第6話 面倒をかけるというのも
無事に六年が過ぎ、私は二人の男の子の叔母になれたが、兄が手術を受けたかどうかさえ、
そう遠くない将来、甥っ子たちは父親を失ってしまうのだろうか。
そんな不安が、毎日どこかで頭をよぎる。
娘二人で問い質した日から一週間、母は秋穂と口をきかなかった。それは余りにあからさまで、そんなことは初めてで、秋穂はかなり落ち込んでいた。
理不尽さに
手術を受けた場合の後遺症や、余命について。
絶対に自分が正しいと信じていた秋穂は、母に決して謝ろうとはしなかった。
父はというと、妻と娘たちの関係の悪化に気付いてさえいなかった。
淡い飛行機雲の下、駐車場から
色付いた木立が途絶え、左手の視界が開けたことで、眼下の景色を見下ろせるようになったからだ。
ダムの周囲にぽつぽつと見える、自転車で来た釣り人たち。
対岸の
最後尾にいる私とお母さんも立ち止まった。
私のすぐ前にいるお父さんは、茜さんの車椅子を支えながら、ガードレールの手前でダムを指さす二人の孫たちに見とれている。
手話が使える上の子は、小さな両手を駆使し、弟が話すそばから母親のために訳している。
何枚か写真を撮った後、私は三人が会話する様子を写真に収めた。撮影に使ったデジカメは、自分には撮れない景色をと頼まれて、茜さんから預かっているものだ。
先頭では、兄が満ち足りた表情で、秋穂が情景の説明をするのに耳を傾けている。白杖を持つお兄ちゃんを、秋穂は片腕に
兄夫婦は入籍後、施設を出て茜さんの実家で暮らし始めた。子供は上が今年で五歳、下は三歳になる。
私と車いすを押す役割を交代した父は、早速両手に孫の手を取り、張り切った調子で前へ進もうとした。
すると下の子が、ぺたりと急に地べたに座り、背の高い父に肩車をせがんだ。
困り顔を見せるものの、どこか嬉しそうな様子の夫を見て、冷めた目をした母が、私の隣でぼそりと言った。
「あれだけ賛成しよったくせに」
賛成。
父が賛成していたこと。
それが手術のことだとは、すぐには思い浮かばなかった。
だが気付いた瞬間、私は兄が手術を受けていないと悟った。受けずに済んだお陰で、兄が二人の子宝に恵まれたということも。
どうしてそんなに大事なことを、教えてくれなかったのだろう。
このまま言わないつもりだったのだろうか。
表情で問いかけたところ、母は無言で頷いた。
あの夜、秋穂が教えてくれたことを思い返す。
その数日後に施設へ行く前、お母さんが説明してくれたことも。
命に関わること。
後になってからじゃ遅い。
万が一、間違いがあったら。
手術自体は簡単。
一生涯のことなのに、受ければ二度と元には戻らない。
切断するはずだったのは、四肢でも骨でも指でもなかった。
あの手術はパイプカット。
つまり避妊手術のことだった。
命に関わるというのは、兄の命じゃない。
面倒をかけるというのも、兄のことではなかった。
四方から、聞き慣れない美しい鳥の声がする。
前を行く五人の背中が、徐々に遠ざかって行く。
私を我に返らせたのは、茜さんの一言だった。
「どうしたと?」
視線を落とすと、上半身をひねった茜さんが、不思議そうに私の顔を覗いている。
私がただ頭を振り、何も答えられずにいると、前から下の子が祖母を呼ぶ元気な声がした。
「ばあちゃん」
肩車をされた下の子が、私の母に向けて満面の笑みを浮かべ、高さを気にせず大きく両手を振っている。
とっさに危ないと注意しながらも、母は嬉しそうに手を振り返した。
いつかは祖父に 更級ちか @SarashinaChika
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