行き先

三津凛

前編

まだつけっぱなしの橙色が、ありったけの優しさに思えた。

「ちい坊、まだ起きてんの」

ドブ臭い水溜りを跨いで、酔っ払いのひっかけていった小便の縞を見ないようにして、私は千恵子に声をかける。後ろ手で玄関を閉めた。

「うん、姉ちゃんが帰ってくるまでは寝ないの」

千恵子は立ち上がって、私の肩から離れない男の匂いを払うような素振りをした。

「髪の毛まで、煙草臭いわ」

千恵子がこれ見よがしに鼻をつまんで言う。

「仕方ないじゃない、男は皆馬鹿みたいに煙草を吸いたがるのよ」

「まるで、おしゃぶりね」

千恵子が薄い鍋に火をかける。

私はそっと横目でそれを眺めて、埃っぽいコートを脱ぐ。

「……母さんは?」

「帰ってこないわ。朝方帰って来て、私に味噌汁作れって……」

「ちい坊を起こしたの?」

うん、と千恵子は頷く。鍋の中身は味噌汁だろうと私は想像してため息を吐いた。

自分の吐く息まで、煙草に犯されたような気がする。

「最近、姉ちゃん遅いのね」

千恵子が拗ねた声を出す。昼間にこんな仕事はできない。若い女を求める獣どもは、夜にうごめき出す。千恵子は知っているのか、知らないのか私と母がやっている仕事の内容そのものについては聞いてこない。

「仕方ないじゃない。ちい坊も子どもじゃないんだし…」

鍋底を擦る音がして、私は振り返る。気を引くために千恵子はわざとカンに触るような音を立て続けた。

私は味噌汁が温まりきるのを焦ったそうに待つ千恵子の背中を後ろから抱く。

「今日の姉ちゃんは、煙草臭いから嫌いよ」

言葉とは裏腹に、千恵子は嬉しそうに身体を揺する。傷のない千恵子の身体を、私は羨ましく感じる。

「早くちい坊の味噌汁飲ませてちょうだいな」

あくび混じりにそう言って、私は千恵子から離れた。

傷だらけの机に、教科書が積んである。真新しい研ぎたての包丁のように、尖った芯の鉛筆が何本も揃えてあった。私は座り込んで、ページを繰る。

「ちい坊、学校はどうなの?」

「…楽しいわ。姉ちゃんのおかげよ」

千恵子がお椀に味噌汁を入れて持って来る。ご飯もおかずもない。

欠けた豆腐の屑と、申し訳程度のわかめの浮いた貧しい味噌汁を見下ろした。

「今日はこれしかないの」

「ちい坊が作ってくれたものなら、なんでもいいわ」

私は顔を上げて笑ってやる。千恵子が滑らかな歯を見せる。

ささくれて日に灼けた畳が膝を刺す。私は椀を受け取って、薄味のそれをすすった。

千恵子は何も言わず、私の様子を眺めている。

「…ちい坊、もう寝なさい」

「いや」

千恵子は教科書を広げて、文句を挟まれる余地を摘み取る。

今日の客は乱暴だった。脚の間が疼く。今すぐにでも石鹸で身体中を洗って綺麗にしたかった。

「…ちい坊は今何を勉強してるの?姉ちゃんに教えて」

「今はね、歴史を教わってるのよ」

私は椀を置いて、千恵子を見た。

「ちい坊は大学に行かなきゃ駄目だわ」

千恵子は従順に頷く。

私たちは黙って冷たい寝床についた。明日は朝一に銭湯へ行って男と煙草の匂いを落としてやろうと硬く決める。

千恵子に背を向けて目を閉じると、後ろから手を伸ばされる。どんなに遅く帰って来ても、千恵子は橙色の灯りを点けて私を待っている。

千恵子は甘ったれで、馬鹿だった。大学なんてとても行けないだろう。

「ちい坊、寝なさいね」

「うん」

それでも、私はたとえ100人の男どもと寝ようとも千恵子に夢を見させてやりたかった。

母はまだ帰ってこない。父だったはずの男は見たこともない。

時折、千恵子と私は本当の姉妹なのだろうかと思う時がある。千恵子の方もそれを察するのか、14になるのにこうして甘えてくる。

私は向き直って千恵子の頭を抱く。

煙草臭いわ、と千恵子が呟く。

「…嫌ならあっち向いてもいいのよ」

ううん、と拗ねるように千恵子は呻く。一層力を込めて、千恵子は私の胸に顔を埋めた。

可哀想に。

私は誰に向けるともなく、思った。



薄明かりの中で、脇腹を蹴られる。

痛みに呻いて目を覚ますと、母がくわえる煙草の淡い橙色が見える。

私は千恵子を起こさないようにそっと押しやる。

「…母さん、帰ったの?」

「昨日幾ら稼いだんだい」

「いつもの所に入れてあるわ」

母は不敵に笑う。

私の胸元を乱暴に掴んで無理やり起こすと、頰を叩いた。

「ばか、お前は若いんだ。あれっぽっちな訳ないだろう。村松にも確かめたんだ。お前も結構吹っかけてるじゃないか…さすが私の娘だね」

うるさい、うるさい、お前と一緒にするな。

「どこに隠したんだ、全部出すんだ」

私は黙って憎たらしい女を睨む。産んだだけで親にはなれない。親としての義務を果たしたことのないこの女を、私は母親と認める気はなかった。

「あれで全部だよ」

「嘘をつくな!」

「…ちょっと、千恵子が起きるでしょう」

私は渋々立ち上がって、母を居間に連れて行く。

「早く出しな」

ふてぶてしい声音で言われる。

この女、刺してやろうか。私は台所を振り返る。錆びた包丁が洗われて置いてある。昨日あれを丁寧に洗っていた千恵子が蘇る。私がいなくなったら、千恵子は行き先がなくなる。

私が逃げれば、この女は今度は千恵子の若さに寄生するだろう。

「…千恵子を学校に行かせてやりたいのよ。少しくらい、蓄えなきゃ」

「別に女が勉強しなくてもいいじゃないか。お前たちはまだ若いんだし、2人とも綺麗じゃないか…もったいないよ」

煙草の灰がこぼれ落ちて降りかかる。どんな男に股を割られるよりも、穢された気がする。

「馬鹿なこと言わないで!千恵子をどうしても大学へ行かせたいの」

母が薄く嗤う。

「あんな子を行かせてどうするんだい。頭も悪いし、第一そんな金はないんだよ」

「無理じゃない」

私のようにならないために、大人に搾取されないために、女という性のために泣かないために、千恵子には学校が必要なのだ。

「…千恵子の方がお前よりも若いね」

母は短くなった煙草を流しに捨てて、新しい煙草に火をつけた。男ども同じ匂いがする。

「千恵子はまだ14なのよ」

「でもお前よりは3つも若いよ、男は若い女が好きだしねぇ。千恵子みたいに甘ったれで馬鹿な女は意外と稼げるかもしれないよ」

柔らかな脇腹を後ろから狙って刺すように母が言う。

この女衒め。いつかお前の首を絞めてやる。睨みつけると、母は急に激昂した。

「早く全部出すんだ!誰がお前をここまで育ててやったと思うんだ!」

「誰も産んでくれなんて頼んでない!」

思わず言い返すと、思い切り頰を叩かれる。もう少しで、あの錆びついた包丁に指をかけそうになる。

破れた襖の向こう側から、千恵子の眠そうな声が聞こえてくる。

「姉ちゃん、何してるの?母さん帰ってきたの?」

「…ちい坊、なんでもない。まだ早いから寝なさい」

母が不敵に嗤う。

「お前が全部出さないなら、あの子に今度は仕事をさせてやろうかね。まだ処女だろう?お前は汚れているからね」

私は同じ女に思えない母の唇を眺めた。なんて汚い赤だろうと思った。煙草と酒と男に塗れた、この世で最も汚い唇だ。

「…全部出すわ。でも千恵子には何もしないって、そっとしておくって約束してくれないと、今度こそ絶対に出さないわ」

「約束するよ」

母は軽く言い放つ。

茶色の封筒を渡した途端、母はもう二度と私の方を見なかった。

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