第3話:窓の女(3)
明らかに掃除が行き届いていない階段は人影が疎らになっていました。例によってエリンを盾にしつつ、僕は慎重に段を上がります。
「妹がくらがりのものについて調べているのを知っていたのかい?」
窓に棲む女の話を持って来たのはエリンでした。
「当てずっぽうさ」と狭い踊り場で降りてくるカップルをやり過ごしながら彼は言います。「あの美人が君の妹さんだと見当をつけてから、さらに調査を進めたんだ。すると、君がこうした不思議な事件に興味を持っているとわかってね。怪奇現象は君の趣味ではない。それは知っている。だから、もしかしてと考えた」
「僕の周囲にはおしゃべりしかいないのか」
「その筆頭が君だろう」
「僕のおしゃべりは愛すべきおしゃべりさ! ……ともかく、まぁ、納得はいったよ。これまで超自然的なことに微塵も興味を見せなかった男が、急に『窓に棲む女を見に行かないか』と誘ってくるわけだ」
階段を上りきると、そこにはまだ多くの人がいました。
ただ、幸いにもと言うべきか二階にはテーブルのひとつもなく、歩き回っても肩をぶつけないだけの余裕があります。
件の窓は所在を聞くまでもありません。誰もがそちらを見ていましたから。
「普通の窓じゃないか」
エリンに続いて南側にある窓へと近づいた僕は思わずこぼしました。そこにあったのはありふれた片開き窓です。高さはエリンのおでこから僕の腰あたりまでで、こちらも手入れが行き届いているは言えない有様でした。
エリンは肩越しに僕を振り返って、眉を上げてみせました。
「いかにも異様な窓なら、みんな初めから警戒してるさ」
「一理あるな」と僕は顎をさすります。「女を見た連中は窓から落ちたんだったね?」
「あぁ。自分から窓を開けてね」
その時、好奇心を顔いっぱいに浮かべた若い男が窓の前に歩み出ました。その様子にはどこか得意げなところがありました。
彼は若者特有の無鉄砲さで窓に手をかけます。誰かが息を呑む音が聞こえました。やめなさいよ、と怯えの混じる少女の声もします。きっと、その若者の連れだったのでしょうね。
けれど、その弱々しい制止では彼を止めることはできません。
僕もまた刻が止まったみたいに彼を眺めるばかりでした。エリンも同様です。
黒ずんだ指先がハンドルに絡まりました。若者が力を込めると、ギチッ、と耳障りな音がします。けれど、それだけでした。
「開かないぞ!」
彼の叫びはその行動を見守っていた者達すべての叫びでもありました。さらに力を込めてハンドルを下ろそうと試みるも耳障りな音が立つばかりでびくともしません。
誰かが息を吐きました。僕も思い出したように息を吐きます。ホッとしたような残念のような複雑な胸中でした。
エリンの隣に並ぶと、大男を見上げました。
「噂は噂でしかなかったな」
ですが、友の意見は違いました。
「さぁて、どうかな」少し細められた緑の目が意味ありげに見下ろしてきます。「窓が開かないからといってすべてを否定するのは早計だよ」
「やけに自信ありげじゃないか。そもそも女を見たというのは本当なのかい?」
若者はまだ躍起になって窓を開けようとしていました。その間、連れの少女を放置しているのはいただけません。彼女が踵を鳴らしながらひとりで階段を下りるのも時間の問題でしょう。
「うん、その点については疑いの余地はない」
自信たっぷりに言うエリンを、僕は胡散臭いものを見る目で眺めました。
「窓から落ちた連中が一様にそういっているんだよ」
「生きていたのか!?」
この時の僕の驚きようをわかっていただけるでしょうか。窓に棲む女の話をエリンから聞いてからというもの、目撃者はてっきり死んだと思い込んでいたのです。
「話していなかったっけ?」
「一言たりとも話していない! 僕と君の間で隠し事など、恥を知りたまえ!!」
「君だって妹さんを隠してたじゃないか」
「あの子は例外だ!!」
「まったく我儘だね」
「これが僕という男だ、知っているだろう!」
よぉく知っているとも、とエリンは肩を竦めました。
「愛すべき友アルヴィン・ハーリクィンのために話そうじゃないか」
僕達は人の輪から外れて、階段とは逆側の隅っこへ行きました。貼り紙だらけの壁に背中を預けるのは躊躇われたので、ステッキに体重を預けることにしました。
若者に続いて別の男が窓を開けようと試みています。エリンはたくさんの頭越しにそれを眺めながら話し始めました。
「最初の事件が起きたのは三ヶ月前だ。当時この店はさして客は入っていなくてね」
「必然だ」
「そういうな。ここのコーヒーを気に入っている人間もいるんだから」
「物好きにもほどある」
「まぁ、聞けよ。……物好きな客のひとりにバッセ・コルダムがいた。口数の少ない職人気質の男で、今とは違って静かなこの店を気に入っていたんだ。一杯のコーヒー代さえ払えば飲むも飲まないも客の自由だし、何時間居座っても何もいわれない。読書するにはうってつけさ」
南側では紳士諸君が窓を開けようと躍起になっていました。どうも趣旨が変わってきたらしい。
「コルダム氏はまず一階で過ごし、それから気分転換に階段を上った。当時二階はシガールームになっていてね。物好きな先客がひとりで煙草を吸っているのを横目に、コルダム氏はどこに座るべきか吟味した。その時だ、彼が女を見たのは」
僕はクルクルと帽子を回していた手を止めました。
唇を舐めたエリンが続けます。
「初めは何を見たのかよくわからなかったらしい。少し考えて影が差したのかなと考えた。あまり深く考えず、場所の吟味を再開したところで、また窓に何かが映った。それが視界の隅にもかかわらず、妙に強く主張してきたそうだ。コルダム氏は怪訝に思いながらも窓へ近づいた」
僕は、ごくり、と唾を飲み込んでいました。
「それからハンドルに手をかけて窓を開くと、自ら向こう側へ身を乗り出したらしい」
外へ向けて口を開けた窓から男が落ちていく光景が脳裏に浮かんで震えが走りました。
「居合わせた先客はコルダム氏が『女が……』と呟いたのを聞いていたよ」
「う、うん……」
「それにね、さっきいったように命に別状はなかったんだ。窓の下にちょうど植え込みがあって、クッションになったんだよ。意識を取り戻したコルダム氏がいうには、窓に美しい女が映っていたと。たいそう悲しそうな恨めしそうな表情で、窓を開けようとしていたのは彼女だともいう。それを見たコルダム氏は咄嗟に女が飛び降りるんじゃないかと思い、止めようと手を伸ばしたら――」
「自分が落ちていた?」
そんなバカなと笑い飛ばせればよかったのですが、その時の肌にまとわりつくような空気がどうにも気持ちが悪く、僕は顔を強張らせていました。
「これがコルダム氏だけなら何かの間違いで済ませられただろう。だが、その後に二人、窓から飛び降りた男が出た」
「全員男なのか?」
「そうだ。そして、二人とも窓の女が飛び降りるのを止めようと手を伸ばしたと証言している」
「……警察の見解は?」
事故にしろ事件にしろ、窓から――それも複数の――人が落ちたとなれば警察の捜査が入るはずです。
「もちろん警察も調べた。コルダム氏が語った窓に棲む女なんて歯牙にもかけなかったけどね。しかし、二人、三人と同じような状況で同じような証言をするものが出てくると、それなりに綿密な捜査がされるようになった」
エリンは小さく首を振りました。
「結果は白さ。窓に女など棲んでいないし、窓を開けたのは落ちた本人達だった」
「いやらしい考え方だが、コルダム氏や他の二人が共謀してこの騒動を仕立てたとか」
「その可能性についても警察が徹底的に調べたよ。その上で三人には何の接点もないとわかっている」
「じゃあ、三件の事件は偶然にも似通った事故だと?」
「警察の見解としてはそのとおりだ」
でも、とエリンは片眉を上げました。
「窓に棲む女の謎は残ったままだからね。それが人から人へ伝播して、好奇心を駆り立てて、この店に多くの客を呼び寄せることになった」
「なら、店主の仕業とか!」
「そいつも警察が確認済みだ。店主をはじめとして店側には客を窓から落とすような動機はなかった。トラブルも保険金も痴情のもつれも皆無だ。第一、客が押し寄せるようになったのは結果論だからね。人が落ちるたびに店は休みを余儀なくされたし、気味悪がって給仕は辞めるし、常連も来なくなるしで当時は踏んだり蹴ったりだったようだよ」
エリンの話に僕は小さく唸りました。苦し紛れの提案をひとつ。
「コルダム氏の事件についてだが、先客がいたね? その人物が関与していたということは?」
これにもエリンは首を振りました。
「彼らは常連で顔見知りではあったけれど、言葉を交わすことすらなかった。店主と同じさ。動機や証拠がない」
「二人目や三人目の時、その先客の紳士は?」
「店にいもしなかった。というかだね、コルダム氏が飛び降りるのを目撃してしまったショックが大きかったのか、以来、店には来なくなったそうだ。彼が来たら、いやでも店主が気づくだろうしね」
僕はぐるりと目を回しました。
「降参だ」
「君からその言葉を聞くのは気分がいいな」
「不謹慎な奴め!」と罵る僕から視線を外したエリンは三人の男が飛び降りた窓を見つめます。
話している間にも窓開け大会は継続されていましたが、成功者はまだ出ていません。開けられなかった男達は終いには「人が落ちたってのも嘘なんだろう」とすべてを否定しながら引き上げていく始末です。
「一応、僕らも調査するかい?」
エリンの誘いに僕は頷きました。
取り囲む人間が両手の指で足りるくらいになった窓へと歩み寄ります。
「しかし、調査といってもどうすればいいのか」
「妹さんからはアドバイスをもらってないの?」
「この件はまだ話してないが」と言って僕は顎をさすりました。「くらがりのものが関わっているなら石があるかもしれないといっていたな」
「イシ? 地面に転がっている石かい?」
「うん、その石だ。ユキによれば特殊な石だって話だけど、それが具体的にどんなものかは訊かないでくれよ。僕もお目にかかったことがないんだ」
「石ねぇ」と呟くエリンはにんまりと唇を歪めます。「存外、妹さんが探しているのは僕かもな」
「……くらがりのものに頭でも殴られたのか?」
僕の冷ややかな視線にもめげず、エリンは主張しました。
「何故なら僕が石だからさ! エリンは古い言葉で〈石〉を意味している」
「現代で使われぬ言語など認めない」
「おまけにエリルは〈意思〉だ。つまり、エリル・エリンは二つの〈イシ〉を持っていることになる!」
「こじつけだ!!」
僕の非難を笑って受け流すと、石の男は窓の前に立ちました。ハンドルへ手を伸ばすのを見て、僕は飛び上がりました。
「エリン!」
「物は試しだよ、アルヴィン」
肩越しに振り返った彼は不器用なウィンクを送ってきます。でも、僕は安心するどころか、足元から無数の虫が這い上がってくるような不快感を感じていました。
「さて、と」
エリンが窓に向き合います。右肩が少し揺れたのを見て、ハンドルを持つ手に力が入ったのを知りました。
けれど、彼はそこで動きを止めたのです。しばらく待ってみたけれど、ハンドルを下げようとする気配もない。
一帯には妙な空気が漂っていました。なんとも言い難い、四肢に絡みつくような空気です。エリンどころか誰もが微動だにしません。
沈黙が流れました。それが十秒だったか、それとも十分だったのか、今もわからないままです。
ただ、呼吸すら忘れたみたいな空間に、ポツリとエリンの声が落ちました。
「女が――」
次の瞬間、強い風が正面からぶつかってきました。
それでも僕は目を閉じることもできず、エリンの大きな身体が窓枠を抜けて外へと飛び出すのを見ていました。
「我に返ったのは、重たいものが落ちた音を耳にした時です」
アルヴィン青年は深い溜め息をついた。伏せられた大きな目には妖精の無邪気さはなく、憂いが漂っている。
細い足を組み替えて続けた。
「開いた窓から外の騒ぎが入ってきました。それで僕は状況を知ったのです。男が落ちたこと、息をしていないこと」
サフィーシャント氏は石像みたいに固まっていた。面白おかしく始まった話が、よもやこんな結末を迎えるとは思ってもみなかったのだ。
「医者や警察が駆けつけました。その間も僕は恐ろしくて震えるばかりで、とても外を見るなんてできなかった。弟が来た時には腰が抜けたくらいです」
自嘲気味に笑う顔は痛々しい。
「エリンは四人目の女の目撃者になると同時に、初めての死者ともなりました」
「おぉ……!」
ようやくサフィーシャント氏の口から出てきたのは同情の唸りだった。残酷な運命の前に友を失った青年にかけられる言葉はなかった。
赤い頭を小さく振ったアルヴィンは妖精の表情を取り戻した。
「あまり愉快ではない話をお聞かせしてすみませんでした。今日の僕は些かナーバスになっていたんです」
「い、いえ、その、……私こそ、話を聞くくらいしかできませんで」
しどろもどろに答えるサフィーシャント氏にアルヴィンは微笑んだ。
「あなたって本当に不思議な方ですね、サフィーシャントさん」
「は、はい?」
「あなたに話をすると、心が安らぐ気がするのです」
「……それが真実なら私も嬉しいです」
はにかんだ様子で控え目な言葉を返すサフィーシャント氏に対して、青年は笑みを深くした。
「あなたをお誘いした時にいったのですが、覚えておいでですか?」
「確か、約束されていた相手の方が来られなくなったと……」
「お見事! あなたは話をきちんと聞いているだけではなく、覚えてもいらっしゃる。どちらも中途半端な僕とは大違いだ。いえね、いつも弟に叱られるんですよ」
そこまで言って、アルヴィンは言葉を止めた。話が脱線しかけていることに気づいたらしい。
やれやれと肩を竦め、次に寂しそうな笑みを浮かべた。
「今日の約束の相手はエリンだったのです。第二水曜日の食事会は何年も続いてきた恒例行事でしてね。あの男は冗談めかして〈スプライト・クラブ〉なんて呼んでいましたけれど」
青い目がカップを見た。冷たくなった黒い液体が手つかずのまま残っている。友人と最後に飲んだ泥水みたいなコーヒーを思い出しているのかもしれない。
「あの……」
もじもじと尻を揺らしていたサフィーシャント氏は思い切って口を開いた。
「ひとつだけお尋ねしてもいいでしょうか?」
「ひとつといわず、いくつでもどうぞ!」
顔を上げたアルヴィンは貴族らしい寛大さと作り笑いで促した。
「つらいことを思い出させるようで心苦しいのですが……」
「かまいません」
「その、……件の窓に棲む女ですが、くらがりのものだったのですか?」
アルヴィンは一瞬ぽかんとした顔をして、それからパシンッと膝を打った。
「僕としたことが!」
大げさに首を振る様子に、サフィーシャント氏は目をパチクリさせた。
「いやはや、失礼しました。肝心なところを話していませんでしたね」
「では……」
「お察しのとおり、続きがあります」
組んだ足を戻すと、テーブルに腕を置いたアルヴィンが身を乗り出す。それにつられるように氏もわずかに前屈みになった。
「あとからわかったのですが、転落したエリンの側に石が落ちていました。光の加減で様々な色に変わる小さな石だったそうです。でも、警察が引き上げる頃にはなくなっていたという話ですから、どこかの不届き者が持ち去ってしまったのかもしれません」
「なんということだ……!」
「まったくです。今となってはその石がユキのいっていたものかどうかすらわからない。……ただね、サフィーシャントさん」
アルヴィンはさらに身を乗り出した。曇りのない青い目に善良そうな老紳士が映っている。
「あの事件から数日後にユキのところへ行きました。僕の話を聞いたあの子はいったのです。『窓に女など棲んでいない』と」
え、とサフィーシャント氏の口がわずかに開いた。
「実はね、僕らよりも先にユキはあの窓を調べていたんですよ」
「それでは……」
サフィーシャント氏はたじろいだ。自分は今何を話しているのだろうかとも思った。
顎を引いたアルヴィンの青い目が、燃え盛る赤い髪の間から見える。
「ねえ、サフィーシャントさん」
水の底から響くような冷たい声。
「あれに女が棲んでいないのなら、エリンはどうして窓を開けたのでしょうね?」
スプライト・クラブ奇談 夏目樹 @ntmitk0610
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