第3話 切断

「お母さん、泣きよった」

 妹が気落ちしている一番の原因は、それだろう。

 声がかれ始めている。


 私は母が泣くのを見たことがない。

 そもそもお母さんは、人前で涙を見せるような人じゃない。

「見てないけど、声で分かった」

 秋穂の視線が宙を彷徨さまよい始め、私は組んでいた腕を解いた。

 母のしゃくり上げる横顔を想像してしまった。


「やけん帰ってきたんやけど、聞いてられんでさ」

 つまり秋穂は、両親の喧嘩の内容が内容だったので、止めに入ることも出来なかったのだ。

 音を立てて息を吐き出した妹は、私の目を見て言った。

「お父さんの声が、途中から落ち着いとったんやけど、何か冷たい感じで怖かった。いつもと違った」

 父は本気で怒ると、口調が淡々としたものになる時がある。

 そのことを、妹は今まで知らなかったのだ。


「お姉ちゃん、もう学校で健康診断あった?」

 いきなり話題を変えられて、私はただ頷いた。

 先週、内科検診と運動検診を受けた。一昨日には目の検査があり、検尿を昨日提出したばかりだ。

「先週、内科検診があったんやけど、結果ってまだ分からんよね?」

 秋穂の意図が読めた。

 自分が引っかかったのかもしれないと怯えているのだ。


「考えたくないんやけど」

 私は妹の言葉をさえぎった。

「違うよ。まだ早い。絶対に違う」

 ことさら力を込めて言ったせいか、秋穂は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「うん、ちょっと言ってみただけ」

 私は内科検診の内容を思い出した。指先で叩かれた胸と腹部に、冷たい聴診器を当てられた。光を当てられて、口内も見られた。レントゲンも撮った。


 レントゲン?


 はたと思い当たることがあった。

「骨を切断するって言うよね?」

 私の勢いに押されたのか、今度は秋穂が頷くだけで、目を見開いたまま返事をしなかった。

「手足だけじゃなくて、例えば肋骨ろっこつは?」

 私が自分の胸に手を当てると、秋穂は彼女の胸を見下ろした。

 肋骨の他にも鎖骨と頸椎けいつい、頭蓋骨、骨盤や背骨も思いついたが、切断なんてするだろうかと思い直す。


「最近、だれか病院に行ったっけ?」

 私は暗に、秋穂もそうなのかと言い含めた。

 顔を上げた妹は、思案顔だった。

「分からんけど、あの調子やったらお父さんじゃないはず。だけん、お母さんかお兄ちゃんってことになる」

 秋穂は自分を除外した。


「思ったんやけど」

 もし手術を受けるのが兄だとしたら、一つ気になることがあった。

「お兄ちゃんって成人しとうのに、親の同意が必要なんかね?」

 秋穂は眉をひそめたものの、何も答えなかった。

「お母さんやない? 手術を受けるの」

 もくしたままの妹に、私はたたみ掛けるように質問する。

「だって、おかしくない? まだ考える時間が欲しいとか。お父さんが、私たちのために受けれた方がいいって言うのも。ねえ、手術を受けるのがお兄ちゃんやったら、お父さんがお母さんにそんなこと言うと思う?」


 口角を下げた妹は、そのままかすかに口を開けて呟いた。

「『誰が面倒見るとか』って言いよった」

 秋穂の声に、初めて怒りを感じた。

「それ、言ったのお父さん?」

 父は喧嘩になると、被害者意識が強く出る。まるでこの世で一番、自分が苦労しているようなことを言う。

「うん。だけん手術を受けんかったら、面倒をかけるってことになるよね?」

「そうなるね」

 機械的に返事をしたものの、どんな手術か見当がつかなかった。

 体のどこかを切断しなければ、誰かが面倒を見る羽目になる。

 だとすると、手や足じゃないのだろうか?

 指でさえない気がする。


「近いうちに、話してくれるよね?」

 上目遣いに見上げられ、私は返事に詰まった。

 それは楽観的な考えだと指摘することが出来なかった。

 失望の色を浮かべた秋穂は、足音高く私の脇を通り抜けたかと思うと、梯子はしごを上がってそのままとこについてしまった。


 私は急に疲れを感じ、もう一踏ん張りする気力が失せて、自分の学習机の明かりを消した。

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