第2話 すぐに思い浮かんだのは、耳と鼻だった

「お父さんは、『後になってからじゃ遅かろうが』って」

 進行性の病気ということか。

 とすると、発症や悪化する前の予防的措置かもしれない。

 

 でも、もし違ったら?

 父には元々、慎重というよりは心配性なところがある。


「お母さんが手術を受けるんかな?」

 秋穂は返事をせず、ふと私の左手にある兄の学習机を見下ろした。机の横にあるフックには、使い古した黒いランドセルと体育館シューズの袋が掛かっている。

「茜さんの話も出た」

 妹の声の響きに、わずかながら変化を感じた。

 茜さんは兄の交際相手で、兄と同じ棟の一つ上の階に住んでいる。彼女との意思疎通を図るため、兄は二年前から懸命に手話を学んでいる。

 私より六つ年上の兄は、今年で二十三歳になる。


 寄宿舎で暮らしていた学生時代、兄が自宅へ戻ってくるのは、長期休みくらいのものだった。

 毎回、母が車で迎えに行った。

 都市高速を使っても、往復二時間以上。

 それを過保護だと思ったことはない。

 兄には必要なことだったからだ。

 ほっそりとした兄の面差しに浮かぶ、穏やかな笑みが目に浮かんだ。


「じゃあ、お兄ちゃん?」

 秋穂は涙をぬぐって答えた。

「かもしれん。あと、お兄ちゃん結婚するみたい」

 予期せぬ嬉しい驚きに、温かな気持ちが体の内側に流れ込むのが分かった。だがすぐにそれは黒い不安をまとって、ゆっくりと渦を巻き始めた。 

 乳児の頃にわずらった兄には、重い後遺症がある。長く続けているリハビリのお陰で、軽減している症状はあるものの、日常生活に問題がないと言えば嘘になる。


「手術自体は簡単なものみたいよ」

 こちらを気遣う妹の明るい声色に、なだめられているのだと気付いた。

「盲腸くらい簡単って、医者が言いよったみたい」

 母は若い頃に、盲腸の手術を受けている。

「だけんか知らんけど、お父さんが説得しよった。『万が一、間違いがあったらどうするつもりか?』って」

「間違い?」

 どういうことだろう?

 まるで手術を受けないままでいると、良くないことが起こるように聞こえる。

「うん。そう言いよったよ」

 秋穂はまた視線を足下に落とした。


「でも、お母さんは反対なんやろ?」

 そこが理解できなかった。

 母が兄を危険にさらすとは思えない。

 だとすると、手術を受ける相手が違うのだろうか。


「引っかかったのがね」

 秋穂は顔を上げて続けた。

「お母さんが、『二度と元には戻らないんですよ。一生涯のことなのに』って言いよって」

 語尾は消え入りそうだった。

 

 一生涯に関わり、二度と元には戻らない。それなのに、手術自体は簡単なんてことがあるだろうか?

 四肢のうち、本当にどれかを切断してしまうとしたら、それは大手術にならないだろうか? 

 とすると、指。

 手の指なら、切り落とせば必ず目立つ。

 つまり、見た目に変化が現れる。

 足の指なら、靴を履けば見た目には分からないが、歩く際に今以上に支障が出るはずだ。


 指を切断する理由として、私に考えつくのは、怪我かそれによる破傷風、もしくは壊死えしくらいのものだった。

 壊死の原因は、火傷やけどと凍傷の他に何があるだろう?


 三月最後の週末に会ったとき、兄にはどこも変わりがないように見えた。

 相変わらず歩く際には白杖が必要で、声を出すことも出来なかったが、耳は聞こえていたし、手の痙攣けいれんも薬で抑えられていた。

 つまり少なくとも、手に火傷や怪我はしていなかった。


「お兄ちゃん、もう入院しとるんかな?」

 もしかしたらという思いがあった。

「分からん」

 弱々しく首を横に振る妹を見て、盗み聞きしていた時間の長さを考えると、これだけの情報を得られただけでも十分に思えた。


「お姉ちゃん」

 私を呼ぶ声に、若干じゃっかんの甘えが入っている。

「切断って言葉、手足以外にも使うと思う?」

 すぐに思い浮かんだのは、耳と鼻だった。

 秋穂は私に真剣な眼差まなざしを向けたまま、続けて言った。

「食道とか腸とかさ。後は気管って、長いけん使うんかなって」

 それは使うかもしれない。

 改めて考えると、肺や肝臓、胃なんかも、切断すると聞いても違和感はない。

 

 切除とは、切って取り除くことだからだ。


 でも食道と気管を切断するとなると、また繋げる際に、長さが足りなくなるんじゃないだろうか?

 私は無意識のうちに腕を組んでいた。

「腸やったら、悪い部分をざっくり切り取って、また縫い合わせるとかはあるんやない?」

 長さに余裕もあるだろうし。

「気管は、人工呼吸器の管を通すために、切開するとかは聞くけど。切断して、また縫い合わせたりするんかね?」

 高校生の私には、ここが推測の限界だった。





 

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