後日談 いつか母の手となる日

冬の都の夜には静かに雪が降る。海が近く比較的温暖だとはいえ、それでも寒さは厳しく、石造りの王宮の暖炉には火が絶えることはない。香詠がここに来て驚いたのは、暖炉の熱が温水を作り壁や床に張り巡らされて部屋の中がいつもぽかぽかと暖かいことだ。建物の中にさえいればまるで常春の国のようである。

ルイグンは下穿きをつけただけの姿で腰掛けに座り、香詠が手にしたブラシで毛皮を丁寧に梳かしていくのをじっと待っているが、それも寒そうには見えない。香詠も同じく夜着に簡単な上着を引っかけただけの姿で特段寒さは感じない。都育ちの香詠からすれば贅沢なことのようにも思えるが、ルイグンにそれを話したところ「これがなければ皆凍え死んでしまうのだ」と苦笑された。

「ルイグン様、心地の悪いところはございませんか」

そう声をかけながら、香詠は丹念にルイグンの毛皮をくしけずる。ルイグンは「いいや」と目を細めて、すこぶる気持ちが良さそうなので香詠も満足して肩から背中へとブラシをかけていく。

今や夫婦の夜の習慣となった毛皮の手入れも、本来は女官がしていたことだ。しかし、その様子を香詠があまりにうらやましげに見つめるもので、根負けしたルイグンが香詠にブラシを持たせることにした。呑み込みの早く器用な香詠はあっという間に女官から手つきを習い覚え、ルイグンのほうもすっかり陥落してしまった。

(……それにしても、広い背中。わたくしなどここで寝返りが打てそうです)

この仕事をはじめてから、香詠はルイグンの体格をありありと実感した。狼は体の大きな者が多いが、その中でもルイグンは王にふさわしき立派な体格だ。銀の毛並みも内から鈍く輝くようで、惚れ惚れしてしまう。この毛皮の手入れを任されたことは香詠にとって誇りだった。

腰までブラシをかけ終わり、はたと手が止まる。ルイグンは満足そうに軽く肩を回して立ちあがったが、香詠はまだ物足りなかった。

「……どうした、香詠」

香詠の様子に気づいたルイグンが問うので、つい夢見心地のまま口が滑る。

「あの、お腹のほうですとか、脚のほうはよろしいんですか……」

ルイグンは目をまるくして絶句した。それではたと香詠も我に返る。お腹は狼にとってたやすく人に晒す部分ではなく、脚とは下穿きの内側だ。ルイグンに全裸になって腹を晒せと要求しているようなものではないか。青ざめるところか赤面するところかわからなくなってしまう。

「も、申し訳ございません、失礼を……」

混乱したままただ慌ててそう言うと、ルイグンも目をそらして咳払いをした。その目のふちがじんわりと赤くなっているので、相当恥ずかしいことを言ってしまったらしい。毛皮のおかげで赤面はわからないが、付き合いが長くなってきたので香詠もルイグンの表情はずいぶんと読み取れるようになった。

「……まあ、その、なんだ。あなたの手はとても気持ちがいいので、いずれは、とは、思う」

ぼそぼそとらしくもなく歯切れの悪いつぶやきに、今度は香詠が耳を疑った。

「……い、いずれ? ……あの、いつごろでしょうか、上達するよう努力いたします」

背中のつややかな毛並みも素晴らしいが、胸やお腹の柔らかなもふもふもたまらないとかねがね思っていたのだ。思わず声が上ずる。触れるなら早く許されたい。

ルイグンは目を輝かせた香詠の様子に苦笑して、ふわりと身をかがめると腰掛けから香詠を抱き上げて寝台に運んだ。

「そうだな、上達といえば既に申し分ないが、あなたがもう少し大人になってからだ」

ぽすんと広い寝台に降ろされて、香詠はルイグンの言葉の意味を考える。手に持ったままだったブラシはルイグンが回収して櫛箱に収めた。戻ってきたルイグンをそろそろと見上げる。

「大人……とは、どれほどでしょうか。わたくし、これでも成人しておりますが……」

帝国では公主として封号も受け、立派なひとりの女のつもりでいた。それはルイグンが見下ろせば子供のように見えてしまうかもしれないが、嫁入りには十分な年頃のはずだ。だからこそ狼の国にも花嫁として送り込まれた。

飲み込めない様子の香詠に、ルイグンは困ったように首をかしげる。ゆっくりと寝台に腰掛けて、香詠の肩を優しく撫でた。

「帝国では、儀式ひとつで成人できてしまうのだったな。嫁入りも狼より早いと聞いた。……なんと言えばいいか、そうだな……」

自然に抱き寄せられて、香詠はルイグンの胸に身を寄せる。やはりふかふかでとても気持ちがいい。こうして身を寄せ合うことこそあるが、ルイグンと夫婦となってもうすぐ一年、いまだに睦みごとのあったためしはない。てっきりルイグンは人間の女にはそういった興味がないのかと思っていた。

「無礼を言ったならすまないが、その……今のあなたに、俺の子を孕んでほしいと思えないのだ。あなたはあまりに華奢で、まだ歳も若い。無理を強いて傷つけるのは本意ではない。もう少し、体が成長して丈夫になったら、そのときはあなたと俺の間に子を成せたら幸せだと思う」

慎重に言葉を選びながら、それでも率直に語られるルイグンの思いに、香詠もいったいどんな話をしているのかさすがに理解して思わず赤面した。とはいえ、ルイグンは真剣であり、かつ心底香詠の身を案じていて、さらには……子供がほしい、という意思をはっきりと示してくれた。香詠も恥ずかしがってばかりではいられなくて、ルイグンの胸に頬をうずめたまま小さくうなずく。

「あの、わたくしも……ルイグン様の子を産めたら、幸せです。この国に嫁してきたときは、夢にも思いませんでしたけれど……今は、心からそう思います」

ともに国をつくることにもやりがいはあるが、ただ一対のつがいとしてあたたかな家庭を築けたらどんなに幸せだろう。……あの日、物見高い民衆に見送られ、役人の列を率いて都を発ったときの悲壮な決意が、こんな形に優しく受け止められるなんて思ってもみなかった。香詠はにじんだ涙をごまかすようにルイグンの胸にしがみつく。かけがえのないものを得た。何もかもを捨てて尽くすと決めたこの国で、こんなにも大きくあたたかな想いで包まれて、捨てるどころかこぼれてしまいそうにたくさんのものを受け取っている。返したい、という素直な思いは、受け取っただけの同じものを、ではなく、あふれんばかりに注がれる愛情よりもっと大きな想いをこちらだって持っているということを教えたいのだ。香詠はルイグンに救われた。おのれが抱えていた寂しさに、かたくなに歪めてしまっていた決意に気づかされ、やわらかくほどいてくれた。ともに歩むということを、教えてもらった。

ルイグンが香詠の頭を優しく撫でる。はじめはぎこちなかった鋭い爪の手も、もうこんなにも自然に動くようになった。じきに可愛らしい狼の子を抱き上げるだろう。香詠もまた、我が子の柔らかな毛皮にブラシをかけることになる。

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銀狼王に捧ぐ炎 伊藤影踏 @xiaoxiaoque

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