夏が来て、そして花となる
雪宮千歩
第1話 夏が来て、そして花となる
夏が来て、そして花となる
雪宮 千歩
梅雨は嫌いだ。妙に蒸し暑いから。
夏も嫌いだ。変わらない暑さが続くから。
こんなもの、とゴミ箱へと投げ捨てられたのなら、どんなに楽な事か。
鞄にあるちっぽけな白紙の存在が、今はとても重く感じる。
しとしとと穏やかに雨が降る中、下校途中のゆかりは、最早何度目かわからない溜息をついた。梅雨特有の肌にぬるりと纏わりつく湿気の不快さと、肩に掛けられた傘の重み、それと上り坂を歩くキツさが鬱屈とした思いを助長させ、そしてそれらが増々溜息をつかせてしまうのだった。
「なーにさっきから溜息ばっかついてんのさ。そんなだと寄ってくる幸せも逃げちゃうぜ? 笑お笑お!」
「マキ……。そんなこと言ったって」
「ゆかりは考え過ぎなんだって。もっと力抜いてこ?」
人懐っこい笑みを浮かべながら友人のマキが励ましてくれるが、とてもそんな気分にはなれない。けれども、せっかく友達と家に帰っているのに、ずっと悩み続けている、この辛気臭い顔を続けるのも何だか申し訳なくて、ゆかりは努めて普段の表情を作ろうとする。しかし、きちんと作れているかは今一つ自信がなかった。
何故ここまで憂鬱な気持ちにならなければいけないのだろう。
きっかけは今日の午後に行われた進路調査だった。高校二年生のゆかりたちは調査票を配られた。書き込んだ内容は後々行われる面談や来年のクラス分けに使われる。
ゆかりは言い様もない不安と焦りを覚えていた。将来の事が何一つ想像できなかったのだ。実際にはこのまま順調に進級してどこがしらの大学、どこがしらの学部へと進学するのだろうけれど。
そうした漠然とした思いがありながらも、いざ筆を滑らせようとすると、果たしてそれで良いのかと考え込んでしまい、結局その時間は自問自答のみに費やすこととなって、白紙のままに終わってしまった。
級友たちが、皆何かしら筆を走らせていたこともまた、焦りに拍車をかけていた。
「っと、コウジ君からだ。ごめん、ゆかり! 先帰ってて! 部活早く終わったみたいだから迎えに行ってくるね!」
足取は重く、歩みは遅いながらも、いつも別れる場所にあと少しで着くという所で、マキは携帯を取り出したかと思うと突然そんな事を言った。口元は嬉しそうに綻んでいて、心なしか声色も先程より弾んでいる。
おお、恋する女の子だ、とゆかりはどこか客観的に感心した。
マキは昔から男子に凄く人気だ。小柄で大きな瞳と人懐っこそうな顔立ちは、同性であるゆかりにも護ってあげたいと保護欲を抱かせる。それに加え竹を割ったような性格と快活な受け答え、どんな時でもポジティブに行動する彼女であれば、モテるのも当然かとゆかりは思っていた。
現在の彼氏もきっとそんな所に惚れたのだろう。
「コウジ君、ってサッカー部の?」
「そう! しかもエース! 凄いでしょ?」
「お熱いね」
「彼氏だからね。普通だって、普通!」
照れながらも嬉しそうするマキが何だかこそばゆくて、ゆかりの方が恥ずかしくなってしまう。
ゆかりも早く彼氏を作りなよ、そのうちね、なんて雑談を交わしながらも、マキはくるりと後ろを向いて、あっと言う間に元来た道を下り始めてしまった。
「それじゃまた明日! 早く元気出しなよ!」
最後に手を振りながら、暑さなんてなんのそのと、勢いよく走っていった。
見送る背中はあっという間に小さくなっていく。
「マキは元気すぎ、かな」
ぽつりと零れた一言が、他に誰もいない道中に空しく響いた。
家がもう見える所まで来ると、視界の端に紫陽花が映り込んだ。
見事に咲き誇っている。綺麗だな、とも思う。
けれど、そんな事よりも、シャツが背中に張り付く程の蒸し暑さと、それによる酷く不愉快な心持ちのゆかりには、家に帰ってさっさと寝てしまおうと考える事が優先で、その歩みを止めることなく、迷わず家に進む。
ゆかりはもう紫陽花を見ることはなかった。
「ただいま」
返事はなく、居間や台所には誰もいない。母親は大方スーパーに買い出しにでも行っているのだろう。黙って二階へと上がり、自室にこもる。自室に着くと、ゆかりは着替える事もせず、制服のまま、勢いよくベッドへうつ伏せに倒れ込んだ。
優しく体を受け止めてもらえることが少しだけ心地よい。けれども、ゆかりの心は落ち着いたとはとても言い難く、海が波打つように浮き沈みを繰り返していた。
寝返りを打って仰向けになると、枕元にあるスピーカーのスイッチをつける。手元の音楽プレーヤーを操作すると、お気に入りの音楽を流し始めた。
ギターロックの旋律ともに、どこかポップな感じの歌声が流れる。英語なので、いまいち歌詞を分かっていないが、ゆかりはそれでよかった。
ゆかりはこうして音楽を聴くのが好きだ。柔らかいベッドに包まれながら音を全身で聴く。そうすると、段々とこの落ち込んだ気持ちも全て収まってくれる。
暫くそうして浸っていると、隣から強く壁を打つ音が響いた。
兄だ。
慌ててスピーカーを止める。歌はちょうどラストのサビを迎える直前、つまり、最大の盛り上がりを迎えるところだった。
穏やかな気持ちもどこか白けてしまう。
せっかく心地よい音楽の海を漂っていたというのに、余計な音で陳腐な現実へと引き揚げられてしまった。
ゆかりは兄が苦手だった。大学受験に失敗し、二回目の受験も失敗して引きこもってしまった兄が苦手だった。兄がこうして怒ることはよくある事だ。そして、そうした時は決まって息を殺し、隠れるように気配を消して、兄の邪魔にならないように過ごすのがゆかりの日常だった。
だから、今日もいつもと同じくじっと息を殺して過ごすのだ。兄の機嫌が直るまで、黙々と。
「あんたもそろそろ進路決めなきゃね」
煮物を食べるため口元に運んだ箸が一度止まった。晩御飯に舌鼓を打つ最中、唐突に言ったのは母だ。父は仕事で、兄は当然食卓にはいない。
「わかってるよ」
口内にある煮物を飲み込み、出てきたのはそんな素気のない言葉だった。
「あんたはカズキみたいに、二回も失敗するのはやめてよ。家にそんな余裕はないんだから。やりたい事をさっさと決めちゃいなさい」
「わかってるって」
またそれか。
ゆかりはいい加減に辟易としていた。
兄のように失敗するな。家にそんな余裕はない。やりたいことをしろ。
母はいつも夕食の時、決まって同じことを繰り返す。飽きるほど聞いた話だ。母はいつもやりたいようにすればいいとも言う。しかし、それと同時に、こちらが何かをしようとすると、それはあんたに向いていないだとか、どうせうまくいかないだとか枷を嵌める言葉を言うのだ。
ゆかりはそんな言動が嫌いだった。矛盾に満ちた、いつも変わらない母の言葉が嫌いだった。
そして、これはおそらくだが、ゆかりが失敗した時、母はこう言うのだろう。
だから言ったじゃない。こうすればよかったのに、と。
「ごちそうさま」
ゆかりは、これ以上この話は終わりだと、味気ないご飯を急いで口へ掻きこむと、食器を台所へ片付け、逃げるように二階に上がっていく。
後ろで母が深い溜め息をつくのが聞こえたが、気付かないふりをした。
*
「じゃあ、あたしこっちだから」
「うん、また明日」
ばいばい、とマキと別れる。自転車のペダルを勢いよく踏み込んだマキは、あっと言う間に姿が小さくなっていった。
紙が配られたあの日から三日後。変わらずまっさらなままだ。
せっかく数字ぶりに太陽が顔を出したというのに、反してゆかりの心は暗く曇ったままだった。
湿気からくる蒸し暑さだけが、ただゆかりの心を縛り上げる。ペダルを漕ぐ気力もなく、手押しのままとぼとぼと帰った。
家の近くに来ると、いつものように紫陽花が目に入った。花弁や葉に付いた水滴が、日差しに反射して、紫陽花をきらきらと輝かしている。
綺麗だな、と思うけれど、やっぱり立ち止まって見るような元気はない。ゆかりは、いつものように帰ろうとしたその時、ふと声がかかった。
「あら、ゆかりちゃんじゃない。お久しぶりね」
ゆかりを引き留めたのは、家主の花代だ。日傘を片手に微笑んでいる。花代もちょうど家に帰りついた時だったのだろうか。傘を持つ反対の手には、紙袋を持っていた。
小さな頃から、ゆかりは花代に懐いていた。いつも花代の家にお邪魔しては楽しく遊んでもらったもので、小さい頃のゆかりにとって、花代は祖母替わりだった。
「花代ばあちゃん。久しぶり」
「ちょっと見ないうちに、またおっきくなったんじゃないの? ここ最近暑い日が続くわねぇ。ねぇ、時間あるなら少し寄ってかない? 美味しいお茶があるのよ。ゆかりちゃんお茶とか好きでしょ、よかったらって思って」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
花代はゆかりに会ったことが嬉しいのか、にこやかに笑いながら、続けざまに言葉を放つ。それに少したじたじとしながらも、ゆかりもまた久々に会った花代と話したいと思い、赤煉瓦の家へと入っていった。
外出していた時間が短かったのか、室内はまだ冷房が効いており涼しい。
淹れて来るから少し待っててね、といつも通されていた茶の間に案内されたゆかりは、手持無沙汰でやることもないため、そして、ただ座るのも何だか味気なくつまらないと思い、壁一面の広い窓へと近づいた。
そこからはちょうど、あの紫陽花が見える造りになっていた。
ガラス越しに見える紫陽花は、内側から見るということもあって、また格別に美しい。青と赤紫が入り乱れた花は見事と言う他なく、しとどに濡れた葉が放つ光沢が不思議な艶やかさを醸し出している。
「綺麗でしょう。私の自慢なのよ」
ぼんやりと眺めていると、背後から声を掛けられた。花代だ。
「ささ、座って座って。冷めないうちに飲みましょう」
穏やかに、そして、和やかにゆかりをソファに座らせた花代は、柔らかく微笑んだ。まだ湯気が立ち昇っている湯呑を手に取り、ゆっくりと薫りを楽しむように鼻をくすぐらせ、味わうように口をつける。花代のその一つ一つの所作も言葉遣いも、どこか洗練されていて気品がある。
ゆかりはそんな所を好いていた。幼い頃から花代の家にお邪魔しては、そんな部分を熱心に真似したものだ。
暫くの間二人は無言だった。互いに茶から微かに昇る薫りに心を揺らし、口へ広がる風味をじわりと味わう。
穏やかにゆっくりと時が流れていく。
ここ最近、ずっと窮屈で仕方のなかったゆかりにとって、この優しい時間は何よりも得難いものだった。
ふと、先に口を開いたのはゆかりだった。
逃げ場のない袋小路に陥っていた心が休息を得て、思わず言葉が零れてしまったのかもしれない。あるいは、昔から付き合いのある、けれど、家族よりは距離が近くない花代だからこそ、話を聞いてもらいたいと思ったのかもしれない。
とにかく。
気が付けばゆかりは花代に問いかけていた。
「花代ばあちゃんはさ、困ったとき、逃げ道もなくて、行き詰った時どうしてる?」
「そうねぇ……」
花代は丁寧に湯呑を置くと、ゆかりの目をじっと見つめた後、柔らかく微笑んだ。
「忘れちゃった」
茶目っ気たっぷりに返された言葉に、どこか肩肘を張っていたゆかりが、ついつい拍子抜けしてしまったのも、仕方があるまい。そんなゆかりの視線の先で、花代は変わらず微笑んでいる。
納得のいっていない、どこか不満げで不可解な表情を浮かべる、そんなゆかりを見てか、花代は窓の外へ視線を移し、釣られてゆかりも同じく外を見る。
「あの紫陽花、綺麗でしょう」
紡がれたのはそんな言葉。
「うん」
確かに綺麗だ。でもそれが何だというのか。ゆかりにはその唐突な言葉の意味が、さっぱり分からなかった。
「貴女がずっと小さなときから、それより前からあの花はあそこにある。でも、ずっとあの大きさのまま、毎年綺麗に咲いてくれてる。」
へぇ、と相槌を返す。
「でもね、ああやって変わらず咲かせるのって、実は大変なのよ。こまめに見てあげないと、直ぐに形を変えたり、咲いてくれなかったりしちゃう。それでも、ああやって今も変わらず咲いていてくれる。何故かわかるかしら」
「ううん」
ゆかりには何も分からなかった。
何故、花が今も変わらず咲いてくれているのか。何故、花代は手間暇をかけて紫陽花の世話をするのか。何故、こんな話をしているのか、何も。
「私がそうしたかったからよ」
「わたしが、そう、したかったから……」
「そう、私がそうしたかったから、ずっと手入れをして、そして、ああやって綺麗に咲いてくれている」
花代は視線を戻し、どこか見守るような優し気な眼差しでゆかりを見据える。お互いに見つめ合ったまま、花代は口を開いた。
「ゆかりちゃん。貴女は昔からいい子で、物事をよく考えてる。大丈夫よ、貴女なら。今はちょっといっぱいいっぱいなだけ。必ず、その迷路から抜け出せる」
この目だ。この、ゆかりを信じてくれている目。この目が昔から好きだった。だからこそゆかりは花代を信頼していた。けれども、今はそれが心苦しくて、ゆかりはもう一度紫陽花を眺めた。
紫陽花は変わらず、きらきらと輝いている。
「……うん」
無理だよ、なんて弱気な言葉は花代には吐けず。ただそれだけを返した。それが精一杯だった。
「……落花意有りて流るる水に随い、流水情無くして、落つる花を送る」
「いきなりどうしたの?」
「私なりの助言、かしら」
落花意有りて流るる水に随い流水情無くして、落つる花を送る。
考えてもよく分からない。けれど、覚えておこうと思った。花代が言うのであれば、きっと今を抜け出す手がかりなのだと信じて、頭で何度も反芻する。
それから、二人でもう一度小さなお茶会に戻った。
湯呑の中はすっかり冷えていた。
*
落花意有りて流るる水に随い流水情無くして、落つる花を送る。
花は流れに運ばれようとして落ちたのではなく、同様に川は花が落ちるのを待っていたわけではなく、花は自然に散り、川は無心に流れていく。生きとし生けるものと水の流れが一つとなった、美しい情景。散る花と運ぶ流水のように、人と人の交わりも無心あるがままであれ。
家に帰りインターネットで検索すると、そんな意味だった。
一体花代は何を伝えたかったのだろう。何も考えず人と交流しろと言う事なのだろうか。
ベッドに仰向けのままぼんやりと考えるが、答えは出ない。
「わっかんないなぁ……」
調査票は白紙のまま。
鞄をチラリと見遣ると、そのまま反対側へと寝返りを打ち、そして何時の間にか眠りに落ちてしまっていた。
「それで、もう決まったの?」
「まだだよ」
また同じ言葉だ。ゆかりはうんざりだった。いい加減に聞き飽きたし、今なら母の言葉一つ一つを抑揚まで完璧に真似て、一字一句諳んじられるだろう。
「早く決めなさいって言ってるでしょう」
「わかってるって!」
空気が冷える。
しまった、思った時には既にゆかりは勢いよく茶碗をテーブルに置き、強く言葉を放ってしまっていた。
母はどんな顔をしているのだろう。すぐ目の前にいるのに、ゆかりはその顔を見る事ができない。
気まずさと沈黙に耐えかねて席を立つと、そのまま急いで二階へ逃げる。
母は追ってこなかった。
*
「それで結局まだ書けてないんだ」
「うん……。私のやりたいことって何だろうって考えるとドツボに嵌っちゃって……。先生からの目がだいぶキツい」
「考え過ぎなんだって! もっと気楽にいこーよ、ね?」
帰り道。いつものようにマキとお喋りしながら、いやになるほど長い坂を上る。
梅雨もそろそろ明けるとお天気お姉さんが言っていたが、生憎と今日はまだ雨だった。服はじっとりとした汗を吸い、肌はどこかべたついている。
ゆかりと母が気まずくなったあの日から、一週間が経とうとしていた。今日に至るまで、ずっとギクシャクとしていて、うまく言葉も交わせていない。
「っと、ヨシキくんからだ。はいはい、りょーかいっと」
ホント最近アツいよねー。ほんとほんと、ウザったい。だなんて、たわいもない話をマキとしていると、トークアプリ特有の軽快な音が鳴った。
マキは携帯を取り出したかと思うと、すさまじい速さで指を上下左右に動かす。相変わらず嬉しそうで、口元が緩んでいる。
「って、あれ? コウジ君は?」
「コウジ君? あー、別れちゃった」
マキは少し眉をハの字にして笑った。
「で、今はヨシキ君と付き合ってるんだ」
「そそ」
立ち直りが早いというべきなのか。別れて即座に新しい彼氏をつくるマキに、相変わらずだな、と思う。
マキはモテる。同時にすぐにフラれる。思っていたのと違う、とよく言われるらしい。
一時期ゆかりの兄と付き合っていた時も、それは変わらなかった。あの時は確か三日だったはずで、現在に至るまでの歴代最速記録だ。
フラれて、そして、またすぐに新しい彼氏をつくる。それはいつものことで、今回も変わらなかったという事だろう。
その行動を、性根が前向きと捉えるべきか、節操がないというべきか。毎度のことながら、ゆかりは彼女のそんな一面への評価を、いつも勝手に悩んでいた。
「会いに行かなくていいの?」
「いーのいーの! ヨシキ君普段バイトとかで忙しいからあんまり一緒に入れないんだ。今日もバイトだってさ」
「前々から思ってたんだけどさ、マキってその、彼氏つくるの早過ぎない?」
「えー、そうかなぁ。まぁ、私ってほら、恋多き女だから!」
なんてね、といじらしく答えるマキに対して、ゆかりの心に湧きたつものは何だろう。
足元を見ながら、傘を取り留めもなく回して尋ねる。
「その、周りからの視線とかって気にならないの?」
暗くドロリとした汚泥のようなモノ。腹の内からじわじわとせり上る黒い何か。胃が、ムカムカして気持ち悪い。
そんなゆかりの心の内も知らずに、マキは相変わらずのカラッとした笑顔で、ゆかりの問いかけを笑い飛ばした。
「何それ! 全っ然! それに一期一会っていうじゃん? 恋もそーだよ! 今が一番大事!」
だから、周りの目なんて気にならないし、過去を振り返ることもない。そんな、どこまでも前向きな言葉を聞いて、遂にゆかりは耐えきれなくなってしまった。
「ずるい、ずるいよ。そんなの」
「え?」
これは身勝手な嫉妬であり、羨望でもあるのだろう。
今すぐ止めないと。そう思うけれども、止まらなかった。一度堰が壊れてしまうと、ゆかりは自分でも止められなかった。どこか一歩離れたところで、まるで客席から劇を眺めているような、そんな気持ちで、今自分がしていることを冷静に眺めている自分がいた。
「いいよねマキは。そんなにお気楽で。未来なんて何も考えてなくて、過去も忘れて。今を精一杯に生きてるだけで。私だって……」
そんな風に生きたかった。
掠れるように、絞り出すように喉の奥から震わせた一言は、うまく音にならない。
お互いに言葉はなかった。ただ雨音のみが響いていた。
自分が放った言葉のその意味を、ゆかりはしっかりと捉えている。言い放っている最中から、後悔とマキを傷つけているという自覚が、ゆかりに訪れている。
ふと、マキへと視線を見上げた時、いつも元気な顔が、笑おうとして、できずに浮かべるつもりはないのに、間違えて悲しそうな表情をしようとするのを何とか出さないようとしている、どっちつかずの顔になってしまっていることに気づいたゆかりは、耐えられなくなって、走って家に逃げ帰った。
*
次の日、ゆかりは生まれて初めて仮病を使った。
そのまた翌日。中間テストのため、仕方がなく学校へ向かった。午前中で学校は終わり、ゆかりは早々に帰ろうとする。できるなら、マキに会いたくなかった。けれど、運の悪いことに下足室でばったりと会ってしまい、そしてマキに誘われ、気まずいながらも一緒に帰っていた。
空は曇り模様だが、雲が薄いのか光が強いのか、薄っすらと白く輝いている。それとは対照的にに、ゆかりの心はどんよりと澱んでいた。
謝らなきゃ、とは思う。けれどどう切り出せばいいのだろう。いつもは他愛のない会話を、当たり前のように交わしていたのに、それすら難しい。
交わす言葉はなく、手押しの自転車が空しく車輪の音を鳴らすだけだ。
「雨だ」
ふと呟く。頬を濡らした冷たさに空を見上げると、先程までとは違い、雲はどんよりとした灰色となり、ぽつぽつと小雨が降り始めていた。
突然の雨が、より一層気まずさに拍車をかける。
「ね、ちょっとそこの公園で話してかない?」
だからだろう。そんなマキの提案に一も二もなく頷いてしまったのは。きっとそうだ。
公園の屋根付きベンチは、幸いなことに誰もいなかった。自転車を濡れないように停めて、並んで座る。口を開こうとして、やっぱり何も出てこない。代わりに、特に意味もないけれど、両手を握ったり開いたりした。
最初に口を開いたのはマキだった。
「あたしさ、惚れっぽいとは、自分でも思ってる。イイなって思った男の子の、良い所を見つけちゃったらもう一直線。告白して、オッケー貰って。付き合ってみたら、男の子になんか違うって言われてフラれて。ちょっと落ち込んじゃうけど、でもすぐに新しい恋を見つけちゃう」
マギが訥々と話すのを、ゆかりは黙って聞いていた。
「たまにさ、節操ないなーなんて、自分でも思ったりはするよ。ホントは、ちょっとだけ人目を気にしたりもするし」
ははは、とから笑いする声にもいつもの元気はない。
気が付けば、さっきまでの喉の詰まりはどこか遠くへと行っていた。ゆかりは問いかけずには、聞かずにはいられなかった。
「それでも、恋をするんでしょ。それは、なんで?」
「嘘をつきたくないから」
その時初めて、ゆかりとマキの目と目が合った。力強くこちらを見据えた瞳は、いつものマキの目だ。どこまでも自由なマキの目だ。
「自分に嘘をついたとき、きっとあたしは誠実じゃなくなっちゃう。あたしにも、誰かにも。あたしは、人の目を見て生きていける人間でありたい」
その時、ゆかりに去来したものは何だろう。何か白いものと黒いものがない交ぜになって、織り合わせになった、例えようのないもの。
思わず下に目を逸らす。小さな自分の足が見えた。何も言える言葉がなかった。と同時に、ゆかりは自分が恥ずかしかった。こんなにもマキは自分を持っている。先を見据えている。自分とは大違いだった。きっと、心のどこかで、マキの節操なしな部分を見て下に思っていたのだ。でも、本当はゆかりよりもはるかに強くて、ずっと上だった。
それがわかったから、ゆかりは言葉を紡ぐことができずにいた。
「なーんてっ! 結局あたしはあたしのしたいことをするだけ、だよっ!」
なんて惨めなのだろう、とゆかりは思う。悪戯にマキを傷つけて、彼女の心に触れて、自分を省みて。ゆかりはマキの顔を見る事ができそうになかった。
余りにも眩しくて。余りにも自分が汚くて。
見てしまうと、自分の醜い部分をありありと見せつけられるような気がする。
そんなゆかりの心を知ってか知らずか、マキはなおも言葉を重ねる。
「あたしはゆかりの凄いとこ知ってるよ! 我慢強くて、思慮深くて、頑張り屋さんで。そして、あたしと仲良くしてくれるってとこ!」
顔をあげる。マキはいつもの笑顔で、優しくこちらを見ていた。
「ゆかりは頑張り過ぎちゃうんだよね。ずっと子供のころから見てるから、知ってるよ。ゆかりの悪い所も、良い所も。」
どこまでも優しく、ゆかりを見つめている。開いたままだったゆかりの手を、マキはそっと握る。
ねぇ、と言葉は続いた。
「もっと気ままに生きてこーよ! ゆかりが思ってるよりも、もっと私たちは自由になれる! だからね、また、仲良くしてくれる? 」
力があった。その言葉には、ゆかりを奮い立たせてくれる強さがあった。気が付けば、ゆかりは泣いていた。
「ありがとね、本当にありがとう」
手を握って、ゆかりの背中を優しくさすりながら言ってくれた言葉に、重く沈んでいた心が軽くなるのを感じて、また、それを伝えるにはその言葉しか、ゆかりには思いつかなかった。だから、ゆかりはずっと繰り返す。涙が止まるまで、何度も、何度も。
暫くの間二人でそうしていると、不意にマキが立つ。
「っと、これからヨシキ君と久々に遊ぶんだった! じゃねっ、ゆかり! 気をつけて帰りなよ」
そう言うが早いか、慌ただしく自転車に乗り、ペダルに足を掛け、漕ぎだそうだとしていた。
マキ、とその背中に向かって名を呼んだ。
「ごめんなさい! また明日!」
そうすると、マキは上半身だけ反転させて、人懐っこい笑みをにこっと浮かべる。
「うんっ! また明日!」
今度こそ一目散に、マキは自転車で駆けて行った。
いつものように、その背中はあっという間に小さくなる。
細かな雨はまだ上がりそうにない。
力強くペダルを回す。上り坂を駆け上がる。息は既に切れ切れで、肺と心臓が強く自己主張している。小雨とはいっても、顔に当たる水滴は鬱陶しい。
ゆかりは恥じていた。悔しくてたまらなかった。先程、幾分か心が軽くなったのはマキのおかげだ。彼女が許してくれてたから、心は少し軽くなれた。だからこそ、少なくない怒りを覚えていた。マキの態度に甘えてしまった自分に。自分からは謝りだせなかったことに。
自分の心から逃げず、やりたいことをやるマキが羨ましくて仕方がなかった。そして、そのことに気が付かず、醜い嫉妬を向けていた自分を許せなかった。
ゆかりには、今に及んでなお目標が定まっていない。やりたいことも。目指すべき道も。だから、調査票は白紙のままであるし、それ故にマキが眩しく見えて仕方がなかった。
我慢強くて思慮深い、とマキは言った。違う、と息も絶え絶えながら、声にならない声をゆかりは叫ぶ。
それは、やりたいことも見つけ出せず、ただただ前に進めず、具体的な未来も描けないで、いつまでも足踏みしているだけなのだと、ゆかりには分かっていた。
あたしと友達でいてくれる、とマキは言った。違う、とまた声にならない声が漏れ出た。心臓ははち切れんばかりに痛い。
友達でいてくれたのはマキの方だと分かっていた。それなのに、ゆかりは芯のあるマキを羨み、嫉妬し、心ない言葉で傷つけてしまった。
ペダルを回す足は止まりそうない。限界はとっくに来ていた。呼吸はひゅっ、ひゅっと空気が出るだけで、うまくできない。雨か唾液か、それともその二つが混ざり合ったものが口から零れている。苦しい、と思う。足を着けよう、と脳が叫んでいる。それでも、心臓が、脳が、体が痛みと苦しみを訴えようと、ゆかりの心が猛る限り、自転車は坂を上っていく。
ガードレール沿いの道を逸れて、舗装のない小道を抜け辿り着いたのは、木々に囲まれた馴染み深い、懐かしい場所。小高い山の中腹辺りにあるそこは、ゆかりが住む町の様子を一望できる。
昔から、一人になりたい時や、嫌なことがあった時は、決まってここで時間を潰したものだった。人もおらず、ゆかりだけの小さな空間から景色の様相を眺めていると、心が落ち着いて、少しだけ元気になれる。
ここ最近は来ていなかったが、最後と来た時とそう変わっていない。
自転車から降り立ち、ケヤキの木の傍に停めると、葉叢と葉叢の間から町が見える場所へ歩く。しばらくの間肩で息をして、何度か深呼吸。そして、町に向かって思いっきり吠えた。
雄叫びだった。言葉に変換できない、この複雑に絡み合って解けない塊を、とにかく外に出したかった。
何秒が過ぎたのだろう。息が続く限り、言葉にならない音を叫び続けると、ゆかりは近くの木にもたれかかり、そのままずるずると座り込んだ。
引きこもって部屋から出てこない兄。一見相手を尊重しているように見えて、自分の考えを押し付けるばかりの母。仕事ばっかりで家族を顧みない父。そして、いつまでもうじうじとして、芯もなく、誰かを羨むことしかできないゆかり。
碌な一家じゃないし、そんな家の下に生まれたんだから、こんな自分であるのは当たり前じゃないか。
そう思うと、何だか今度は可笑しくなって、乾いた笑い声を、そして段々と大声をあげて笑い出してしまった。
何をやっているんだ、と思う。ずっとこのままでいいのか、とも思う。マキを見て、変わらなきゃと思った。けれど、ゆかりは変わる勇気がなかった。踏み出すという行為がとても恐ろしいのだ。
それがとても情けなくて、馬鹿馬鹿しい。笑うしかなかった。
ふと、落ちる花が目の前を通った。
ひらひらと、花は右へ揺れ左へ揺れ、そしてゆかりの足元へ落ちる。
──落花。
落花意有りて流るる水に随い、
流水情無くして、落つる花を送る。
思い出されたのは花代の言葉。あの言葉が何を意図したものであるのか、ゆかりには分からない。しかし、額面通りに受け取るならば、まるで自身はただ流れるだけの水なのだと、ゆかりは思った。
目の前の花のように、自ら自然に散る花にはなれはしない。自らの道を進む誰かを見送り、他の誰かに流されて自分を決めていく、中身のない人間なのだ。
そんな考えに納得してしまう自分が、ただただ悲しかった。
そんなゆかりのマイナス思考を断ち切るかのように、ポケットから気の抜けた、軽快な音がする。
トークアプリの通知音だ。マキからだった。
ヨシキ君と合流できたこと。今からデートすること。また、明日もよろしくね、ということ。概ねそんな内容だ。
──もっと気ままに生きてこーよ! ゆかりが思ってるよりも、もっと私たちは自由になれる!
マキの言葉を、思い出した。
気ままに生きる。自由になれる。どちらも今のゆかりに足りないものだ。
「自由に、なれる……」
そうなのだろうか。そうなのかもしれない。
ゆかりの世界は、小さく狭い。あの家と、学校と、その通り道がゆかりのほとんどだ。自らの殻に引きこもるためだけの世界。閉じこもるだけの世界。
けれども、ゆかりはこの時初めて、外へ出たいと少しだけ思った。
信じてくれている花代からの言葉。憧れたマキからの励まし。その期待に答えたいと思った。彼女たちのように、自ら散り落ちていく花になりたいと思ったのだ。
始めの一歩は何から始めるべきだろう。
そんな疑問への答えは、不思議と既に出ていた。
ゆかりの心は、どうしたらいいか何となくわかったいた。
立ち上がり、お尻についた土を掃い、調査用紙を鞄から取り出す。目の前に広げると、それは真っ白なまま。白紙のままのちっぽけな紙だ。それを半分に折る。更に折って、折って、折り続けて、出来上がったのは小さな紙飛行機。よく飛びそうだ、なんて感想をゆかりは抱いた。
ゆかりはもう一度、町を見た。雨は何時の間にか止んでいた。雲はちぎれ、青空がのぞくその下に、虹が出ていた。陽の光が照らして町全体が輝いているようであった。
町に向かって、えい、と紙飛行機を投げる。
白い飛行機は風に乗って、真っ直ぐ眼下の町へ、虹の下へ飛んで行った。その様子を見て、どこか肩の力が抜けるのがわかった。
もうすぐ梅雨は明け、夏が来る。
毎年蒸し暑く、嫌になる時季だ。けれども、少しだけ今は待ち遠しい。
夏が来る。新しい夏が。
ゆかりは自転車に乗ると、家に向かってペダルを漕ぎだした。坂を気ままに下っていく。
帰ったら先ずは母に謝ろう。そして、もう一度話してみよう。今度は自分から声をかけよう。
踏み込むペダルは少しだけ軽かった。
夏が来て、そして花となる 雪宮千歩 @sorasunif
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