第4話 四年前は賑やかだったツバメの巣

 フクロウの鳴き声が二度聞こえたのは、湯たんぽに足が届いた数秒後のことだった。

 週末になり、日曜の朝が来てもまだ、私たち姉妹は木曜の夜の喧嘩について、両親から何も聞き出せてはいなかった。

 加えて父と母は、互いに必要最低限の会話しか交わさないため、私と秋穂は家にいる間中、居心地の悪さを感じている。

 あの喧嘩の後、秋穂はろくに眠れなかったらしい。

 私はここ三日間、変わらず熟睡できている。


 昨日の午後、私と秋穂は、母から兄に会いに行くかと誘われた。お昼過ぎに一時間ほど雨が降った後、三人で情報バラエティー番組を観ていたときだ。

 私と秋穂に断る理由はなかった。兄の様子も確認しておきたかった。

 母の体を案じつつ、私たちは兄のことも気がかりだった。


 ポケベルだけ持って玄関へ向かうと、お母さんはすでに靴を履き替えていた。花粉症のため、つばのある帽子にマスクという姿。カーキ色のダウンジャケットは、私と兼用しているものだ。手にげた大きな紙袋には、洗濯し終えた兄の着替えやタオルが入っている。

 中を乾かすために入れていた、くしゃくしゃの新聞紙を自分のスニーカーから取り出しながら、私は母にどう切り出そうかと考えた。

「お母さん、どこか悪いと?」

 私にはこれがベストな聞き方のように思えたが、すぐ隣で座る妹が、息を飲んだのが音で分かった。


 一度はドアの取っ手にかけた手を、母は放して振り向いた。

「何で?」

 不思議そうに問い返されて、私はとっさに自分が盗み聞きしたように答えてしまった。

「この間、手術するって」

 母の目尻がつり上がった。

「まだするかどうかは決まってない」

 きっぱりとした物言いに、まるで拒絶されたような喪失感を覚える。

 だが私が秋穂と顔を見合わせると、母は申し訳なさそうに目を落とした。

「せんでもいいってこと?」

 恐る恐る尋ねたところ、母はこくりと頷いた。

「お母さんはそう思ってる」

 さっきとは打って変わって、どこか心許こころもとない口調。

「お兄ちゃんも頑張りよるし」


 お兄ちゃん? 

 ちょっと待って。


「手術を受けるの、お兄ちゃんなん?」

 いて聞いたのは秋穂だった。

「そうよ、私じゃない。お母さんじゃないよ」

 お母さんの目が、悲しげに笑っているように見える。

「受けんでもいいっていうのは、リハビリでどうにかなるってこと?」

 私が聞くと、母は見事に話題をらした。

「お父さんは怖いとよ。自分の負担が増えるのが」

 秋穂が言っていたように、誰かが面倒を見るということだろうか?

「ごめん、意味が分からんのやけど」

 思わずとがめるような語調になってしまう。

 具体的に説明してもらいたかったが、母は答えてはくれなかった。


「お兄ちゃん、どこを切るん?」

 感情のこもっていない勇気ある呟きが、秋穂の口からこぼれ出た。

 だがまたしても母は、それを聞こえなかったかのように受け流す。

「二人とも、手術するとかお兄ちゃんに言わんとよ」

 どうして口止めされなければいけないのか。

「何で?」

 私の問いに、母はさも当然とばかりに答えた。

「怖がるけんよ」

「本人に言わんってこと?」

 秋穂のあからさまな批判にも、母は動じなかった。

「とにかく今日はやめて」

 輝きのない目に疲労を見てしまい、私は母を糾弾きゅだうだんする気がなくなった。


「やったら、これだけは教えて」

 もしかしたら、兄は手術を受けずに済むかもしれない。

 でも一つだけ、聞いておきたいことがあった。

「命に関わること?」

 私は母が否定することを祈った。


 お兄ちゃん、死んだりしないよね?


 本当はそう尋ねたかったが、ぐっとこらえて飲み込んだ。

「命? そうね」

 そうねの抑揚は、肯定というよりはむしろためらいに聞こえた。

 母の視線が天井へ向くと、自然と私と秋穂も上を見た。母が背にする細工のほどこされたガラス越しに、四年前は賑やかだったツバメの巣が目に入る。

 三人の目は、次に下駄箱前の、秋穂の通学用の自転車に向いた。

「関わるよ」

 ぽつりと聞こえた母の答え。

 私は息を止めて、まっすぐに母の目を見据みすえた。

 すると母は、まるで私の視線から逃れるように、振り返ってドアを開け、明るい戸外に出てしまった。

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