2023年7月26日
あるホテルで感染病が急速に拡大した。
感染者は正気を失い、歩く屍のようで腐臭と感染源を撒き散らしながらホテル内を徘徊していた。
一方で、感染したにも関わらず正気を保っている者たちもいた。ごく一部に過ぎないが、彼らの手によって感染病はホテル別館内で留まっていた。
自分もそのうちの1人であった。
どこで見つけたか覚えていない刃物を感染者相手に振り回す。
目が合えば伸ばしてくる腕を切り落とし、可動域を超えて開いた口に刃先を突っ込んだ。
やっていることは凡そ人殺しと変わらないため、倫理観が緩んでいく。こんなもの虐殺と大差ないな、と思いながら足を進めた。
ふと、目線を下げると手の皮膚と刃物の柄が癒着し一体化しかけていた。感染したことで皮が柔らかくなったのだろうか。通りで手に馴染むと思った。
そのうち、自分の手から刃物が生えているような形になっていくかもしれない。そう遠くない自身の未来予想図に少し笑った。実際、口角が上がったかは不明である。
倫理観の他にもいろいろと緩みきってしまったようで、廊下を1歩ずつ進んでいく事に考えては忘れるを繰り返していた。ここでまた1人、感染者を仕留めた。
頭を真っ二つにしようとしたのだが、首に刃が入ってしまった上に骨に遮られて上手くいかなかった。おかげで何度も相手の首に刃物をぶつけることになった。
バッティング練習でもここまで振り下ろすことは無いだろう。
バッティングって何だっけか。
あぁ、そうだ。スイカ割りにも似てるな、とも思った。
動かなくなった屍を廊下の隅に寄せて、また歩き出す。目的があったような気がするも思い出せずに、宛もなく彷徨いているといった現状であった。
今、自分がどこにいるのかもよくわからないまま、なんとなく左に曲がる。そこは随分と開けた空間で数多の感染者達が一斉に自分を見た。
そこからはもう切って殴って蹴り落として、たまに投げて。大乱闘もいい所であった。正確には一対多数なのでリンチに近いかもしれない。
ずっと手と一体化した刃物を振り回し続けていると、次第に自分以外に立っている者がいなくなっていった。
この感染病の唯一の利点は、どれだけ動き回っても息が上がらないところだと自分は思う。脈拍は常に一定で、汗1粒すら流れ落ちない。
そもそも現時点で自分の血流や代謝が正常なのか怪しいところだが、とにかく疲労感というものに対して鈍くなっていた。
しかし感覚が鈍くなっているだけで疲労は溜まっているようだ。
五体不満足の屍で埋め尽くされた床を眺めながら、しばらくぼんやりしていた。先程よりも思考が上手くまとまらない。眠いのかもしれない。座りたいような気もする。
自分は恐らく、もしかして、疲れているのかもしれない。
細く長く息を吐いた時、「あの、」と声を掛けられた。久々に人の言葉を聞いた。驚きつつ声のした方を見ると感染者特有の顔をした男が片手を挙げて自身の存在を主張した。
その片手には自分と同じく刃物が癒着しており、互いに似たような環境を生き長らえたのだと妙な親近感が芽生えた。
男は尋ねた。
「相棒を見ていませんか?」
あいぼうとは何か今の自分にはわからなかったので、近くに落ちていた脚を拾って「これですか?」と男に投げ渡した。
脚を受け取った男はしばらく呆然としていたが、やがて顔を歪め人とは思えない言葉を発し始めた。もはや言葉ではなく声でしかない。
脚を抱えた男は、1歩ずつ歩き始めた。どこへ向かおうとしているのかは知らないが、正気を失ってしまった様子なので近づかない方がいいだろう。せっかく言葉が通じる者に出会えたというのに残念だと思った。
急に正気を失った男は、数歩ほど歩き床の下に落ちていった。床が腐って穴でも空いていたのだろう。やはり彼に近づかなくて良かった。
これだけ立派なホテルでも床に穴が空くこともあるだろう。
原因はよく分からないが、落胆した感情が奥歯に引っかかったまま自分は歩き出した。ついでに奥歯が抜けていたらしく、邪魔になったので床に吐き出した。
口内から解放された歯は、様々な液体が染み込んだ上質な絨毯の上に音もなく転がった。
夢の話 かさごさか @kasago210
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