蓮くんのカレーライス
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蓮くんのカレーライス
「お前はうるさいんだ!
男が外で仕事するってどういうことかも知らないくせに、いちいち俺のすることに口出ししないでくれ!」
「だから……どうしてそういう言い方しかできないのよ!?私は少しお酒の量を控えてって言ってるのよ、健康診断の結果だってあまりよくなかったんだし……」
「相手の機嫌取るだけで精一杯なのに、自分の体のことなんか考えてられるかよ!
じゃあお前、俺の代わりにやってみろよ、営業。売上売上って毎日死ぬほど追い立てられてみろよ?」
「…………」
「ただでさえ疲れてんだ。そういうのは勘弁してくれ。家にも帰って来られなくなる」
そんなセリフを言い捨てると、広輔は荒々しく自室に入り、バタンとドアを閉めた。
最近、こんな言い合いばかりだ。
昨年の四月に社内で異動になって以来、夫の広輔は疲れと苛立ちを溜め込んだような表情で夜遅く帰宅するようになった。
そして、仕事の付き合いと言っては、しょっちゅうぐだぐだに酔って帰ってくる。
そんな行き場のない夫の何かを受け止めるのは、いつも自分だ。
広輔の気持ちがわからないんじゃない。
自分も、結婚するまでは働いていたのだから。現実の厳しさくらい、知っている。
けれど……
自分が彼に言いたいことは、間違えていないはずだ。
家族の健康を心配する。当たり前のことだ。
それが、彼には伝わらない。
やかましい妻にうるさい文句をまた言われた。そんな風にしか聞いてもらえない。
こうやって、だんだんと気持ちがすれ違っていく。
すれ違うことが、当たり前になり……いつか、寄り添い合おうという気持ちまで、なくなってしまう気がする。
……いいじゃない、それならそれで。
それを、力なく見つめるだけの自分がいる。
この現状をなんとかしようともがいて……何とかなるのだろうか?
何の力もない自分が、抗って、もがいて、一体何が取り戻せるというんだろう。
そういうものなんだ、きっと。
時間の流れなんて。
涙が出るのかと思えば——こみ上げそうになった何かは、すぐに引っ込んでしまった。
ここで涙を流しても……自分がますます悲しくなるだけ。
それも、もう経験で知っている。
「……あ〜〜〜〜あ」
椅子の背にぐったりと体重をかけるようにして天井を仰ぐと、真由はどこか投げやりにそんな声を漏らし、力なく苦笑いした。
*
「行ってきまーーす」
「いってらっしゃい」
その翌朝。
真由はいつもの顔で、息子の
蓮は小6だ。
他の友達に比べると背は少し低く、まだ幼い印象だが、いつも朗らかに明るい。おどけた冗談が大好きで、くだらない替え歌などを歌っては真由を笑わせる。
こんな陽気なキャラクター、誰に似たのかな、と、時々思う。
「あ、母さん。今日オレ友達と遊ぶ約束しないで帰ってくるからさ、一緒にスーパー行こうよ」
玄関先でふと振り返ると、蓮はくるりとした瞳でニッと笑うとそんなことを言う。
「え?何で?」
「あー今話す時間ない、遅れちゃう!じゃあ行ってくるね!」
「車気をつけるのよ!」
バタバタと駆け出していく蓮の後ろ姿を見送る。
スーパーって……なんだろう?
欲しいものでもあるのか……でも、スーパーに?
真由は、蓮の言葉に何となく首を傾げながら、いつもの家事へ戻っていった。
午後4時少し前。
蓮は、約束通り学校からまっすぐ帰ってきた。
「母さん、行くよー!」
「あ、そうだった!ちょっと待って!」
帰ってきてランドセルを下ろすなり聞こえてきた蓮の急かすような声に、朝の約束を思い出した真由は急いで出かける支度をする。
「ねえ蓮、急にスーパーって、どうしたの?」
「ん?別にー。一緒に夕ご飯の買い物したいなと思っただけ」
澄ました顔でそんなことを言う蓮に、真由はくすくすと笑う。
「いつもほんと面白いね、蓮って」
「どこが面白いんじゃ!」
またそんな風におどけて、蓮は真由を笑わせる。
蓮といると、真由は日々の憂鬱な気持ちをふと忘れている。
家からほど近いスーパーに着くと、蓮はさっさと買い物かごをカートに乗せ、真由の横を歩く。
「母さん、うちにジャガイモ、ある?」
「んー、あと2個だったかなー」
「じゃ、人参と玉ねぎは?」
「あーそうだ、玉ねぎなくなったんだった」
「じゃオレ取ってくる」
客の間をすり抜けて野菜売り場の玉ねぎまで到着すると、一袋を選んで掴み、ぱあっと戻ってきた。
「よし、玉ねぎはいいぞ。あとは肉と……」
「あー、わかった。
蓮、今日はカレー食べたいんでしょ?この前作ったばっかりだから、言いづらくて買い物一緒に来たんじゃないの?」
蓮の本心を見抜いた気がして、真由はくすくすと蓮にそう問いかけた。
「んー……まあそれもあるけど。
この前、母さんの横でカレーの作り方ちょっと見てたら、なんかオレもできそーだな、と思ってさ」
蓮は、さらりとそう答える。
真由は、一瞬驚いて蓮を見た。
「……できそうだから……?」
「だから。今晩のカレーはオレがやる、って言ってんの」
そこで蓮は、急にどこか照れたような顔になってボソッと呟いた。
「……どうしたの蓮、急に」
「いいじゃんか。今時の男は料理くらいまともにできなきゃダメなんだよ」
居心地の悪そうな顔でそんなことを言う蓮を、真由はじっと見つめる。
「……ほら、カレー肉。今度は母さん選んで」
照れ隠しのようにそんなヘンテコな指示を出す蓮に、思わず微笑みが溢れた。
「そっかあ。じゃとびきり美味しそうな牛肉にしよっかなあー」
「いいよ、フツーので。ムダ遣いすんなよ」
「ふふっ。わかってるよ〜」
「重い方、オレ持つ」
会計の済んだ大きなレジ袋を、蓮は力任せに持ち上げようとする。
「あー、これは無理だよ。ほんと重いって!」
「うぐぐぐ……」
「ほら、蓮はこっち」
「くそおおお……。早くもっとでっかくなりてえ」
ひとり黙々と出かけ、一人で考え、重い荷物を運んで帰ってくるだけの買い物が……気づけば、笑っている間に終わってしまった。
*
買い物を終え、帰宅すると、蓮は自分のエプロンを引き出しから引っ張り出してきりりと紐を結び、腕まくりをして早速料理に取り掛かった。
「母さん、今日は座っててよね、全部オレやるんだから!
人参とジャガイモ……最初洗って、皮むいて。ピーラー……どこだ??あ、これだ。えーっと、まずこうやる……あれ?うむむむ……」
「包丁だけは、ほんと気をつけてよ!」
「わかってるって!」
真由はダイニングテーブルに座り、ハラハラしながら蓮をじっと見守る。
思わず口と手が出そうになるのを、ぐっと我慢する。
蓮は、一度言い出したら譲らない性格だ。目標通り自力でカレーライスを完成させるまで、母親には何ひとつ手出しをさせないだろう。
一心に野菜を切る、真剣な目。
重そうに大きな鍋を取り出し、ぎこちない動作で野菜を炒める、まだ小さな手。
——もしかしたら……
蓮は昨夜、広輔とのあの言い合いを、自分の部屋で聞いていたのではないだろうか。
そして、そういう言い争いの気配や、夫婦間の険悪な空気が最近家の中に色濃く流れていることも、敏感に感じ取っているのではないだろうか。
真由は、ふとそんな思いに行き当たった。
大切な人に気持ちを伝えようとしても、何ひとつ伝わらない。
大切な思いを込めたつもりの言葉が、ゴミのようにくしゃくしゃに丸められ、乱暴に投げ返される。
その痛み。寂しさ。悲しさ。
もしかしたら蓮は、そんなことにそっと気づいてくれているのではないだろうか——。
気づけば、キッチンで黙々と手を動かす蓮の姿が、ぶわっと滲んだ。
熱い涙の粒が、一気にいくつも頰を転がる。
ボロボロと溢れ出るそれを、止めることができない。
——昨夜は、涙なんか出なかったのに。
今日は、いくらでも涙が出る。
自分は、こうして温かく思われている。
まだ幼い子供だと思っていた、この子に。
いや。
年齢なんて、全く関係がない。
硬く冷えた心に、涙は訪れない。
そんな心を、こうして優しく、温かく包み込まれた時——やっと、涙は出るものなんだ。
蓮に見られないよう、こっそり涙を拭きながら——真由は、そんなことを感じていた。
*
蓮のカレーライスは、夜8時を過ぎてやっと完成した。
最初の宣言通り、蓮は真由の手を一切借りることなく、自力でカレーを作り、米を研いで炊き上げた。
野菜の大きさは完全にまちまちだ。肉も大きなまま、ゴロンゴロンと入っている。
けれど、真由がこれまでに食べたものの中で、これ以上に温かく、美味しいものはなかった。
当たり前だ。その鍋の中には、どこを探しても決して手に入らない宝物が、ぎゅうっと溶け込んでいるのだから。
「おお、初めてにしては結構うまいじゃん」
自らの力作を小さくそう褒める息子に、真由は全力で言葉を付け足した。
「うん、ほんと最高に美味しいよ、蓮!」
足りないものの何ひとつない、満ち足りた時間。
何だかとても久しぶりだ。
「……大人って、大変だな」
カレーライスを頬張る手を止めて、蓮はぽつりとそう呟く。
「そうよ大変よ〜……って、どうしたのそんなこと言って?」
真由は、そう答えてクスッと笑う。
「……なんとなくさ。
まーでも、ほら、今日わかっただろ?オレも結構いろいろできるし」
「…………ありがとう、蓮。
あなたがいるから、母さんいつも笑ってられる」
真由の言葉に、蓮はどこか恥ずかしげにぽりぽりと頬をかく。
「……そーだよ。ちゃんと笑わないと老けちゃうんだからな。
ってか今度はオレ、父さんにもカレーの作り方教えなきゃな。様子見てると、料理とか何にもできなさそうだから。
あーでも、最近父さんクソ忙しそうだし。しばらくはちょっと無理かなあ」
何となく続いた蓮のそんな呟きに、真由はハッとした。
——この子は、父親の今の状況も、ちゃんと理解している。
そして、そんな父親へも、自分の愛情をしっかり伝えようとしているのだ。
「…………あなたが教えてあげたら、父さんすごく喜ぶわ、きっと」
「だよなっ!?」
真由の嬉しそうな笑顔を見て、蓮は誇らしげに瞳を輝かせる。
再びじわっと潤みそうになった目を、真由は慌ててごまかした。
……ああ、そうか。
この子はこうやって、家族全員を幸せな気持ちにしてくれるのだ。
この子が、この家にいること。
これが、私の手に入れた幸せなんだ——きっと。
「——あなた、いい男ね」
「は、はあ〜〜!??なんだよそれ、超キモっ」
「ちょっと。キモって何よ!?」
「うひゃひゃっ」
そう。
うちの息子は、最高にいい男。
間違いなく。
そして、そんな彼に想われる私は、最高に幸せな女だ。
真由は、胸の中でそんなことを呟く。
気づけば、心の奥からまた新たな微笑みが溢れ出していた。
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