第1話 5月の転校生

 5月。春の陽気にやる気を奪われる季節。


 実際、春の陽気だとかいう魔法は恐ろしいもので、つい数日前まで「今月から受験生だ」だの「今のうちからやらないと」だのと言って、鼓舞し、鼓舞されていたクラスはすっかり勢いを失っていた。


 5月のメインイベントである休暇。通称ゴールデンウィークを終えた俺達は、休みでだれた身体を何とか動かして教室に集まっている。

 そして時計が8時15分を指したあたりで鳴り響くチャイムを合図に、皆各々の席に座っていった。

 この学校では、始業の15分前から朝のホームルームが始まる。原則出席だが、別に出なかったところで、一限の授業にさえ間に合えば遅刻扱いとはならないのだから、重い瞼を無理に開けて毎日出席しようという生徒はなかなか居ない。まして4連休明けの月曜日だ。こういった日のホームルームの出席率が致命的に低いのは、過去2年の経験から既に学習済みだ。


 ……にもかかわらず、俺の在籍する3年A組はなんと全員出席。これは俺の記憶する限りでは、始業式以来の一ヶ月ぶりの快挙だと思う。恐らくその原因は、これから起こるとされている、とあるイベントのお陰だろう。

 実際俺も少し気になっているのは、まったくもって否定しない。


「それじゃ、お前らも噂は聞いてるだろ。お待ちかねの転校生の紹介だ」


 ホームルームを行う為に来ていた担任から、待ちわびたイベント開始の合図を受ける。そう、高校生にしては珍しい話だと思うが、このクラスに転校生がやって来るというのだ。

 やはり高校生でも転校生イベントは大きなものなのか、あるいは恐らくみんな久方ぶりであろう転校生イベントに興奮するのか、どちらにせよ、クラスメンバーはみんな揃いも揃って落ち着きがない様子だ。

 特に男子においてはその興奮ぶりは顕著なものである。何せ転校生が女子だというのだから、様々な想像……もとい妄想が繰り広げられていた。挙句の果てには、みんなの妄想を元に様々な似顔絵が描かる始末。その姿はもはやただの理想像にしか見えない。


 しかし俺も人のことばかりは言ってられない。俺も健全たる男子生徒のうちの一人なのだ。

 そんな俺は、もちろんクラス男子の結論とは別に、勝手な転校生の想像(理想像の妄想)などという、口に出したらクラス女子全員から一歩引かれるようなことを頭に浮かべていた。

 うん。やっぱり黒髪ロングだよな。他人がなんと言おうとこれは譲れない。それでもって身長は155cmくらいが可愛げあるよな。でもそんなに子供っぽい顔立ちでもなく、むしろちょっと落ち着いてるような感じ。でもテンション上がると可愛くはしゃぐ、なんてなったら最高だ。そして肝心の胸は……。

 っと、ついつい深い想像に浸ってしまった。まったく、男は罪な生き物だ。


 あんまりハードルを上げてしまうのは良くないだろう。こんな100点満点の想像をしてしまうと、仮に90点の美少女でもどこか残念な気持ちで見つめてしまいかねない。

 ……なんか俺、今すごく大変なことをしていなかっただろうか。冷静になるとかなり恥ずかしくなってきた。ごめんなさい転校生。


本堂ほんどう、入れ」


 男の性と格闘する俺の耳にタイムアップの合図が入る。俺は決心した。仮に30点の女の子でも仲良く接する。それが俺のせめてもの罪滅ぼしだ。


 ホンドウと呼ばれた生徒が、前の扉を開けて教室の中へ足を踏み入れる。

 するとあれだけ騒がしかった教室内に一気に静寂が広がった。その理由は言うまでもない。驚くほどの美貌を持つ少女に言葉を失ってしまったのだ。

 俺も半開きになった口が閉じないでいる。あろうことか、俺に至ってはストライクもストライク。ど真ん中に快速球を決められてしまった。こんなことがあってもいいのだろうか、果たして夢ではないのだろうか、なんて考えるが、紛れもなくこれは現実らしい。頬の痛みがそれを証明してくれた。

 そんな生徒たちを尻目に、この教室に静寂をもたらした当の少女は、カリカリと綺麗な字を黒板に書いていく。その「本堂 有沙」という字は、まるでチョークで書かれたとは思えないほど綺麗なもので、その字に再び生徒達は圧倒されていた。


 しかし少女は、そんなクラスメイトを気に留める様子など微塵も見せずに振り向くと、クラス内をじっくり、左から右へとその黒い瞳を動かして観察するかのように見回していく。まるで何かを探しているかのようにも見えた。

 一通り見回した少女は何か納得したような表情を見せて一瞬目を閉じる。そしてすぐに目を開けば、すっと息を吸って口を開く。


「本堂 有沙ありさです。よろしくお願いしますっ」


 いかにもテンプレートな挨拶だったが、その少女の透き通る声が、それを単調だと思わせることはなかった。

 非の打ち所がない、という言葉を聞いたことがあるが、まさにこの少女の為に作られたのではないか、と錯覚してしまいそうだ。


 そして少女は担任から席を聞き、今日から自分の席となる左後ろの隅の机へ歩いてくる。

 幸か不幸か、俺はその少女の一つ前の席なのだ。

 不幸なんて言えば「後ろにあんな可愛い子がいて何が不幸なんだ」と文句のひとつでも言われそうだが、俺としては後ろからひっそりと眺めるのがいいのではないだろうか、と反論したい。

 だって考えてもみろ。わざわざ後ろを向いて話しかけるか? どう考えたって下心丸出しだろう。そんなことしてしまえば「うっわキモいわー、私こいつと関わりたくねー」なんて思われかねない。さらに少女がカースト上位に付き、「ね、あいついつもきもい目で見てくるんだけど。無視しない?(笑)」なんてことになったら、俺のスクールライフは途端に地獄と化す。


 しかし変にどぎまぎしてても授業には集中出来ないし、不穏な動きをしかねないしでいいことがひとつも無い気がするのだ。いや、なんなら別に断言してもいい。

 だから、せめて何かきっかけでもあれば……。


「いっ!?」


 突然首筋にチクッとした感覚が走った。意識が急速に現実に引き戻されるが、それに脳がついて行ききれずに混乱状態に陥る。

 人間、混乱状態に陥るとつい数秒前までの思考も忘れてしまう。それから起こす行動も、もちろん取り繕ったものではなくなってしまい、普段から行っている行為を本能的に実行するものだ。

 そして絶賛混乱中の俺は、チクリとした原因を、これまでの経験を元に無意識下で決めつける。そしてその箇所を手で抑えながら勢いよく振り返った。


「何刺してんだよっ……!」

「いやあ、呼んでも答えてくれないし、隙だらけだったからついっ」


 俺の反応を見てニシシと笑った少女は、手にコンパスを持っている。もちろん針は露出されていた。間違いない。


「いやそもそもなんでコンパス持ってきてるんだよ!?」

「このため」

「このため!?」


 高校生として当然の疑問をぶつけられると、平然とした顔で即答した少女に思わず素でツッコんでしまう。

 こうなることを見越して、なんて予知能力を働かせたわけじゃないんだろうけど、遅かれ早かれ前の人がぼーっとした時に刺すつもりだったのだろう。そして俺はまんまとターゲットに選ばれてしまったらしい。


 ……と、ふと何かを忘れている気がした。何だっけ。そもそもさっきは何を考えていたのか。

 冷静になった頭で思考を張り巡らせて数秒、俺はハッとした表情で顔を上げて目の前に居る少女を見つめた。その少女は少し悪い顔をしているが、それがまたそのかわいさを引き立てているようにも見えた。

 まあなんだ、つまるところ俺は今、こうもあっさりとあの美少女相手に会話を果たしてしまったのだろうか。

 なんというか、散々妄想してた数分前の俺がとんでもなくどうしようもない存在に思えてくる。

 しかし物は考えようだ。なんだかんだでひとまず何気ない交流を果たせてよかったのかもしれない。俺はそう自分に言い聞かせた。


 ただ、俺は一つだけ、どうしても気になることがあった。


「お前、よく一発で痛いところ刺せたよな」

「もう何百回もやってきたからねー」


 ……今までこの子の前だった人、並びにこれからこの子の前になる人、並びに俺へ告ぐ。

 ご愁傷様です。

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