第12話 和親

 自ら茶の鍋を提げて部屋の入り口に現れたルイグンを、香詠はちらと視線をあげて見ただけでふいと顔を背けてしまった。寝台の上で膝を抱えてじっと座っている香詠に、ルイグンも何の言葉をかけるでもなく戸口をくぐって部屋に入り、寝台の前に腰を下ろす。鍋から熱い茶を汲み、器に注いで香詠に差し出した。

「……あまり食事が進んでいないと聞いた。少しでも何か口にしたほうがいい」

 香詠は視線をそらしたまま膝の衣をぎゅっと握りしめ、唇を細かく震わせる。

「……酷いお方ですね。突き放したかと思えば優しくしてみせる。それともわたくしはいま毒杯を賜るのですか?」

 差し伸べた器を少し引っ込め、ルイグンはどんな言葉ならいまの香詠に届くのかと考えた。尻尾がぱたんと床を叩く音のあと、香詠は泣きそうに顔を歪めて額に爪を立てる。

「……違う、違います……、こんなことを、言いたいのではない……! ……なんと言えばよいか、わからないのです……、ただ、苦しくて……」

 顔を覆った指の間からぽろぽろと大粒の涙をこぼす香詠を、ただ愛しいと思った。ルイグンは香詠のための器をいったん置き、自分用の盆に茶を注いでひとくち舐める。

「美味いぞ」

 確かめるようにそう言ってもう一度香詠に器を差し出すと、香詠は涙でぐしゃぐしゃの顔を子供のようにこすった手をそろそろと伸ばし、器を受け取って温かい茶をすすった。

「…………美味しいです」

「うん」

 しばらくそうやって、ただ黙ってふたりで茶を飲んだ。器を空にした香詠は両のてのひらでまだぬくい器を包み、うつむいてぽつりと言葉をこぼす。

「……ルイグン様、ありがとうございます」

 ルイグンは鼻の周りについた茶を舐めて、悄然とうなだれる香詠をじっと見つめた。何から話せばいいのかなど、ルイグンにもわからない。ただ、胸のうちにあたたかく宿る香詠を想う気持ちだけが本物で、それを伝えたいだけなのだ。

「……香詠、あなたはずっと俺のために必死になってくれていたな」

 初めて、あなたの力になりたいとささやいたあの日から、香詠はあらゆる行動で狼の力になろうとしていることを証明したがっているように見えた。どんなことにも必死で、成果だけが自分を肯定するのだというように……。それはきっと、職人から聞いた香詠の身の上と無関係ではないだろう。

「だが、俺はあなたの知識や知恵とつがいになりたいのではない。あなたがもたらす利益によって、あなたの価値を決めようとは思わない」

 香詠は涙に洗われて透き通った両の目を見開いてじっとルイグンを見つめていた。あまりにも無垢なひと。いったいどれほどに厚く、このいたいけな魂をいままで鎧っていたというのか。

 ルイグンは深く息を吸い、はっきりと言葉を放つ。

「香詠、俺はあなたに魂を預けたいのだ。そしてあなたにも、俺に魂を預けてほしいのだ。それは見返りや取引ではない。あなたが何を与えようとしなくとも、そこにあるだけで俺の心が安らぐということ、あなたの苦しみを俺が受け止め、分かち合うということ、……それがつがいになるということだ」

 香詠が瞬きをひとつふたつと繰り返すと、そのまろやかな頰を透明な涙の雫が滑り落ちていく。ぽつぽつと涙の粒が絹に落ちる。香詠はうつむいてしゃくりあげながら必死に言葉を絞り出す。

「……わたくし、わたくしは……そんなこと、考えたことも……なかっ、た、…………良いの、ですか? わたくしは、…………ルイグン様、の、重荷では……ありませんか?」

 小さな手から空の器をそっと受け取り、ルイグンは膝を進めて香詠の顔を覗き込む。不器用な手でぽんぽんと頭を撫でると、香詠はいっそう激しく胸をひきつらせた。

「ひとりではなく、ふたりになるのだ。重さは増える。だが手を携え歩んでいくとき、どちらかがどちらかの重荷になることがあるか?」

 香詠が震える手を伸ばしてルイグンの首にしがみつく。ルイグンはあまりにも軽い体を抱きとめ、香詠が泣き疲れて眠るまで柔らかく抱きしめていた。


 梁克嶺とジグハ親娘の行列が王宮を去ると、慌ただしかった王宮はがらんとしてどことなく寂しげになった。もとに戻っただけのはずなのだが、しばらくは帝国の役人の出入りも多かったせいだろうか。ルイグンは大あくびと伸びをする。

「まあ、ルイグン様」

 おかしそうに笑う香詠もどこかほっとした表情に見える。結局、だいたいのことは香詠が書いた書簡のとおりに運んだが、ジグハはほぼ全財産を没収され、帝国の様子を逐一報告する役目を梁克嶺とそれぞれに命じられた。マルクンはしばらく蟄居の身となった。狼たちの感情も下から香詠を慕いはじめ、日和見の王族はしだいに和親に傾いてきている。向かうところ敵なしといったところの香詠だが、気負った風はない。もはや王宮の勢力争いの話ではないのだと、ルイグンとの信頼関係こそが重要なのだとわかってくれただろうか。心配はなさそうだ、とルイグンもやっと安堵する。

 狼の手で初めて作った花駕籠から落ちたのか、赤い布の飾りがひとつ石畳に落ちていた。ルイグンはそれを拾い上げ、香詠の髪にかざしてしげしげと眺める。

「……いまさらだと笑わないでくれよ。あなたはもっと着飾ってもいいのではないか?」

 たとえばあの、薄紅の波が連なる花嫁衣装のように。夢のような美しさだった、としみじみつぶやくルイグンに、香詠は自らの頬をぽっと赤くしてうろたえる。

「そんな……わたくしだけ贅沢をするわけには参りません。まずは狼のみなさまに十分な衣服が行き渡ってから……」

「底上げは確かに重要だ。だが、夢や憧れは現状をもっと良くするための意欲につながる。……あなたのような女性になりたいと、みなに思わせることも務めの……」

 ルイグンはそこで言葉を切り、がしがしと首の後ろの毛をかき回す。

「……いや、建前はいい。たまには着飾って、美しいあなたを楽しませてくれ。俺も毛皮の手入れは欠かさないから」

 ちょいちょいと逆立った毛皮を撫でつけながら最後に付け加えた言葉に、香詠は花開いたように染めた頬を緩ませてぷっと吹き出す。

「ふふ、……そうですね、夢のようなもふもふの隣に立つためでしたら、いくらでも着飾りましょう」


 夏は盛りの高原に、紅いのぼりが風をはらんで揺れながら帝国の都へと進んでいく。

 世にもめでたい、人と狼の和親の、これが始まりである。

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