ほどけよ、炭酸
三津凛
第1話
恋って、口の中で弾け飛ぶ炭酸みたいなものね。
祐子は誰かの影をなぞるようにして、唇を開く。私は肩に乗せられた祐子の重みを目を閉じて味わう。甘ったれた子犬がむずかるように、祐子は頭を微かに振る。
「子どもじゃないんだから…どうしたの?」
祐子は黙って黄昏ていく公園を見つめ続ける。夏休みもあと少しで終わる。祐子が2週間のイギリス留学から帰ってきたのは昨日のことだった。まだ時差ボケが辛いのか、頰を微かに染めて眠そうにしている。
「イギリスはどうだった?」
「…楽しかったよ」
「よかったじゃん」
「よくないわ」
祐子の視線は海を越えてイギリスまで捉えようとしているように見えた。軽々しく、「何があったの?」とは聞けないような頑なさが漂っている。
恋って、口の中で弾け飛ぶ炭酸みたいなものね。
会うなり祐子が呟いたひと言を思い出す。
ふうん、そういうことか。
ほんの少し、祐子の背は伸びたようだった。私は空っぽの自分の手を閉じたり開いたりした。無性に哀しくて、ふと空を見上げる。
「ねぇ、祐子」
「なあに」
「日本の空も、イギリスの空も同じ空なのに、どうして日本の夕方ってこんなに寂しいのかな」
祐子が顔を上げる。初めて気がついたように、うん、と頷いた。
何かがほどけたのか、祐子は少しずつ唇を開きだした。
「初めて、ビールを飲んだの」
「えっ」
「ばーか、イギリスでは18歳からお酒が飲めるの」
私はへぇ、と頷く。祐子は愛おしそうに目を細める。
私と祐子は紙を挟む隙間もないほど間近にいるのに、こんなにも遠い。それは祐子がイギリスのお酒や風を知っているだけではない。私は無性に寂しくなる。ちょうどこんな風に黄昏ていく、日本の夕方のように気持ちが沈む。
「向こうで仲良くなった女の子に連れて行ってもらったの。私なんて、まだまだ痩せっぽちで子どもだった」
私は横目で祐子の顎の線を眺める。まだ硬さのいくらか残る、滑らかな線描。私は指を伸ばしたくなる衝動を抑えた。
「…そこで、ビール飲んだの。苦いだけで全然美味しくないって思ったわ」
私も、正月に父が注いだままのビールを少しだけ舐めたことがある。苦いだけの炭酸。あれがいつか恋しくなる時が本当に来るのだろうか。
「それでね、その女の子が…すっごく綺麗で大人っぽい子なんだけど…口移しでビールを飲まないかって誘って来たの」
祐子は頬杖をつく。微かに脚を揺らしてため息を吐く。
嫉妬の味も苦い。
私は胸にせり上がってくる唾液を飲み込んだ。
「不思議よね。同じビールなのに、全然違うの。誰かの口を通しただけなのに…だからなのかな。炭酸は抜けて、不味くなってるはずなのに、苦味だけなのに、忘れられないの」
祐子はちょっとだけ寂しそうな顔をした。
もう子どもではいられないの、分かるでしょ。
恋って、口の中で弾け飛ぶ炭酸みたいなものね。
そう言いたげな目の色と唇の歪みに、私は自分でも思ってもみないことを言っていた。
「そんなにその感覚が忘れられないなら、私ともやってみる?」
「え?」
「…さすがにビールは無理だけど、コーラならあるわ」
私は真っ直ぐ自販機を指差す。
「うん」
もっと意外なことに、祐子は素直に頷いて自分からコーラを買った。
祐子は無言でコーラを口に含むと、そのまま私に流し込んだ。
炭酸はほどけて、その欠片すら残ってない。べたべたと甘いだけ。やっぱりこれは子どものための飲み物だった。
「…一度口に入ると炭酸って抜けるのね」
私は動揺を悟られないように、わざと明るい声を出す。
「今度は私にしてみてよ」
祐子がどこか煽るように私に言う。私は淡々とした風を装って、コーラを口に含む。炭酸が弾けて、一瞬だけむせそうになる。
そのまま目を閉じて、祐子の唇に自分の唇とコーラを押し付けた。規則的な喉の拍動が不思議と心地よく身体の中に響いてくる。冷たくなった祐子の舌が一瞬だけ私の舌と絡まった。
「…どう?」
「似てるけど、似てないわ」
祐子は気まずそうによそを向いた。
そのままもう私の方は向かないのかもしれないな。
私は飛んでいく鳥を思い浮かべた。いつまでも鳥籠の中で鳥は飼えない。
私は一足先に大人の味を知った友達の見えない顔を思い浮かべた。
祐子って、どんな顔をしていたっけ。
甘いだけのコーラがよみがえる。似ているけど、似ていない。
同じように炭酸の抜けた、口移しで味わった飲み物なのに、こうも違う。
私は虚しくなって、寂しいままの空を見上げる。何かが変わったようで、何も掴めなかった。
祐子が不意に振り返ってぽつんと呟いた。
「ほどけよ、炭酸」
ほどけよ、炭酸 三津凛 @mitsurin12
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