竜宮異聞

藤光

竜宮異聞


 今となっては昔のことになるが、丹後国浦島の浜にその人を見初めたのは、むしろ乙姫の方であったという。


「海に生きるわだつみの民は、地上に姿を見せてはならぬ」という昔からの戒めにもかかわらず、亀に姿を変えて波間から陸の上を窺ったのも、一目その美しい若者を見たいとの思いからだった。


 美しい子亀の姿で浜に現れた乙姫は、たちまち村の子供たちに捕えられ、首に縄を掛けられた上、笹や木の枝で打たれるなど散々になぶられた。


 遠く水底の竜宮からこの様子を見ていた父の竜王は「言わぬことではない。捕らえられてしまったではないか」と乙姫の軽率を悔やみ、なんとか助けようと試みたが、陸でのことにはさすがの竜王の力も及ばなかった。


 困り果てているところを救ってくれたのが、他の誰でもなく、思い焦がれていた若者――太郎であったため、乙姫の想いが一層強くなったのは致し方のないことだったのかもしれない。


 その後、無事に竜宮へ戻ることができた乙姫には、眠れぬ夜が続くこととなった。


「人の子に想いを寄せるなどあってはならぬことだ」


 娘の太郎に対する気持ちに気づいた竜王はそう言って諭したが、乙姫が太郎を想う気持ちを押し止めることは敵わず、ついに下僕の大亀に命じて太郎を竜宮へ招き入れたのだった。


 それと知った竜王は、直ちに太郎を送り返すよう命じたが時すでに遅く、大亀の差し出す水底の食物を口にした太郎は、すでにわだつみの客人となってしまっていた。


 客人は自らが去ると口にせぬ限り、竜宮において持て成すというのがわだつみの習わしである。乙姫は胸を撫で下ろして太郎の元へ向かった。






「いつぞやは助けていただき、ありがとうございました」


 蛸や魚、海獣が舞い踊る大広間に現れた乙姫が深々と頭を下げて礼を述べると、太郎はその涼しげな目元を見開いた。


「あのときの子亀はあなたでしたか」


 ――覚えていてくれた。乙姫は胸の高鳴りを抑えられなかった。


「竜宮へお招きすることができて、大変嬉しく思います」

「私こそ、身に余るもてなしをいただき恐縮しています」


 身に纏う衣は貧しいが、折り目正しい言葉と気品のある所作、涼やかな声音に乙姫はすっかり心を奪われた。


 ――なんと美しい人なのだろう。


 竜宮の中庭に魚や海獣たちが舞い泳ぐのを、身体を寛げながら眺める太郎の様子は、まるで物語の場面を一幅の絵に切り取ったかのようだった。


「竜宮にいらしてみていかがですか」

「素晴らしくて言葉になりません」


 微笑む太郎の顔は上気して目元にほんのり赤みが差している。その様子もまた美しい。


「いつまでもいていただいて構わないのですよ」

「ありがとうございます。――ですが家には老いた両親がおりますし、いつまでもというわけには参りません」


 刹那明るくなった太郎の表情は、次の瞬間には憂いを帯びた微笑みに変わった。


「そうですか……」


 太郎を歓待する宴は夜を日に継いで開かれた。ある日は魚たちの群舞、またある日は海獣による歌劇、そして、またある日は蓬山への海底散策と、趣向を変えた太郎へのもてなしは、尽きることなく催された。


 乙姫は怖かった。


 いつか太郎が竜宮での暮らしに飽き、自分の元を去ってしまうのではないかと。


 ――ずっと私の側にいてほしい。


 夜、臥所で一人になるときなどは、気づけばそのことばかりを念じているのだった。


 父である竜王は娘の身を案じ「かの者は人の子、わだつみの民が添い遂げることかなわぬ。想うほどに失望は大きくなろう。あきらめよ」と諭すのだが、一途に太郎を想う乙姫には届かない。却って思いのままにならない我が身を厭わしく、恨めしく思うばかりだった。


 ――あの方を私の、私だけのものにしたい。陸へ帰したくない。


 美しい若者と日々過ごすうちに、乙姫は己の心が暗く捻れていくのを抑えられなかった。


 その憂いを感じ取ったのか、乙姫に忠実な大亀はこう囁くのだった。


「あなたさまは四海を統べる竜王の娘、望んで手に入らぬものはありません。贅を尽くした宴、四海の珍宝珍味、方術の不可思議を施せば、太郎は貧しい人の子――籠絡できぬはずがありません」


 乙姫は暗い目のまま、深く頷いた。






 宴は三年ものあいだ続けられた。昼の催しは一度として同じものはなく、驚きと美しさを兼ね備えたものばかり。夜は乙姫自ら薄衣を纏っての酒宴である。


「時が経つのを忘れてしまいそうです」


 しかし日が経つに連れて、上気した太郎の表情には憂いが混じることが多くなってきた。


 ある時、竜宮の中庭から水面に揺れる陽光をふり仰いだ太郎が「浜では網を引いている時分だろうか」と呟いた。太郎は地上に思いを馳せていたのだ。


 ――いけない。


 その夜、乙姫が太郎の歓心をひくために案内したのは竜宮の望楼にある四方四季の間――竜王が「何人も立ち入ること罷りならぬ」と命じる神仙の方術が施された秘所であった。


 東面の戸を開けてみると、海中の竜宮に居ながら、地上に咲く色とりどりの花が咲き乱れる春の庭に出た。


「これは……美しい」


 太郎は今までになく感激した様子で庭の風景に見入り散策した。


 彩りも鮮やかに咲き乱れる花々の間には美しい蝶が舞い、芳香に満ちた庭園に陽光が満ち溢れていた。


 四季の庭とは、神仙の力で水底の竜宮に地上の風景を再現した秘密の庭園であるのだ。

 次の日は南面の戸を開けた。緑鮮やかな夏の山、そのまた次の日は、西面、実り豊かな秋の田であった。


「いつまで見ていても、飽きません」


 いままでにない太郎の満ち足りた表情に、乙姫の胸には安堵の思いが広がった。


 また次の日、北面の戸を開けるとそこは粉雪混じりの北風に大波が押し寄せる冬の海だった。乙姫がひとり見守るなか、太郎は日の落ちるまでその浜に凝然と立ち尽くしていた。






「一目、老いた両親に会ってきたい」


 次の日、太郎からあった暇乞いに、乙姫は己の過ちに気づかされた。太郎を竜宮に引き留めるためと思い、四季の庭に案内したのは間違っていた。太郎の郷愁をむしろかき立ててしまったのだった。


「あれほど立ち入ってはならぬと命じたものを、愚かな娘だ」


 激怒した竜王は、乙姫をそそのかした大亀を捕らえて殺し、太郎を故郷へ送り返すよう厳命した。


 乙姫は打ちのめされた。


 ――私の側からいなくなってしまう。


 太郎とともに乙姫自身が浦島の浜へ行こうかと思ったが、わだつみの民は陸では生きてゆけない。


「必ず戻ってきます」


 太郎は涼やかな目をしてそう言ったが、人の子である太郎は、大亀の助け無くして竜宮に戻ることはかなわない。


 ――行ってしまうのなら、いっそ。


 別れ際に大平目の背に跨る若者に乙姫は玉手箱を託し、涙ながらに言い添えた。


「決して開けてはなりません」


 そう言い添えれば、何故だろうと興味を惹かれ、必ず太郎は玉手箱を開けるだろうと分かっていたから。


 愚かなわだつみの娘が、父の戒めを悉く破ったように。強い思いがあればあるほど禁忌は犯したくなるものだ。


 ――すべてを失うといい。あなたのすべては、私のものなのだから。






 太郎は竜宮を去り、再び戻ることはなかった。

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竜宮異聞 藤光 @gigan_280614

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