応援席

「……今日という今日は勝たなきゃなんないの。おんなじ相手にいつまでも負けっぱなしじゃ格好つかないじゃん」

5月の大井競馬場。待機馬房の中でくぅは鞍をつけられながら、こんな事を言った。

「ここまでいっぱい先輩たちに稽古つけてもらったし、厩舎のみんなだって勝ってこいって送り出してくれたし、何より『みんな』に勝つとこ見せたいし」

大晦日の東京2歳優駿牝馬も、3月の浦和桜花賞も同じ相手にやられてる。

今日の東京プリンセス賞こそ勝ちたいと、厩舎の人間たちは思ってることだろう。

もちろん、くぅも同じ事を思ってるようだ。

「やることやったんやし、後は結果を出すだけやで。もっとも、無事に帰ってくるのが一番やて『みんな』は思うてるやで」

「それだけじゃ駄目。……やっぱあいつらみんなまとめてぶっ倒して来なくちゃ。おじさんだって勝ったら嬉しいでしょ?」

くぅはかなり気合が入ってるようだ。

「そらぁそうやが、気合入れすぎて入れ込みにならんようにやで。バフバフ言うてたら『みんな』がびっくりするやで」

「大丈夫。ゲート出るまでは大人しくしてるから。……じゃあ行ってくる」

「おう、頑張って来るんやで」

俺が声をかけると同時に、くぅは厩務員に曳かれて出て行った。

誰が見てもそれとわかるくらい、全身に気合を漲らせて。

それを見届けた俺も、馬房を後にする。


すっかり陽は落ちたが、馬場やパドックはナイター照明のおかげでずいぶんと明るい。

その明かりから逃れるように、俺は目的の場所に急いだ。

待ち合わせしてる相手が、もう来てるかも知れないから。


たくさんの人で賑わうパドックの向こう側。小さな林の入り口に馬頭観音の祠がある。

入り口の石段に腰を下ろそうとして、花束が供えてあるのに気がついた。

添えてあるカードは暗くて読めないが、人間宛のものでないことだけは確かだ。

また誰かが向こうに引っ張られたんだな……。

暗い気持ちになりながら、手を合わせた。


「おじちゃん、遅―い!!」

その途端、祠の奥から大きな声がした。

たるこだ。

くぅのレースは近くで見たいと、たるこは新馬戦から毎回ここにやって来てる。

さすがに馬場まで行くとは言わないが、少しでも近くにいたいらしい。

「ここなら人間の迷惑にもならないし、くぅちゃんの邪魔にもならないからねー」

そう言うと、たるこはニッと笑う。

「それに、ここならいいよって観音様も言ってたからねー」

ああ、そういうことか。

この祠の側なら馬頭観音の目も届くか。だから降りて来られるんだろう。

「それならええな。よっしゃワイと応援するやで」

そう声を掛けたら、祠の奥から別な声が聞こえてきた。

「あのぅ……、ボクも混ぜてくれませんかね?」


誰だ。

思わず身構えて振り返る。

「わぁ、ボク宛のお花だ。ずいぶんと前の事なのにありがたいなぁ……。」

供えてある花束を見たのだろう。嬉しそうな声がした。

そうして祠の奥から出てきたのは、見事な栗毛の馬。


「おじさん、久しぶりです。憶えてます?」

額の星に見覚えはあるが……、まさか。

「りくです。おじさんにはずいぶんと世話になりました」

……言葉が出なかった。

大井に来るのは知っていたが、こんな事になっていようとは。

「……いつそっちに行ったんだ?」

聞いたところでどうにかなるわけじゃないが、そう言うしかなかった。


「……1月の新馬戦に出たんです。強そうなのが何頭もいて敵わないかなって思ったんですが、一生懸命走りました。」

りくは落ち着いた口調で話す。

「でも、脚が持ちませんでした。ちゃんとゴールしたかったんですけどね」

「そうかぁ……」

俺はそれだけ言うと、天を仰いだ。

世の中の競走馬すべてが公平に走れるとは限らない。

新馬戦で引っ張られるのも中にはいるが、それがくぅの幼なじみとは……。


「その次の日にくぅちゃんが走ったんですよね。上から応援してたんですが、もっと近くで応援したいと思ってたら、ここ来たらいいよって」

そう言うと、りくはたるこをちらっと見る。

たるこに誘われたか。

「向こうでくぅちゃんやシュシュおば様の話をたくさんして、じゃあ今度のレースはここねって言われてしまいました。迷惑じゃ、ないですかね。」

「全然迷惑じゃないよー。みんながいればくぅちゃんも心強いと思うしー」

たるこはりくや俺の方を見ようともせず、パドックのくぅを見ながら言う。

「くぅちゃん張り切ってるな~。ちゃんと走れるかなぁ。」

「心配ないやで。ここまでたくさん稽古して来てるし、今までで一番ええ出来やで。」

俺もパドックに目を移す。

少し気負い込んでるかもしれない。あれだけ気合入れて出てったんだ。

気負い過ぎがプラスになることはまずない。どっかで落ち着いてくれればいいが。

「大丈夫ですよ。くぅちゃんは強い仔です。」

今度はりくが口を開く。

「ボクが困ったときはいつも助けてくれましたし、あんな強い仔はそういません。少なくとも、ボクが見た中じゃ一番に強いんですから。」

「そうか……せやなぁ。」

くぅやりくが小さかった頃を思い出して、それ以上言葉が出なかった。

一方はクラシックで勝ちを狙えるまでに強くなり、もう一方は1戦しただけで向こうに引っ張られ。

同じ厩舎で生まれて同じ放牧地で育ったのに、この違い。

世の中公平に出来てるとは思っちゃいないが、せめてもう少し何とかならなかったんだろうか。

神様って奴の裁量を呪いたくもなる。

「ボクの事は心配しなくていいです。ボクの分までとは言いませんが、くぅちゃんが頑張ってくれたら、ボクはそれで十分ですから。」

「そっか……」

りくはあくまで穏やかに話す。

「くぅちゃんと一緒にいた男の子がいたって事、『カメラ』の向こうの人たちが少しでも覚えていてくれれば」

「それは『みんな』も覚えてるし、忘れるわけないやで」

「なら安心です。おじさん、くぅちゃんが目一杯走れるように応援しましょう」

「そうだそうだー。あたしもくぅちゃん応援するー」

たるこが無邪気に言い出す。

パドックを見れば、くぅ達に騎手が乗り、地下の馬道に降りて行くところだ。

「みんなでがんばれって言うよー。せーの!」

「くぅちゃん、がんばれー!!」


人間には聞こえない声。くぅには届いただろうか。

きっと届いてるはずだ。

そして、きっとくぅはそれに応えてくれるはずだ。

そう信じることにした。

「そうそう、おかあさんのお友達ももうすぐ来るって言ってたよー」

こっちを向いたたるこはそう言って、またニッと笑う。

エミちゃんまで連れて来るのか。

馬場から離れたこの祠が、俺たちの応援席。

ならば賑やかな方がいいに決まってるか。

そう思ったら、なんだか笑みがこぼれてきた。

「そりゃあええやで。さあ、エミちゃん来たらみんなで応援するやで!」

「はい。くぅちゃん頑張れ!!」

りくも大きな声を出している。

発走まであと5分。

パドックの奥の祠は、賑やかな声で溢れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死神の手伝い @nozeki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ