第5話 私は部屋に入らなかった
秋穂と玄関先に出ると、お母さんはハンドバッグから取り出したばかりの鍵を握りしめて、右手の指先が白くなっていた。
妹を先頭に駐車場へ向かうと、家の前の通りを正面にして左手から、短い間隔を置いてフクロウの鳴き声が五度聞こえた。
「フクロウってね、春に卵を産むんよ」
久しぶりに、お母さんの
鍵を開ける音が後に続き、母は運転席に乗り込んだ。
珍しく秋穂は助手席には乗らず、その後ろの席に腰を下ろす。
妹の隣に乗った私は、兄のところへ着くまでの三十分ほど、
手すりの付いた廊下を進み、部屋を訪ねると、兄の姿はなかった。
だがそのことに、どこかほっとしている自分に気付く。
明かりのついていない室内は、窓越しに陽光が降り注いでいるため暗くはない。
左右に六床並ぶベッドのうち、兄の寝床は左手中央のものだ。壁際の枕元に、CDプレーヤーと兄お気に入りのCDが三枚置いてある。
男性が二人、右手の窓際と廊下側のベッドに、それぞれ横たわっている。手前の廊下側で仰向けになっている男性は若く、窓際の人の後頭部には白髪が見える。
私は部屋に入らなかった。
秋穂もそうだった。
ただ帽子を取ったお母さんだけが、兄のベッド脇に荷物を置いて戻ってきた。
食堂も兼ねている広い多目的室へ足を向けると、見覚えのある小豆色のトレーナーに目がいった。
着ているのは茜さんだ。
彼女はすっとした目鼻立ちをしていて、肩まで伸びた髪を耳にかけている。
車椅子に乗った彼女は、はじけるような笑顔でお兄ちゃんと向かい合っていた。
フリースを着た兄が座っているのは、右手の調理場に一番近い長テーブルの席だ。
ざっと見て、室内の人数は入所者が十五人ほど。職員は三人。
天井の蛍光灯の明かりは、外の明るさに負けている。
兄が手話で話す間、茜さんはずっと兄の短髪に触れていて、兄の手が止まると彼女は兄の耳元に何か囁いた。
少し離れて見る限りでは、兄の手に不自由はなさそうだ。
仲むつまじい二人の様子をまだ眺めていたくて、私は声をかけなかった。
声をかけたのは秋穂だった。
「お兄ちゃん」
兄がその声に反応し、耳の聞こえない茜さんもこちらを見る。
母と三人で
秋穂はまだ目が赤く、鼻の下がかさついている。
「どうした? 何かあった?」
心のこもった茜さんの声を通して伝わる、兄の心遣い。
車内でずっと涙をぬぐい、
「花粉症になったかも。あと、ちょっと車酔い」
兄が手話で訳すと、茜さんが「平気? 座る?」と尋ねた。
二人に勧められて、秋穂は茜さんと向き合うように、兄の隣に腰を下ろす。
まだ
カントリーエレベーターが見える通学路の川沿いに、菜の花が咲き乱れていること。
小さな古墳に囲まれた図書館から、友達の家へ行く道の途中で、鶏卵の自販機を発見したこと。
うちの郵便受けのすぐ下で、蛇の抜け殻を発見したこと。
兄の手を通して伝えられるどの話にも、茜さんは嬉しそうに合いの手を入れている。
三人に近づく前に、私はそっと隣にいる母に聞いた。
「もう一つだけ、質問いい?」
母はこちらを見ただけで、肯定も否定もしなかった。
私は構わずに問いかけた。
「茜さんにも言わんの?」
一瞬だけ、母の頬がひくりと動く。
そもそもどうしてお母さんは、お兄ちゃんにさえ手術の可能性を隠すのだろう。
本当に、怖がらせたくないだけだろうか?
だとすると、お兄ちゃんは、病名すら聞かされていないに違いない。
不治の病だから、絶望させたくない?
それとも人に感染するとか? 世間体を気にしている?
母が首を縦に振ったことで、私は茜さんを不憫に思った。
例え確率が低いとしても、兄に死ぬ可能性があるとしたら。それを彼女に伝えずに結婚させるのは、余りに不誠実じゃないだろうか?
三人と合流した私は、茜さんの隣に椅子を運び、秋穂と対面する形で腰を下ろした。
茜さんは膝の上に、使い捨てカメラを乗せている。
私は兄の手をじっくりと観察したが、火傷や怪我は見あたらなかった。
顔色も悪くない。
母は荷物を部屋に置いてきたことを兄に伝えると、職員の一人に声をかけられて、二人で事務室の方へ行ってしまった。
硬い表情で母が戻ってきのは、一時間ほど経ってからだった。
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