上人は偈文を誦し、辞世の句まで詠んでしまう。読み終えた上人が扇を振り上げ、天に向かって指し招くと、一天俄かに掻き曇り、黒雲と共に三匹の幽鬼が火車を引いて現れた。人々は火車の来訪に慄(おのの)き、騒(ざわ)めいた。一方で上人は平然として人々に別れを告げ、火車に乗り、去って逝ったんだ」
「……それで上人はどうなったんですか? まさか……地獄へ?」
「違う。彼が行ったのは浄土だよ。この光景を見ていた連中の中にはそれをしっかりと見ている者もいた。雲は黒雲ではなく五彩だった。迎えの者は仏法の守護者である天童で、仏様が座るような宝蓮台を引いて来ていたと言う。こういう証言もある訳だ」
話のオチが二つある、なんてのは卑怯だ。
矛盾している。
上人はたしかに死んだ。
真実はそれだけ……ではないのか?
「なんで………あぁ、そうか。見る人によって『付加情報』が違うからか」
「そう。ここで問題なのは実話かどうかじゃない。極端な二つの認識が並存したってことだよ。死んだ事実は変わらない。それを良いと思ったか悪いと思ったか、要はそれだけの話だ。まぁ、これが古くの火車の使われ方だ」
外の景色は変わらず、車輪は緩慢な回転を続けている。そしてやはり、先輩はこちらに一瞥もくれない。
「だが多くの教えがそうであるように、火車もまた時代と共にその性格を変えていった。――妖怪になったんだなぁ、コレが」
何とも愉しそうに、彼は呟いた。
「教えが妖怪になる……ですか」
認識の『付加情報』が変わってしまったのか。
救いだったものが、時代と共に反転する。
――足場を失ったんだ。
「もしかして、仏様がいなくなったから?」
「察しがいいな。その通りだよ。火車は江戸時代までには広く民間に流布していた。その頃には元々あった仏教の神秘性は失われ、死は生き方に関わらず誰にとっても平等になった。平等に忌むべきものとなった。後々になって、火車は暗雲と共に葬列を襲い、棺桶から死体を盗む。あるいは墓をあばいて亡者の肝を喰らうとまで言われるようになる」
死者を運ぶ霊柩車。それはとても尊いもののはずなのに、悲しみと苦しみを連想させる。
火車も初めは同じであった。
だが、火車はその尊厳を剥奪され、忌避すべき妖怪しか残らなかったのだ。
――それは多分、当然の帰結だったのだろうけれど。
十字路に差し掛かる。行列の多くは右に曲がった。
一方で僕らの車は前進を続ける。
少しだけ車輪は回る速度を上げた。
道路の凹凸によって車体が揺れる。
据え付けのストラップが、嫌な音を立てた。
「そして火車は――猫とも重なる」
唐突な呟き。
言葉の意味がわからなかった。
猫は妖怪だと彼は言ったのか?
ストラップは黒い猫だった。
妖怪がこちらを見て、ニヤリと笑っていた。
――見間違いだった。
「豊臣時代に日本に伝来した家猫は肉食の習性に漏れず、人の死肉に群がる。これが人に特別な認識を与えたとも言われてるんだよ。………要は気味悪がられた訳だ」
「え。猫はでも、………可愛いですよ」
先輩は僕の的外れな言葉に苦笑する。
苦笑して、可愛いくても肉は喰うだろ、と言った。
そうか。
猫は人を食べるのか。
あんな姿をして、あんな瞳をしながら。
ストラップはけれど、依然としてストラップのままだった。
「川原や小路で死肉を喰む猫は蛆や鼠と同じ、死者に近いイメージを抱かれた。これが死者を運ぶ火車と習合し、担い手は獄卒の鬼から猫の化物に姿を変える。だから火車が死体を喰うのは猫と習合してからとも考えられる訳だ」
そう言って先輩は幾つか古い本の名前を例に出したが、――僕には呪文か何かにしか聞こえなかった。
バックミラーに目を向ける。
後ろから追いかけてくる影があった。
車だ。
赤い線を引く、鉄の匣を乗せた車輪だ。
運転するのは、猫だった。
人の形をした猫が車輪を回している。
車輪が凹凸を踏んだ。
音が鳴る――かしゃ、カシャ、火車、と。
回る回る火の車。
それから逃げようと車が走る。
追いつかれたら、肝を喰われて死んでしまうから?
だから『彼ら』も逃げていた?
……そして、僕らも逃げ続けるのか。
世界という名の歯車は、回り続けて止まらない。
そこで思考は現実に回帰して―――
ふと、思い出したことがあった。
「そういえば――」
フロントガラスに視線を戻す。
先を行く車は数台。同じ所に向かっているのか。
「『家計が火の車だ』って言葉ありますよね。家計が苦しいって意味で。あれと火車は関係あるんですかね?」
言葉は知っていたのだ。
火車は知らずとも、火の車は知っていた。
僕は気付かぬ内に妖怪の名を使っていたのだ。
「あるぞ。それも一説によれば、さっき話した音誉上人とも関係がある」
「それはまた、都合がいい話ですね」
まぁな、と先輩はあっさり認めた。
「あの言葉には、上人が火車の使いに対して、『まて暫し
なし』――少しの間もなく、と言った故事に由来するという説があるんだよ。つまり、火車はすぐにでも俺たちを連れ去るだろうって話さ」
それが結局、命ではなく金を表す言葉になったのか。確かに、金と命は等価に近い。金という信仰を失えば、人は生きられないのが現実だ。
だから言葉は繋がった。
納得できるような。微妙なような。
揺れた基盤の自分はその意味を測りかねていた。
いや、と思い直す。
そもそも――僕が聞きたかったのは昔の妖怪のことじゃない。
今、この時代に流布しているある噂のことだった。
それに意味があって欲しかったのだ。
ただの悪ふざけではなく、人々の感情が尊いものだと信
じたかっただけなのだ。
だから仔細はこの際、どうでも良い。
結論が欲しかった。
「結局、火車ってのは人のどんな感情を表した妖怪なんでしょうか」
最後に、率直に尋ねた。
「ここまで話して、まだ分からないのか」
先輩は怪訝そうに眉をひそめる。
そうして、缶コーヒーをもう一口啜った。
片手運転は違法ですよ、と言おうとしたら、車は既に赤信号で停車していた。
先輩がわずかにこちらを見た。
瞳は真っ黒で。―――どこか哀しげだった。
「火車。『死者を運ぶ車』が持つ根源的なイメージは、死への恐怖だよ」
死への恐怖――言われて、あぁ、と気付く。
初めからそうだったのだ。
上人も、死肉を喰う猫も、経済の火の車も。
そして、きっと『海から逃げ続ける死者』も。
「人は初め、観念上の死を畏れた。下って、貪られる死体に己の死後を重ね合わせた。そして今は――」
先輩が言葉を切る。その先は僕が導かなくては意味がないとでも言うように。
今思えば、先輩は初めから気付いていたに違いない。だからこそ火車の話を続けていたのだ。
納得して―――告げる。
「今はもう、多くの人が死ななければその恐怖にも気付ないんだ」
そういうことだろうな、と先輩は呟いた。
途端に言い様もない悲しみが胸を衝く。
物語や笑い話にすることで、人はその恐怖を拭おうとする。恐ろしくないと思わねば立ちゆかなくなるほどに、人は火車の来訪を恐れている。貶めることで安心して、でもそれは決して拭えるものではないのだ。
「なんか……悲しいですね」
「そうでもないさ。滑稽である内は、まだ」
青信号。車が動き出す。
辺りに他の車はもうない。
車輪は久しぶりに正常な速度を取り戻した。
時速六十キロ。
空は白み初め、もうすぐ、ほんの二十分もあれば目的の浜辺に辿り着く。
…………
一年前、僕の両親の住む町が地震に襲われた。
局所的な地震。震源に近かったからか、震度は凄まじく、それこそ、あらゆる物が崩された。土地は崩れ、交通もライフラインも止まり、不安と恐怖が渦を巻いた。
それに悲劇は揺れだけに留まらなかった。
恐ろしいのはその後の津波。地震で混乱する町に、容赦なく水の暴力が襲いかかったのだ。
家は町の中心から遠く外れた場所にあった。田舎と人から嗤われるような海の近くの一軒家。お隣さんの家まで、歩いて数分かかるような土地。
前には海、後ろには山。幸い、両親は地震の直後に山の方に逃げたので波に命を拐われることはなかった。
本当に、奇跡のようなことだった。
無事だという報せが来た時、しばらくは蹲って動けなかった。自分は離れた土地の大学にいて無事だったから、自分が無事であることに耐えられなかったから――二人が生きていてくれて本当に良かった。
海から離れた仮設住宅で再開した時、疲れ果ててはいたけれど、二人は笑ってくれたのだ。
だがそれでも、家は流されてしまった。
残ったのは更地じゃない。荒地だった。痕跡はあった。土台しか残っていなかった。足の踏み場もないほどに、世界はめちゃくちゃに荒れていた。家具も風呂も柱も、何もかもが散乱する。家の脇は田んぼなのに、テトラポットが落ちていた。小舟が一つ、畑に突き刺さって動かない。舟からは権利書が出てくる。受け取るべき人がいなかった。電柱が倒れ、土が抉れて――海藻とも植物ともつかないモノがこびり付く。あの農地はもう使えない。塩が混じって作物を育てられないのだ。
どうしようもない光景だった。
見慣れていた場所なのに、一瞬、どこなのかわからなかった。
混沌とした景色は混沌とした認識をもたらす。
まず悲しんだ。そして怒った。笑って喜んで泣いて、嘆きが湧き上がり、瓦礫の山に意味を探し続けた。
それがもう一年も前の話だ。
――例えどんな悲しみがあろうとも、どれほどの人が立ち直れなかったとしても、人の営みは続いていくのだと理解するには十分な時間が過ぎたのだ。
そうして、かつての混沌とした感情を忘れかけていた頃にある噂が耳に届く。
いわく『死んだことに気付かず、車で津波から逃げ続けている死者たちがいる』と。
大学の構内で偶然話している声が聞こえたのだ。
インターネットネットで調べればその手の噂は嫌というほど広まっていた。
沸々と、混沌とした感情が蘇る。
安易な空想を語る部外者への憤りなのか、その空想が創られてしまった事への悲しみなのか。それとも、冗談ではなくそれを視てしまえるような人間がいた事への驚きなのか。
わからない――わからないが、どうにも僕は落ち着かなくなった。
結局、大学の講義を無視してでも、もう一度行くことに決めた。
だが、一人で行くには僕はあまりにも死者を恐れ過ぎていたのだ。だから、誰か一緒に来てくれないかと知り合いに相談した。みな同情した。同情して、頑張れと言った。
……頑張って、何をしろと言うのか。
それでもまたわからなくなった。
結局、そんな中で手を貸してくれたのが、あまり話した事もない、この奇妙な先輩だけだったのだ。
…………
「おい、着いたぞ」
突然の声に微睡みは終わりを迎える。
瞼を開けると、フロントガラスの向こうにはもう海辺の光景が映っていた。
いつの間にか、眠っていたのだ。
場所はなくなった家からそう遠くない。かつて砂浜であり、今は崖となっている場所だ。
崖は車の止められた地点から十メートルほど先にある。
僕と先輩は車を降りた。強く土を踏む。
――大丈夫。足場は安定している。
揺れてはいない。
波は崖の底から飛沫を上げるが、それだけだ。
空はさらに明るさを増していく。
もうすぐ朝だ。
無言で、先輩は海の方に歩いていった。
僕はこれに付いて行く。今までは気付かなかったが先輩は上下ともに黒一色だった。
黒一色の――――まるで喪服のような。
足場をつくる赤土類の道の上。所々に緑が生える。コンクリート塊が残っている。
冷たい風に紛れて、物音がした。
辺りに目を凝らすと、残骸の影に何かがいる。
それは――鼠を喰らう猫。
それも黒い猫だった。
食べるのに必死で、こちらには一瞥もくれない。
「……火車はどこまでも追いかけてくる、か」
呟いて、先輩の隣に立つ。
光は水平線の彼方に遠く。
雲は薄く、空は紫色の曖昧さを保つ。夜と朝の境界線。美しい現実の世界が、目の前に広がっている。
結局、深夜を通したドライブでは、噂の幽霊に合うことはできなかったけれど――世界は地続きで、僕らは明日にでも大学の講義室に戻っていることはよくわかった。
登りつつある朝陽。
全てが光に照らされる前に、訊かなければならない事がある。
「先輩。人はどうすれば、火車から逃れられるんでしょうか」
否定されるのはわかりきっていた。
人は根源的な恐怖から逃げられない。
だから、心の幻想はいつもでも存え続ける。
その答えを、彼の口から聞きたかった。
「――そう難しくはないさ」
「えっ……?」
何故か。彼が紡いだのは、肯定だった。
言葉もだが、その心の底から悲しそうな声が意外だった。先輩の方を振り向く。
彼はいつもと同じ表情だった。
いつもと同じように、不機嫌そうに。
寂しそうに笑った。
「もう既に人は火車から逃れつつあるんだろうよ。――人はどうあっても、命の尊厳を亡くしたがっている」
境界の世界に、唯一の光が溢れ出て来る。
光の中で彼だけが陰りを残していた。
「人がそんな『妖怪』になれば、火車はもう現れない」
人が滑稽である内はまだ良いのだと。
だから彼は語ったのだ。
確かに、僕にも心当りがあった。
今を生きる僕らは、あまりにも死から遠いのだと。
死は情報になった。
世界は拓かれ、媒体は拡大し、あまりに多くの情報が交錯する。多過ぎる死の情報が命の『付加価値』を麻痺させる。金という信仰が命の『付加情報』までも利用する。
世界という名の歯車は回り続けて止まらない。
だからこそ、こんなことにならなければ人は命の尊さも忘れてしまう。
それは今の人間から見れば、妖怪とも言い得るモノかもしれない。
恐ろしい妖怪。
忌避される何か。
でも本当は―――きっと、良い悪いの問題ではなく。
ただ、今はそうなったと言うだけの話。
そういう風に時代が変化していると言うだけなのだ。
妖怪は死に、幽霊が消える時もある。
そして、先輩はその未来を憂いている。
そして、僕はまだ良くわかっていない。
わかっていないけれど。
妖怪から見れば―――人も異物に違いないのだから。
そこに境界はないのだろう。
回る回る火の車。
墓をあばき、肝を喰らう。
火車は時代に応じて担い手を変え、その回る速さをも変えてゆく。
火車が訪れるのが先か。
火車になるのが先か。
どちらにしても、答えはすぐに。
海より立ち上る朝陽は。僕を。先輩を。自動車を。猫を。見知らぬ誰かを―――全て平等に照らし、妖怪の闇を拭い去っていく。
――まて暫しなし。
それでも僕は――もしかしたら、と。
宝蓮台を引く天童の姿を、光の中に探していた。
(おわり)
火車 超獣大陸 @sugoi-dekai-ikimono
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