第7話 耳飾り 一

 チリ……、チリリ。チリ……


 微かな、微かな音なれど、それは確かに聞こえていた。

 耳元で、硬質な乾いた音が、ヴェスタを呼んでいる。そう、それは確かに舞妓ガーワジを呼んでいた。


 チリ……チリ……チリリ……


 ああ、金属が擦れる音だと、舞妓は思い当たった。小さな軽い金属が触れ、こすれて音を立てている。まるで存在を主張するかのように、耳元で鳴っている。

 魔女イフリータの力に屈し、暗黒に吸い込まれようとしていた彼女に、警告を鳴らしているのか。

 ふと、どこかで聞き覚えがあるような気がした。この音色、遠い過去ではなく、いましがた聞いたばかりのような気がする。

 微睡まどろんだ意識の中で、舞妓は懸命に思い出そうとした。

 そうしなければならぬと思うた。


 すると――彼女の意識の隅で、白い幻がふわりと舞った。


(――耳飾り……そうだ、耳飾りが鳴っている。アリシャルの……、アリシャルの耳飾りが……)

 とたん、舞妓の瞳の内でなにかが弾けた。



* * *



(目が、覚めた!)

 舞妓ガーワジの大きな瞳に強い光が蘇る。

 今度こそ、濃密な水蜜桃の誘惑の声から抜け出さねばならぬ。どれほど甘く響けども、あれは破滅への誘い水。耳を貸し、誘いに乗れば、あとは精気を喰われるだけ。きゃつらの餌となり、殻となった肉体を乗っ取られるのだ。

 それは断じて、許されぬこと。抜け殻となった肉体とて、他のものに、ましてや魔族の好きにさせるなどということは、決して許してはならぬこと。

 おぉ、考えただけでも虫唾が走る――と唾棄の感情が湧いてくる。


 しかしがんじがらめに捕らわれたヴェスタには、退魔の呪文をつぶやきたくとも、唇を動かすことが叶わない。瞬きひとつすら許されぬ。カッと見開いたままとなった目の前で、魔女の耳まで裂けた口の中、渦巻く暗黒は舞妓を手招いている。


<……喰わせて……おくれ……>


 必死の抵抗も、歯が立たぬのか――。刻々と肉体うつわから剥がされる舞妓の精気は、大きく開かれた混沌が渦巻く口内へと吞み込まれていく。


 一方、獲物を捕らえたと確信した魔女は、熱を帯びた目でヴェスタを眺めていた。淫靡な光が灯る眼は、てらてらと濡れて、醜悪さをむき出しにし始める。

 舞妓の精気を味わい尽くそうとでも云うのか、巻き付けた乳白色の肢体には虹色の輝きが浮かび上がっては消え、皮膚はぴくぴくと小刻みに震えている。ごくりと喉が動けば、生命力にあふれた舞妓の、麗しい精気がまた吸い取られていく。

 魔女は満足げに、ニタリと嗤う。




* * *



 チリ チリ チリリ……


 舞妓の耳には、あの小さな音が響いていた。

 絶体絶命というこの期に及んで、今尚舞妓の心は闇に堕ちてなどいなかった。まだ足掻いていた。躰は泥濘にはまり、精気を強奪されようとして尚、この窮地を脱出せんと窺い続けていた。

 彼女は束縛を嫌う生粋の流浪の民ヒタノであり、誇り高き「アリシャルの後継者」であり、何よりこの魔女の仕打ちに猛然と怒りを感じていた。一旦は忘れかけ、妖魔の声に惑わされたが、耳飾りの響きがそれらを思い起こさせた。この音が耳にある限り、魔女が何を仕掛けてこようとも、跳ね除ける気概と勇気が沸々と湧いてくる。目の前に迫る魔女の脅威さえ、平然と冷めた視線で眺めることもできた。

 醜怪に歪む魔女の顔は、もはや舞妓の面影を残さず、飢えた獣のあさましさに変っている。舞妓は嫌悪感にむせた。


 チリ……リリリリ……リリ……リリリリ……


 最初は微々たる音であったが、今はヴェスタの感覚を刺激するかのように鼓膜の中に響いている。決して騒々しい音ではなく、かといって弱々しくもなく、闇に染まらぬ清らかさを刻む音は舞妓の闘志を奮い立たせていた。

 だが、どうすれば良い――どれほど奮起しようとも舞妓には手立てが無い。歯がゆさに煮え、苛立ちが焦りに姿を変えようとする。

 悔し紛れに悪態を吐きたくとも、痺れる舌は言葉を紡ぐことを忘れてしまったようだ。冷静さを失いかけた時、


 ひらり――と、脳裏に白い影が跳んだ。


 とたん悪魔シャイターンを祓う鈴のように、耳飾りが涼やかな音を鳴り響かせる。

 舞妓の頭の中、白い影はその音色を伴奏ともに動き始めた。

 ぼんやりとした輪郭が、次第に人型を形成せんとする。踊っているのか――手足を振りつつ、ゆっくりと左右に揺れる。首を振り、上体を反り返し、右足を蹴り出し……再び高く跳ぶ。腕を高々と上げ、拍子を踏み、舞い上がる……。

 あれは『湖面の浮かぶ月の踊り』か――! ヴェスタは震えた。


 舞っているのは、先刻の自分か。それとも魔女か。


 あれは、誰か――!

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