B アイスクリーム・ケーキ
大学生の時分、どうしても忘れられない会話がある。
当時私が所属していたバドミントン部で、新入生の歓迎会と称して部室でしこたま酒を飲んでいる年上の部員と、それに必死に喰らいついていく奇特な後輩たちを尻目に、私とBは四畳半ほどの狭い空間の隅っこで、黙り込んでいた。なにも口を効かない理由はなかったが、同じ部に参加しているからといって必ずしも仲がよいわけではない彼とは、たとえ酒の力を借りても気安く声をかけたりふざけ合ったりすることができなかった。なにより私が彼を、ただの同級生、ただの部活仲間という存在以上に意識して日々を送っていたことが、彼を前にしてつい人嫌いであるかのように、あるいは虫の居所が悪いのが常であるかのように振る舞ってしまう原因でもあった。そのため私は彼による私の評価に微塵も期待をしておらず、未熟な青年であるおのれを時折嫌悪しながらも、彼の眼中から外れることで許されるこうしたささやかな幸福を享受することでひととおりは満足していた。麦酒の缶をたわむれに中指で弾いていた彼が、私にしか聞こえない声で私の名を呼ぶなど想定していなかったのである。
……ケーキが食いたいな。すでに用意されたオードブルは粗方食べ終え、加えて年季のはいったガスコンロのうえでは刺激の強い匂いをただよわせて鍋が煮えている。……ケーキ? 聞き間違えならば訂正されるだろうと、私はあたりさわりなく鸚鵡返しをした。Bが私を話し相手に選んだということに狼狽え、いつも意図的に低く発していたおのれの声音のことなどすっかり忘れ去っていた。
……そう、冷凍庫で冷やしてから食べる。特製のアイスクリーム・ケーキ。諸星は、食ったことある。Bは無表情で、とても好みの食べ物の話をしているような顔ではなかった。そもそも、周囲の年上の部員たちよりも遥かに大人びて見えるこの二十歳の青年が、子供が夢見るような不思議な設定付きのケーキを好んでいるということも私にはよく理解できなかった。
……見たこともない。……美味いの? 私は好奇心を素直に表現した。Bに不快感を与えないためにはそうするのが最も懸命だと思った。Bのことを慕っている私には、若者がよくやりがちな方法で茶化すなど到底考えられなかった。……べつに。感動するような味じゃないぜ、きっと。凍らせるなんて子供が好きそうなだけでさ。……でも、どうしてもそれが食べたかったんだ。
Bは私の顔には一切目をくれなかった。缶麦酒をひとくち煽り、部屋の中央に置かれたガスコンロの火を見つめている目には生気がない。もとより物静かな男ではあるが、そのときのBの雰囲気は私にしか解らないほど微かであっても異様だった。そしてBは、私が彼の横顔から目を離せなくなっていることにも気付いていた。
……兄が十歳の誕生日のときに、……うちはいつもそうするんだけど、カタログをみて誕生日ケーキを注文するんだ。好きなのを選んでよくて、俺だって自分の誕生日には選ばせてもらってたけど、子供だから羨ましくて兄が選ぶのを横から見ていた。兄は夏生まれだから、……たまたまカタログに載ってたんだ。その、凍らせて食べる特製のケーキがさ。俺は自分の誕生日でもないのにどうしてもそれが食べたくて、……兄は自分の好み通りにチョコレート・ケーキを選んだんだけど、それすらなぜか気に食わなくて不貞腐れてた。兄は俺に対していじわるじゃなかったけど、そういうときの過度な甘やかしもしない。だから解っていてなにも知らないふうをしていた。俺だって数日もすればそんなこと忘れかけていた。
Bがなぜそのような話をはじめたのか私には考えが及ばなかった。春とはいえまだ肌寒い季節に、エアコンなどないこの古い部活棟はどこの部屋でもストーブを焚いている。Bが(おそらくは)敬愛している夏生まれの兄のこと、そしてそのとき食べられなかったアイスクリーム・ケーキのことを思い出すよすがなど、どこにも見当たらない。
……ところがさ、いよいよ来週には兄の誕生日という頃になって、いきなり兄が両親に駄々をこねはじめた。やっぱり、カタログにあったあのアイスクリーム・ケーキが食べたいって云うんだ。両親は面食らってたよ。……俺だって唖然とした。ふだん兄は、そういうことで両親を困らせたりしない子供だった。……運がいいことに、両親がケーキ屋へ電話をかけてみたら、むこうも快く承知してくれた。……兄は喜んでいた。俺はどうしても腑に落ちなくて、でも兄にそれを云うことも出来ないままだった。例のアイスクリーム・ケーキが食べられるんだと思っても、兄が喜んでいるようには喜べなかった。なぜか、ひどい罪悪感のようなものを感じてた。
……それで。私は耐えきれなくなって口をはさんだ。……そのケーキ、食べたんじゃないのか。結論を急かしながら、本当はその先を聞いてはいけないという予感めいたものがあった。この話の結末は、決して私が望んでいるようなものではないのだという気がしていた。その予感はほとんど的中していた。Bは私のほうをちらりと横目で見やり、またガスコンロの火へと目を戻した。私は動けなかった。
誕生日の二日前に兄が交通事故で死んで、注文はすぐにキャンセルされた。俺はまだ小学校に上がったばかりで、兄が死んだってことが解っててもそれが日常にどんなふうに影響を与えていくのか考えるほどの想像力がなかった。……しばらくして、ケーキのことを両親に尋ねた。……解るだろう。そのときの俺が、ふたりにとってどれほどおぞましく利己的に映ったか。
Bはふいにこちらを向き、私の肩に腕を回したかと思うと思いがけず強い力で抱き寄せた。彼が手にしたままの缶麦酒が背中にひんやりとした感触をもたらす。私は動揺のあまり口が利けなかった。Bがなにを考えているのか、この状況をどう捉えるべきなのかも考えられないほど狼狽えているにも関わらず、愚かな肉体は勝手におのれの浅はかな正体を曝け出そうとする。……俺は兄が好きだった。諸星は、どことなく兄に似てる。もはや悪ふざけの域を超えた強い抱擁に、私は自分の理性が脆く崩れ去っていく音を聞いた。そこには私たちふたりだけでなく大勢の部員がたむろしているはずだったが、なぜか誰ひとりとして私たちのやりとりを見咎めない。Bは私の躰を離したあと、みずからの掌に舌を這わせた。その仕草の淫猥さは明らかに私を意識して形作られたものだった。Bは唾液のついた掌で私の口を覆った。息苦しさに呼吸を乱しながら私はBの唾液を舐め、それを満足そうにみつめるBの目を見つめ返した。……直接がいい。
口付けの心地よさに酔いながら、私はみずからの劣情がすべてBに見抜かれていたことを遅ればせながら察した。たとえBにとって私が彼の兄の後釜に過ぎないとしても、それは些末なことだった。呪いと化したアイスクリーム・ケーキの記憶などより、よほど幸福ななにかをBに与えることができると、他でもない彼自身に信じられているというのならば。
呪いを祓う意味合いもこめて食べたアイスクリーム・ケーキは、Bが云ったようにとりたてて感動的な味でもなく、男ふたりで平らげるにしてもなによりその冷たさが一番の障害になるという代物だった。私もBも切り分けたぶんだけ食べて匙を投げてしまい、後日Bが疎遠となっていた実家の仏壇へ供えに行くことになっている。
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