第2話:窓の女(2)
〈ツェーラ〉というコーヒー・ハウスがありましてね、とアルヴィン・ハーリクィンは滑らかに語り出した(以下、アルヴィンの話)。
なんとも罰当たりな名前だと思いませんか? 遥か昔にこの地を治めたけれど、今ではお伽話となったラキランド帝国の女帝の名を、いちコーヒー・ハウスが名乗るなどと。そもそもツェーラ様はコーヒーを召し上がったのか、甚だ疑問です。
それはさておき、僕と友人のエリンという男は連れ立ってその店を訪ねました。それが先月のことです。
テイル街の外れにある二階建ての煉瓦造りで、〈
ただ、酷い混みようで。その人気はツェーラ様ほどとはいきませんが、足首くらいまではあったかもしれない。
それというのも、このコーヒー・ハウスの窓には女が棲んでいるというからなんですよ。おまけにたいそう美しいらしい。それがまた人々の興味をそそり、列を成すまでに成長しました。
かくいう僕もこの窓に棲む女に会えることを期待して列に並んだのだから、他人のことをとやかく言えた筋合いではありません。
「ねえ、君」と隣に並んだ友人が話しかけてきました。「誘っておいてなんだが、よく来たね」
僕はステッキの先で小石を弾きながら、肩を竦めました。
「今の僕は、例え相手がガラスの向こうにいようとも、顔が見えるのであれば満足なのさ」
ははーん、としたり顔でエリンは顎を撫でるのです。「また振られたのかい? リリーだったかな」
「ユーミスだよ」
「懲りないねぇ、君も」
エリンがそう言うのも、実のところ無理はありません。女の子と付き合うまでは割合順調に進むのですが、たいてい一ヶ月とかからず振られるのです。
そのたびに僕の小さな胸は悲鳴を上げて、見えない涙を流すのですが、この時も例外ではありませんでした。だから、その時の僕はちょっぴりヤケになっていたと告白しましょう。
「この際、生きていようがいまいがかまうものか。美しい女性と話をしたいんだ、僕は」
エリンは笑っていましたけど、これはまったくの本心でした。胸の痛みを忘れさせてくれる何かが、この時の僕には必要でした。
そうこうするうちに列は進み、ようやく店に足を踏み入れます。内部は外観を悪い意味で裏切らず、それどころか酷くうんざりさせました。
内装なんて見たことも聞いたとこもないとばかりの剥き出しの壁のあちこちに、黄ばんだ紙が貼られています。メニューかと思って眺めたのを、つくづく後悔したものですよ!
「信じられるかい、君!」
僕は思わずエリンの肘を掴んでいました。奴は人並み外れた長身――彼が誇れる唯一の――を生かして、空いている席を探しているところでした。
「あそこが空いたよ」
目標を定めたエリンは歩き出します。僕は置いていかれないように慌てて後を追いました。
これは僕が編み出した独自の歩行法なんですけどね、エリンの後ろに小判鮫みたいにピッタリとくっついていくのです。そうすると、混み合ったところなどは特に効果があるのですが、奴が盾となり僕は悠々と進んでいけるという寸法なんですよ。人混みを歩くにはまったくぴったりの男です!
そうして辿り着いたボックス席に腰を下ろすと、改めて僕は言いました。
「信じられるかい、君」
「何の話だ」
「貼り紙さ! 酒禁止、タバコ禁止、暴言及び暴力禁止までは理解できる。しかし、食事と異性を口説くことまで禁止するとはいったいどういう了見なんだろう!?」
「それはね、アルヴィン」
大男は頑是ない弟を見るような目で僕を見ました。むろん、その視線に対して強い非難の眼差しを返したのは言うまでもありません。
「ここがコーヒー・ハウスだからさ。コーヒーだけを楽しむための場所だ」
「食事や女性達との会話を楽しんでこそ、コーヒーは旨味を増す!」
「そこは見解の相違というやつだな」
もやは壁紙代わりなのかと疑いたくなるほどみっちりと貼られた寄宿学校並みに口喧しい規則を確認するのさえバカバカしくなりました。
「この店の意向はともかく、件の窓は?」
ぐるりと店内を見回す僕に、エリンは左手の人差し指を天井に向けて見せました。
「二階だよ。今は階段まで人が溢れているからね。少し待ってから見に行こう」
首を捩ってエリンの視線を追えば、カウンターの奥に追いやられたみたいに階段がありました。二人がすれ違うのがやっとくらいの幅しかないのですが、そこでも人が列を成していました。上がろうとする人間は壁に肩を壁にくっつけていて、くだってくる者に「女は見えたか?」と問いたげな目を向けています。
「やれやれ、好奇心とはなんとも浅ましいものだね」
わざとらしく憂う僕に、エリンは声を立てて笑いました。
「君も僕もご同類さ」
「そりゃあ、まぁ、そのとおりなんだけどね。しかし、不思議なのは君だよ、エリン。君とはスティーヴンのいうところの呆れた所業を、それこそ呆れるくらいこなしてきたが、この手のことには興味なかっただろう?」
「うん?」
「つまり、窓に棲む女とか、夜中に狂ったように歩き回る足音が響く家とか、名前を書いたコインを投げると願いを叶える妖精がいる泉だとかさ。……僕の妹がいうところの〈くらがりのもの〉絡みだと思われる案件は、どちらかといえば嫌いなんだと思っていた」
「くらがりのもの……」
エリンは噛みしめるように僕の言葉を繰り返しました。
「そうか、そんなふうに呼ばれているのか」
「ユキの生まれた国では、という但し書きが付くけれどね」
あぁ、ユキというのは妹の愛称です。あの子の親友がそう呼んでいましてね。僕達もそれに倣ったというわけなんです。
「妹さんは東洋の生まれだといっていたね」
「うん。あの子がまだ幼い時にはるばる海を渡って来てくれたのだけれど、今でも当時の感動をありありと思い出せる」
黒髪と白磁の肌を持つ精巧に作られた美しい人形のような小さな女の子が藍色の目に僕を映して名前を呼んでくれた時、この子を一生かけて守ろうと決意しました。やがて、あの子は十人が十人美しいと評する大人の女性へと成長しました。今ではユキの方が年上と間違えられるほど落ち着きがありますが、これは弟の場合も同じなので、いつまでも落ち着きのない僕自身に問題があるのかもしれません。それでも、ユキが世界で一番可愛い妹なのは変わりないのです。
「くらがりのものには、この国でも何がしかの呼び名が付いていたが、現在では忘れ去られ、失われたともユキはいっていたな」
ふぅん、とエリンが相槌を打ったところで、コーヒーが運ばれて来ました。むろん、頼んだ覚えはありません。訝しげな顔をする僕に、友はにんまりと口の端を上げました。
代金を受け取った給仕が去るのを待って、エリンが言います。
「この店にはメニューがないんだ。コーヒーしか置いていないからね」
「ミルクや砂糖は?」
「ないよ。純粋なコーヒーの味を楽しむためさ」
「僕の知っているコーヒー・ハウスとはだいぶ流儀が違うぞ」
「しかも、そのコーヒーも泥水と大差ない」
「この世はいったいどうなっているんだ!」
憤懣を込めてテーブルを叩きました。思いの外大きな音がしたので、僕は慌ててエリンの影に隠れるように首を引っ込めました。
エリル・エリンは彼の美徳であり罪悪でもある鈍感さを発揮して、周囲の人々の非難じみた視線にも動じませんでした。お世辞にも綺麗と言い難いカップを見向きもせず、話の軌道を戻します。
「そのくらがりものというのは、具体的にどういうものなんだい?」
エリンは腕組みすることでコーヒーを飲む気はないという意思表明をしました。
「これもユキの受け売りだが」と前置きをして僕は言いました。「大雑把に説明するなら超自然的な現象を起こす存在だそうだ」
「幽霊や狼男とか?」
「それがややこしいところでね」
泥水同然と評されたコーヒーを飲む勇気こそないが、それでも気になってくんくんと嗅いでいた僕はしかめた顔を上げました。
「幽霊も狼男も〈くらがり〉という領域の存在ではある。けれど、くらがりのものではない。その言葉はくらがりに存在するものすべてを指すのではなく、特定の類に対してのみ用いられるのだ。幽霊や狼男、それに人類みたいにね」
緑の目を瞬いたエリンは僕をまじまじと見つめます。
「……初めて君が賢く見えた」
「君の正直さが、今、僕を深く傷つけた」
「そいつはすまなかった!」と陽気に笑います。「賢さをさらに発揮して、もう少し噛み砕いて説明してくれないかい?」
「そうしたいのは山々だが、実はもう説明できることがほとんど残っていないんだ。あと知っているのは、彼らまたは彼女らは神話やお伽話の中でごく稀に確認できるらしいってくらいさ」
「らしい? 急にレベルが下がったな」
「妹の受け売りだっていったじゃないか。でも、確認したのはユキだ。あの子の信用はスティーヴンのお墨付きだよ」
あえて弟を引き合いに出せば、エリンは深く頷きました。僕のお墨付きだったら、こうもあっさり納得しなかったに違いない。
「想像もつかないような遥か昔、それこそ、雷の女帝ツェーラの名がこの地に轟いていた時代のお伽話は、君も子供の頃によく聞かされただろう。王に忠誠を誓う騎士や神にすべてを捧げた神官の物語は多くあれど、くらがりのものはひっそりと登場するに過ぎない」
さすがに咽喉が乾きました。思い切ってコーヒーを舐めた僕は、エリンの言葉が何の誇張もなかったと思い知りました。
「これがコーヒーなのか!?」
「そういう名で出されたものさ。たとえ泥水でもこの店ではコーヒーと呼ばれている」
エリンの声にはどこかしら達観したものがありました。
「……納得するのは癪だが、理屈はわかった。それでこいつはまったく奇遇だけれど、くらがりのものにも同じことがいえるんだ」
「つまり?」
「察しが悪いな。つまり、彼らにも別の名が与えられていたのさ! その最たるものが〈ル・ヴァルグ〉だというのがユキの意見だね」
「ル・ヴァルグってあれだろ。比類なき魔法使いとか、不死の肉体を持ってるなんて謳われるわりに外見は冴えない中年男の」
「そうだ、その冴えない中年男のル・ヴァルグだ。彼は神に最も近い魔法使い、すなわち、人間として伝わっているが、世界をねじ伏せるだけの魔力や不死の肉体や、面白半分で人々の諍いに首を突っ込んでは場をかき混ぜるところなんかは実にくらがりのものらしいとさ」
エリンはこちらの話をよくよく味わうみたいに口を動かしました。視線は斜め上あたりを彷徨っています。
「ル・ヴァルグがくらがりのものなんだな?」
僕のとこへ戻ってきた顔は噛みきれない肉を口に含んでいる時のそれでした。
「その言い方は正しくない。くらがりのものの一人がル・ヴァルグだ。類だといったろう? くらがりのものは他にも存在する」
「じゃあ、中年男がくらがりのものなのか?」
「どうしてそんな結論になる!?」
僕はふたたびテーブルを叩きました。今度はさっきよりもずっと良い音が鳴り響き、より多くの人の視線を集めました。むろん、僕はとっさに首を引っ込めましたとも!
神経がザイルでできているどころか存在しないのではと疑いたくなるエリンは「冗談だ」と呑気な笑い声を立てます。
「くらがりのものが、超自然的な存在だっていうのは漠然と理解したよ。しかしね、アルヴィン。彼らがこの現代にも本当にいるものかな?」
「いるさ、きっと」
「おや、ずいぶんと確信があるようだね」
即答した僕を、エリンは訝しみながら面白がりました。こういうところばかりは器用な男です。
僕はきっぱりと言いました。
「確信なんてあるもんか。でも、いてくれなきゃ困るんだ」
「何故?」
「ユキがそれを望んでいるからね。妹の願いを叶えるのは兄である僕の務めだ」
むろん、妹だけではありません。弟の願いを叶えるのも同様です。ただ、スティーヴンから願いを聞き出すことに成功していないので、こちらはスタートラインにも立てていないのですが。
「とても君らしいね。……それじゃあ、僕もこの店の窓の女がくらがりのものであることを願おう」
「エリン、君って最高にいい奴だ!」
「晴れてくらがりのものを見つけた暁には、妹さんに紹介してくれよ」
「エリン、君って最高にクソッタレだ!」
僕は笑顔のまま言ってやりました。
だって、エリル・エリンですよ! まかり間違っても妹に紹介することだけはあり得ません。
いやはや、エリンは友としては最高に愉快な男ですが、義弟としては最低の部類に入りますからね。家柄も良い、性格も良い、顔もまあ悪くない。ただ灰色の脳細胞だけが足りないんです、圧倒的に! 断じてあんなマヌケに妹をやるものですか!!
だが、敵もさる者です。こうした反応は予測ずみだったようで、へらへらした表情を崩しません。
「先週、美しい女性とすれ違ったんだ。ただ美人というだけではなく、神秘性を纏ったとでもいうのかな……。この国の女性にも美人は少なからずいるけれど、雰囲気がまるで違うんだ」
目を細めてその時の情景を思い浮かべているエリンに対し、僕は酷く険しい顔をしていたに違いありません。
「それほどの美人となれば、確かに僕の妹をおいて他にないだろう。そして、君の拙い賛辞は素直に受け取るとしてだ、どうして僕の妹だとわかった?」
「君が今いったじゃないか、それほどの美人は他にないと。それに僕は気になったらすぐに解決しないと気がすまないたちだ。見惚れているうちに彼女は去ってしまったけれど、彼女が出てきた店はわかっていたからね」
「わざわざ訊きにいったのか!」
「君だってよくやってる。……あれだけの美人となると、店員としても忘れる方が難しいらしい。すぐにアルヴィン・ハーリクィン氏と来店したことがあると思い出してくれたよ。それだけわかれば簡単さ。君には妹さんがいて、それも東洋の生まれだというのは聞いたことがあったし」
「どこの店だ! 顧客の情報をこんな怪しげな男に喋るなんてとんでもない!!」
「失敬だな。僕は親しみやすい紳士だとよくいわれるのに」
「どいつもこいつも目は節穴か!」
嘆いてみても後の祭りです。
「君が妹さんをひた隠しにするから悪い」
「あの子を、君や君に引けを取らない愚か者揃いの連中に紹介なんてするものか!」
これまでもこれからもそのつもりはなかったのに、まったく運命というものは残酷です。
エリンはちょっぴり傷ついたのを示すため、眉根を寄せました。
「僕や僕に引けを取らない愚か者揃いの連中は、みんなアルヴィン・ハーリクィンの友人なんだがね」
「だから、愚か者だといっている!」
まっとうな人間なら僕ではなく、弟のスティーヴンと友になるでしょう。それが常識と良識を持ち合わせた人の取るべき正しい行動です。
コーヒーという名の泥水をぐっと飲み干して、僕は心を落ち着けました。改めてエリンを見据えて言います。
「妹は紹介しない」
「頑なだね、どうも……」
「絶対の絶対にだ!」
鼻息も荒い僕にエリンは苦笑まじりの息を吐きました。降参とばかりに両手を顔の横に上げます。
「わかったよ、アルヴィン。でも、今日の結果を伝えてくれるくらいはしてくれるね?」
エリンが立ち上がりました。
「そろそろ行ってみようじゃないか」
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