第8話 耳飾り 二

(ああ! アリシャル、アリシャル! 伝説の舞踏手、舞妓の中の舞妓、詩人アル・シャリークの讃えし美女よ! あたしに力を貸せ!)

 声にならぬ声で、ヴェスタは叫んだ。


 ゆらゆら――と、脳裏の白い影は揺れる。


(この魔族ジンの戒めを払い除ける力を貸せ! あたしはおまえの耳飾りを継承するもの!)

 頭の中で、舞妓はアリシャルを呼んでいた。反撃の最初の一手に、なんとか力を貸してくれと願っていた。存在するかどうかも分からぬ幻に、助けを求めていた。


 ありもしないものに頼ることなど、普段の舞妓ならばしないだろう。だが、この時は違った。魔女の餌食になんぞなりたくはない、己の躰を魔族ジンの玩具にされるのは、どうにも矜持が許さない。岩漿のごとき憤怒の感情が、彼女の中でふつふつとたぎっていた。

 もしこの耳飾りの鳴る音が、アリシャルの救いの手ならば――。いや、ただの偶然でもいい。この窮地を脱することができるのならば、どんな手にもすがってみせよう。

 ヴェスタは必死にしがみついた。

(あたしは、アリシャルの耳飾りを継承する者だ。舞踏手だ。こんなところで喰われたくはない!! 闇の輩ジンの思いのままにはならない!!)

(あたしは、あたしだ。ヒタノの舞妓ガーワジヴェスタだ!)

(あたしに、力を貸せ――!!)

 


 * * *



 この時――、


 ヴィィィ……ン、ヴィィィ……ン……


 ヴィードの弦の音が重々しく響く。

 停滞していた空気が、びりびりりと武者震いをする。


 ヴィードの弦を強く弾くのは、妖魔祓いの音だ。

 ヴィードに張られた弦は十一本。この十一本目に当たる最低音の弦を、プレクトラムを使わずに指で弾いて鳴らす。他の弦を共鳴させず、この弦だけを静かにゆるやかに、風紋が広がるように鳴らす特殊な音の出し方であった。大神エアの足音を示すともいわれる、この十一本目の弦を通常とは異なる技法を用い、常人には引き出せぬ特別な音を鳴らすことで、妖魔退散の呪詛とするのだ。


 こんなことができるのは、吟遊詩人アシック盲目めしいのカル」とその愛弟子くらい……。

 密度を増した気配が妖魔祓いの音を乗せ、ひたひたと押し寄せて来る。そこに耳飾りの鳴る音が共鳴する。


 ヴェスタの脳裏で、白い影がまた揺らぐ。


 <グワヮヮ……ォォオゥ……>


 魔女の顔に、苦悶の影が浮かんだ。肢体がうねる。そこにわずかに隙ができ、締め付けが甘くなった。舞妓は抜け出そうと躰をじる。

 再びヴィードの音がした。同時に脳裏に白い影が、二度三度大きく揺れ、鼓膜の中で耳飾りの涼やかな音が五月蠅うるさいくらいこだまする。

 魔女の躰が強張った。あれほどぬめぬめと輝いていた躰から色が消え、動きも鈍くなっているではないか。

 ヴィードの打ち鳴らす妖魔祓いのまじないが効いている――――。


 今こそ好機と舞妓は躰をくねらせ、束縛を緩めようと懸命にもがく。どうにか肩が動かせるようになると、さらに大きく躰を揺すり、足も動かそうと身をじらせる。しばらく抵抗を続けると、するりと右腕が抜け、片手が自由になった。すかさず巻き付いた白い肢体に爪を立て、左腕の自由を得んが為引き剥がしにかかる。


 そこに追い打ちをかける三度目の妖魔祓いの弦の音が――。

 人の目には見えぬとも、大神の打擲ちょうちゃくは、魔族をびしりびしりと打ち据えていた。堪り兼ねた魔女は息も絶え絶えに、七転八倒するさなか、ぽろりと舞妓の躰を手放した。

(今だ!)

 転がりながら、魔女の元から急いで離れる。矢継ぎ早に鳴らされる4度目5度目の弦の音に、苦しみ悶える妖魔の姿を横目に、躰を起こし、どこかに転がっているはずの短剣を探す。左右上下とあたりを見回すが、影も見当たらない。

 しかしどこかにあるはずと、舞妓は確信していた。魔女は光を奪い、あたりを闇に染め異空間を演出したが、ここはまだ天幕の中だとヴェスタは思う。

 耳飾りの鳴る音が、そう告げている。焦る心を落ち着かせ、もう一度、闇に目を凝らした。


 チリチリチリ……


 音に導かれ、視線を動かす。するとそこにキラリと鋭い光が瞬き、舞妓の目を刺す。


 ヴェスタは、その光に跳びついた。悶え苦しみながらも魔女が片腕を伸ばし、舞妓の行動を阻止しようとしたが、紙一重で短剣の柄に手をかけたのは舞妓の方だった。

 短剣を拾うと舞妓は立ち上がり、鏡の元へと滑り込んだ。両手で短剣の柄を握り、振りかぶり、力の限りを込めて鏡に切っ先を突き立てる。

 ガシャリという重い音がして、面にひびが走り――――化粧鏡は砕けた。


 <グワアァァァァァ……、ヲオォォォォォォ……>


 おぞましい声を上げて、魔女が悶絶する。

 鏡の砕ける音と、耳飾りの音色と、魔女の絶叫が、闇を撹拌して渦となる。


 鏡の中に――逃げ込む場所を失った妖魔は、狂ったように肢体を動かし、せわしなく宙をのたうち回った挙句、やがて落下し動かなくなった。

 弛緩してだらしなく伸びた魔女の肢体は、輝きを失い、半透明のブヨブヨとした、ナメクジかミミズを思わせるみっともないものでしかない。あれほど高慢な顔をしていたものが、今は卑しくも醜い塊と変わり果てている。あっけない最期に、舞妓は呆然とするしかなかった。

 魔女は、絶命したのであろうか――。魔族ジンに死があるのか定かではないが、眼前に迫っていた最悪の事態から脱したのは間違い無いと悟り、ヴェスタは胸を撫で下ろす。

 横たわる死身を腹いせに蹴りつけてやろうと考えたが、気味の悪さに顔をしかめているうちに、魔女であったものは溶けて消えてしまった。

 同時に舞妓を閉じ込めていた濃密な闇が消え去り、周囲は見慣れた彼女の天幕の様子に戻っていた。

 何事も無かったように静かではあるが、空気の流れがまだ少し乱れ、微かに魔族の悪臭が残っている。急ぎ葛籠つづらから薔薇水を取り出し、辺りに振り撒き痕跡を消した。

 そうして舞妓は大きく安堵の息を吐き、まずは大神エアに祈りを捧げ、次にアリシャルに感謝を捧げようとした。あの白い幻が何であれ、ヴェスタはアリシャルにすがることで、魔女に喰われることを免れたのは間違いないのだから。


 が、舞妓はハッとした。今まであれほど鼓膜に響いていた涼やかな音色が、ぴたりと止まっている。頭を振り、耳飾りを揺らしても、あの音は聴こえない。ヴェスタは唱えかけていた祈りの言葉を飲み込んだ。



 * * *



 緩んだ腰帯を結びなおし、天幕の入口を開けると、そこにカナヤがいた。地べたに座りヴィードを抱え、青い顔をしている。

「ああ! ヴェスタ!」

 舞妓の顔を見るなり、彼の固まった表情が一瞬にして解け、破顔した。

「ああ、よかった。よかった……無事だったんだぁ」

 今度はぼろぼろと涙をこぼして、あとは声ならない。幼いころから変わらない泣き虫ぶりに呆れながら、弟がしっかりと抱えるヴィードに彼女の目が留まる。

「やっぱり……おまえだったんだ。あの魔よけの弦は……」

 舞妓は、まだ涙の止まりそうもない弟の前に腰を落とした。よく子供の頃にしていたように、頭をくしゃりと撫でる。

「ほら、泣くんじゃないよ。あたしは無事さ。……というより、おまえ、あの気配に感づいていたのかい?」

 涙を止めようと苦心する弟の大きな瞳を覗きこみ、舞妓は小声で尋ねた。嗚咽を堪え、カナヤは答える。

「ああ、なんだか異様な感じがしたから。親方から、どうにもヴェスタを引っ張って来いって言われていたから、天幕から出て来るのを待っていたんだ。ところがいつまでたっても出ちゃ来ないし、そのうちヴェスタの天幕だけ、暗くて冷たくて重たい空気に支配され、周りから隔離されているのを感じて、ぞっとして身震いしたんだ。

 なんだか悪い魔の気配に支配されている気がして、心の臓がバクバクして……心配になって急いでヴィードを取って来て――妖魔除けの「エアの足音」を鳴らしたんだ。

 僕は、アシックだからね。これより他に、手だてが分からなくて……。カル師のように上手くいくのか不安だったけど、少しでもヴェスタを助けることができればいいって思って、心の中で妖魔退散って祈りながら夢中で弦を弾いたんだよ。

 なにがどうなっていたんだい。教えておくれよ。外からじゃ様子は分からなかったし、押しつぶされそうなくらい心配したんだからな。

 ああ、でも、無事でよかった。本当に、本当に……。ヴェスタが魔に取り込まれちゃったらどうしようかと、本当に怖くなったんだ。だって、たったひとりの僕の姉なんだから、そのくらい心配したっていいだろ。一座のみんなは家族だけど、おんなじ母親の腹から産まれた姉はヴェスタだけで、やっぱりちょっとだけ特別なんだ。

 そんなことより、どうしたんだよ。ヴェスタが魔に魅入られて、引き込まれるなんて珍しい……ってか、初めてのことじゃない。そんなに相手は――」

 気が弛んだか滔々としゃべり続ける弟に、舞妓は柳眉を釣り上げた。

「お止し。あいつは退治したからって、あれだけ強い魔力を撒き散らしたんだ。魔族ジン特有の臭いにおいに惹かれて、違う奴がやって来るとも限らない。いいや、名を呼べば喜んで次の妖魔イフリートがやって来るだろう。ここは用心しなくちゃならないさ」

 姉の言葉にカナヤは急に表情を引き締めて、ヴィードの最低音の弦を今一度強く弾いた。

 心の準備が足りなかったか、指が滑ったのか。先刻ほど力強くも重々しくもなかかったが、退魔の音色がふたりを中心に静かに波紋を広げるのは感じられた。

(やれやれ、さっきの技巧わざはまぐれかい。せっかく誉めてやろうと思ったのに。ああ、でも、まさかこいつに助けられることがあろうとはねぇ……)

 舞妓は独りごちた。


「ふん。少し油断しただけさ。――さあ、殿様シディの御前へ行くよ。待ちくたびれてお怒りを買おうものなら、ご褒美が無くなっちまう。親方に横取りされるのも、嫌なことさ。

 急ぐよ、カナヤ!」

 大股で歩き出す舞妓の後ろから、威勢の良い返事が返ってきた。



 * * *



 ヴェスタは思っていた。いつまでたっても子供だと思っていた弟も、妖弦使いと云われた「盲目めしいのカル」の最後の弟子として成長をしているらしい。

 彼女が「誇り高き舞踏手の末裔」であるように、彼もまた「偉大な吟遊詩人アシック」の技巧を継ぐ者として、譲れぬ自負心が芽生えているようだ。まだまだ半人前だが、そろそろ子ども扱いも止めねばならないだろう。

 カナヤのヴィードが妖魔を祓ったのだ――と。


 だが――なにより舞妓ヴェスタの強き心が、妖魔に打ち勝ったことが誇らしくあった。いつか黄泉の国でアリシャルに会うことがあれば、今夜の勝利を自慢し、賞賛の言葉をもらいたいくらいに、だ。


 そして――。


 チリリ……


 彼女は耳飾りが微かに鳴った気がした。

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舞踏手の耳飾り  ~舞妓ヴェスタと魔女の物語~ 澳 加純 @Leslie24M

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