ムシ

@gurasaaaan

ムシ

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 物心ついたときにはすでに、親というもの存在はなかった。親に抱っこしてもらった記憶もないし、一緒にどこかへ出かけた記憶もない。でも周りにもそういうやつが多かったから、特段寂しく感じたことはなかったし、それが当たり前だと思っていた。普段の生活においても同じだった。起きて、お腹が空いたらご飯を食べて、疲れたら休憩する。その繰り返し。

 ただ1つ僕が他と違っていたのは、何も考えずにぼうっとするのが好きなことだった。ぼうっと、空気中に漂うように浮かび、この世界とか、自分の存在とか、そういったもの全てから解放される時間が好きだった。周りからは、危険だからやめておけ、いつ死ぬかわからないと言われたし、いつの日だったかぼうっとしたままうっかり道路に飛び出してしまい、車に撥ねられそうになったことがあった。それでも止めることはできなかった。その時間だけが生きている実感を僕に与えてくれた。僕の意思は、そこにだけ存在した。 

 ぼうっとして何の気なしに人のうちに入ってしまうこともよくあった。そんな時には、たとえ美味しそうな食べ物の匂いがしても、誘惑を断ち切り、隙を見計らって窓から出て行くことにしている。普通の人間は何と無く他人の家に入ったりはしないらしい。


 「知ってるか?フィクションの中では虫は都合のいい場面にしか登場しないんだぜ」

 昔、たまたま入ってしまった人の家で出会ったあいつはこんなことを言っていた。役者を目指すと言っていたあいつは、周りから変人扱いされ、浮いていた。その言葉の意味は僕にはわからなかったが、なぜだか僕はあいつが嫌いじゃなかった。あいつは今どこにいるんだろう。


 

 その日は、よく晴れた日だった。他の木々の三倍はあろう太い幹を持った大きな木の木陰で、風を背中に感じながら目をつぶって、ぼうっとしていた。どれだけ時間が経っただろうか。ふと目を開けると、彼女がいた。一目惚れだった。特にタイプの見た目をしていたというわけでもない。何故だか彼女から目が離せなかった。本能的な何かだったのかもしれない。

 僕らは行動を共にするようになった。毎日一緒にご飯を食べ、疲れれば休憩した。僕の趣味も彼女は理解してくれたし、ごく稀にだけど、一緒にぼうっとしてくれたから、幸せだった。



 それから何年の月日がたったかはわからない。彼女はある日突然どこかへ行ってしまったし、周りに知っているやつらも随分と少なくなった。いつの間にかぼうっとすることもやめてしまっていた。毎日ご飯を食べて、疲れたら休憩する。その繰り返し。そんな中でも、時折、あいつの言葉を思い出す。

 「夢はでっかくいこうぜ」 

あいつはあの時いったい何を考えていたのだろう。虫である僕たちに、夢など存在しないし、意思なんか持つ必要もない。ただ生きていくためだけに、食べて、寝る。本能の赴くままに生きていればいいのだ。もう後何年、生きていればいいのか、そんなことが頭の中を埋め尽くしそうになるが、それを消し去っていつもの日常に戻る。


 

 あいつは今、どこにいるんだろう。


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