第五章 『Time heals all sorrows』03
彼女は、制服を着て、鏡の前にいた。
ものの少ない自室で、長い銀の髪をブラシで梳いている。
髪全体を梳いた後、鏡台に置いた細く黒いリボンを手に取る。
慣れた手つきで、左側から、ゴムとリボンで髪を作る。
髪を結っても、スカーフを直しても、その表情は変わらない。
闇を見据えるような、無表情。
彼女は、彼女にとっての罪を飲み込み、それを選んでいた。
あのとき、あの時、あの瞬間。
わたしの代わりに父と母は消えてしまった。
なぜわたしだけがたすかったのか。
わたしはたすかるべきではなかった。
――わたしはここにいるべきではない。
鏡の前、彼女は彼女自身につぶやく。
ただひとつの言葉を、何度も、何度も。
――わたしは、たすかるべきでは、なかった。
どんなによい環境に身を置いていても、取り残されたものはそれを思い出す。
彼女の罪の気持ちがいつしか、自らを「外世界」へ投げ出したいと思うのは、自然の流れだった。
彼女は決めた。
「自ら『扉』を開き、自分もその向こうへ行く」と。
そこからの行動は、すべて『扉』に対する情報の収集に当てられた。
『扉』を開くには"揺らぎ"が必要である。ならば、ヒズラギを集めて、それをすべて"揺らぎ"にしてしまえばいい。だから異形対策免許も手に入れた。
そして、あの場所の"揺らぎ"をすべて使えば、あそこはもう安全になる。
もう、あそこで、自分のような目に遭う人は、いなくなる。
――『扉』を開くには捧げるものが必要だ。
自分にはこの身しかない。それではやはり不足だろうか。
交渉に来る相手は誰であろうか。
どんな異形が、自分を。
――わたしは、ここにいては、いけない。
わたしを、終わらせてくれるのだろう。
*
――濃い霧、闇、深い森の匂い――
何かの気配に、サエがそっと目を開けると、そこは真っ暗な場所だった。
真っ暗なくせに、自分の身はちゃんと視認できるのだから、なんとも都合のいい空間である。
足の裏にはなにも感じない。どうやら浮いているらしい。
濃く白い霧の切れ間から、大きな樹々がそこかしこにあることがわかる。
闇の森だ。
サエは深呼吸した。
胸いっぱいに森の匂いを感じると、現実感が湧いてくる。
竜に眠らされ、マナミの悲しすぎるつぶやきを見せられ、サエの手は震えていた。
憤りを感じていたのだ。
勝手にすべてを見せてくる黒竜にも、たったひとりで決めてしまっているマナミにも。
ぎゅっと拳を握り、まずはマナミを探そうと振り返ると、呆然とした表情の彼女がいた。
「わっ、と、御先さん? 大丈夫?」
「う、うん……、大丈夫だよ」
二人はしばらく視線を他方にやり、なんとなく身を寄せ合った。
サエがどうしたものか、と考えていると、マナミがこちらのシャツの袖を引っ張った。
視線を向けると、うつむいたまま、彼女が言う。
「……全部、見たんだね。わたしの思ってること」
どうやら、同じものを彼女も見ていたらしい。そしてそれを知っている。
サエは偽らず、頷いた。
「――見たよ。全部」
「……それは、消せない?」
「ああ、消せない」
悩み、苦しみ、涙も流さず、ひとり消え去るために費やしてきた時間を見た。
それを消すなんて、できようはずもない。
サエは続けた。
「――それに、おれはすこし、怒っている」
「怒る……?」
マナミはこちらを見上げ、理解できないという風に首をかしげた。
「そうだよ。怒ってる。御先さん、なにを……いや、全部もうおれははわかってる。
きみは、ひとりで全部抱えて、ひとりで全部解決しようとして、そんな無理なこと……」
「無理かどうかなんて、やってみないとわからない!」
はじかれたようにマナミは反駁し、視線を向けてきた。
強くこちらを睨む瞳は、底光りする金色だ。
「……御先さん」
「わたしにはこれしかなかった。
だってわたしはここにいちゃいけない、なのにどこにもいけない。
どこかにいくなら、『扉』を開くしかない!
わたしはここにいちゃいけない、いけない、助かるべきじゃなかった。
わたしはここにいては、わたしは、わたしは……!」
「御先さん!」
彼女は血を吐くように自分を責め続ける。その眉を寄せても、涙は流れない。
それがあまりにも痛々しくて、サエはマナミを抱きしめた。
それしかできない。自分にはそれしかできない。
傷だらけの彼女を、一瞬で治すような魔法はないのだ。
それがつらくて、でもマナミのことを思うともっとつらくて、サエは目を閉じた。
だけど、言うべきことは、わかっている。
彼女を抱きしめたまま、そっと言葉を続けた。
「御先さんは、どこにもいかなくていい。
ただ、御先さんは、ひとこと、言えばよかったんだ。
誰かに、友達に、おうちの人に、周りの人に」
――たすけて って。
「たすけて……?」
はじめて聞いた言葉のように、マナミはその一言を繰り返す。
サエは少し笑って、そしてすこしかなしさも感じながら言う。
「そうだよ。ひとりでつらいとき、ひとりじゃどうにもならないとき。
悲しいときも、大変なときも、誰かは、誰かに、たすけて、って、言うんだよ」 マナミは自分の髪が撫でられていることを感じた。それはやさしく、できるだけそっと繰り返される。
「全部抱え込んで、でも助けを呼べなかった。
御先さん。ほんとは、なんて言いたかったの?」
髪を梳く彼の手がやさしくて、あたたかくて、なぜか鼻の奥がつんとする。
そのまま、その手が頬を撫でると、視界が大きく滲んだ。
泣こうなんてしてないのに、勝手に涙があふれる。
ただそこに、彼がそばにいるだけで。
マナミは叫ぶ。
「わたしは父さんたちの犠牲でここにいる!
そんなの、そんなのひどい、なんでわたしを、なんでわたしなんかを。
なんで父さんも母さんもさいごに笑って、なんで、なんで、
なんでみんないなくなったの――!」
本当に言いたかったのは、「自分がここに取り残された」理由。
そこには意図や必然がないと知っていても、その結果は悲しすぎた。
その悲しみや痛みが、サエの胸にもしんしんと伝わってくる。
この空間は、なにも見えないかわり、なにもかもが聞こえ、なにもかもが届く場所。
マナミの涙を指で拭って、サエは応えた。
「――確かに御先さんは守られた。
でもきみは、それより何度も、おれたちの知らないところで、みんなの生活を守ってた。
昼は友達と笑い合い、夜はヒズラギを捕まえ、そうやって暮らしていることで」
サエはそっとささやいた。届いてほしい、その一心で。
「――だから、おれがここにいる。
御先さんが守ってきた毎日に、おれは生きてたんだ。
きみは取り残されたんじゃない。
愛されていたから、守られた。
誰かに出会うために、また生きる毎日を与えられたんだ」
呆然と瞬きするマナミを、ぎゅっと、抱きしめる。
「だから、おれが来たよ。御先さんと、出会うために」
サエは続けた。
「御先さんがたすけを求めているなら、いつだってそこに行く。そばに行く」
「――嘘だ、そんなの」
「嘘にする気なんてないから、全部ほんとだよ」
「……そんなの信じない」
「信じてくれないなら、全部嘘になる。だから、信じてくれるまで言うよ」
抱きしめた、柔らかく小さな体に背負われた、悲しみやつらさを分け合いたいと思いながら。
「おれはここにいるよ。ずっと一緒にいるよ。御先さんのそばに行くよ。
一緒に帰ろう。またサンドイッチ食おうよ。
それに、御先さんのことを教えてほしい。御先さんの好きなものを知りたい。
御先さんの悲しいことを知りたい。御先さんのつらいことも知りたい。
それもぜんぶ、守りたい。
御先さんをかたちづくるものは、ぜんぶ大事だから。
だから、きみを守って、きみと傷ついて、きみを抱きしめていたいんだ」
響く声は、何の裏表もなく、ただひとつの真実として、マナミに届いた。
この場所で、嘘なんてつけるはずがないのだ。
自分を追って、こんなところまでついてきてしまった彼のことを、思う。
「――わたしを、ひとりにしない? いなくならない?」
「もちろん。かならず、ずっと、きみをひとりにしない」
そんな願いごと、かなわないと誰もが知っているのに。
サエは笑って、頷いた。
「――おれは御先さんのことが、大好きだよ。
だから、一緒にいよう」
どくん。
真っ正面からそう告げる彼に、鼓動が跳ねた。
それは、真実を知らせる音になってマナミの心を、強く打つ。
――信じたい。信じたい。
本当は、守られたのだと、本当は、ひとりではないのだと、本当は、幸せになれるのだと。
ほんとうは。
ほんとうはずっと、そうであることを知っていたのだ。
「――――――っ!」
マナミは叫んだ。
声にならない声で、彼にしがみついて、ただただ声をあげて、泣いた。
ずっと頭を撫でていてくれる彼の手。
それが、心地よくて、マナミは目を閉じた。
*
『――もういいのか』
響くその声が、こちらを心配していることは伝わってきた。
だからマナミは心の中で頷いた。
約束してくれる人ができたから、もうひとりではないよ。――ありがとう。
『では、居るべき場所へ戻るといい――我が友の血を引く娘よ』
誰かが笑いながら、こちらへ手を振っている姿が、マナミには見えたような気がした――。
*
「――!!」
「御先さん? 大丈夫?」
目が覚めると、いまだ黒竜の手の中だった。
先ほどから、一瞬も経っていないようだ。
竜の銀藍色の瞳が、淡く輝きながら二人を見つめている。
『――それでは、人類。『扉』を開けた代償に、その血肉を捧げてもらおうか?』
「断る! 御先さんには手を出すな!」
『ふん、ここまでしておいて、よくそう言う』
サエが決死の覚悟で叫ぶが、それを鼻で笑い、竜はその巨大な右のかぎ爪を二人に伸ばした。
二人分の血肉を捧げろということか――!?
思わず、マナミを守るように抱きしめ、ぎゅっと目を閉じる。
が、何の衝撃もやってこない。
というか、背中のリュックを、なにやらいじられている気がする。
そっと目を開くと、竜が堪えきれないかのように何度か息を漏らした。
巨大な口の端から牙と舌がちらりと見える。
――笑っているのだ。
竜の右手の中に、ちいさなちいさな箱がある。
途中で食べようと思っていた、自作サンドイッチのボックスだ。
『――まあ、これでいいだろう。娘の血肉となるはずだったこれが、我が血肉となろう』
竜はそう言い、爪の先でボックスを叩くと、三度目で急に箱の音が軽くなった。
長い舌でべろりと口の端まで拭うと、竜は目を細める。
『まあ、なかなかうまかった。及第点だ、シノノメ・サエ』
告げてもいない名を呼ばれても、相手は最上級の異形である。もう不思議さも覚えない。
呆然としていると、もう一度手が伸びてきて、ごくちいさな力で、二人の頭を触った。
気付いていなかったけど、ドラゴンも肉球があるんだな……。
などと、場違いなことを考えてしまうくらい、現実味が薄い。
再び息を漏らした竜は、ひとつ頷いた。
『――では、貴様の働きに対して、我が名も唱えよう。
我はヴィークロト。
ヴィークロト・ヴェステンシュ・ローヴルディーズ・ガヴェイラ』
長い名。その言葉は、力を以て脳に刻まれた。
『狭間の世界の調停者』、「ヴィークロト」として。
『ではな、人類』
竜は再び分厚い翼を広げ、ひとつ羽ばたきを打った。突風が渦巻く。
『その娘を大事にしないと、『扉』をぶち壊して貴様の目の前に出てきてやる。覚悟しろよ』
クワッっとその恐ろしげな牙の並んだ口をサエに開いてみせると、竜は真追いドル幻想生物たちにへ視線をやった。
『そこらの人類ども、帰るついでにヒズラギの相手をしてやるから、後始末ぐらいしてみせろ』
黒竜は長い首をもたげると、一度だけ、ドン! と前脚を踏みならした。
と、同時に、異形たちが一瞬動きを止め、びくりと体を震わせた。
そのまま、早戻しのように身を縮小していき、すべてのヒズラギや夢幻の生き物が、いつもの人間の腕程度のサイズに戻り、もう動きすらしていない。
地上に咲いていた白い花が一気に散り、強すぎる風が収まっていく。
舞い散る花の先で、霧が晴れるように、超幻想種の巨大な姿はかき消えていた。
ただ足を踏みならしただけにもかかわらず、この甚大な影響力。誰もが竜のたった一投足の威力に圧倒された。
と思ったところで、ユウカが走った。
見覚えのないスマートホンを尽きだし、鋭く叫ぶ。
「"――申請! 我が名と存在に於いて、貴様ら式に従え! 『封印実行』!"」
なんだその呪文!? と思う間もなく、一気に光は広がり、そのままいつものように画面へ収束し、ユウカの手元から音が鳴った。
ピロロローン♪
数十体いたはずのヒズラギが、一瞬にしてユウカの端末の中へ消え去った。
スイが驚いて言葉を漏らす。
「ユウカくん……、言葉遣いアレで呪文短くなってるけど……どういうこと……?」
「ああ、ソフトと端末が更新されたそうで、先生が持ってきてくれたんです」
「でも、あんな数のヒズラギ、普通のじゃ全部はいりきらないでしょ?
いままでのじゃ十匹くらいがせいぜいだし……」
「そうです、ですから、メモリーカードの容量も大きくなりました。というか、大きいものを端末側が認識できるようになりました。
つまり、一挙に、捕まえられるものが約四倍程度になったわけです」
「……おそるべし、ガジェット進化……」
などと言っているユウカとスイたちに、マナミと、それを横で支えるサエが合流した。
マナミはスイに早速遊ばれている。銀髪を触っていいか尋ねられ、許可を出したと思ったらおもちゃにされ放題だ。
ほ、とため息をついたサエは、ふと、とある可能性に気付いた。
ユウカに小さく尋ねる。
「――っていうか、あの……。――タイミング、良すぎない?」
「なにが? 新しい端末のこと? 新しい呪文のこと? 一気にヒズラギを捕まえたこと?」
「――おまっ……ほんとに、全部……?」
思わず言葉を失うサエに、ユウカは涼しい顔で、当然だというように続ける。
「そりゃあ、ドラゴンとまで話すようになった親友のクライマックスくらい、ちゃんとお膳立てできる男でありたいから」
「うれし、うれしくな、うれしうれしくないなぁ!!!」
ユウカは相変わらず、そんな感じであった。
ちなみに、らいな先生はもっとひどかった。
白衣とヒールを拾い、ダッシュで近寄ってきたかと思ったら、
「ひょえー! ほんと? ほんとに? 相手の名を聞いたのか? 名前を覚えられたのか? ドラゴンに? 本物の"超幻想種"に!?」
混乱しているのか、驚いているのか、いつも通りなのか、自分の赤い髪をしきりに引っ張っりながらそう言った。
そのままあわあわと拾った白衣に袖を通すと、いくらか落ち着きを取り戻したようだ。
む、と顎に手を当てると、しみじみと言う。
「サエよ、お前は普通が取り柄だったのに……!」
「先生、それ、全然うれしくないです」
ユウカは姉に端末を見せびらかし、先生は駆けつけてくれた他の免許保持者たちに適当なことを言っている。
サエは、気が抜けたように『扉』が現れた場所を見つめている彼女に、そっと声を掛けた。
「――御先さん」
「! ひゃっ、な、なに!?」
なぜか非常に驚いて、顔を真っ赤にするマナミである。
「? どうしたの? 怪我とかは……してないんだよね?」
「してないしてない、してないけど……」
真っ赤なまま、きゅっと濃紺のスカートを両手で握って、視線を地面に送る彼女。
「し、東雲くんが、東雲くんが、だって、いろんなこと、いろんな……わたしに……」
「っ――――!!」
そうだった。
はずかしいことも、好きだということも、もっとすごいことも、彼女を止めるために何度も告げてあるのだ。
お互い赤くなるしかないが、先に気を取り直したのはサエだった。
「っ、だけど、あれは、全部ほんとだから! 本気じゃない事なんてひとつもないから!
――信じてくれる?」
サエのまっすぐな視線を受け止めて、彼女はまた赤くなる。
その時、後方から煌めくものが建物やフェンスの輪郭を輝かせはじめた。
西の空へ紺色の夜が追いやられ、東の空が淡い白から黄金を帯びてくる。
何度も見ているはずなのに、今日の彼らはその場で東を向き、ただ無言でそれを迎える。
サエは手を伸ばし、後ろから両手でぎゅっと彼女を抱きしめた。
マナミは驚いたように振り向いて、はずかしそうに目を少し伏せ、けれど、応じるように笑ってくれた。ふたりとも、耳まで赤い。
柔らかな銀髪と、彼女の体温を抱きしめながら、サエは陽の昇る姿を見た。
二人で同じものを見つめる。
闇を払う鐘の音が、聞こえだした。
――カラーン リンゴーン
カラーン リンゴーン
カラーン リンゴーン…………
取り残され、しかし、生き続けなければいけない人々の一日が今日も始まる。
歩きだすのだ。
この手の届く、せいいっぱい、大切なものたちを守るために。
透明な蒼い空に鐘の音が響く。
――――夜明けだ。
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