掌編集
翳目
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A 鳥籠
硝子張りの鳥篭なんて見たことがない、とAは私の躰の傍に手を突いて云った。半端に開けた窓の枠が四本、明かりの落ちた部屋で格子のように見えたというだけで、浪漫主義とも感傷的ともいえない発言を性懲りもなく零す私に、Aは扱いに困ったといいたげな顔をする。そうして、口のなかにあった煙を私の胸のあたりへ吹きかけた。……鳥籠っていうのはさ、云うまでもなく囚われの暗示なんだ。あんたを捕えているのはいったいなんだよ。ここは、あんたの部屋だぜ。話を広げるAの顔を私は少し意外な心持ちで見上げた。根拠もなく埒のあかない心象の話などより、マイナーバンドの演奏を審美的にあげつらうことに情熱を傾けそうな若者であるAが、そういった話題にはてんで疎くいまのようにくだらない心理表象を零しがちな私に対してささやかな配慮をしたのだということに僅かながら驚いていた。ともすればもっとも傷つくような、若者特有の曖昧な顔で微笑まれるのだろうと考えていた私にとってそれは想定外の反応だった。
……雨が降っているね。……窓を閉めようか。
Aが饒舌になるほどに私は口をひらくことを躊躇う。眠っているときには彼の呼気だと思っていたものが、目覚めれば明白な雨音だった。雨水に冷まされた外気が半端に空いた窓の隙間をすべりこみ、シーツに横臥した私の素肌を震わせる。どうして。……鳥籠が台無しだぜ。Aは揶揄っているのに違いなかったが、私は先刻のおのれの言葉をいますぐふたりの記憶から消し去りたいと本気で考えていた。寒いんだ。……もしくは、服を貸してもらえるとありがたいけれど。切実な願いだったのだが、Aはなにか満足そうに笑って二本目の煙草に火を点けただけだった。ライターの火が点る一瞬だけ、青黒い闇のなかにAの端正な顔が浮かび上がる。狂いのない曲線を描く輪郭、伏しがちな目元、歪みのない鼻梁、唇、耳の形。その全てが私を魅了してやまない。その瞬間ばかりはおのれの躰が訴えるさまざまな苦痛を完全に忘れ去った。Aより幾らも長く生きているというのに、私は未熟な若者と同等か以上に即物的で浅はかな性分なのである。……寒いならさ。Aは煙草をはさんだままの指で(おそらく、薬指と小指。)私の背のくぼみをくすぐる。服よりもっといいものがあるだろ。典型的にもったいぶった云い方。肌と肌を合わせると云いたいのだろう。あるいは云わせたいのか、そう考えていた私の視界に至らないところでAがなにかに手を伸ばす気配がした。
背に落下したものがなんであるか瞬時に理解したときには、点々と痛覚を伴う熱がささやかに背中を襲った。声を上げるほどでなかったにせよ、その暴挙には肝が冷えた。……なにを。煙草をまた口にくわえたAは、振り仰いだ私の顔を見下ろしていた。その目がまだなにかよからぬ企みを秘めていると思われた。そのときにはすでに、私の躰には雨よりも質量のあるひと掬いの水がぶちまけられていた。咽喉を潤すためにグラスへそそがれていた水が、私の青白い肌のうえで四方に弾け飛ぶ。皮膚を撫でる風が水滴を攫おうとするたびに下腹部の臓器から心臓にかけて耐えがたい震えが走り、私はグラスを置いた彼を振り仰ぐ力を失ってよれたシーツのなかに頭をうずめた。その一連の作業のあいだ一言も声を発さないAは、灰と水で汚れた私の背中へみずからの躰をのりあげた。……鳥籠ってのはさ、硝子張りじゃだめなんだ。灰が混じったざらざらとした感覚がAの腹と胸、そして私の背と腰のあいだでいいように弄ばれている。……どうして。囚われたおのれの姿が見えてしまうからさ。誰だって、囚われていることに気付けばそこから出たいと思うだろう?あんたが自分のなかに飼っている鳥もさ、逃がしたければ逃がしてしまえよ。
……なにが云いたい?
私の不穏な問いかけを最後に、Aはまた黙り込んだ。その代わり雄弁な若い躰は呆れるほどの情熱をもって様々なものを私に要求し、与えるまでもなくそれらを奪い取ろうとしていた。私はただAが求めるままにすべてを差し出し、彼がそれに満たされるときを待つだけだったが、私が飼っている鳥とはいったいなんのことなのかそればかりがいつまでも気がかりだった。
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