団子虫
鹽夜亮
第1話 団子虫
さあ今日は会社を休もう。
そう決めたのは早朝七時、目が覚めたばかりの瞬間だった。
特に理由などない。もしかすると、巷で流行の五月病というやつかもしれない。だが、まあ私のことだ、ただの気まぐれだというのが実のところだろう。休むと思いつけば行動は早く、早速上司へと電話をかける。
「ええ…熱がありまして…。はい。もちろんです…はい。……」
嘘というのは、存外すらすらと口から出て行くものだ。現世に生きていて、地獄送りになるものはさぞ多い事だろう。閻魔もわざわざあれやこれやと悪行を吟味する必要がなく、仕分けの仕事が楽かもしれない。流れ作業で片っ端から地獄へ送っても、ほとんど間違いはないだろう。
電話を終えた私は、まず今日、何をしようかと考えた。遠出はダメだ。万が一会社の関係者に知られれば、面倒なことこの上ない。ならば、一日寝て過ごそうか?…いや、それも味気ない。世の中がせっせとあくせく働いている金曜日に、せっかく得た休日だ。有効活用しない手立ては無い…しかし、何をどうするのが一番よいだろう。
朝食を摂りながら、私はまだ思い悩んでいた。いざ休みを得たとなっても、案外有効活用する手立てはすんなりと思いつかないものだ。大抵の人間の願望など、叶ってしまえばそんなものなのかもしれない。目的の達成は、一種の喪失だ。
コーヒーを落としながら、ぼうっとしている五分間の中で、ようやく私はひらめいた。そうだ、山の中で昼寝をしよう。冷静に考えてみると、なかなかに意味の分からない思いつきではあったが、その時の私には妙に魅力的な考えに思えたのだ。
美しい森林の空気と、背中を包む苔や草の柔らかな感触、土の香り、青い匂い…それに包まれて眠る。ゲーテに気触れた私の少々ロマンティックでお花畑な脳には、それが素晴らしい名画や小説の一場面のように思えた。
美しい森林と言っても、実情は近所の裏山に他ならない。大して特徴もなければ、どちらかというと鬱蒼としていて、雑多な印象を受ける森林だ。西洋の針葉樹に囲まれたそれとは随分と趣が異なるが、私はそれでも満足だった。
適当に見繕った木々の間、人が納まれそうなスペースに、早速大の字で寝転ぶ。土の香りや少し湿り気のあるざらっとした感触、苔が身体を包み込む柔らかな感じ…少々ちくちくとした雑草の感覚、背中に石のようなものがあたるごつごつとした感触…私の五感は総動員され、それを味わった。
気づくと、私は眠りの中にいた。数十分ほど寝ただろうか。目を覚ますと、右手のあたりにぞわぞわとした感触を覚えた。瞬く間に意識が覚醒し、全身に鳥肌がたつ。ムカデやクモ、他の何かを想像し、怖々と視線を右手へと向ける。すると、そこには一匹の小さなダンゴムシが私の人差し指を這っていた。
ほっとした私は、何の気なしにそれを振り払おうとして、踏みとどまった。いい機会だ、彼(彼女かもしれない)を観察してみるのもいいかもしれない。そう思いたった私は、自身の右手をゆっくりと眼前に持ち上げた。
右手の上の彼は、小さな足を絶え間なく動かしながら、ゆっくりと私の人差し指を上り、手の甲に到達する。そこで疲れたのだろうか、ぴたりと動くのをやめてしまった。こうして観察してみると、不思議と可愛いものだ。幼い時分は、よく突いて丸くなるのをおもしろがったものだが、今考えると可哀想なことをしたな…と少々感傷に耽ってみる。
私は彼を驚かさないようにゆっくり、ゆっくりと立ち上がると、歩みもそろそろと家路についた。彼は、驚くことに家まで離れずについてきた。今は肩のあたりを彷徨っている。
「ほら、降りなさい。長生きしろよ。」
そう呟くと、私は外部刺激に丸くなる彼をつまんで、庭の南天の木陰にそっと離した。彼は地面についても少しの間丸くなったまま、やがてゆっくりと緊張をといて、また忙しなく、ゆっくりと歩きはじめた。私はそれを見届けると、背中や足、身体についた土を払いながら、家の中に帰った。
団子虫 鹽夜亮 @yuu1201
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