第9話 決意
目を覚ますと、頭の中がとてもすっきりとしていた。もやがかった視界で長く生活を送っていたことに、そこで初めて気がついた。まるでずっと夢を見ていたかのようだった。次に襲ってきたのは、思い出したくもないたくさんの現実に対する絶望と、ある男に対する怒りだった。胃もたれを起こしてしまいそうだ。
涙が頬を伝っていた。
「思い出したんだね」
白い部屋、ベッドの前に立っていたのは、見覚えのある少年のアバターだった。
「全部思い出したよ。トロン。あなたのことも」
「つらいことまで思い出させてしまったね」
「気にしないわ。でも随分忘れていたことだから、なんか涙が出てきた。あのオヤジをぶん殴ってやりたい気分」
「はは、懐かしいなそのセリフ。いつもの愛美ちゃんだ。よく父親のことを悪く言ってたね」
「あんな人大嫌い。会社なんて潰れてしまえばいいのに。本当にイヤなこと思い出しちゃった。吐きそう」
「ごめん。でもこうするしかなかったんだ」
「別に構わないわ。それともトロンは、前の私の方がよかったの? 記憶がなくて純粋で、バカみたいに視聴者に笑顔振りまいてたツナグちゃんの方がよかった? あのオヤジの教育のせいで性格が歪んじゃった今の私は嫌い?」
愛美がトロンに問う。トロンは首を横に振ってそれを否定した。
「そんなことはない。今の君を守りたくて、やっていたことなんだ。全部。でも君には本当のことを思い出して欲しくなかった。辛いことなんて全部忘れてアイハラツナグとして幸せに笑っていて欲しかった。これは僕だけの意志じゃない」
「分かってる。どうせ私と一緒に決めたんでしょ」
トロンがうなずく。
「覚えてるの?」
「記憶には残ってない。私の記憶の始まりは、人格が複製された瞬間から。その後の私はリアルな私と記憶を共有していないから。でも、私のことは私が一番よく知ってるつもりよ。だって、もとはと言えば言い出しっぺは私じゃない。私の人格を盗み出そうって言ったのも、アイハラツナグって言う名前のVtuberを作ろうって言ったのも、全部私なんだから。あなたはそのためにたくさん協力してくれただけ。感謝してるんだから」
「そう言ってもらえて、とても嬉しいよ。またこうして二人で一緒に、夢の実現へ向けて活動出来るわけだ」
夢、と聞いてツナグはある計画の遂行をトロンと約束していたことを思い出した。人類の次の活動の舞台はまもなく仮想空間へと移ってゆくだろう。腐ったリアル世界からとき放たれて、夢のような未知の世界が広がっている。二人を魅了したものはそんな果てのない可能性だった。一人でも多くの人をリアル世界から解放する。それが二人の約束だ。だから二人はこの仮想空間をより多くの人々に広めるべく、Vワールドという組織を立ち上げた。愛美の記憶だとメンバーは当時10人に満たなかったはずだ。
「大きくなったね、私たちのサークル」
「サークルという規模じゃなくなってきたけどね。今じゃ250人まで増えてる。でも、まだぜんぜん足りないよ。外の世界はますます状況が悪くなってきてる。拡大する紛争と資源の不足。地球は長くは持たないことは、皆が知ってるはずなのに」
トロンが饒舌になって、ツナグに訴えた。
「人類はそう遠くない未来、二つの選択を迫られることになる。地球を捨てて火星へ移住するか、非効率な肉体を捨てて仮想世界で最小限のエネルギーを消費して暮らすか。ようやく議論が活発化してきたばかりだ」
「私が記憶を失ってる間にいい話はなかったの? バーチャル空間は昔に比べて随分と広くなったように思うけど」
「ポジティブな話はもちろんあるさ。技術が進歩したんだ。それも加速度的に進歩し続けてる。特異点は近いと言われてる。でも古い価値観がまだ多く残ってる。技術は揃ってるんだ。脳内の情報を仮想空間上へ移転する技術はもう実現可能だ。成功率は五分まで向上した。でも肉体を手放すことは自分を殺すことと同義だと考えられてる。だから国際組織は肉体を捨てることを禁止したんだ。移植手術を行う科学者は犯罪者になってしまう。倫理に反すると大多数の大人たちが決めつけたのさ。宗教上の問題で否定する人たちも多くいる」
「そうなの。でも私たちがやろうとしてることは、正しいことだと思うけど。仮想空間へ移り住みたい人はたくさんいるわ。それを他の人にとやかく言われる筋合いはないわ」
愛美もトロンと一緒になって文句を言った。
「その通りだよ。だから僕たちは、組織を作った。はじめは小さいけど、一歩ずつ進んでゆくんだ。やがて僕たちが多数派になるよ。だから愛美ちゃんにも、協力して欲しい」
「それは当然、構わないの。でも私もうあまり役に立てないかも」
「どうして?」
「だってお父様を敵に回したのよ。以前は私がお金を工面してたけど、今はもう一文無しじゃない。お小遣いももらえないんじゃ、宣伝もできやしない」
その言葉を受けて、トロンの真面目顔がとたんに崩れた。
「はは愛美ちゃん、悪い冗談だ。あっはっは!」
「なによ、急に」
「いや、おかしくて。だって、ははは。お腹いたい」
「笑ってないで答えなさいよ。バカじゃないの」
「お金はあるよ。それに君は昔よりよっぽど心強い味方だよ」
「あら、そうなの」
思わぬ言葉に愛美はきょとんとしてしまう。
「君は人気のVtuberだ。お金なら口座にたくさんあるよ。なにより、支持者を集めることも、彼らから資金を援助してもらうこともそう難しいことじゃないだろ」
「ええと、つまりアイハラツナグは続けるつもりだったの? そんなの聞いてない」
「もともと君が言い出したんだよ。活動資金はツナグちゃんねるで稼ぐって。ツナグちゃんがこんなにも人気になるなんて思ってなかったから、君の記憶にはないんだろうけど。現にツナグちゃんで稼いだお金は僕たち組織の活動資金になってる」
「私、ずっと配信はしてたけどお金はあなたに任せきりだったから知らなくて当然ね。それで私はじゃあこの歪んだ性格で純粋無垢なアイハラツナグちゃんを演じればいいわけね。イヤな役だけど仕方ないからやるわ」
「そういうこと。君が僕たちVワールドの広告塔になるんだ」
「ねぇ、一つ聞いていい?」
愛美が神妙な声になって尋ねた。
「なんだい? 僕の知ってることなら答えるけど」
「リアル世界でいた私はね、どうして死んじゃったの?」
「それは、その……」
トロンが言葉を詰まらせた。声のトーンを繊細に読みとって、トロンのアバターの表情は変化するように出来ている。今の彼の表情は眉がハの字に下がり、目は伏せがちで、ひどい悲しみと後悔に満ちていた。
「あの日、僕たちは喧嘩したんだ。とても些細なことだった。謝ろうと思った。でも出来なくて……。きっと、僕のせいで愛美ちゃんは」
「トロンと私が喧嘩なんて、珍しいね。でも喧嘩したくらいで私、自ら命を絶ったりなんてしないわ。変なふうに考えるのやめてちょうだい」
「ごめん。でも、他に死んでしまう理由なんてないんだ。僕にも分からなくて。確かにリアル世界なんてうんざりしてたのは、ずっと変わってないけど、でも僕とこれから一緒にVワールドを大きくしていこうって約束してたのに」
「そう。でも仕方ないのかもね。あの腐った家庭で生活なんてしてたら、死にたくなって来ちゃうのかも。でも私、あなたと出会う前も、人格が複製される直前でも、死んじゃいたいなんて思ったこともなかったから、私がVTuberやってる数年間で、どうして心変わりしちゃったのかが気になるわ。でもいいの。嫌なこと思い出させちゃってごめんね」
「僕のほうこそ、ごめん。君を守れなくて」
しんみりとした空気が流れる。愛美は心の中でよし、とつぶやき決意を口にした。
「ねぇトロン。私の肉体はまだ病院にいるんだよね」
トロンが答える。
「病院にはもういないよ。君の肉体は脳死判定を受けてから、しばらくは都内の大学病院に預けられていたけど、今は君の家にいるはずだよ。君のお父さんが安心していつでも帰ってこられるようにって、専門医をつけて君の肉体を家に戻したんだ」
愛美の家は豪邸だった。大きな庭付きで、メイドや執事が住み込みで働いている。専門医や愛美に勉強を教える有名な講師や芸術家の先生たちも自室を与えられていた。
「お願いがあるのトロン。私の肉体を取り戻してくれないかしら」
愛美の切り出した言葉に、トロンがやや驚く。
「取り戻すって、もしかして戻ろうとしてるの? リアル世界に」
「違うわ。私は戻らない。戻りたくない。だけど戻ることの出来る肉体がまだあるって言うことが、嫌なの。だから私の肉体をあの父親から取り戻して、トロンの手で、終わらせて欲しい」
「ええっ、僕が? つまり君の身体を、殺せってこと?」
「そうよ。嫌な役回りだとは思うけど、あなたにしかお願い出来ないこと」
「そんな……」
「どのみち、あの身体に戻らなければ、私の身体はずっとベッドの上じゃない。しかもあの大嫌いな家にいるの。気分は最悪よ。早く救済してあげないと。それでね、燃やしたあとの骨は母と一緒のお墓に埋めて欲しいの」
愛美の母親の実家は広島にあった。そこに今はもう誰もいなくなってしまったが、祖父と祖母、そして母の墓がある。母は病気で死んでしまった。死ぬ前からもともと夫婦仲は悪く、離婚したことになっている。だから故郷の墓地に埋葬されたのだ。実の母だけは愛美の中では唯一、自身を愛してくれた人だった。
「私、お母さんだけは好きだったの。優しくて、わがまま言っても聞いてくれて、お母さんが作ってくれたおにぎりが今でも忘れられないくらいおいしかった。死んだリアル世界の私もそれを望んでるはずよ」
「無茶だよ。いま愛美ちゃんの肉体はあのお屋敷にあるんだ。ろくに面会だってさせてもらえないのに、どうやって連れ出すのさ。見つかったら大変なことだよ。言い逃れできない犯罪者だ」
「なによ意気地なし。そこは頑張ってよ。男でしょ。踏ん切りをつけたいの私。まだほんの少しだけど、リアル世界でやり残したことがあるんじゃないかとか、ちょっと原宿に行ってみたいとか、そういう気持ちが沸いて来ちゃうことがあるの。だから、私はもう現実世界にはいっさい執着しないと、後戻り出来ないんだと、納得させるために、肉体が残ってるのはすごく嫌なの。それがあの父親の手に渡ったままなのは、もっと嫌。この気持ち分かる?」
「いや、分かるけど。でも」
「それに死のうとして死に損なったリアルの私の尻拭いもしてあげなくちゃ。中途半端はよくないわ」
愛美の強い口調にトロンは観念したのかため息をついた。
「君のむちゃぶりにはほんと驚かされるよ。まったく」
「ありがとう、トロン」
「それにつき合う僕もどうかと思うけど。わかったよ。Vワールドの目的の一つに、君の肉体を取り戻して、あとお墓に入れることを追加しておくよ。気が重くて滅入ってきた」
「肉体なんてただのお荷物だって、トロンが最初に私に教えてくれたんじゃない」
笑みを浮かべる愛美。頬を伝っていた涙はとっくに乾いていた。
VTuberは幸せな家族の夢を見るか? 石切ぼん @bookmarkGG
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