第六章 『はじまりの鼓動』


 ――今日は土曜日。ゆっくりと休日の朝を過ぎた頃。


 空色の見える薄い雲を通して、日差しが涼しい空気に散っている。

 今年初めての半袖シャツを着て、東雲朗は髪を風に遊ばせていた。

 ちょっと襟足が伸びたから、そろそろ切ろうか……。

 風の気持ちよさに、ただぼんやりと、そんなことを考える。


 昨日はあのまま夜明け後に、現地解散となった。

 サエはマナミを家まで送り、その後帰宅したが、シャワーを浴びたら目が冴えてしまって、いまいち眠れないまま、気付くとここへ来ていた。

 廃墟の団地の中にある、コンクリート敷きの第八公園。

 アプリを見ても、すっかり"揺らぎ"が消え去っている。

 あの黒竜は、契約はしっかりとこなしていったようだ。……いや、黒竜にとって、"揺らぎ"をなんとかするなんて、右手を適当に振っても終わってしまうようなことだったに違いない。

 存在感も、力も、やっていったことも、名前の長さも、規格外だったな……。

 ぼんやりはまだ続いているようだ。

 だが、ここに来ていろいろと考えたかった。


 ユウカは、「明日は朝からイベントだから、事件がきちんと終わって良かったであります」と、謎の語尾を使いながら言っていた。徹夜してから始発で臨海地区まで行くそうだ。ほんと、趣味に対しては全力なやつめ。

 思わず苦笑すると、向かいのフェンスの扉から、誰かが公園へ入ってきた。

 長い銀髪、細い体、白いセーラー服に、紺色のスカーフとスカート。

 ――彼女だ。

 彼女は髪を結わず、そのまま下ろしている。

 風に揺れる髪とスカートを見ていたら、途端に目が覚めてきた。

「御先さん!」

 思わず呼びかける。

 会えるとは思っていなかったけれど、しかし、彼女に会いたくてここに来たのだ。

 二人で、話をしたくて。

「――東雲くん」

 マナミは、笑って返した。

 その笑顔ははにかむような、はずかしそうな、とても自然な笑顔だ。

 二人はそのまま近づき合い、公園の中程に立った。

 サエも笑って、彼女に答える。 

「おはよう」

「……お、おはよ」

 なぜか、マナミは少ししか視線を合わせてくれない。ちらちらと左右を気にしているようだ。

 ほかには誰もいないけど……と思い、サエは、はた、と気付いた。

 ――逆だ。二人きりであることに、照れているのだ。

「――――」

 自分の必死の台詞が彼女に届いたのだ、と思うと同時に、昨日の台詞がリフレインする。

『――おれは御先さんのことが、大好きだよ』

 無限の闇霧の森の中で、そう彼女に言ったのだ。

 君のことを教えてほしいとか、君を守りたいとか、君を助けたいとか。

 後悔などしていないけれど、あまりにも本心を言い過ぎていて、サエは続きの言葉が思い浮かばない。

 それでも、もう一度言わなくては。今度は、現実で。

「あの、御先さん」

「なっ、なに?」

 呼びかけると、今度はぱっと顔を上げて、彼女はこちらを見てくれた。

 その頬はだいぶ赤い。緊張がこちらにも伝わってくるようだ。こちらのが伝わっているのかも知れない。

 サエは苦笑した。まずはお互い、リラックスだ。

「朝、早いね。もしかして寝てない?」

「……うん、なんか、目が冴えちゃって」

「おれも。体はなんとなく疲れてる気はするんだけど、そのままここに来てた」

「……わたしも、そうだよ」

 再び風が吹いて、彼女の髪が柔らかく踊った。

 そういえば、とサエは問いかける。

「髪、今日は結んでないんだね」

「う、うん……あの……」

 彼女は言い淀んで、両手をもじもじさせたあと、じっとその金色の瞳でこちらを見てきた。

「あのね、そのままのわたしで、会いたかったの。東雲くんに」

「――」

 なんて真っ直ぐなんだ。昨日までとはまるで違う。

 彼女が投げかけてくる言葉を受け止めて、今度はサエが赤くなった。

 そのままの自分で会いに来てくれるなんて、なんてすごいことなんだろう。

「そうなんだね……」

 ぐ、っと腹に力を入れて、サエは大事な言葉を告げる。

「会えて、うれしいよ」 

「わ、わたしも、うれしい……会いたいときに、会いたい人に会えて」

 そのまま二人で真っ赤になってうつむいてしまう。

 そして黙る度に、言いたいことが増えていく。

 もっとたくさん話したい。もっとたくさん相手のことを知りたい。

 けれど、その前に、どうしても言っておかなければいけないことがある。

 回答を聞くのではなく、あともう一つ。

「――御先さん。実はまだ、言ってないことがあるんだ」

「え? そうなの?」

「うん、すごく、すごく大事なこと」

 サエは、風に合わせて大きく息を吸い、そっと息を吐いた。

 不思議そうにこちらを見ているサエの視線に、緊張が高まる。

「よく聞いてほしい」

「うん、聞かせて」

 サエは、その返答を聞いてから、彼女の右手を取った。

 !? と彼女はびっくりしているが、その手を自分の左胸に当てる。

「――おれは今、ここにいる。だから、言うよ」

 どうしても、伝えたいこと。

「御先さん。

 おれは、御先真望さんが好きです、おれと付き合って下さい」

「――――」

 月色の目が見開かれた。何度か瞬きをする。

 それから、そっとゆるく細められる。

「……ずっといっしょに、いてくれるんだっけ?」

「もちろん、きみと一緒にいるために、最大限の努力をします。

 これからも、ずっとずっと、そばにいて、立ち上がれるように」

 その言葉にマナミは笑った。目尻に涙を滲ませて。

 左胸に当てた手を、やわらかくサエの手と組んで、自分の右頬に当てる。

「うん、うん、……うん」

 ぽろぽろ、笑いながら、それでも涙が止まらない。

 サエが、そっともう片手で涙を拭うと、マナミは告げた。

「わたしも、あなたが好きです、東雲朗さん。

 ずっと、いっしょにいて、困ったときには、わたしをたすけてください」

 その答えを聞いて、サエは息を呑んだ。

 一瞬だけ眉を寄せてから、次の瞬間には、両手を広げて彼女の細い体を抱きしめる。

 ゆっくり、でもしっかり、ぎゅっと。

「――大好きだよ」

 背に回った手、髪に触れる指。

 呼吸も、鼓動も、吐息も、言葉も、存在も。

 これはぜんぶ、嘘じゃない。

 消えてしまうかも知れないけど、だからこそ愛おしくて、守りたくて、

 そして、本当にここにあるんだ。

 ただそれだけのことが、うれしい。

 マナミは笑った。涙はまだ止まらないけど、今は心から笑えるのだ。


 目を開くと、愛しい人がそこにいる。腕の中に。

 今日はなんて素晴らしい日なのだろう。

 たったこれだけのことが起こるだけで、世界は最高の日になる。


「――ねえ、東雲くん、わたし、今日はきみのサンドイッチが食べたい気持ちだよ」

「――ああ、じゃあ、いいところがあるんだ。図書館の近くに、芝生の公園があって……」

 

 滲む涙が虹色になる。

 お互いの頬を拭って、二人は手をつなぎ、歩いて行く。


 なんでもない、六月のとある土曜日。

 なんにでもなれる、最良の毎日に。

 何度もはじまりの鼓動が、響いている。


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君に響く空の音 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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