第2話 コンパス少女

 謎の美少女にコンパスの針で首筋を刺されてから約4時間。ようやく昼休みとなったので、俺は弁当を取り出してその蓋を開きながら、後ろの謎の少女について思考を巡らせていた。


 最初はコンパスで突いてきたりと不思議な様子を見せてきたりしたが、結局その後は至って普通に授業を受けており、休み時間は休み時間で他のクラスメイトと初会話を成したりと、特にまた妙な行動を起こしたりすることはなかった。

 おかしなヤツと思っていたが、思ったほど変というわけでもないらしい。

 そんなあまりに堂々とした様子を見ていると、実は俺の世間が狭いだけで、他の学校では日常茶飯事だったりしたのだろうか、なんて考えてしまう。


「いっ!?」


 突然襲ってきた本日二度目の嫌な感覚に、回想を緊急停止させて勢いよく振り返る。

 朝と同様に首を押さえながら犯人の顔を伺えば、やはり朝に負けず劣らずの悪い笑みを浮かべた表情をしていた。

 やはり慣れているのは嘘ではないようで、的確にツボを突いてくるため、これがまた結構痛い。その痛みで叫べば、周囲からもれなく「なにごと?」との視線をいただいているので、そろそろ「突然叫び出すイタい子」なんて不名誉な称号を授かりかねない。それを防ぐためにも、ここらでひとつビシッと言っておくべきだろう。そう結論付けた俺だったが、先に口を開いたのは少女の方だった。


「名前、教えて? まだ聞いてないよね」


 久しぶりに聞くその言葉には、情けなくも少しドキッとしてしまった。

 一年とかの入学したての頃ならまだしも、三年生にもなれば知り合いの率はそこそこ高く、共通の知り合いを通したりで名前は勝手に、いつのまにか覚えられていることがほとんどだ。それにそうでなかったとしても、結局傍目から他の人が呼んでいる名前を聞いたりとか、あるいは座席表を見たりとかで勝手に覚えるものだ。

 だからこうして名前を面と向かって聞かれるのはかなり新鮮な感覚になる。ましてその相手が美少女だ。世の健全な男子ならドキドキしてしまうのも無理はないだろう。

 そんな誰に向けるでもない長ったらしい言い訳をして、ようやく落ち着いたところで口を開いた。


宮下みやした 千弦ちづる。宮下はそのままで、千弦は千のげんで千弦だよ」


 名字は分かりやすくていいのだが、チヅルという名前はよく千の鶴と間違えられる。そのおかげで中学の頃あたりからか、自己紹介の時に漢字を伝えるのはすっかり癖と化していたのだ。

 すると少女は突然プリントの裏に、つい今しがた言われた漢字を書き始める。そして俺の名をフルネームで書き終えると、何に感動しているのかは分からないが「おぉっ!」と声を漏らしてこちらに視線を戻す。その表情はまさにキラキラ光っているという感じで、とてもかわいい。


「千弦!すごく珍しいよね。私初めて見たかもっ……!」

「そんなに珍しいか……?」


 確かによくある名前とは思っていないが、そこまで目を輝かされるほどではないのではないだろうか、と思ってしまう。それにそんなにかっこよくないし。

 そういう訳で、俺は自分の名前があまり好きじゃない。しかし少女は、実は無邪気なのか、あるいはこれが彼女の処世術なのだろうか。


「よし、じゃあよろしくね、千弦くん」

「えっ、下の名前で呼ぶのか?」


 湧き上がってくる当然の疑問を、俺は少女にぶつけた。だが、当の本人はむしろ「え、普段から名前で呼び合わないの?」とでも言いたげな表情をしている。なんだ、お前は実は帰国子女かなんかなのか。いやむしろその方が色々辻褄が合うような気さえしてきてしまった。あまりにも文化が違いすぎやしないだろうか。


「宮下くんより千弦くんの方がいいかなぁって……珍しいし」

「そこなの?」

「そこだよ」


 かっこいいとかかわいいとかそういうのでもなく、ただ珍しいからだそう。思わず突っ込んでしまうが、二つ返事で肯定の返事をいただいてしまう。こうなると俺のツッコミが下手くそだったのだろうか、なんて自己嫌悪に陥りそうだ。


 しかしそれにしても、この少女はいったい何者なのだろうか。世界も驚く絶世の美少女かと思いきや、やることなすことがびっくりするほど大胆だし、ちょっとおかしな子というイメージがどうしても離れなくなってきてしまった。

 でも非常に情けないことに、そういったところも可愛いと思ってしまうところがある。


 さて、本題に戻すが、別に下の名前で呼ばれたからといって何か問題があるわけではない。むしろ少し嬉しいような気分さえするくらいだが、ここに来て謎の羞恥心が美少女との接近に待ったをかけてくる。

 恐らくこれが18年弱もの間、非リアという称号を守り通してきた代償なのだろう。

 ああ、なんだか悲しくなってきた。あまりにも俺があわれで仕方ない。自分の身体がもう一つあれば、きっと俺は俺を抱きしめていたことであろう。

 いや、しかしここは悲しんでいる暇はない。とにかくここで「いいよ」と一言告げるのだ。さすれば俺の悲しき18年もいくらか報われることだろう。


「ダメ? もちろん君も私のこと有沙って呼んでもいいんだよ?」


 出かかった返事が、勢力を盛り返した羞恥心によって再び押し戻されてしまった。女の子と下の名前で呼び合う。散々憧れた現象を手に入れるチャンスじゃないか。何をやっているんだ……。

 とにかくあまり下心丸出しな雰囲気にしてしまうとまずい。ここは何でもないかのように、別に自分が呼べようが呼べまいが関係ないといった雰囲気で返事をしよう、そうしよう。


「呼びたいんだ?」

「そ、そういう訳じゃっ……!」


 お前の心は読めてるよ、とでも言わんばかりの一言につい動揺して咄嗟にそう返してしまった。ああ、俺は比較的マシな童貞だと思っていたが、案外重症らしい。……というか、マシな童貞って一体なんだ。


 とにかく落ち着け。まだ勝機はある。この大胆娘のことだ。「あはは、バレバレ〜。本当に呼ばなくていいの〜?」なんてからかい気味に問うてくるに違いない。それがラストチャンスだ。そこで何気なく返答すればいい。落ち着いてさえいれば行ける。俺はやればできる子なのだ。略してYDK。


「そ。じゃあよろしくね、千弦くん?」


 結局一つもシナリオ通りに進むことはなかった。なんだ、さっきから手のひらで踊らされていただけじゃないか。

 きっと俺はかなり情けない顔をしていたことだろう。しかしここで「いや、やっぱり呼びたい」なんて発言をする度胸は俺にはない。

 というか俺はまだ許可なんて出していないのに、お前は呼ぶのかよ。……なんて突っ込む度胸も、もちろんない。いやそもそもこれに関しては度胸以前にら結局嬉しいのでそれをわざわざ壊すことはない。


 ただ、俺も呼びたかったな……。


 いやしかしだな、考えてもみろ。恋人どころか幼馴染でもないんだぞ。ましてそもそも現時点じゃあ友達と呼べるのか怪しいレベルだ。あくまでまだ「席が前後のクラスメイト」に過ぎない。そんな関係で下の名前で呼ぶなんて恥ずかしいに決まっている。目先の欲に囚われてはいけないのだ。結果論だが、これで良かったに違いない。


「おっ、有沙ちゃんのそれ手作り?」

「うん、そうだよ〜」


 前言撤回。


 なんだろう、そもそも俺はいったい何に対してこんなに悩んで、情けない言い訳を繰り返していたのだろうか。

 それみろ、だからこういった美少女の前の席は良くないのだ。不幸に決まっている。


 なんだか一気に脱力してしまった俺は、後ろで楽しそうに下の名前で呼び合って会話しているクラスメイトの声を聞きながら、そっと弁当のフタを閉じて机に突っ伏した。

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魔女と過ごした一年間 幻影の夜桜 @illusion_cherry

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