とんがり頭のおっさん

可愛いうさぎ

とんがり頭のおっさん

 人は嘘つきだ。 

 人は得てして心にもないことを平気で言える嘘つきである。そして、往々にしてその嘘というのは保身や虚飾のためであって、嘘の上手さに関わらずバレないようにつこうとするものだ。

 だが、時に人は別にバレても良い嘘をつくこともある。つまり、保身や虚飾のためではない嘘だ。時に――と言っても、これはまた人同士の交わりが複雑怪奇であることを考えると、個々のケースを列挙するにはあまりにも数が多すぎて難しい。互いの関係がハッピープラスになる素敵な嘘もあれば、互いの関係がどん底マイナスになる大変悲しい嘘もある。

 ちなみに、俺が体験したのは、どん底マイナスの方だ。

「ごめんなさい。あなたのことは好きだけど、やっぱり自分の気もちには嘘をつきたくないの。……だから、あなたとは結婚できない」

 そう言ったのは、俺の婚約者である彼女――訂正――元婚約者であった元彼女であり、元彼女がついた嘘というのは、俺への「ごめんなさい」である。

 俺と結婚できないというのは本当のことであって、元彼女は言葉通り自分に嘘をつきたくないから、『浮気』という最悪の方法で生涯のパートナーになるはずだった俺を裏切り、とりあえず形として言葉だけで俺に謝ったのである。

 そもそも、俺が元彼女の浮気を発見したのは、休日出勤をしていた日曜日、昼ごろから急に体調を崩し始め熱も出てきたので仕方なくイヤミたらしくねちこい小言の多い部長に事情を話し、イヤミたらしくねちこい小言を受けながらも大事をとって自宅に帰ってきた時のことだ。

「――ああっ! いく、いくっ! おちんぽ……ふかっ、いいっ。私、もう、飛んじゃう~っ! ああっ、もう駄目! 死んじゃう! 凄すぎて死んじゃうのぉっ! はやく、はやく! ちんぽでっ、殺ひてっ! おねが、んんっ、あ~~~~!」

 熱で意識が朦朧としながら寝室に入った俺を出迎えたのは、ベッド(シモンズ製。俺がボーナスで買った)の上で元彼女が某男性ダンスボーカルユニットにいそうな金髪男にガンガンと腰を突かれながら意味不明な嬌声をあげている場面だった。

 熱で意識が朦朧としていた俺は、その光景を上手く飲み込むことができず、そのまま意識を失い倒れてしまった。気がつくと病院のベッドで寝ていた。

 かくして、俺は元彼女の浮気を知り、具体的な二人の今後についての話し合い――要は別れ話の中で前述の台詞をありがたくも賜ったのである。

 心優しく常識的な考えを持つ方ならば俺に共感してくれるだろう。この元彼女の俺への「ごめんなさい」が明らかな嘘だとしか思えない心情を。

 一緒に住んでいる男女にとってもっとも重要なスペースは寝室だ。互いが無防備になり互いが寄り添い、もっとも長い時間を過ごす神聖な空間だからである。にも関わらず、元彼女は二人の寝室のベッド(シモンズ製! 俺がボーナスで買った! 三十万以上もした!)の上で、間男とよろしくやっていたわけである。そんなビッチの謝罪をいったいどこの誰が信じるというのか。イエスだって痰を吐きかけるレベルだ。いや、イエスはビッチにも寛容だったらしいから、信じはしなくても慈悲と哀れみをもって説教をするだけかもしれない。イエスはやっぱり偉大だ……。俺の中の器のでかい男・第二位は伊達じゃない。ちなみに一位はラオウだ。

 だが、俺はイエスでもラオウでもない。だから当然、烈火の如く怒り狂っていた。元彼女にしても自分の嘘に俺が騙されないことはわかっていたはずだ。それでもバレバレな嘘をついたのは単純に俺のことをコケにしていたからである。その証拠に、元彼女は次にこう言った。

「お金ならちゃんと払うから……あなたもあなたの幸せを早く見つけて」

 お金ときた。慰謝料ではなく、オブラートに包まずお金ときた。お金で水に流せときた。俺は「ふざけるな!」と叫んだ。叫んだつもりだった。だがなにも言葉にすることができなかった。

 日本は法治国家だ。刑法に触れないのであれば個人間のトラブルは民法によって全て解決される。その最大の和解手段がお金だ。つまり金によって全てを水に流しなさいと国が決めているのである。俺は浮気の被害者で元彼女に慰謝料を請求する権利がある。そして、俺が請求する前に元彼女は自分から払いますよと宣言した。すると、どうなるか? 俺にできることはお言葉に甘えてお金を受け取るか、おまえのようなビッチの金なんかいらねえよ! と男らしく突っぱねるかの二択である。

 前者はあまりに情けなく、見方によっては被害者なのに加害者から誠意ではなく施しを受ける立場に転落しようだ。一方で後者は大変男らしい。そう言えたら実にスッキリすることだろう。だが、待って欲しい。そうなると俺はなにも貰えなくなるわけだ。被害者なのに。

 これは実に巧妙な思考の罠だった。まさか、こんな罠を仕掛けられるとは思わなかった。

 冷や汗を流しながら黙り込む俺に、元彼女は畳み掛けるようにこう言った。

「あ、お金のことなら心配しないで。実はね、黙っていたんだけれど宝くじが当たったの。五千万。だから、常識の範囲内でならお金はちゃんと払えるから」

 それは俺の心を圧し折るのに相応しいだけの威力を秘めた言葉だった。宝くじで五千万を当てたなんて話は今日に至るまで知らなかった。

 ……五千万? 五千万!? 

 もはや、俺はただ「……あ、ああ」と頷くことしかできなかった。

 後日、元彼女の両親が退院した俺の元へ謝罪に来た。二人ともに部屋へ上がるなり、床へ額をこすりつけて詫びの言葉を叫んだ。それはそれはお手本にしたくなるほどに見事な土下座だった。だが、俺は質実剛健を旨としていたはずの元彼女の父親の腕時計がオバックからロレックスにかわっていることを、得意料理は肉じゃがなのよと笑っていた元彼女の母親の指にダイヤの付いたティファニーのデザインリングが嵌っていることを見逃さなかった。

 今更ながらであるが、この両親あってこそのあの娘なのだと、俺はようやく心の底から理解できた。理解できたから、少しだけ前向きになることができた。

 あんな女と結婚せずに済んだことを、こんな養父と養母を持たずに済んだことを、喜ぶべきなのかもしれない。なに、受けた精神的苦痛の分は腕の良い弁護士を探して慰謝料をガッポリ貰い、それで水に流してやろう。その金で新しい部屋に引っ越して新しいシモンズ製のベッドを買えば良い。そうだ! せっかく一人身に戻ったんだし、仕事にももっとやる気を出してみよう。これまでは適当なポジションでのらりくらりとやれればいいと考えていたが、これからはもっと上を目指してみよう。男ならやっぱり仕事に生きるべきだ。

 そう考えられるようになった矢先に、会社が不渡りを出し倒産した。この厳しいご時勢だ。会社が倒産することだってある。それはわかっている。だが、このタイミングはあんまりではなかろうか? しかも俺を裏切った最低の糞ビッチは宝くじで五千万円も当てているのに、俺はこのザマなのだから、もはや神の悪意すら感じる。

 だから、俺は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。

「おお天よ、なぜそうも私を憎まれるのか! ファッキンブッダ! ファッキンジーザス!」

 俺の中のイエスは株価ストップ安。器のでかい男・第二位は三位から繰り上がったソクラテスとなり、ラオウと仲良く肩を組んでいる。そして往来で叫び続けた俺はお巡りさんにしょっぴかれることになった。お巡りさんたちは俺の話を親身に聞いてくれ同情もしてくれた。俺は人前で恥かしげもなくオンオンと泣いた。それから指紋を採取され写真を撮られた。これで晴れて俺もお巡りさんさんたちのもしもの時リストに仲間入りである。

 まったくもって、この世は生き地獄だ。なにもかもが嫌になった俺は、この世からバイバイすることを決めた。アディオス・アミーゴ。俺はもう飽きたんだ。お前らはまた別の敵をみつけ戦い続けるがいい。

 そんなこんなで、リュックにコメリで買ったロープと昨日の晩に書いた遺書を入れ俺がやってきていたのは、近隣の山中にある自殺の名所と噂されている森だった。自殺をすると決めた時点で、その方法について悩んだが、俺は結局首吊り自殺を選んだ。首を吊ることに特別な思い入れがあったわけではなく、単純にこれが一番他人への迷惑にならないと考えたからだ。

 自宅での練炭自殺やガス自殺は火事の原因となる恐れがあり、なにより部屋で死者が出てはマンションのオーナーが困るだろう。また飛込み自殺や飛び降り自殺も多くの人に迷惑がかかるし、他人を巻き込む恐れもある。だから俺は、森の中で首を吊って死ぬことにした。端から自殺の名所と言われている場所であるのなら、今更一人自殺者が増えたところで特定の誰かがそう困ることはあるまい。まあ、自殺をするという時点で必ず誰かに迷惑がかかるのは間違いないのだが、そこはできれば大目に見てもらいたい。田舎の両親にも申しわけないが、それはできるだけ考えないようにした。

 さて、時刻は夕方の五時半ば。ついこないだまでは八時になるまで明るかった空も、ずいぶんと日が沈むのが早くなった。茜色の日に照らされた森の中はどこまでも儚げで寂しく感じる。吹く風も冷たく、俺は手ごろな死に場所を探すために早足で歩いていた。

 しばらく眺望の利かない道なき道を歩いていると、開けた場所に出た。ここならいいかもしれないな、そう思った俺は立ち止まった――のではなく固まった。その場所に先客がいたからだ。そいつはでっぷりと肥えた五十歳ほどのオッサンだった。しかも頭が尖っている。端的にヴィジュアルを伝えると、某少年名探偵が活躍する作品に出てくる鰻重が大好きなアイツだ。いや、流石にアイツほど化物じみたフォルムはしていないが、だいたいあんな感じだ。

 オッサンは地面に座りながらぼんやりと茜色から紫色に変わりつつある空を眺めている。ふと、オッサンがこちらを見た。固まっていた俺とオッサンの視線が絡み合う。オッサンは肉に埋もれた目を丸くした。そうやって互いに見つめ合う気持ち悪い時間が経ち、どうしたもんかと悩んでいると、オッサンの方から「あの~」とおずおず声をかけられた。

「ひょっとして……あなたもコレですか?」

 そう言って、オッサンは握り拳二つをあごの下に置いた。明らかに首吊り自殺を示すジェスチャーだ。『これから一杯いきませんか?』や『これからパチンコですか?』といったどこでも伝わるお約束のジェスチャー感覚で首吊りを示されても困るが、実際にその通りであるし、なによりどうやらこのオッサンもお仲間のようなので、俺は「ええ、まあ」と肯定した。するとオッサンは、眉尻を下げて「そうですか」と悲しげに頷いた。

「私もコレなんですよ」

 オッサンはまた握り拳二つをあごの下に置いた。

 どうでもいいが、このジェスチャー、見様によってはぶりっこの女が「頑張るぞ!」と言っている時のポーズにも見えなくない。……最悪のイメージをしてしまった。しかし、オッサンもここで死ぬつもりなのか。なら、後から来た俺は別の場所に移るべきだな。

「……ああ、そうなんですか。ええと、じゃあ、俺は別の場所に行きますね」

 俺が立ち去ろうとすると、オッサンは「いやいや、私が別の場所に移りますよ」と呼び止めてきた。「ここまでそれなりに歩かれて疲れたことでしょう。私はここで休んでいて体力も回復したので、動くなら私が動きますよ」

「いやぁ~流石にそれは……」

「どうぞどうぞ、ご遠慮なさらず」

 そんな、部下が上司に酒を注ぐ時のような口調――「ささ! 部長! どうぞどうぞ!」で場所を譲られても困る。それに自分よりも二十も年上のオッサンに体力の心配をされるのも癪だし、素直に厚意に甘えるのはどうにも収まりが悪い。

「いえ、御厚意は大変嬉しく思いますが、ここはやはり私が別の場所に行きます」

 俺は丁寧な口調で、それでも頑としてオッサンの厚意に甘えるつもりはないことを態度で示した。だが、オッサンの方も譲れないものがあるのか、それとも単に鈍いのか、「いやいや私が」と繰り返し、俺の方も俺の方で「いやいや私が」と繰り返す。そういう押し問答を続けて、お互いに「困ったなぁ」と頭を掻いた。

「ああ、ではこうしましょう」とオッサンが提案する。「あなたも少し、ここで休まれていかれてはいかがですか? それで疲れが取れたら別の場所に移動する。もし、ここから動くのが面倒になったら私が移動する。そういうことでどうでしょうか?」

 実際のところ、慣れない山道を歩いて疲れていた俺は、オッサン案で妥協することにした。

 じゃあ、とオッサンから少し離れたところで座り込んだ。

「ああ、そうだ。これもなにかの縁ですし、よければあなたもいかがですか?」

 オッサンはゴソゴソと傍に置いてあるリュックから缶ビールを取り出した。俺は思わずゴクリと喉を鳴らす。季節はすっかり秋めいて気温も涼しく快適だが、ここまで歩いてくるのに多少の汗も流した。できれば、喉を潤したい。

「いいんですか?」と俺が聞くと、オッサンは「どうぞどうぞ」と缶ビールを手渡してきた。

「……それでは、お言葉に甘えて」

 俺はプルタブをプシッとやりビールを喉に流し込んでいく。キンキンに冷えていたビールの細やかな泡が喉を刺激し、鼻腔に爽やかな麦の香りが広がった。

 ……これは、たまらん!

「かーっ! これ! キンッキンに冷えてますね!」

「ええ、実は、リュックサックに保冷材を入れてきたんですよ」

 ほら、とオッサンがリュックを開くと確かに保冷材の中に何本かのビールが埋もれている。その端でちょろりとロープの先が覗いていた。

「はぁ~、保冷材ですか。しかし、たくさんビールを持ってきましたね」

「ええ、私はこれが大好きでして。せっかくだから死ぬ前にたらふく美味いビールを飲んでおこうかなと」

 なるほど、と俺は頷きビールをまた喉に流し込む。うむ、実に美味い。

「それに、アルコールは痛覚を鈍くしますからね。首を吊って死ぬのは一瞬で終わるそうですが、実際はどうかわかりませんから。必要以上に苦しむのは御免こうむりたい」

 なるほど、と俺は頷きビールをまた喉に流し込む。うむ、美味さ半減。

「そういえば」オッサンはビールをグビリとやって言った。「日本の死刑方法は絞首刑ですが、稀にすぐに死なずに耐えられる人がいるそうですよ。そういった場合は、恩赦が出るのだとか。私の聞いた話ではだいたい五分ぐらいだそうです」

「それ、デマですよ」私はすかさず言った。「都市伝説です。絞首刑は医師立会いのもと行うので死亡が確認されるまで降ろされることはありません。そもそも、人間が首吊りに耐えられるわけがありませんし、仮に耐えられたとしても、それで恩赦が出るという理屈には繋がりませんから」

「なんだ、デマだったんですか! これはお恥かしいことを」オッサンは面積の広いデコをペチンと叩く。「しかしまあ、世の中には罪を犯して死刑を宣告される者もいれば、私たちのように罪を犯したわけでもないのに自分から死を選ぶ者もいて、なんというか本当にままならいものですねぇ……」

「……そうですねぇ」

 俺はオッサンの言葉にため息をつき空を見上げた。空はすっかり暗くなり月の光だけが周囲を照らしている。

「暗くなりましたね。明かりを点けましょうか」

 オッサンはリュックの中から懐中電灯を取り出した。俺も倣ってリュックを探るとずっと前に入れてあった懐中電灯が見つかった。それから、二人してどこへなくと光をゆらゆらさせながら、色々なことについて語り合った。オッサンと会話をしている中で、俺は話し相手に飢えていた自分に気がついた。話が弾むこと弾むこと。これで相手がオッサンじゃなくて可愛い女の子なら申し分ないのだが。事実は小説よりも奇なりと言うが、事実は小説のように綺麗にはできていないものだ。

「ところで」話すネタについて記憶をほじくる必要が出てきた頃、オッサンがこちらを見返しながら言った。「あなたは、なぜ死のうと?」

 それは、と出掛かった言葉を飲み込んだ。死のうとしている理由を話すことは嫌ではない。それにオッサンの理由も気になる。オッサンが言ったようにこれもなにかの縁だ。ここいらで互いの自殺する理由を共有するのも悪くは無い。

 だが、と俺の中でなにかが異を唱える。それは俺の中のなけなしのプライドだった。自殺をしようとしている大の男二人が、最後に互いの傷を舐めあうのはいかがなものだろうか?

「それは……やめておきましょう」

 やんわりと断ると、オッサンも察するものがあったのだろう「そうですね」と視線を外した。もう十分過ぎるほどに休んだ。俺は本来の目的のためにこの場を離れようと腰に力を入れた。

「ああ、ではこうしましょう」とオッサンは二度目の提案をした。「互いの遺書を読み合うというのはいかがでしょうか?」

 残念! オッサンはなにも察していなかった! 俺は内心で「このトンガリ頭め!」と毒づいた。

「いや、それだと同じでしょう。はっきりと申し上げますと、いくら親しくなったとはいえ今日出会ったばかりの相手に、自分の最も柔らかい部分を晒すのは男としてどうかと私は思っているのです。男子たるもの腐っても軽々しく腹を見せるべきではありません」

「はい、その点については私も同感です。ですが、よく考えてみてください。遺書というのは私たちが最後に現世へ残すメッセージです。だからこそ、その内容はどのようなものであれ、正しくないといけない。要は、誤字脱字や間違った言葉の使い方をしていたのでは恥かしいので、互いに校正をし合わないかということです」

「いや、おっしゃることはごもっとですが……」

「では、お書きになられた遺書に間違いがないと自信がおありで?」

「そういうわけでは……」

「では、あなたは自分の遺書がどう思われても構わないのですか? 警察や残された家族の方々、その人たちに『ああ、こいつは最後の最後でもしくじる男だった』と思われても耐えられるのですか? 私なら耐えられません。例え、死んだ後だとしても、誰かから馬鹿にされるのは、想像するだけであまりにも辛いではありませんか」

 俺はオッサンの言葉に唸った。オッサンが言うことはもっともだ。遺書はしっかり書いたつもりだが、それが完璧であるかと問われると肯定することはできない。己の中だけのプライドを取るか外へのプライドを取るか、という話になれば当然選ぶべきは後者である。

「わかりました」

 俺とオッサンは遺書を交換した。だが、オッサンの遺書をすぐに開くことはできなかった。俺の遺書が気になって仕方がない。まるで意中の相手に告白をして返事を待っているような気分だ。相手はオッサンなんだけれども。読まれているのは恋文ではなく遺書なんだけれども。

 オッサンは真剣な面持ちで紙面と睨めっこをした後、顔を上げた。

「読み終わりました」

 どうでしょうか? と俺は緊張しながら訊いた。

「文章として特におかしなところはありませんでした」

 俺は安堵の息を吐いた。だが、オッサンは続けてこう言った。

「ただ、この遺書はいけませんなぁ。いやぁ、実によくない」

「は?」俺はオッサンの言葉の意味がわからず首をかしげた。「よくないというのは、どういう意味で?」

「言葉通りの意味です。先ほども言いましたが、遺書とは死ぬ者が現世に最後に残すメッセージです。なのに、この遺書からは、あなたが誰になにを伝えたいかがまるでわからない。確かに、文章としては綺麗にまとまっている。ですが、全体的にふわふわとしていて要領を得ず、また恥があるのか死ぬ動機についても曖昧に過ぎる。これでは、生前のあなたの苦悩というのがまるで見えてこない。これならいっそのこと、『もう疲れたので死にます』と一言だけ書いてあった方が清々しくてインパクトがある。あるいは、あらゆる罵詈雑言を書き殴った内容の方が共感も同情も抱けるでしょう。とにかく、これは良くない」

 立板に水とはこのことだ。俺はオッサンの酷評の奔流にしばし呆気にとられていたが、やがて我に返りふつふつと怒りをたぎらせた。

「なぜ、あなたにそこまで言われなければいけないんですか!? これはただの校正だったはずでしょう!」

 俺が怒鳴るとオッサンはびくりと肩を震わせ、それから「申しわけありません!」と地面に手をついた。

「本当に失礼なことを申し上げました。ただ、私は編集者をやっていたものでして、それでつい……。職業病というかなんというか……」

「だからって!」

「本当に申しわけございません! どうかご容赦ください!」

 額を地面にめりこませながら詫びるオッサンに、俺は怒りのやり場を無くした。だが、もやもやした思いはまだ胸にわだかまっている。これでは死ぬに死ねない。

 ……こうなったら、俺もオッサンの遺書に難癖をつけてやる。悪いのは最初に俺の遺書を馬鹿にしたオッサンの方だ。俺は顔がにやつきそうになるのを抑えながら封筒から便箋を取り出し紙面に目を走らせた。どんな小さな粗でも見つけてやるという意気込みで、それはもう、まるで飢えた獣が獲物を捜し求めるような貪欲さで文字を追い続ける。

 ……やがて、俺の目からはぽつぽつと涙がこぼれ始めた。

端的に言って、オッサンの遺書は『完璧』だった。創作物でもない遺書に対して『完璧』というのも非常におかしな話なのだが、実際にそうなのだからそう評価するしかない。

 淡々と並べられた文字により紡がれる人生は、最初から最後まで、その文章と同じく平易なものだった。だが、素朴でありながらも、いや華やかさがないからこそ、同じ持たざる者として己の身の上と重ね合わせ、ただただ悲しみが胸に押し寄せてくる。

 冬の枯れ木に残った最後の一枚の葉。去り際を見誤った者は周りから憐れまれるだけであり、無様で寂しい。この遺書はその諦観を雨だれのように伝え、読む者の心に筆者と同じ穴を開ける。……もはや、俺のちっぽけなプライドなど関係はなかった。

「なぜ、泣かれているのですか?」

 驚いた顔をしているオッサンに、俺は涙を拭いながら答えた。

「これほど胸を打つ文章を読んだのは生まれて初めてでした。確かに、あなたのおっしゃる通りだ。遺書とはこういうものなのだと、その本質を理解することができました」

「……過分なお言葉です」オッサンは恐縮したように頭を下げた。「実は、若い頃は小説家になることが夢だったんです。ですから、最後にそのようにお褒め頂き報われました」

「そうでしたか。それにしても、これほどの文才を持たれている方が、これまで日の目を見ることがなかっただなんて。……実に惜しい」

「そう思って頂けますか?」

「ええ。本当に惜しいと思います。できることなら、あなたの作品が多くの人に読まれる日が来てほしかった」

「わかりました」オッサンは頷いた。その顔はどこか憑き物が落ちたようでもある。「では、死ぬのをやめます」

「は?」俺はオッサンの言葉の意味がわからず首をかしげた。「え?」全くわけがわからない。「今なんと?」

「ですから、死ぬのをやめると言ったんです」オッサンは持ってきていたものを片付け始める。「あなたの言葉で目が覚めました。やはり、人は簡単に命を捨ててはならない。私は生きてもう一度夢を目指すことにします。あなたもまだ若いんですから、自殺だなんてやめられた方がいいですよ」

 それでは、とオッサンは俺が呆然としている間にスタスタと歩き去っていった。

 ポツンと残された俺は、オッサンの姿が見えなくなった後、ようやく自分が騙されていたのだと悟った。オッサンは最初から死ぬつもりなんてなく、俺のような奴をからかって遊ぶためにここいたのだ。そうでなければ、あんなに簡単に死ぬことを止められるものか。

 なんたる悪趣味! 

 怒りに駆られた俺は立ち上がりオッサンの後を追うことにした。

「前歯全部折ってやる!」

 だが、駆けだそうとしたところで、俺は動けなくなった。

「うわっ!?」

 驚いた声をあげたのは、繁みの中から現れた一人の青年だ。俺もまた驚いたが、同時に彼が俺と同じ理由でここに来たのだとすぐにわかった。暗い森の中、ライトに照らされた顔は生気が薄く、今にも闇に溶けて消えてしまいそうだからだ。きっと、俺も同じような顔だろう。思い返せば、あのオッサンもこんな雰囲気だったかもしれない。

 ……思い返すとおかしな話だ。あのオッサンが俺を騙したのは間違いない。だが、それは本当に悪意だけの行為だったんだろうか? なにか別の意味があったのでは?

 そこまで思い至り、俺は天啓を得た。俺の前には新たな自殺目的の青年がいて、俺の手の中にはオッサンが持っていた『完璧』な遺書がある。

 なら、俺がすることは一つしかない。

「ひょっとして……あなたもコレですか?」

 そう言って、俺は握り拳二つをあごの下に置いた。

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