第6話 面倒をかけるというのも

 無事に六年が過ぎ、私は二人の男の子の叔母になれたが、兄が手術を受けたかどうかさえ、いまだ知らないままだ。それは二十歳になった秋穂も同じに違いない。

 そう遠くない将来、甥っ子たちは父親を失ってしまうのだろうか。

 そんな不安が、毎日どこかで頭をよぎる。


 娘二人で問い質した日から一週間、母は秋穂と口をきかなかった。それは余りにあからさまで、そんなことは初めてで、秋穂はかなり落ち込んでいた。

 理不尽さになげく妹を慰めながら、私は何も知らされていない兄のことも考えた。

 手術を受けた場合の後遺症や、余命について。

 絶対に自分が正しいと信じていた秋穂は、母に決して謝ろうとはしなかった。

 父はというと、妻と娘たちの関係の悪化に気付いてさえいなかった。


 淡い飛行機雲の下、駐車場からゆるやかな傾斜を上っていると、右カーブを曲がったところで前を歩く五人が足を止めた。

 色付いた木立が途絶え、左手の視界が開けたことで、眼下の景色を見下ろせるようになったからだ。


 ダムの周囲にぽつぽつと見える、自転車で来た釣り人たち。

 対岸の常緑じょうりょくの森には、鮮やかな銀杏いちょうの黄色がいくつか浮かび上がっている。


 最後尾にいる私とお母さんも立ち止まった。

 私のすぐ前にいるお父さんは、茜さんの車椅子を支えながら、ガードレールの手前でダムを指さす二人の孫たちに見とれている。

 手話が使える上の子は、小さな両手を駆使し、弟が話すそばから母親のために訳している。

 何枚か写真を撮った後、私は三人が会話する様子を写真に収めた。撮影に使ったデジカメは、自分には撮れない景色をと頼まれて、茜さんから預かっているものだ。

 先頭では、兄が満ち足りた表情で、秋穂が情景の説明をするのに耳を傾けている。白杖を持つお兄ちゃんを、秋穂は片腕につかまらせて介助している。


 兄夫婦は入籍後、施設を出て茜さんの実家で暮らし始めた。子供は上が今年で五歳、下は三歳になる。

 私と車いすを押す役割を交代した父は、早速両手に孫の手を取り、張り切った調子で前へ進もうとした。

 すると下の子が、ぺたりと急に地べたに座り、背の高い父に肩車をせがんだ。

 困り顔を見せるものの、どこか嬉しそうな様子の夫を見て、冷めた目をした母が、私の隣でぼそりと言った。

「あれだけしよったくせに」

 

 賛成。

 父が賛成していたこと。

 それが手術のことだとは、すぐには思い浮かばなかった。

 だが気付いた瞬間、私は兄が手術を受けていないと悟った。受けずに済んだお陰で、兄が二人の子宝に恵まれたということも。


 どうしてそんなに大事なことを、教えてくれなかったのだろう。

 このまま言わないつもりだったのだろうか。

 表情で問いかけたところ、母は無言で頷いた。

 あの夜、秋穂が教えてくれたことを思い返す。

 その数日後に施設へ行く前、お母さんが説明してくれたことも。


 命に関わること。

 後になってからじゃ遅い。

 万が一、間違いがあったら。

 手術自体は簡単。

 一生涯のことなのに、受ければ二度と元には戻らない。


 切断するはずだったのは、四肢でも骨でも指でもなかった。  

 あの手術はパイプカット。

 つまり避妊手術のことだった。

 命に関わるというのは、兄の命じゃない。

 面倒をかけるというのも、兄のことではなかった。


 四方から、聞き慣れない美しい鳥の声がする。

 前を行く五人の背中が、徐々に遠ざかって行く。

 私を我に返らせたのは、茜さんの一言だった。

「どうしたと?」

 視線を落とすと、上半身をひねった茜さんが、不思議そうに私の顔を覗いている。

 私がただ頭を振り、何も答えられずにいると、前から下の子が祖母を呼ぶ元気な声がした。

「ばあちゃん」

 肩車をされた下の子が、私の母に向けて満面の笑みを浮かべ、高さを気にせず大きく両手を振っている。

 とっさに危ないと注意しながらも、母は嬉しそうに手を振り返した。

 

 

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いつかは祖父に 更級ちか @SarashinaChika

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