後編

このあばら家に不釣り合いなほど綺麗な紙と鉛筆が、橙色の下で輝いている。尖った芯は一向に丸くならない。千恵子は教科書を広げるばかりで、宿題もろくに解けない。


あんな子を行かせてどうするんだい。


母の言葉が蘇る。どうになるものでもない、でも千恵子には大学へ行ってもらわなければならないのだ。

「姉ちゃん、私別に大学へ行かなくてもいいわ。早く働いて、姉ちゃんと一緒にあったかいご飯を食べられればそれでいいの」

千恵子は甘えて私に抱きつく。尖った鉛筆が落っこちて、芯が折れる。

「…ちい坊、芯が折れちゃったわ。学校へ行くのよ。勉強しなきゃ、駄目なの。私や母さんみたいになるわ」

「私は姉ちゃんのこと好きよ」

千恵子は甘ったれで、馬鹿だった。世間の恐ろしさを知らない。

善や正義を説く大人が、同じ舌先でまだ20にもなっていない女の股を舐めるのだ。こんな思いは、何があっても千恵子にさせてはならない。

無理やり母に学校を辞めさせられて、煙草と酒と男の海に突っ込まされた。無理やり吸わされる煙草も、酒も、男の味も虚しいものだった。女であるから、搾取されるのだ。あの女が手を伸ばす前に、千恵子を早く遠くの大学へ押し込んでやらなければならない。

「ちい坊、大学へ行くの。姉ちゃんは大丈夫よ、なんてことないわ」

千恵子はまだ何か言いたそうにもじもじとしていた。私は柔らかな千恵子の髪を撫でて、宥める。

「姉ちゃんはちい坊のことが大好きよ」

千恵子は何も言わない。

千恵子には普通の女の子のままでいて欲しかった。無謀なことでも、大学へ行って欲しかった。

私はどこかで千恵子の中に夢を見ているのだろうか。


私は母の目を盗んで金を貯め続けた。千恵子は学問の方はあまり芳しくなかったが、音楽の方は才能が幾らかあるようでピアノを欲しがるようになった。

「ちい坊、ピアノ買おうか」

こんなちゃちな家に、黒塗りのピアノは入れない。私は薄々そう思いながらも、千恵子に向かって言った。

「本当?私ね音楽大学なら、行きたいなぁって思うの。数学や歴史や英語は全然駄目ね」

「ちい坊は将来ピアニストになるのよ」

私は千恵子の穢れを知らない指を眺めた。

「音楽室のピアノは狂ってるから、どうも駄目なの。こっそり放課後に触ってるの。よし子がピアノを習ってるからちょこちょこ教えてもらってるの」

私は駅前で見かけた楽器店を頭に思い浮かべた。その中に濡れたように光るピアノがあったことに気がつく。

「ちい坊、ピアノ見に行きたくない?」

「姉ちゃん、ピアノ買ってくれるの?」

「うん。ちい坊は音大へ行きたいんでしょう?ならピアノがなければ駄目でしょう」

千恵子は嬉しさに頰を膨らませる。千恵子には夢を見させてやりたかった。



「それはなんて曲なの?眠くなりそうね」

千恵子は通りに置かれた一番安い、埃を被ったピアノを飽かずに弾いた。

「ブラームスよ」

私は千恵子の薄い肩に手を置く。

あぁ、夢を見させてやりたい。私が失くしたものを、千恵子に拾わせたかった。

「ちい坊、いつか有名になって外国へ連れて行ってよ」

「ふふ、約束するわ」

千恵子は調子良く笑う。私は本当にいつか千恵子がその指一本でどこまでも遠くに連れて行ってくれることを夢見た。

無謀だ、無駄だ、と何かが突く。

千恵子は甘ったれで、馬鹿だった。ピアノも別にどうということもない。

「…ちい坊、楽譜は読めるの?」

「読めないわ。でもね、ちい坊は耳で覚えられるのよ」

千恵子が一番甘えている時は、自分のことを私が付けたあだ名で呼ぶ。

「凄いじゃない。やっぱり、ちい坊は大学に、音大へ行くべきよ」

千恵子は頷きながら、拙く鍵盤を叩き続けた。

母の行方は知れない。いつまで私は身体を売り続けられるのか、分からない。千恵子は甘ったれで、馬鹿だ。

それでも私は千恵子の中に、何かを賭けたかった。夢を見ることは、こういうことなのかもしれない。


まずは千恵子に、ピアノを買ってやらなければならない。私は頼まれてもいないのに男を取り、財布をむしりとった。かつての母のように、私は明け方頃にようやく家へ帰るような生活をするようになった。

それでも千恵子は、橙色の灯りを点けっぱなしにして待っている。

だが、寒いある晩にいつもの灯りが消えていた。

「ちい坊、寝たの」

千恵子は布団に包まったまま、何も応えなかった。私は寝ているのだろうと思い込んで、それ以上は声をかけなかった。

母は時折、思い出したように帰ってくる。そして、私の稼ぎを横取りして臆面もなく出て行くのだ。畳の裏に隠した千恵子のための金は次第に膨らんでいった。

私は何としてでも、ピアノを買ってやりたかった。

だが、千恵子は次第に身体を悪くして何も食べなくなった。

「…ちい坊、あなたいつから悪かったのよ。どうして黙ってたの」

「……黙ってたんじゃないわ。姉ちゃんが、ずっと家にいなかったんじゃない」

私は穢れた自分の身体を思った。千恵子が恨みのこもった瞳でこちらを見据える。

「ごめんね、ちい坊」

「……私ね、ピアノも音大も……いらない。姉ちゃんと一緒にいれたらそれでいいの」

「…そうね」

千恵子はそれだけ言うと、目を閉じた。しばらくすると安心したような寝息が聞こえてくる。


あったかいご飯を食べたい。


千恵子が以前言っていたことを思い出す。おかゆくらいなら、食べられるかもしれない。私はお札を数えて外に出た。

ようやく家に着くと、まるで空き巣に入られたように全てがひっくり返っていた。

「ちい坊!どうしたの!」

私は買い物袋を放り投げて、布団に駆け寄った。千恵子は半身を起こしたままぼんやりとしていた。身体が以前よりも薄くなって、背中に死相が浮かんでいるように見えた。

「…母さんが来たの」

嫌な予感がした。

居間に戻ると、日に灼けた畳が一枚めくられていた。力が抜ける。

「……姉ちゃん、母さんが…」

「ちい坊、いいの」

私は笑って、千恵子の元に戻った。

「お腹空いた?」

「……何もいらない。ここにいて、どこにもいかないで」

「どこにも行かない。ちい坊の側にいるわ」

千恵子はやっと安心したように、身体を倒した。もう、長くはないように思えた。

「どうして、こんな事になったのかしらね…ちい坊」

千恵子は目尻に薄っすらと涙を浮かべた。

「どこにも行かないわ」

私は屈んで、薄くなった千恵子の身体を優しく抱きしめた。


そのまま、部屋を片付ける事もしなかった。母はもうここには帰って来ないかもしれない。あんなまとまった額の金を、あの女は手に入れたことはないかもしれない。どこへでも行って、そのままいなくなってしまえばいいと思った。

明け方になると、千恵子は不意に目を覚ました。薄明かりの中で、不思議と達観したような瞳をしている。

「ちい坊、あったかいご飯を食べよう。食べたがってたじゃない。今なら何でもちい坊の好きなもの作るし買ってくるわ」

「……姉ちゃん、何もいらないの。一人にしないで、それだけよ」

私は千恵子のでこに、掌を置いた。

「どこにも行かない」

千恵子は笑って、少しだけ咳き込んだ。

「…姉ちゃん、もう自由になれるわ」

「何言ってるの?」

痩せた頰に、滑らかな笑い皺が寄る。蝋のように白い肌を千恵子はしている。強い光に当てられると、溶けそうなほど儚かった。

「……水を持ってきて、喉乾いたわ」

「うん」

千恵子が私の手を握る。こんなに細かっただろうかと、私は哀しくなる。

千恵子は穏やかな瞳を向けて、甘えた声を出した。

「ちい坊、姉ちゃんのこと大好きよ。愛してるわ」

「…ばか、そういうのは恋人に言うものなのよ」

千恵子は声をあげて笑う。

そして、ふと泣きそうな顔になって呟いた。

「私、一人でいけるわ」

不吉なものを感じながらも、私はすぐに台所へ向かって蛇口をひねった。

再び戻った時には、もう千恵子は息をしていなかった。


どんな時でも、私を待って後ろをくっ付いていた千恵子はたった一人でどこかへ行ってしまった。行き先は分からない。私も死ねば、同じ行き先へ行けるのだろうか。

求めていた人のいなくなったコップを、私は静かに置いた。

夢も何もない。

「ちい坊」

応える人はもういない。じっとしていると、段々太陽が昇ってくる。千恵子は目を閉じたまま、動かない。もうずっと、このまま報われることはない。

振り返って、ひっくり返されたままの畳を見る。

誰も、私たちを知っている人はいなかった。最後に、まだ温かい千恵子を抱きしめた。

「私もちい坊のこと、好きだったわ」

布団を顔まで引き上げてやる。不思議と自由な軽やかな心地になって、私は立ち上がった。

もうここには戻るまい。

私は振り返らず、橙色の消えた部屋を出た。

何も持たないまま、外に出て、起き上がる前の街をどこまでも走った。


行き先は分からない。笑みがこぼれた。

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行き先 三津凛 @mitsurin12

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