第6話 魔女 三

 痛みに気が遠くなり、ドサリと敷物カーペットの上に倒れ込む。

 魔女は獲物を苦しめすぎたことを知り、少しばかり力を弱め、機嫌を取ろうというのか、母親が幼子にするようにやさしく躰の節々を擦り始めた。


 そうしたところで抑え込まれているヴェスタの苦痛と不快は増すばかりで、息を取り戻すともがき、宙を泳ぐ砂蛇のような腕を蹴とばしたのだが、その一撃は吸い込まれるように腕を突き抜けた。

 さすがの怖いもの知らずもこれには驚き、急いで脚を引き抜いたが、当の魔女ジンニーヤの方は何の痛みもかゆみも感じなかったようで、舞妓ガーワジを蹂躙することに熱中していた。


 <おくれ、おくれ、この躰……>


 <美しい躰が欲しい。欲しい……欲しい、欲しい……>


 <おまえの精気をおくれ、喰わせておくれ……>


 幾重にも重なって響く魔女の糖蜜の言葉が、呪文となってヴェスタの頭の中を走り、思考の鎖を切断していく。巧みに促し誘い込む魔女の技巧に、躰が反応し始めていた。


 眼がかすみ、映るものすべてがおぼろに包まれ、黒い霧の中に溶けていこうとしていた。重く垂れてくる瞼をなんとかこじ開け、唇をわななかせながら、じわじわと皮膚に浸透し躰内に染み込む、ねっとりとした快感に咽び震えていた。

 脳内に白い霧がはびこり、抵抗を考えることが困難になると、思考の鎖が断ち切られ、楯突く気力も逃げていく。

 息遣いが熱くなり、愉楽の階段を一段上るたびに、暗黒は深く密になり重く圧し掛かってくる。

 その中でただひとつ、化粧鏡だけがまばゆく光っていた。


 その鏡から――――!


 不気味な光景に、ヴェスタのすべてが硬直した。

 鏡の面をにゅうと突き抜いて首が現れ、次いで凹凸の無い長い胴体がうねりながら擦り抜けてくる。それは獣の動きとは言えず、蛇ののたくる動きに近いが、それも正解とは言えぬ奇妙な律動でなまめかしい流麗な曲線を描いていた。


 肢を震わせ、蛋白石オパール色に浮き上がる魔女の姿は、異様なほど細長く伸び、頭は天幕テントを突き破り――いや、そこにはもう天幕テントはない。彼女の天幕テントも、お気に入りの座褥クッションも、美々しい衣装の詰まった葛籠も、きらびやかな装飾品も、大切にしていた茶器もすべて消え去り、どこまでも深く広い闇が存在するのみであった。ヴェスタと魔女と鏡を取り巻いているのは混沌の暗黒であり、上も下も、右も左も無かった。


 高揚した悦びは霧散し、骨の髄まで突き刺すような鋭い苦痛に変わる。盲目的な苦悶は舞妓の四肢をこわばらせたが、滞った思考と神経に刺激を与えてくれた。

(このままでは、喰われてしまう……。魔女の思うままに……)

 爪先を延ばしてみても、触れるものは無かった。静止した暗黒の深淵に、魔女と絡み合ったまま浮遊しているらしい。身を切り刻む寒さと静けさに戦慄した。


 シュル シュルルル……


 高みから見下ろしていた魔女の首が、ヴェスタの眼前にまで迫ってきた。


 <――喰わせて――躰をおくれ……おくれ……>


 生臭い息を吐きかけながら、魔女は囁く。鼻を襲う悪臭に嗅覚が悲鳴を上げ、ヒタノ女は顔をそむけた。

 またぞろ締め付けがきつくなり、唇をきつく噛んで苦痛を堪えれば、うれしそうに魔女が嗤う。伸びた胴にさざ波のような震えが走るのは、悦びの証しなのであろうか。ぬめぬめとした冷たい肌をヴェスタにこすり付け、魔女は胴を震わせ続けた。


 力も抜けてぐったりと息も絶え絶えになったヴェスタの眼前に、再び魔女の顔が迫って来る。

 自分を模した魔女のかお。ついに舞妓を手に入れたとばかりに勝ち誇る瓜二つの貌が、何と忌々しく見えることか。せめても……ときつい視線を投げれば、クツクツと笑い、赤い唇の奥から先の割れた長い舌を出して舞妓の頬をチロチロと舐める。

 躰に痙攣が走った。

「……――! ……――!!……」

 声にならない悲鳴が舞妓の口から発せられる。躰は反り返り、四肢は凍りついた。


 <さぁあ、おくれでないかい。おまえの魂……喰わせておくれ……>


 鼻先まで近づいた瓜二つのかおが、クワリと口を開いた。

 赤い唇はあっという間に耳まで裂け、ヴェスタの頭を呑みこめそうな程の、大きな空洞となる。


 ――その中に、渦巻く闇があった。

 ゆっくりと渦を描き、強い引力で、ヴェスタの魂を吸いこもうとしている。ぐいぐいという強引な力が、躰という器から舞妓を引き剥がそうと躍起になり、彼女は底知れぬ恐怖を感じていた。

 何かが、浮き上がる感覚があった。躰が軽くなり……意識が――消えていく。


 すべてを手放そうとした時、


 チリ…… チリリ……


 耳元で、小さな音がした。

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