スプライト・クラブ奇談
夏目樹
第1話:窓の女(1)
サフィーシャント氏は目が覚めた直後から落ち着かない様子だった。
未明から降り出した雨は昼近くになってもやまず、威勢よく石畳にぶつかっている。砕けた雨粒が靴の先やズボンの裾へ助けを求めるものだから、目的の場所に辿り着くまでにサフィーシャント氏の足元は残念な程度には濡れてしまっていた。
レストラン・タタッタ――妙な名前だが、この街はおろか、この国でも屈指の料理店だ。国内外の舌の肥えた人々を幾度となく唸らせてきただけあって、その味は折り紙つきであったが、値段もまたそれに相応しいものである。
従って、素っ気ない意匠だが気後れするような重厚なチークの大扉が、平民に向かって開かれることはほとんどなかった。
かくいうサフィーシャン氏も前を通り過ぎたことはあっても、来店は初めてである。これまでの貯蓄とささやかな軍人年金では、とてもではないが来ようなどとは考えもしなかったはずだ。
ところが先日、知人の付き合いで参加したちょっとしたスポーツ――と気取って皆は言うが、とどのつまり賭け事だ――で臨時収入を得た。
普段のサフィーシャント氏であれば、来るべき未来に備えて、袖机の上から二段目の奥に押し込まれた錆の浮くクッキー缶に大切にしまったに違いない。
けれど、気まぐれな幸運に気を良くした氏は「明日、雨が降っていたらタタッタに行こう」とスポーツで得たものらしく、その行方をスポーツに委ねることにしたのだ。結果、こうしてチークの大扉の前まで来るに至っている。
扉から少し逸れて、サフィーシャント氏は静かに傘を閉じた。肩や腕に落ちた水滴を払いながら、入口の様子をそっと窺う。
創業二百数十年の歴史を持つレストランは貴婦人のようにとっつきにくかった。扉の前には澄まし顔のドアマンが立っている。そこへ行こうにも足は石にでもなったみたいに動かず、心臓がやたらと大きな音を立てた。まるで憧れの女性を前にして立ち竦む少年のようだ。
果たして "彼女" に相応しい服装だろうかと顎を引いて自らの姿を確かめると、三十五を過ぎたあたりでさっぱり引っ込まなくなった腹が丘のように盛り上がっているのが見えた。
サフィーシャント氏はジャケットの裾を引っ張ってみた。まったく意味のない行為だった。
次にふたたび傘を振って、残りわずかな水滴を落としてみた。
それもすぐに終わってしまいもじもじしていると、ドアマンが恭しく頭を下げる。サフィーシャント氏は飛び上がらんばかりに驚いて、目を見開いた。
何か言おうにも言葉が出てこない。足も相変わらず石になったままだし、その一方でドッと汗が吹き出した。こんな時どんなふうに振る舞えばいいのか、本当にわからない。そのうち、「場違いなところには来てはいけなかったのだ」という後悔がじわじわと湧いてきて戸惑いと悲しみに途方に暮れた。
そんなサフィーシャント氏の心境など知る由もないドアマンは、開け放たれた扉から現れたひと組の男女に「またお越しくださいませ」と聞き取りやすい声で告げたのだった。
サフィーシャント氏は目をパチクリした。あれ、と声が出なかったのが奇跡的ですらあった。それから改めてドアマンのお辞儀を受けた男女を眺める。
薄紫の傘を広げた男が若い女を招いた。ちらりと見えた女の横顔には東洋の趣きと美しさがあった。
傘を受け取った女が軽やかな足取りで通りに出る。石畳を踵が打つ音もまた美しい。
思わずその後ろ姿に目を奪われていたサフィーシャント氏は、
「あなたの犬ですか?」
そんな問いかけに目を瞬いた。
たっぷり三秒は自分に向けられたものだと気づかず、四秒目に首を傾げ、五秒目に慌てて振り返った。
「その子はあなたの連れでしょうか?」
そんなふうに話しかけてきたのは、若い女に傘を渡した男だった。
彼もまた若いといって差し支えない風貌をしている。二十歳そこそこだろうか――小さな顔に大きな青い目が嵌っていた。赤くてふわふわした髪が風に吹かれて雨と一緒に踊っているのを見ると、サフィーシャント氏は帽子の下に隠れた自身の頭髪が最近めっきり寂しくなっているのを思い出した。
「連れ……?」
目をパチクリさせた彼に、人懐こい顔の青年は人差し指を立てる。
「あの子ですよ」
指の先を追って振り返れば、サフィーシャント氏のすぐ後ろに大きな犬がちょこんと座っていた。影みたいに真っ黒で、濡れて光る鼻と青みがかった白目、それからやっぱり真っ黒な瞳がじっと彼を見上げている。
うわっ、と声を上げてサフィーシャント氏は飛び上がった。
「い、いつの間に……」
呟く彼に、青年が明るい声で言う。
「その様子だと、あなたの犬ではなさそうですね! 飼い主は近くにいるのかしら?」
妖精を思わせる大きな目が忙しなく動く。
「ああ、でも、首輪がないな。お前は一人かい?」
身体を左に傾けた青年が、サフィーシャント氏の背後の犬へと語りかける。
犬はひと声吠える代わりに瞬きを一度した。その動作に青年は手を叩かんばかりである。
「おやおやおや! なんて賢いんだ、君は!!」
ぎこちなく丸みのある身体を反転させたサフィーシャント氏も、その意見には賛成だった。影みたいに静かな佇まいには気取ったところがひとつない。それでいて、瞬きをするタイミングは青年の声にピッタリと合っていて、彼の言葉をすべて理解しているのだと示していた。
それにあの目! 黒々とした瞳は吸い込まれてしまいそうで、漠然とした恐怖すら感じる。深淵を覗くとこんな気分になるのかしら、とサフィーシャント氏は思った。
「不躾ですが」
そんな呼びかけがあったのは、足元が覚束なくなった気がした時である。サフィーシャント氏は激しく肩を震わせた。
「は、はいっ! 私ですか!?」
慌てて振り返ると、例の青年が爽やかな笑みを浮かべている。
「驚かせてしまい申し訳ない。ええと……」
「あ、その、サフィーシャントといいます」
「どうも、サフィーシャントさん。僕はアルヴィンです」
そう言って差し出された手をサフィーシャント氏はおっかなびっくり握った。
アルヴィン青年は見た目どおり元気よく握り返す。自分の手が勢いよく上下に振られるのを見て、サフィーシャント氏は些か困惑した。
「あなたはタタッタで、これから食事をするとお見受けしましたが」
その指摘にサフィーシャント氏は「ええ、はぁ、いや……」となんとも曖昧な答えを返した。自宅を出た時には確かにそのつもりだったが、店に着いた途端に勢いが削がれ、未だ盛り返していない。
ところが相手の青年ときたら、そんな彼の気持ちなどまるで気づいた様子もなく、あろうことか「そうでしょう、そうでしょう。そうだと思っていました」と頷く始末だ。
「さて、そこで僕からのお願いなのですが!」
青い大きな目を輝かせたアルヴィンが声に力を乗せて言う。
「一緒に食事をしていただけませんか? いえね、約束していた相手が、急遽来られなくなりまして。一人での食事は味気ないと思っていたところなのです」
突拍子もない申し出にサフィーシャント氏は目をパチクリさせた。初対面の人間から食事に誘われるなど初めての経験である。それも親子ほど年の離れていそうな青年からとなれば驚きもひとしおだ。
思考も身体も固まった彼に、アルヴィンは早口で続けた。
「いやいや、驚かれるのも無理はない。しかし、僕の見たところ――ああ、弟にいわせるとただ綺麗なガラス玉が嵌っているだけらしいのですが――その僕のガラス玉の目から見て、あなたはとてつもなく善良で親切な方です」
これははたして褒められているのだろうかと、サフィーシャント氏は尻をもぞもぞさせた。
「だって、そうでしょう? その賢い犬がついて行きたくなるほどの人物なのですから」
アルヴィンはちょこんと首を傾けて、無邪気な笑みを犬に送る。
「なあ、君。僕の意見に賛成してくれるね? ……そうだろう、そうだろうとも。君はきっと頷いてくれると思ったよ!」
握ったままの手を青年が嬉しそうに上下に振った。
大きな青い目がふたたびサフィーシャント氏を見つめる。
「ねえ、どうか、『わかった』といってください。でないと、僕はいつまでたってもあなたの手を離すことができません」
懇願と脅迫がほどよくブレンドされた言葉に、サフィーシャント氏はただただ気圧されるばかりだった。
狭く暗い廊下を抜け、ただ重いだけの何の飾りもない扉の先に待っていた光景に彼は思わず嘆息した。
まず目に飛び込んできたのは暖炉だ。マホガニーの褐色が部屋全体にあたたかみを与えている。シャンデリアの橙色の光はダイニングテーブルに柔らかく降り注いだ。
絨毯や壁紙が主張することはなく、部屋に落ち着きと居心地の良さをもたらしている。ここがレストランであることを忘れそうだった。
「〈オルノアの居間〉です」
まあ、実際はダイニングルームですけどね、とおどけた調子でアルヴィンが付け足した。
「母はこの店の味が好きで、昔はよく通っていたのです」
自宅のような気軽さで青年は〈オルノアの居間〉へ足を踏み入れた。
一方、状況を飲み込めていないサフィーシャント氏は、ぼんやりと彼の歩く様を眺めている。
アルヴィン青年は小柄でこそあったが、堂々とした佇まいがあった。優美で繊細で高貴な〈オルノアの居間〉にも見劣りしない。
(常連のようだけれど……)
今更のように青年が纏うスーツの質や仕立ての素晴らしさに気づく。
それから、レストランの入口で当たり前のように支配人を呼んだことを思い出した。
「持って生まれたコネは、今が使い時だと思いましてね」
ウィンクをしたアルヴィンは冗談めかしてそう言ったが、その意味がサフィーシャント氏にもようやくわかりかけてきた。
さあ、どうぞと招く青年に、彼は思い切って尋ねた。
「あ、あの……、あなたのお母様というのは?」
心臓が駆け足を始める。予想通りの答えでもそうでなくても口から飛び出しそうだ。
アルヴィンは目を見開いて、それから口許を綻ばせた。
「僕はいつも弟に言葉が足りないと叱られるのです。これではまた叱られるな」
フフッ、と笑って肩を竦める。
「大変失礼しました。改めて自己紹介をさせていただきますね」
青年は綺麗に背筋を伸ばして、サフィーシャント氏を見つめた。
「アルヴィン・ハーリクィンです」
「で、では、お母様は……」
「お察しのとおり、オルノア・ハーリクィンは僕の母です」
サフィーシャント氏は「おおっ!」と唸って身体を震わせた。雷が直撃したかのような衝撃だった。
「ルシェ・オルノアの……」
感動と困惑と彼自身にも把握しきれない様々な感情がない交ぜになった呟きが溢れた。脳裏には若かりし日のオルノア姫が映し出される。現女王の妹の娘にあたる彼女は、妖精を彷彿とさせる美しさや愛らしさから幼い頃より庶民の間で人気だった。
同年代のサフィーシャント氏は思春期に密かな憧れを抱いて、実のところ、このレストランに来ようと考えたのもルシェ・オルノアがかつて通っていたからであり、当時の甘酸っぱい思い出に浸るのもよいのではないかと思ったからである。
「この部屋はね、サフィーシャントさん」
母親の面影を垣間見せながら、アルヴィンは優雅に手を振った。その白い指に誘われるみたいにサフィーシャント氏はふらふらと歩き出す。
「母が自宅のように寛げるようにと、特別に誂えたのです。こじんまりとしていますが、カステア・ホールのダイニングルームとよく似ているんですよ」
「カステア・ホール……」
それは何だったかしら、とサフィーシャント氏はホワホワした脳みそで考えた。ルシェ・オルノアの名が出てからというもの夢見心地で、何もかもが鈍くなっている。招かれるまま青年の向かいへ腰を下ろし――いつの間にか執事が椅子を引いて待っていた――、何かの問いかけに反射的に頷いた。
(カステア・ホール!)
目が覚めたのは、食前酒を受け取った時だった。叫び出したり、立ち上がったり、飲み物を零したりしなかったのは奇跡的だった。
(レシアス公爵ファルデイル・ハーリクィンの邸宅ではないか! つまり、ルシェ・オルノアの実家だ……!!)
ルシアス・デルニクス卿と結婚するまで住んでいたところでもある。三十数年前、ルシアス卿はハーリクィン家に婿入りしたが、若い夫婦はカステア・ホールではなく、ほどほどに都会なラキランドへと新居を構えたと当時の新聞で読んだ記憶がある。
サフィーシャント氏はまたしても目をパチクリした。やっぱり自分は夢を見ているのではないかと思う。
だって、そうだろう。レストランの入口を潜るまでは、模範的な庶民だったのだ。食事こそフラットの女主人に頼んでいるが、それ以外の身の回りのことは自分でやる。
ところが向かいに座り、身振り手振りをつけながら面白おかしく話をする青年ときたら、帽子どころか靴下だってどこにしまってあるか知らずに生きてきたに違いない。サフィーシャント氏からすれば童話や伝説の登場人物といっても過言ではなかった。
ごくりと唾を飲み込む。
アルヴィンの妖精じみた顔から突き出し《ユミーラ》にそっと視線を落とした。長方形の白い皿に色とりどりの料理が澄まし顔で収まっている。ひと口サイズのジュレやムース、シューや、サフィーシャント氏が名称を知らない諸々のものたちだ。
「さぁ、食べましょう!」
アルヴィンがフォークを手に取った。
サフィーシャント氏も恐るおそるフォークを手にした。
(私の人生もここまでかしら……?)
丸みを帯びた身体の他の部分とは対照的に、硬く節ばった指が震えている。それは決して気のせいではなく、サフィーシャント氏は宝石のように輝くユミーラを困惑と恐れの混じった目で見つめていた。
(まさか、ここに来てお金の心配をすることになるなんて)
タタッタのランチメニューであれば十分なだけの金を持ってきたが、これから出されるフルコースに耐えられるとは到底思えない。
(ルシェ・オルノアのご子息と出会い、彼女が愛した特別室へ招かれる幸運があれば、その代償はもはや計り知れない)
決して多くはない残りの人生を平穏に暮らせる程度には蓄えたつもりだったが、それをすべて吐き出す可能性に頭がクラクラした。明日からどうやって暮らしていけばよいのだろう?
「どうしました?」
フォークを握りしめたまま固まった彼に、アルヴィンが心配そうに声をかける。まさか、今後の人生が不安でなどとは言えるはずもなく、サフィーシャント氏は曖昧に笑った。
思い切って、手を動かす。目の前に出された以上、食べても食べなくても食事代は請求されるのだ。ならば、食べた方がいい。
(ええい、ままよ!)
火に飛び込むような覚悟でジュレを口に運んだ。
そうして、目をパチクリさせた。小さく唸る。
そんなサフィーシャント氏の様子に、向かいの青年がニッコリ笑った。
「お気に召しましたか?」
お気に召したなどという言葉で済ましていいレベルではない。舌の上で溶けたジュレは貝柱に絡まり、ソースに変わった。仄かな甘みのある貝柱と相俟って絶妙な味わいを醸し出す。金の心配など取るに足りない問題だと、たちまち気づかされた。
もう一度小さく唸り、賞賛を表す。
グラスを持つ手は震える様子もなく、滑らかに口まで運ばれた。シャンパンの辛味が心地好かった。
それからというもの、サフィーシャント氏は黙々と手と口を動かした。時に青年の話に相槌を打ったが、一度に三言以上を話すことはない。
アルヴィンもまた語りかけはするものの問いかけはなく、故意か偶然かは定かではないが、一方的に話すばかりでサフィーシャント氏が手を止めるような事態に陥らせたりはしなかった。
「あなたって、最高に聞き上手な方ですね」
デザートが終わり、カフェ・ディマロヌのコーヒーが出て少ししたところでアルヴィンが言った。
「おかげで僕は気持ち良くおしゃべりをさせていただきましたが、退屈ではなかったですか?」
青くて大きな眸がサフィーシャント氏を見る。とんでもない、と彼は首を振った。
事実、アルヴィンの話は面白く興味深かった。ほとんどが青年の悪戯や失敗談、それから本人が奇跡と称する成功談であったが、しばしば弟が登場し、低確率で妹が姿を現した。
茶目っ気たっぷりに語られるエピソードには弟妹への愛情がふんだんに盛り込まれていた。二人に捧げる言葉が惜しまれることはなく、バーゲンセールもかくやである。
「退屈されなかったのならよかった! いえね、僕はいつも弟に叱られるんですよ。そろそろ沈黙を覚えていい歳だって」
そんなふうに語る青年は幸せそうな笑みを浮かべている。
優雅な仕草でコーヒーを啜り、カップを下ろすとアルヴィンはまた口を開いた。
「この後、予定がおありで? もう少しおしゃべりにお付き合いいただけると嬉しいのですが」
燃えるような赤毛の下で細い眉が八の字を描く。妖精を思わせる目は懇願するみたいにサフィーシャント氏を見た。
このお願いを断れるのは、きっと彼の弟だけに違いない――そんなことを考えながら、サフィーシャント氏は頷いていた。
よかった、と叫んで、アルヴィンは破顔する。「あなたなら頷いてくれるだろうと信じていました」
それから青い目がサフィーシャント氏を逸れて、暖炉へと向けられた。
「君も聞いてくれるかい?」
火の入っていない暖炉の前に黒々とした影がひと塊りある。未だ声を発さぬ犬が悠々と寝そべっていた。
本来であれば、犬がレストランに足を踏み入れるなど許されるはずもない。にもかかわらず、それが果たされたのは偏にアルヴィン・ハーリクィンが望み、また限られたものだけが足を踏み入れることが許された〈オルノアの居間〉であったからだ。
裏口からこの部屋へ通された時同様、声はおろか気配すら感じさせない犬は目を閉じたまま、長い尾をひと振りした。
「ありがとう! 今日の僕は素晴らしい聴衆を二人も得た!!」
喋り足りない妖精のような顔で、アルヴィンは大げさに両手を広げた。
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