Undine

前花しずく

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 私はいつの間にかそこにいた。

 どこで生まれ、どうやってここにきたのか、いつからここにいるのか、ここはどこなのか。何も分からなかった。

 分からない、という言葉は適切じゃないかもしれない。最初の私には自我すらもなかった。思考そのものが存在していなかった。

 私が最初に認知したのは、耳に残るザラザラとした音と、冷たいという抽象的な感覚だった。やがて、私はそれが水の感覚であったことを知る。

 私はどうやらずっと水の中にいたらしい。ザラザラとした音――波の音が、心地よく響き続けた。まだ身体を持たなかった私は、直接その音を、温度を感じていた。

 その日、私は何故だか、おもむろに上を目指したくなった。海面などというものもまだ分かっていなかったものの、無性に、何かに突き動かされたように、私は上を目指した。水の天井には思いのほか早く到達した。

 まだ水の中の世界のことすらもよく分かっていないのだから、当たり前のごとく水上は完全なる未知の世界だった。

 何もかもが新しかった。今まで世界のすべてだと思っていた水が下にたまっていて、経験したことのない景色が、感覚が溢れていた。水以外の物質が身体を包み、水を通さずに見る日光、まるで藻を何倍も濃くしたような、深緑の茂る大地。

 ――そしてそこで、私は彼と出会った。

 魚以外の生物を知らなかった私は、その奇妙さに興味をそそられ、近付いた。そして、泉の水を飲み終わって顔を上げた彼と目が合った。私が私の身体を初めて感じたのは、その瞬間だった。

 彼は私のことを見てしばらく固まっていた。驚きか、恐怖か。しかし、彼は悲鳴を上げるわけでもなく、半ば恍惚とした表情を浮かべ、手を大きく広げて少しずつ私に歩み寄ってきた。

「ああ、なんて美しいんだろう。あなたはきっとこの泉の精に違いない」

 泉の精。私は初めて私自身に名前を付けられた。初めて聞く「言語」なのにも関わらず、その言葉の意味と、その言葉が私のことを指していることは理解できた。

 彼はそのまま私に近付き、私の両手をとり、微笑む。その時、私は自分の腕を、そして自らの一糸纏わぬ身体を、自らの目で初めて確認した。自分が「女性」であるということを自覚したのもその時だ。

 急に今まで感じたことのない感情に襲われて、私は身体を隠そうとした。今思えば「恥ずかしい」という感情だったのだろう。彼はそんな私を見て、自分の外套をそっと私の肩に乗せた。

 彼はそのまま立ち去ろうとしたが、水の中から出てきたときと同じ衝動に襲われて、私は彼のすぐ後を追った。彼はそれに気付いても何も言わず、結局私は彼の家までついていったのだった。彼の家は小さな木の小屋で、壁には毛皮やなんかがかかっていて、床には斧が何本かと、干し肉が何切れか散乱していた。

 彼は何も言わずに私を家に上げ、まずは服を着るように促した。彼は一人暮らしであるため、女性が着るような服は持っていなかったが、私は彼に渡されたものを適当に着て、それなりの格好にはなった。

 彼はほとんど無口な人だったが、口を開けば「美しい」と言った。それが彼の口癖だった。

 彼はテオと名乗った。テオはこの森で猟をしたり、木を切ったりして生活していた。その時に出してくれた食事も、森でとってきた果実だったような気がする。

 なんでも、帝国の支配によって街の暮らしは困窮し、人々の心が荒んでしまい、そこに住むのも嫌になってしまったそうだ。ここには大した道もなく、落ち着いて暮らせるらしい。

 そんなわけなので、猟と言っても弾が手に入らないので、罠で猪などを捕まえているのみだ。一人で暮らしていたのだから、猪一頭でも何日かはもったに違いない。

 テオは一通り自分の話をすると、次に私のことを聞いてきた。当然の流れだ。でも、私はそれに対する答えを持っていなかった。

 名前を聞かれて、咄嗟にさっきのテオの言葉を思い出し、泉の精、と答えるた。テオは興奮した様子で「本当に? 」と訊ねかえしてくる。泉で会った時の言葉は、本気で言ったわけではなかったのだろう。

 その後も生まれはどこか、とか、どうやってここにきたか、とか、様々な質問をされたが、何一つ答えられなかった。ただ、私がしばらく水の中にいて、ついさっき上がってきたばかりだ、とだけ言うと、テオは本物の水の精だと思ったのか、とても喜んだ。

 行く当てがない、と言うと、テオは同居を快諾してくれた。テオが私に好意を抱いているであろうことはなんとなく分かっていた。もちろん、それがすべてだとは思いたくないが、テオも男だ、やましい気持ちの一つや二つ、あっただろう。


 それからというもの、連日、テオは森での暮らし方についてを私に教えた。弓の使い方や泉までの道も教わった。二か月もするとすっかり人間の生活にも慣れ、毎日森へ出かけるテオを支えられるまでになった。

 そんな私たちが夫婦になるのも自然な流れだった。もちろん結婚式などはしていないし、お互いに「いつから夫婦にだ」などと決めたりはしていない。ただ愛し合う二人がそこにいる、それだけ。

 子供ができると、少し事情が変わった。子供の食べ物や洋服を調達するために、テオがあれほど嫌っていた街に一週間ほど出掛けるようになったのだ。三日かけて街へ出て、切った材木を売って、市場でものを買い、また三日かけて帰ってくる。それを月に一回ほど行っていた。

 二年経って、二人目の子供が生まれると、テオが街に滞在する期間が長くなった。私も、子供二人分の物資を買ってこなければならないのだから、それも当然のことだろうと思っていた。

 でも、持っていく材木はどんどん増やしているのに、持って帰ってくる物資の量は前とさほど変わっていなかった。テオに聞くと、街での木材の価値が下がってしまった、と言う。私もそんなものか、と思っていた。

 しかし、私は何故かその頃から、テオを殺さなければならないという衝動に駆られていた。テオを愛しているし、殺す理由など微塵もないはずなのに、水の底から浮上してきた時のような、天からの囁きのようなものが、私に殺せ、殺せ、と迫るのだった。

 そのときばかりはその天命に抗おうとした。子供のために、何より彼を愛する私のために、今ここでテオを失うわけにはいかない。

 しかし、だんだんテオの様子に疑問を持つようにもなっていた。帰ってきてすぐは私と一緒に寝てくれなかったり、前に比べると素っ気なくなった気もする。「美しい」と言う頻度も格段に減った。

 そういうことの積み重ねと天の声が相まって、遂にある日、私は鉈を手に彼に迫った。彼はあくまで白を切るつもりだったようだが、私の形相を見て本気だと判断したのか、観念したように吐き出した。不倫だった。

 テオはご丁寧に、街のどこの娼館の娼婦とこういう経緯になってこういうことになった、と順を追って説明した。その説明はとてもテオらしいと思った。

 それを聞いた時、特に怒りは湧かなかった。人間に関わらず、雄は大なり小なり雌を追い求めるものであるし、それが悪いことであるとも思わない。

 しかし、天の声はより一層私の身体を強く支配し始めた。もはや私の意識で抑えられるレベルではなかった。

 振り降ろされた鉈は彼の首に食い込み、引き抜くと赤黒い血が噴き出した。それだけに飽き足らず、動かなくなった彼の脳天をかち割り、その場にあるだけの刃物を彼の身体に突き刺した。ズブズブと皮膚に潜り込んでいく感覚は、動物を解体する時とは違い、想像以上に軽かった。

 滅多刺しにすれば臓器が漏れ出てくるかと思っていたが、人間の身体は思ったより頑丈らしい。ただ赤黒い穴が増えていくばかりだった。

 テオの身体と溢れた血が完全に固まってから、それを見て騒いでいた、やんちゃ盛りの上の子も首を絞めて殺した。直前まで抵抗していたのに、あっさり動かなくなった我が子を見て、脱力した。夫と我が子を殺し、私の精神は、もう壊れた。

 下の子を抱いたまま、私は恐ろしく重い足取りで、あの泉を目指した。これは天の声でもなんでもなく、壊れた私の心が、傷を癒すために身体を動かしていた。泉に行けば傷が癒されるという根拠のない期待が、私を突き動かした。

 森を抜ける。鬱蒼とした黒い黒い森。醜い森。吐瀉物で描いた油絵のごとく。

 そこに、泉だけは、自ら発光しているかのように、その蒼い水面を光らせていた。それはあまりにも美しく、あまりにも神々しすぎた。

 そのまま、なんの躊躇もなく、泉の中へと入った。下の子は一瞬苦しそうにしたが、すぐにすやすやと眠った。

 水底は予想以上に遠かったが、なんとか辿り着いた。私の生まれた場所。期待通り、心は癒された。癒されたというよりは、心そのものが崩壊し始めたのかもしれない。

 腕の中にいる子供はもう動かない。暗くてよく見えない。見ようとも思わない。

 水は全てを包み込む。水は全てを無に還す。水は人を嘲笑う。醜い醜い、私たちを。

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Undine 前花しずく @shizuku_maehana

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