C 青文魚
彼が飼っている小さな恋人の存在を、私は長いあいだ少しも知らずにいた。
彼の部屋には彼に到底似つかわしくないインテリアがひとつだけあり、その無機質で小さな水槽のなかには黒い尾ひれの彼ないし彼女が沈んでいる。覗き込む私の存在などおそらく見えておらず、飾りのない万華鏡の内部にいるような感覚。沈んでいるというのは、あくまで陸上に生きる私の目から見て、だ。
青文魚という、目の利く人々のあいだでは当然もてはやされる美しい種の金魚である。老成すればするほど、その青とも黒ともつかないしっとりとした尾はしなやかに伸び、鱗は青銅を磨き上げたような鈍くも艶やかな輝きを放つようになる。老いて白く色を変えるものは白鳳、褪色のしかたによっては羽衣とも呼ぶ。普段無口な彼の饒舌なことを見れば、彼がいかにこの水槽の住人を愛しているのかは明らかだった。別れ話をするために初めてCの自宅へ赴き、そこで目にしたのが彼の最愛のものであるとなれば、私の自尊心はかなり深いところまで傷つけられた。だからこそ、彼を手放すのならばその最愛も、同じように奪うべきだと考えたのである。
Cはベッドの上から、水槽をじっと見つめる私の背中を眺めている。事後の気だるさを表現する紫煙の香りにはもう慣れきってしまい、私は彼の寝煙草を指摘することももうやめにした。そもそも彼が私の言葉に従ったことなど一度としてなく、共に寝る夜には極まって私は彼の苦い舌と咽喉への負担を密かに覚悟しなければならなかった。とはいえ、それは彼と距離を置こうという本質的な理由ではない。むしろ、別れるために赴いた部屋でやはり抱き合うことを了承させられているこの状況、Cが私に見せる彼の幻想に私は深い危機感を覚えているのである。彼は私を追い出すでもなければ、私の言葉が真実であるのかどうかを確かめることもしない。ただ黙って、私の背を見ている。……いい鱗をしている、と呟いた私に向かってCは短く鼻で笑うと、そのよさが本当に解るのかと訊いた。彼の言葉は常にその本質を隠すように挑発的で演技的であり、しかしそれを周囲の人間には微塵も悟らせないことにも恐ろしく長けている。それだけで私はなぜかCにそれ以上言葉を返すことができなくなるのである。
水槽から離れた私はCが横たわるベッドへと戻った。Cはそれが当然であるかのように、私を今一度乱れたシーツの上に組み伏せ、キスを要求した。煙草の火はいつの間にか素焼きの灰皿の上で絶えている。……欲しいものは何でも手に入るという態度だな。
事実だからさ、望めば手に入る、俺はそういう生き方をしてるんだよ。……それは、羨ましいね。欲しいものがあるなら云えよ。聞いてやる。……先刻(さっき)の話、うやむやにするつもりなら帰るよ。
Cは彼の下から這い出そうとする私の腕を掴み、顔を近づけてくる。うやむやになんかしないさ、最後だから欲しいものをくれてやると云っているんだ。あるなら云ってみろよ。……本気で? 私はちらりと部屋の隅に視線を走らせた。青白く光る水槽のなかで、Cの最愛は相変わらず絹のような尾ひれを揺らめかせている。
あの水槽。……へえ、本気か? Cは驚いたふうもなく私の顔を覗き込んで笑った。冗談だと思っている素振りだ。生きものは手がかかるぜ。おまえ、餓鬼の頃に世話した経験は。……さあ、金魚だと思って飼っていたのは実は鮒だった。よくある話だな、縁日の出店なんかで買うからさ。……話を逸らすなよ、結局どうなんだ。……いいよ。くれてやる。Cはあっさりと頷いて私の上から退いた。安堵と、幾分拍子抜けした思いで私は上体を起こす。……大事にしているのかと思った。
何を? その金魚、……あっさり了承するものだとは思えない。欲しいと云ったのはおまえじゃないか。……そうだけど。
Cはベッドから降りて水槽の前まで行くと、おもむろに水のなかへ手を差し入れた。鈍い青に光る尾ひれが見えなくなる。私はぎょっとして彼の行動を見守った。水中から引き出されたCの手には彼の最愛が愛おしげに包まれていた。
こいつを呑みこんだおまえを、俺がもらうってのは。……呑みこむ? そのままの意味さ。そんなこと、できるはずがない。魚も死んでしまう。
できるよ。こいつの鱗は思ったより硬いんだ。おまえのやわらかい咽喉なら傷つかずに済む。……云っている意味が解らない。……ふうん。これでも。
私は狼狽えるあまり逃げ出す機会を失ってCの腕に捕まった。黒い魚を包んだ手が私の口に触れ、生臭い水が唇を濡らす。けれども頑なに閉じていたはずの口は彼が腋窩をくすぐると簡単に緩み、ひくひくと微かに呼吸する黒い個体をあっけなく受け入れていた。そのまま口を塞がれる。……拒むなよ、きちんと呼吸しろ。苦しくなるぜ。Cの手があやすように私の咽喉と胸を撫でつけると、口のなかのものはその意思があるように私の咽喉へと滑り落ちようとする。抵抗しようとして果たせず、私はCによって組み伏せられたまま虚ろな目で彼の顔を見つめた。彼の云うようにきちんと息をすることを意識すれば、咽喉の苦痛は途端に遠のいていった。確かに拍動する魚の皮膚が私の咽喉の粘膜と混ざりあいながら躰の奥へ沈んでいく。呑みこもうとしているわけではないのに、私の咽喉は悦楽に震えながら彼の最愛を体内へ送ろうとしている。震えは間もなく全身に達した。私はCの躰の下で悶えたが、彼は相変わらず私の咽喉と胸を愛撫しているだけだった。……ほら、簡単なことだっただろう。あの魚はもうおまえのものだよ。Cが耳元で囁く。不思議なことに、魚はどういうわけかまったくその存在感を失っていた。臭いさえももはやしない。
……どういうことか説明してほしい。私は掠れた声でCを問い詰めた。だから、おまえが欲しいと云ったんじゃないか。対等な取引だよ。あの魚を呑んだおまえを俺がもらう。……食いたいとは云っていない。でも、よかっただろう。Cは真面目に取り合う気がないのか、私の隣りに横たわると二本目の煙草に火を点けた。……何を呑まされたのかはっきりしない。だから、おまえが欲しがったものだよ。……青文魚。へえ、もう名前を覚えたのか。あれも、手に入れるのに苦労したんだ。上手く生かすのにも手がかかる。そういうものはあっさり手放したくないんだよ。俺も人間だからな。
……無下にしたじゃないか。そうかもな、でも、今はおまえの一部だ。
私はCの肩越しに部屋の隅を見た。空の水槽だけが青白い光を放っている。……あの魚に名前はあったの。尋ねるとCは短く笑った。……わざわざ訊くなよ、もうおまえ自身のくせに。伸びてきた大きな手が目を覆い、離れる。白い電球の光が降り注いだ。そのときふいに、私は、自分が万華鏡のなかにいるような気がした。
掌編集 翳目 @kasumime
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