旅の続き 夢をくうバグ

吾妻やすけ

旅の続き、夢をくうバク


勝洋は今日長年に渡り続けてきた店を閉めて、母の介護をする事にした。27年間営業して来た店を、今日終える事に何も心残りはなかった。        

前々から考えていたことだし、母一人家に置いて置くのも危険だし。やかんの空焚きを二度やっていますし、これ以降ガスは取り止め、複雑骨折で入院、手術をして治す事に専念する事に,しかしながら病院で色々な事件をお越し、強制退院になり勝洋夫婦が面倒を見る事にした。

勝洋の兄は早くして死に次男勝洋が親を見る事に成った。だがしかし勝洋はいつも兄の代わりに家を継がねばならないのか?いつも疑問に思っていた長男は長男の役目を、人は持って生まれた役目を果たすべき役割があり、物には物の役割分担があるはず。然し兄も好きこのんで死んだ分けではない。これが人の運命なのかもしれない?生きる事の厳しさ辛さをしみじみと感じ取った。幸い妻も幼子もいないのが、ある意味では幸いかな?それでも兄の法事をやるたび、此れは勝洋の役目ではないといつも思っていた。なんで、なんで兄貴の法事を、これは倅の役目のはずと思いつつ回を重ねた。考えて見れば愚痴になる。それが勝洋の役目なら、兄を送り父親を送り、母を送るには何としても母より先には死ねないが何だか勝洋の方が先に行ってしまうのではないかな、などといった事を良く考えていた。医者が言うにはまだ10年は大丈夫と保証され、嬉しいのか悲しいのか複雑な気持ちになり、死にたい気持ちに。矢張り人の介護は,はたで見る事より想像以上大変であり、妻なくしては勝洋には到底出来ない事。妻の偉大さに乾杯。母と言う人物は亡き父以外誰とも会う人はおらず、勝洋も手こずり、一緒に住むことは、妻の一言私が見ると言ってくれたことで、同居に行った。

その間にも妻の入院、大変なことばかりが続いた。妻を見舞いに行くと退屈で退屈でと言うが見舞に行くといつも起きていたためしがなかった。偶に起きていると何かを口にしていた。女は強い手術をしても一月もしたら、仕事にもさし使いない程に、代わりに勝洋が入院したいと思っていた。ともあれ妻の退院は吾妻家にとっては大変喜ばしい出来事でありました。

わが吾妻家の大黒柱ですものね?それからが長い長い介護との付き合い。何時まで続くのやら当てもなし、これから先真っ暗闇じゃござんせんか。などと馬鹿な事でも言っておらねば憂鬱に也、ノイローゼになり兼ねない。

勝洋は時間を作っては趣味の楽器を習い、あししげく教室に通った。二十代の時に短い期間では合ったが、ピアノを少しばかり習っていたことがあり、楽器を触るのが初めてではなかった。

寧ろリタイヤ生活になったら、又は楽器を習いたく長いこと、その時を待ちくたびれていた。そして音楽教室を探して習い事に足繁く通った。

ギター、バイオリン、ドラム、ピアノ。毎日が忙しく充実した日比を過ごす一方カミさんは、パートタイマーの仕事。母親の面倒毎日が忙しく、自分の体を築かう時間もなく、自然と上部に也医者もビックリ、回復がこんなに年の行った人が早いのは初めてだと言い驚いていた。

何か明るいニュースが無ければ憂鬱になってしまい、明るい未来を夢見た。

勝洋は幼い時から楽器が好きで、楽器を見ると直ぐに触ってみたくなり触りだす。それも子供の時から楽器を触る事がなく、買って貰えず自分が働いて買える日を夢見ていた。

そんな訳で、働き店を持ちピアノを買、習い始めた。幼いころからの夢のピアノとバイオリンを触りたく、ピアノとバイオリンを持っている人を羨ましい気持ちで過ごし、今自分で買えるようになり、楽器を持って習い事に行く五十過ぎの自分を面白がっていた。

甥っ子に面白半分で今バイオリンを習っているのだと言うと、「BA。BA.BAバイオリン」と驚かれ、きたいどおりの回答が来た「その答え待っていましたと心の中でガッポウズ」矢張り貧乏人がバイオリンを弾く事はそれだけで笑いが取れる。此れは先行き人を笑わす面白いと思い練習に励んだ。 面白いことにバイオリンの習い始めは大工見習いのようで、ギコギコ材木を切っているかのように、自分でもおかしいやら、情けないやら、この音で母親を・・・・・・・・・・・・何てね?

   それに対してピアノは音は出るが、右と左が同時に違う動きを、譜面も二段見て別々に演奏、これもまた大変。吹く楽器は先ずは音が出ない、息が続かない。弦楽器は指が痛く。

どの楽器もそれぞれ大変であるが、その魅力は好きな人には麻薬の様な病み付きに也、触れていないと落ち着いていられない。これが楽器の魅力かも。

楽器ばかり触って居ても、目も体も痛くなり植木、花 野菜作りも始め土作り方の勉強も始めた。家の土は酸性かアルカリ性であるかを調べて、なるたけアルカリ性にするように、リトマス紙を買い調べて、酸性が強く土に栄養分も少なく沢山の肥料を入れることが大変で有った。鶏糞、米糠、牛糞、油粕、貝殻、落葉、工藤石灰、生ごみ、魚の頭内蔵、エトセトラ?

すると作物も花も皆良く咲、いつしか家では花咲爺さんと呼ばれた。植物は妻より子供より育て易い事に楽しみを知らされる。仏様の花も沢山飾り、花粉症になってしまい、花を減らして、野菜を多く作るが食べきれずあきがくる。

梅の木に沢山の肥料をやり育てると、僅か2メートルもしない小さな木に梅の実が5キロ近く取れた。早速梅酒を造る。6月の半ばから9月の半ばまで、寝かせ少し早いが毎日妻が飲んでいる。後はうたた寝極楽極楽、ちん?動かざる事山の如し。か。何でもいいです、お袋の面倒毎日見てくれているのだから僅かな酒で飲んでうたた寝位良いでは無いですか。妻に先立たれては、すぐさま地獄めぐり、別府温泉の地獄めぐりとは大違い母親と一緒に地獄を通て天国へいかねばならないかもしれない?妻には何としても長生きしてもらわなくてはいけない。

   そんな時にでも勝洋は好きな楽器に明け暮れ、子供の頃からの夢に没頭していた。そんな夫を何も言わず毎日仕事に行き帰ってきたら母親の面倒をみていた。

暫くしてショウトステイと言うシテムを知り、母親を預ける事にする。いざ行くとなると母親は悲しそうな顔をする。

一方カミさんは嬉しそうな顔になる。これが現実、母が帰れる日が近くなると母は笑顔に也、妻は元気が無くなる。歳をとることがつらくもあり子孫の為でもあり、サンライズ サンセット 時は行方か?自然の摂理というものか。

ある日の事。埋めて有った生ごみの中から南瓜の芽が出てきた。その芽を大事に育て受粉に成功した。中々無駄な花が多く受粉に至らなく、受粉に成功しても少しするとだめになってしまい、中々大きくなって暮れ無い。何度か試みてやっとの思い出受粉に成功し、身を大きくする事にいたった。 

日々の成長に楽しみが出、朝一番に南瓜に会いに行くのが勝洋の楽しみで有った。 勝洋は南瓜の成長が進むにつれ南瓜が心配に也、妻に盗まれないかと話をすると「誰も南瓜なんか盗む物はいないよ。」と軽くあしらわれた。それからしばらく日にちが経った。

ある日、勝洋がいつも様に南瓜を見に行くと?・・・・・・・・・・・何と南瓜が無くなっているではないですか。勝洋が妻を呼び南瓜の蔓を見て「南瓜なんか盗む人がいるんだ。

ホームレスの人かな?もう一つの南瓜は道路より離れたところに隠そうよ」と言い南瓜を隠す。そしてそのことを友達に話をすると、南瓜の茎はあるか?と聞かれ茎ならいくらでもある。邪悪なくらいあると言うと茎を食べようと言い出した。

南瓜の茎はとげとげが多く葉の下の部分を下茹でし水に晒し、皮をむき煮る。食べると蕗の様な感じで人によっては蕗よりも美味しいかもしれない?秋田県の友達はとても逞しい友で、ハイキングに行くと、よく道端の草を口にし道草を食って得意げに話をした。

素朴で食べられるものなら何でも食べ、公園になっている渋柿は取ってきては渋を抜き食べていた。

自然薯は見つけると直ちに掘り起こし、泥を洗い落とし、火に炙りすり鉢にあて麦飯にかけ、高清水で酒盛り田舎の食べ物を自慢して酔いつぶれてしまう。誠に楽しい友であったが遠くへ越して行き会うことも少なくなり、寂しい限りである。

    ある日の夕方自作の鰻の仕掛けを作り江戸川の川口に仕掛けに行く。人目に築かれないよおな場所を探してしかけた。翌日見に行くと、二つ仕掛けて置いた仕掛けが二つとも盗まれていた。

まあ何と仕掛けを盗むとは。ウナギを盗むならわかるが、仕掛けを盗むとは昔では考えられないことで、暫く様子を見た。とても直ぐに又しかけるきにはなれなかったからである。

バイオリン

   バイオリンを練習していると眼に松脂のこなが入り、痛く痒く也、眼科に行く。診察が終わり目薬が帰り際出された。「この薬は食前ですか?食後ですか?」と尋ねた?すると

「目薬は食前、食後は関係ありません。一日3回から4回指して下さい。」わを?こちらの看護婦さんには冗談通じません。桑原桑原と唱え家に帰った。

    又バイオリンを弾き終えた後顔が痒く也、バイオリンとは相性が合わない事に築く。然しバイオリンでラ、ミ、ラ、ミ、と弾くと救急車のサイレンのピポピポに聞こえ、バイオリンの弦を弓の根元でゆっくり力強く弾くと、猫がトタン屋根を滑り落ちる音を発見。大きな上達。思いもしない発見此れは勝洋の秘密兵器になると思い思わずニンマリする。

    暫くして友達に音真似と言い披露する。すると受ける「それいい、それ笑える、いいよ、馬鹿馬鹿しくバイオリンを習いに行てそんな馬鹿馬鹿しい事真面目な顔でやるやつ

他に居ない」と言われた。勝洋ニンマリ嬉しかった。これで何処かで披露する事に自信がもてた。

   ドラム

   ドラムは若い時暫く習い又習い始めるが若い時とは違い体力的にも長くは続かず、長く練習を続けると足がつてしまい、まあ何をやっても笑うしかなかった。

然し楽しかった。音楽の神髄を勝洋は極めていた。それは音を楽しむことが音楽だと。勝洋は周りを気にせず下手な音を長い間出し続けた。

勝洋の長所はやりだすと出来るまでやり刀子。短所は早く諦めない。他人は早く諦める事をまっていた。がどっこい長続きし他をガッカリさせた。家ではサイレンドラムを叩き、レンタルスタジオでドラムを練習にいそしむ。

フルート

   フルートは前々から自分では決めていたことで、仕事をリタイア設楽習に行くと決め手居た先生が居たが訪ねると、すでに痴呆症が進みフルートは何年も前から吹いておらず、今では吹く事が出来ないとのことでした。然し勝洋の脳裏には先生が吹いてくれた音が忘れない音で、ならばフルートは独学で勉強しょうと思いフルートと初級D.V.Dを買い独学を始めた。最初は出やすい音から初めて、次第にドレミファソラシドを覚え、ロングトーンの練習、その次に知ってる曲でアンプしている曲を選ぶ。すると先生がそばにいるような気がして、練習に気が入った。

暫くして友達に聞かせるとフルートが一番良いと言われる。「フルートだけに専念設楽」と淋しい答え。今まで月謝を掛けて習たものより独学で習ったフルートの方が良いとは、矢張り練習をしているときに、いつも先生が傍にいて聴いて居て指導をしている様な気がした。その結果ケーナ、篠笛、尺八、ハーモニカ、琴、三味線、二胡、マンドリン、コンガ、アコーディオン、バンジョーその他エトセトラを練習用D.V.D.を探し独学で学んだ。

幼い時からの夢で有った。楽器をいじる事が夢のまた夢。ベニーグットマン物語を見て以来、アメリカでは楽器をただで貸して教えてくれる事を映画を見て知った。大変驚いた楽器をタダで貸して教えてくれる夢の様な事が流石に夢の大国、テレビの番組もアメリカの番組が多く、アメリカに強く憧れていた。高校生の時にアルバイトをし、骨董屋で中古のクラリネットを買ったが壊れており、教室も無くビデオもなく、周りにはクラリネットを吹ける人もおらず、楽器と言えばギター位しか弾ける人はいなく、クラリネットを弾ける人と言えばチンドン屋位しか居なかった。

しかしチンドン屋に知り合いも無く時期を待つ事に。

それから10年位たったころにフルートの先生に知りあうが先生も仕事が忙しく、又私も同く仕事に、趣味に忙しく、時間の都合が付かずお互いのリタイアを待つ事にしたが?時間が経って見れば時既に遅し、しかし何としてもクラリネットからフルートに夢捨てきれず、独学で勉強をすると、ピアノ、バイオリン、ギターを習って居ると半音入れて12、楽器のどこを抑えれば良いかがわかれば後は根氣のみ、100で駄目なら1000回、1000で駄目なら10000、10000で駄目なら100000何でも良いから数ではなく、できるまでやる。一の日か出来る用に成る。全ては根気。 

ある日のこと埋めた五味の中からじゃが芋が芽を出した?じゃが芋の剥いた皮から芽を出したのである。野菜の強さに感服、いとしさに大事に育てた。妻の実家から送られてきた、ジャガイモのブランド品。今金男爵知って居る人は少なく値段も高い。北海道男爵とは又別格品であるが東京で育てると別物になることは尺も承知。だが愛おしく丹精込めて育てた。

月日がたち育った頃を見て掘り出す?すると大きなじゃが芋が出来ているでは無いですか?早速蒸しバターで食べるが、今金男爵とは全く違うものであった。

こんなにも違う物が出来るとは思ませんでした。然し土を育てると、素人でも収穫が出来る事に感動と喜びをもたらす事を知る。作物に乾杯、酒が楽しみを増やして暮れる。

ある日の事妻が知り合いから大量の布地を頂く。その布を見た勝洋は妻に「この布でポンチョを作てくれ。三着。」「三着も何にするの?」「いいから作ってくれ。」と言い

作って貰う。妻にすればポンチョは簡単な作業であり僅かな時間で作った。勝洋は前にフリーマーケットでメキシコの帽子ソンブレロを買って持っていた。勝洋は前々から考えて居た。

ラテン音楽のグループのトリオ。ロス・パンチョスのマネごとを支度て考えを暖めて居た。勝洋が子供の頃メキシコの音楽の小編成の楽団マリアッチが流行し明るくて陽気な音楽に魅力的な歌声、リズム、ダンスに心の中に忘れられない音楽としていつの日かベサメムーチョを歌うことに詩を覚えた。ベサメムーチョはメキシコのコンスエロ・べラスケスが16歳の誕生日前に作った曲で、1940年に流行。世界的に大ヒットした曲である。特にラテン系民族はこの曲を聞くとすぐにでも踊りだす。歳置いた人でも又恋をしたくなる、そんな名曲で、勝洋も良く口遊んでいた。いつの日か人前で衣装を纏、テープでもみあげを付、スペイン語で歌う事が頭の中では既に構想されていた。

    ある日の事。勝洋は妻と一緒にリサイクルショップへ出掛けて綺麗なスコップを見つけて、買って帰りホームセンターに行きカラースプレーを買い色を付、骨董市に行き女物の袋帯といろの綺麗な紐を買い、妻に袋帯を三線を入れる袋にしてもらい、中に綺麗に色図家したスコップをいれ、津軽三味線の真似事にし、風雪流れ旅の練習をした。

ある日の事。友達にコンサートをやるので、一緒にやらないか?と誘われて友達と参加する。そこで皆さんの前で、3人組でソンブレロを被り、口ひげとエル字型のテープを付け、ポンチョを着人前で披露した。

矢張りベサメムーチョの曲は偉大であった。歳置いた女性に特にうけた。矢張り人はいつの日までも恋、人生を楽しく生きることを、忘れてはいけないとみんなも思っている。と勝洋16歳で作曲した女性に敬服した。

休憩を挟み二部が始まる。すると以前ギター教室で一緒に習っていた、Aが勝洋に「ギター演奏はしないのですか?」と言い勝洋「ギターはいくら練習をしてもAさんにはかなわないので、ギターを止め津軽三味線にしたのです。」というと「私も本当はギターより津軽三味線を習いたかった。」という「そうなの後で教える」と言い出番を待ち、出番が来ると立派な布にくるまれた3人組の三味線仲間が椅子に座、おもむろに布の中から大事そうにスコップを取り出す。一同大受け勝洋Aさんを呼ぶがAさんシャイで出て来ない。津軽三味線の曲引きと、風雪流れ旅を勝洋熱演。終わるとプロのハーモニカ弾きに「こんなに面白いの初めて見た」と言われる。勝洋心の中でニッコリ、勝洋に取って一番嬉しい事は、人から面白いと言われるが最大の歓びで有った。

勝洋は楽器、カラオケよりも何よりも人を笑わす事が、好きであった。なにを見ていても笑いにかわってしまう。それというのも幼い時から落語、チヤップリン、喜劇がすきでいつも笑いの事が頭をよぎる。

学校の授業中もいつも頭の中はお笑いの事だけ。何とも域に呑気にを地で生きていた。そんな亭主を妻は何も言わず支えてきた。

    そもそも二人りのなれそめは見合いで、出会った。勝洋曰く「どちらも来てが無く、貰い手もなく、いいとか悪いとか結っている場合ではなく、ほかに選択しもなく結婚」然し勝洋曰く「俺以外の男では、全て離婚されていた。俺て今日蓮、仏の勝洋」というのが勝洋の口癖で有った。まあ極楽とんぼの呑気な浮浪雲で有った。

  土作りの時期

  12月に入り寒さが厳しくなると公園に行き、係りの人から公園に落ちた枯葉を貰い、米糠、生ごみ、貝殻、その他を穴を掘り土作りに精を出した。後に土の中から何が発芽するかが楽しみ、今のところ分からない。春になってからのお楽しみ?

じゃが芋、南瓜、トマト、冬瓜は良く芽を出す。これも勝洋の楽しみで有った。花と野菜を育てて居るとその年の天候に左右されて、なにが良く何がだめになるか自然が教えてくれる。大変興味深いものである。

春が来るまえに工藤石灰を巻き暫くしてから土を耕し、さらに肥料をまき時期を待つ。

介護

 母の介護も次第に4から5に、学校の成績では5など取った事もないのに、介護は5だってもう大変です、だれか変わって?と言いたい気分になる。勝洋「なんで親より先に行くかね?おれもいきたいよ。」と愚痴を漏らす。

次第に食べ物をこぼす様に也、翌々観察すると眼が見えて居ないようでカミさんと3人で眼科医に連れていく。すると白内障と診断され手術をしようと考えたが介護5の人を見て暮れる病院はどこもなく、本人が一番嫌がっていた。

月日がたつにつれ肥大に寝たきり、車椅子、しかし食欲はある。好きなものはバクバク食べるが、嫌いなものは口にしても吐出し、お腹が空いても食べない、赤ん坊同然。しかし赤ん坊より手がかかる。勝洋これが俺の与えられた仕事だと思い妻にして貰う。他に嫁に行く所が無かったのか残念?又入所日が近ずくにして、にこにこエガをになる。分かり易い性格で会った。

一方母親は布団から離れ用途しない。分かり易い性格で有った。車が迎えに来て待っているのでぐうのねも言わさず施設に連れて行って貰う。可愛いそうでも有ったがこれもお互いの幸せの為。母との暮らし上手く行くひとは父親以外居ないであろう。矢張り出雲の神様は良くひとを見て赤い糸を結んでいるのだとつくづく実感する。勝洋にはどお逆立ちしても無理。勝洋父親の偉大さにつくづく実感恐れ行った。

チャイナドレス

    ある日貰った生地を見ていた勝洋が花柄の布地を見つけて、妻に「この生地でチャイナドレスを作ってくれ。」「難にするの?」「いいから俺のサイズのチャイナ服を作ってくれ」「簡単だけど、何すんの?」「いいから作ってくれ。」と言いつくらせた。然程時間もかからず、出来上がり試着してみる。勝洋ニッコリ?何かを企んでいる様子。又人を笑わす事に違いない。

 次から次へと何かを考えては、妻に仕事を頼む。妻は形を良く作りたがるが勝洋は笑える様に作れと、なるべく不格好に作れ。と言う。すると妻は自分のプライドが許さずごねる

 「いいんだ。お前が着るのではない。あくまでもお笑いできるのだから。笑える様に作ってくれ。」と勝洋は言った。

衣装作り

    チャイナ服が出来ると、次々と衣装を妻に作らせた。赤の布地でセラー服2Lサイズで。その他にドレス、ハワイアンの衣装、その他色々。この男一体何を考えているのか?

妻は大変で有ったが、割と楽しんで居た。

勝洋は一人オーケストラの練習、カラオケの練習、花と野菜の育成、写真撮影その他色々。遊び人の金さんと言われていた。そんな夫を妻は愛していた。

季節も暖かくなってきて、庭を見ると紫蘇の芽と冬瓜の芽が出ていた。暫くして赤紫蘇が芽をだし、苦瓜も芽を出した。それを場所を選び移して育てた。比較的に優しい植物で育てやすかった。

時に消毒をし、追肥をやり添え木で患部を固定し成長を楽しんだ。軈て赤紫蘇の葉を収穫し、しそジュースを造る。紫蘇を綺麗に洗い鍋で茹でる。紫蘇を取り出し、レモンの絞り汁を加え、はちみつを入れて火にかけ、冷めてからペットボトルに入れ冷蔵庫で冷やし飲む。綺麗な赤いジュースが出来る。簡単で夏の健康飲料水になるため作っては友達に配った。

青じそは、ニンニク、じゃこ、と炒め味噌、味醂、塩、こしょう、酒、油,砂糖、ごま油で、大葉味噌を作りこれも知り合いに配った。冬瓜はなかをくりぬき、中華スープを入れ具を入れ蒸し器で蒸したべた。夏には熱い食べ物です。

ウナギ

  勝洋天然ウナギを食べたくなり、又もや仕掛けを作り再チャレンジに挑む。鰻は夜行性の為夜に仕掛けに出掛けた。時間を見計り見に行く、すると又もや仕掛けが盗まれていた。

勝洋これには落胆。ガッカリ暫く止める事にした。次に築地に天然物の鰻を買いに行き、生きているウナギを裁いて貰い家に帰り、自分で焼いてたべた。酒が捗る。勝洋は食べるが大好きで食べて、飲んで、歌って、恋をして、イタリア人気質「マンジャーレ カターレ アモーレ」人生は楽しく、幸せに生きるためにあると考、まさに勝洋イタリア気質そのまんま

生まれ付のものであったが?然し勝洋には明るく前向きに、生きることが自分に取って家の難から強く生きて惨めにならず家庭を前向きに皆を明るく、くじけず、辛い人生を生き抜く事が子供に取っても大切な教訓であり、父親の強さを孫娘にも教える為にも空元気を出し、明るく陽気に振る舞った。

父を亡くし、数年ご母親を複雑骨折で長期間の入院、強制退院、家での介護、倅のオートバィ事故、意識不明の重体、妻の肺の近くの腫瘍の手術。毎年毎年病院に入院、勝洋は身も心もズタズタ。酒浸りの日が続く,胃潰瘍に也、夜も眠れずイライラする日が続き悩む日々が続いたが、時間を作り登山に出かけた。すると自然の美しさ厳しさ、人間の小ささに築く。

天に軌道が有るが如く、人其れ其れの道が有る。か?的屋の口上かこれが俺に与えられた仕事か?生きる事が地獄、そんな地獄なら笑って生きるしかないだろう。と思い勝洋は陽気に明るく前向きに生きる事に切り替えた。

愚痴や泣き言を言ったところで何も解決しない、ならば言った所で無駄な時間。そんな時間を過ごす時間が持ったない。勝洋に置いてもそんなに時間が有る分けではない。と決まれば明るく前向きに、楽しく過ごして最後を迎えることが良かろうと決め過ごすことにした。

食べて、歌って、恋をして。極々簡単なことだけど人生において平凡なことが以外に簡単では無い。一人の、人を深く恋する分には問題にならないが、数多くの人に恋をすると問題になる。

その点勝洋は大丈夫であった。何せ嫁の来てが無かったから、妻に逃げられたら後がいない。妻に至ってもおなじ他に貰い手が無いから勝洋の所に。この様な夫婦が以外に上手く行く。惚れた腫れた等言った後。以外に別れる人が多い。見合いの方が結婚を美化せずに冷静に諦めて互いを思い、高い希望をすて、身の丈に有った人生を送る事が多いような気がする。

   遠い遠い日の思い出

    勝洋ある日の事、部屋の押入れをかたずけていた時、遠い昔に書いた詩が出て来た。なっかしく思い探して見ると、時間が出来たら曲をつけようとした詩が出て来た。勝洋いっかはこの詩に曲を付け唄う事が彼の若かりし頃の夢で有った。

題名アジサイの花

「小雨の中に咲く、アジサイの花。六月の思い出、紫の色。通り過ぎたはずの愛が、雨の中に透けて見える。

思い出だけよせてさいた、花の色は人の心。

小雨の中に咲く、アジサイの花。六月の思い出、紫の色。移り変わる日々の中に、変わらないで今もいます。思い出だけよせてさいた、花の色は僕の心」

勝洋に取って辛く悲しい出来事で有った。

施設の長期入所の申し込みに妻と二人で出かける。直ぐに入れるわけではないが、これから何年も掛かるともわからず眼も見えず痴呆症が進みこのままでは共倒れになってしまい、お互いに良く無いと思い、申し込みだけはしておこうと思い施設にあしを運んだ。が何時入れるかは連絡待ち。三ヶ所申し込みに行った。一の事やら分からないが、申し込みをしていなければれば仕方のないこと。それでも気分転換にはなった。

三か月が過ぎた頃。ある日とっぜん施設から電話が入る。ベットが一つ空きがでました。との連絡あり二日ごに入れますか?とのこと。後もう一軒の方とのどちらかになるのですが?と電話を頂き、相手の方が二日と言う事で手続きなどが出来なく、吾妻家が入所出来る事に成った。

その日夜は妻と二人で祝い酒。なんだかんだと七年面倒を見てきたが?これから又先何年かかるかもしれませんし、一旦は入ってその後は又後で考えることにして、取り敢えず今日の所は乾杯。その日の酒は美味かった。

   長期入所

   長期入所となると住民票の移動、銀行の通帳,はんこ、寝巻き、着替え、洗面道具、タオル、その他色々のものを持って行った。施設のスタッフは皆様良い人で、私も最後にはこちらに、お世話なりたいと思うぐらい明るく接触て暮れた。手続きを済ませ、帰り際矢張り寂しそうな母の顔が少し虚しく見えた。しかしこれも全て母の我儘から始まったこと。

最初に足の複雑骨折で入院、手術の後リハビリを嫌がり、寝てばかり、医者の言う事は全く聞かず、深夜にベットの柵を乗り越え、医者の言うことを無視、事の詰り強制退院。家の病院では面倒を見られない、連れて帰って暮との事。いはや参った参った。前にも何度か入院をするが、その都度呼出が来た。父親とは全く違った。母親には大分泣かされた。そんな母親でも別れの時に寂しそうな顔をされると少し悪い気がするが、さりとて一緒に暮らすとなると、ノイローゼになってしまう。いかしかたのないこと、割り切り家に帰った。勝洋先のことが心配。

この先無事に何事もなく穏やかに過ごせますように仏壇に手を合わせる。『おやじ、後のことはよろしくお願い致します。」と拝んだ。

   一週間がたち面会に行く。すると前よりも元気で血色も良く、思っていたより穏やかな表情で一安心。少しは学んだかな?団体生活、皆さんとの行動、親父と二人での生活、親父の様な物静かな人間は他に居ない事。金はなくとも最高に良い亭主で有った事を有難く感謝して又あの世では可愛がって貰える様に親父に祈り、勝洋施設を後にした。

週に一度は顔を出し、様子を見に行き、スタッフさんから話を聞く。そこで驚き母親の良き話を聞かされた。そこでビックリしたが翌々見ているといつも寝ている。詰まり手が掛からない。そんなわけで扱い易いようで評判が良かったのです。それで納得する。「なんでもいいから、おいていただければ、私ども有難く感謝します。」と勝洋挨拶をして帰る。

    勝洋母親がいなくなり、貸スタジオに頻に行く。スタジオには電子ピアノ、ドラム、がありバイオリンとフルート、ケーナ、篠笛、尺八、楽譜などを持って足しげく通った。 

勝洋は道楽の総合デパートでした。類は友を呼ぶとか周りに来るともは遊び人の金さんみたいな奴ばかり、遊び人の看板をでかく掲げるものが多かった。困ったものだが本人いったて真面目に取り組む。困っています周りに居る人間は。然し勝洋の妻は「やりなさい。」と言うだけ、言った所で止める人でないことは百も承知。好きなことをやらしておけばご機嫌。そのために仕事を頑張ってやってきたのだから、妻も何も言わず好きなようにさせていた。

ある日の事、勝洋と友達二人で家でミニコンサートを開いた。何人かの友達を呼び酒をのみながらのコンサートを開き、持ちネタを披露ひた。結果は結構うけた。勝洋自信を持ち、次に施設の慰問を考える。それと同時に、出し物と衣装を考える。この時間が好きな時で有った。頭の中は空想の世界、色々な事。何と言っても笑って貰える事が勝洋の喜び。一方友達は歌の旨さを強調した。然し勝洋はお笑いに引っ張り、共にお笑いを人前で披露する事に、衣装を作った。

暫くして慰問先が決まる。家の近くで母が以前世話に成った施設でした。

当日三人で行く事に、一人は話が上手く歌も旨い。最初に話が旨い友に司会と挨拶を、その間に色々な準備をし、ギターバイオリンなどのチューニングをし着替えた。挨拶を終えカラオケで一曲披露した後、ラテンの衣装に着換えベサメムーチョを披露する。これは今までにやって居て受けが良かったのである。矢張りここでもうけた。歳はとっていても熱い心と踊りたい気持ちは、車椅子に乗って居るからこそ、若い時に踊ったことを思い出して涙を浮かべる。

矢張り人間体が動けると言う事は幸せなのだぁと教えられる。勝洋は直ぐに其れをキャチし次の曲をテンポの早い、乗りの良い曲に切替、友に歌って貰い、車椅子の婦人をダンスの出来る場所に連れていき、ジルバを踊りだす。勝洋は若い時に個人レッスンで社交ダンスを習ってた。楽器の演奏、カラオケよりもダンスは上手で有った。

他の人も皆さんウットリと見て自分も踊りたい様子でした。曲が終わりご婦人が「ありがとうございました。私と主人はダンスのサークルで知り合いに也、その後で結婚しました。主人はもう10年前に亡くなりましたが、良く二人でダンスをしました。今日は又良い冥土の見上が出来ました?本当にありがとうございました。」と言い涙ぐむ。勝洋「こちらこそ、こんな相手で申し訳ございません。でも喜んでいただきこちらこそありがとうございました。」と挨拶をした。幾つかの演目を終えた時、何人かのご婦人がメモ用紙を持って訪ねた?

笛の曲は何出すか?と聞かれ「この笛ですか?この笛はケーナと言います。アンデス山脈地方の笛です。曲は花祭りと言う曲です。」というと、皆さんしっかりとメモを取り書き留めた。勝洋皆さんの興味深さにビックリしてご婦人に聞いた?「よかったですか?」「はい。あの曲を聞いた時、踊りたかった。」と言われ、音楽の魅力はすごいねと思い、イタリア気質の三レか?マンジャーレ、カンターレ、アモーレか矢張り人間楽しいが一番ですね。帰りぎわに「また来てください。」と言われて、「ありがとうございます。又きます。」と挨拶をし家に帰り打上げをした。

勝洋「本日はお疲れ様でした。こんなに皆さんに喜んでいただけるとは、思っていませんでした?これもお二人のお陰です。この次もよろしくお願いします。では乾杯。しかし最初はシーンとしていたので此れは滑ったかな?と思って居たらさにあらず、皆さん聞き入って居たので、それを勘違いしてこれは受けない、出し物間違えた?と思ったらどっこい受けていたとは。帰りぎはにメモ用紙を持って聞きにきたときは?嬉しかった。やってよかった。と思った。」「おれも歳おりには乾杯はどうかなと思って居たら、長渕好きなんですと言われこの次リクエストにとんぼをリクエストされおれもびっくりした。以外に皆さん若い歌も聞くのですね?俺も嬉しくなっちゃいました。又練習しなくては。」勝洋「今までの人と違い、いろいろな事をするので面白いは。と言っていた人が居た。うれしかった。初めてでは上出来じゃないですか」などと言い暫くして解散した。

練習が更に面白くなる。

   練習により一層力が入ると同時に出し物にも色々考える。曲のレパートリーもyoutubeを見て色々な分野を模索する。艶歌、ジャズ、シャンソン、カンツォーネ、詩吟、ポピュラーソング、その他色々興味深いもの?何でも良いから人が面白いと思う様な物を手当たり次第に学んだ。するとどんどん楽しくなり学ぶ事が歳を取るに連れ生き甲斐となり、益々健康に也、若返る自分と出会う。食事も進み若い時よりも食事の量もふえ、酒も以前より二日酔がなくなった。矢張り仕事のストレスから開放され、母も施設に、いまは好きな音楽三昧。俗に言う、江戸っ子は域に呑気に?勝洋そのもの極楽とんぼとやら、勝洋の描いて居た人生その物。苦あれば楽ありですかね?しかし楽あれば苦ありです。桑原桑原。

ともあれボランティアにこれ程までに暑くなるとは,勝洋の馬鹿な性分なのでしょうか?何でも良いから納得できるまでやるという性格が幾つになっても変わらない。いいんだか悪いんだか?分からない。今頭の中では股旅物を模索していた。

しまの合羽に三度笠、手には長ネギ。歌うは大利根無情。この歌をマスターし人前で演じることができるように、カラオケボックスに通った。何時もの様に妻にしまの合羽を作って貰い、前に色々なフリーマーケットで三度笠を買って置いた物を一の日か演じてみたいと思って居た出し物で有った。

その他にもまだやって見たいものは沢山有った。勝洋考えて居ると次から次へと思い描く出し物が頭の中に浮かんで来る。そんな夢の時間が勝洋の至福の時で有った。その他にも落語や映画と言った趣味も有った。落語家なら古今亭志ん生、倅の古今亭志ん朝の「文七元結、芝浜、柳田格之進、百川等その他色々。」桂文楽の「明烏」三遊亭圓生の「妾馬、別題は八五郎出世」等その他色々。

映画でしたらチャップリンの「キッド、街の灯、ライムライト、モダンタイムス、その他色々。」ジャックレモンの「お熱いのがお好き、アパートの鍵貸します、そのた色々。

森繫久彌の「警察日記、桂春団治、その他色々。渥美清の「寅さん」等どれを取っても面白いものばかり。

映画一筋に生きた淀川長治さんの人生は楽しく生き他素晴らしい人生でした。

勝洋はそんな音楽、落語、映画に感化され、人生を楽しく生きる事に目覚める。

     母に会いに行く

    ある日の事、二人で母に会いに行く。すると係の人が「チカさん。息子さんが会いに来ましたよ?息子さんの名前分かりますか?息子さんの名前?」すると「種治」勝洋「それは貴方の兄貴の名前。俺の名前は?」と聞き直す。すると再び「種治」勝洋「こりゃだめだ。眠そうです。寝かせてやって下さい。今日はこれで帰ります。後はよろしくお願いいたします。」と言って帰って行った。帰り道勝洋「親父も、お袋も最後は自分の倅の名前も忘れてしまうものか?俺は痴呆症になる前に死にたいね?」すると妻が【そう上手く行くかね?」勝洋「やだな。山で滑落死の方が良いな。」妻「誰が引き取りに行くの」勝洋『バカお前しかいねだろ。山で死んだら近くの火葬場で焼いて、骨壺に入れ風呂敷にくるみもって帰ればいいだけの事よ。大して難しい事では無い。」妻「ずいぶん簡単に考えるね。」「そうさ何もそんなに難しく考える事じゃ無い。」などと言い家に帰った。しかし母親は日に日に痴呆症が進んで行った。

      アル ジョルスン

    勝洋はアル ジョルスンのアニバーサリーソングに熱意を燃やしカラオケボックスに通い、歌の練習に時間を費やし芸の幅を広げて居た。アル ジョルスンはロシア帝国統治下のリトアニアに生まれたアメリカの歌手。勝洋は映画の「ジョルスン物語」を見て以来アルに魅了される。

oh how we danced on the night we were wed we vowed our true love though a word wasn・t said

勝洋は一の日か、自分の倅か娘か甥か姪の結婚式にこの歌を歌いたいと思って居たが誰も結婚式を挙げるものは居なかった。他にもバイオリンで娘の結婚式に「屋根の上のバイオリン弾き」よりサンライズ サンセットを練習していたが、一向に結婚する気が無く、譜面がボロボロになってしまった。勝洋アニバーサリーソングと屋根の上のバイオリン弾きは身内の結婚式に披露する事をあきらめた。だがしかしこの二曲はいつの日か何処かで出来る事を願った。

     鰻釣りに挑戦する

    勝洋は前に二度ウナギの仕掛けに失敗している。今度は仕掛では無く釣りに挑んだ?うなぎは夜行性で夜の方が食いつき良い為に薄暗く成る少し前に出掛けた。

庭には沢山のミミズがいるためミミズを掘り起こし餌として持って行った。

竿は二本用意し仕掛け針に大きなミミズ沢山付け、川へ投げ入た。4.5十分したころに大きな当たりが有り、格闘の末ハリスごと食いちぎられ、釣り上げる事は出来なかった。

その後何度かトライはしたもの二度と当たりは無かった。然し大物が居る事は間違いないが、何の魚か分からないままであった。

    勝洋はその日から七日間通い詰めた。つれても、つれなくとも毎日毎日同じ時間に餌をまき仕掛けを垂らした。七日目に当たりが来た。何と約50㎝程の鯉が釣れた。勝洋

急いで鯉を家に持ち帰り、泥を三日掛けて泥を吐かせた。勝洋は元々料理人で魚を裁くことは得意では有ったが、仕事を止めて以来包丁を持つことはせず、何時も妻の仕事になっていた。

妻は勝洋に仕込まれ鯉の洗いは、お手の物で鯉の洗いは大好きで鯉一匹位一人で平らげてしまうくらいこいは大好物で有った。公園の鯉を見るたびに言う事は、美味しそうの一言。

鯉も妻の姿を見て直ぐに逃げた。鯉も恐いのでしょうね?桑原桑原といった感じですかね。二人で鯉一匹妻四分の三以上平らげ、又つてきてとの事。その日から三日めの日、何と

本命のウナギが、釣れたでは無いですか?型も上々文句無く食べごろ。すぐさま家に帰り泥を吐かせた。四日目愈々食べごろ、妻包丁研ぎを済ませウナギを裁く。勝洋ウナギのたれを

作る。骨と頭を焼き、醬油、味醂、酒、砂糖、を入れにつめた。鰻はくしは打てず、そのまま平焼き、そのあと蒸し器で蒸し、たれを何度かつけ焼きし、あんばいを見て食べた。矢張り苦労した成果今までに無い味が支度。が此れからは寒く成るので今年の夜釣りは、又来年にすることに支度。

慰問コンサート

    前から申し込みしておいた別の慰問コンサートの日取りが決まり出し物を検討し、新メンバーと家で話しをする。出し物にスコップ三味線をやることにし、新しくスコップ

三味線と見た目華やかな袋帯で袋を作り、スコップにデコレーションし、新メンバーが演奏に参加。津軽三味線のCDの音に合わせ、ビールの栓抜きでスコップの尻を叩く。音の良く

出る所を探し曲に合わせリズムに乗り恰も太棹三味線を弾いているがごとく、力強く真面

目な顔で弾く。ただそれだけの事だが大の大人が袋帯にスコップを入れ舞台に上がり真面目な顔で人様の前でやると、皆さんが笑って暮れるのでやってるほうも以外に楽しいことです。

その他にもバイオリン演奏 フルート 弾語り ピアノ演奏 ピアノは施設などに

置いてある。然しピアノは用心、なかに元ピアノの先生がいたり、学校の音楽の先生が居たりする事が有るから、先ず先に聞く。ピアノの弾ける方いますか?と聞く。もし弾ける人が

居たら、もしもピアノが弾けたならの譜面を渡し、歌を歌う。いない様であれば下手なピアノを弾く。飽くまでも空気を読んでからの行動。カラオケで歌うと入居者の方々も歌に参加

し、和気あいあいと楽しく成る。カラオケのうたは行ってみてから曲はその時次第。初めての施設の場合は他の所で受けたものを、やるので衣装はそのままで使い、新しく作る手間

は無い。

    コンサート当日

    コンサート30分前に行き、準備をする。施設によっては以外に設備投資も凄くビックリすることもある。入居者の皆さんが車椅子や椅子に座り、楽しみにしている人も居れば、部屋で寝ていたいがそうも行かず、連れて来られた人も居る。仲間同士で喧嘩をしている人も居て団体生活の難しさを垣間見る。人は幾つになっても生理的に嫌いな者は嫌い。好きな者は好き人間幾つになっても争いは付き物。此れは人間の持って生まれた性でしょうか。驚いたことは老婆同士が激しく喧嘩をしていた。慰問に行った者同士が唖然となり、リーダー核のおばあさんが、「あんたは馬鹿なんだから静かにしてあっち行きな?」と言い払った。「この人向こうに連れて行って。」と係の人に言うと、係の人が車椅子を遠ざけた。慰問先でビックリ。リーダー核の人が「いいから初めて下さい。」と言われたので始める。演奏を始めると静かにみみを傾け聴いてくれた。勝洋は演奏の合い間を見て回り、お年寄りに話しを聞いて回った。すると一人の老婆が「今日は3年前に主人が亡くなった日です」と聞き勝洋持って来た物の中から木魚を取出し、アメイジンググレイスの曲を歌い、木魚を叩いた。

Amazing grace how sweet the sound .................と歌い切った。老婆が「主人は、ウヰスキーとジャズ好きでした。きっと木魚のアメイジンググレイスは天国で笑っていると思います。ありがとうございました。」と言われた。他の人からも木魚をパーカッションにするとはいいね!と言われた。勝洋前にリサイクルショップで見た時から、木魚を買いこのネタを、いつか何処かでやるつもりで居た出し物で今日はそれが出来たので心の中で万歳と叫んで居た。その後もカラオケ、弾き語りで大いに盛り上がった。帰りぎはに応接間に通され、お茶を出され又来て下さい。と言われた。「はい。又来させて頂きます。」と挨拶を交わし家に帰って行った。そして反省会を。すると皆が口にしたのが最初に騒がしいので驚いた。

歳折のリーダー核の人が『バカ、あんたは馬鹿なんだからうるさいーんだから黙ってあっちに行ってな?」と言うセリフを聞いた時、皆も今日は出来るか心配していたと言う。施設にも入るときにはくれぐれも桑原桑原です。

アジサイの花

   アジサイの花の曲が遂に完成した。長年放って置いた詩にやっと曲を付ける事が出来た。前々から何時この詩に曲を付けられるかが勝洋の夢で有った。特別作曲を勉強したわけでもなく、単にバイオリンが弾ける様に成ることと、一曲でもいいから作詞、作曲をしてみたいという思いが子供の頃からの夢で有った。

下手なバイオリン演奏と下手な歌でも、子供の頃からの夢は叶った。遠い遠い道のりであったが、元は楽器に触りたい、楽器が欲しいと思い、全て夢捨てず、あきらめず働き買い

習に行き覚えた音楽。そして今音楽を通じ慰問先に行ける。そして喜んで暮れる人もいる。此れ皆ご先祖様、友達、恩人、入居者の皆さんのお陰です。と勝洋は仏壇に手合わせる。

     カラオケ店

   勝洋は今日もせっせとカラオケへ行く、レパートリーを拡げる為に。今の練習曲はエルビスプレスリーの曲で好きにならずいられない「can・t help falling in love]で有った。その他にも三波春夫の大利根無情。縞の合羽に三度笠、手には大刀の代わりに長ネギ。といった感じで頭の中では考えながら、歌を練習していた。

その他にも夜来香を中国で歌い、ジリオラチンクエッティの夢みる想い「Non ho l,eta]等色々な歌を練習していた。勝洋は好きなことは、人一倍努力を惜しまず自分が納得できるまでやると言った人間で有ったが、取り分け優れている物はお笑いの発想で有った。

    二回目のコンサート慰問が決まる

   前に一度行った先から二度目の慰問が決まり、行く事に成った。三人は其々出し物を考えていた。弾き語りは前に長渕剛のリクエスト曲が有り、他の一人はその場の雰囲気を見て、勝洋は美空ひばりのみだれ髪「カミさんの着物を着て」と言った具合で練習をし、当日を迎え慰問先に向う。最初は司会の挨拶と司会者によるカラオケ、その間に音合わせ着物の着付け、化粧と言った具合にことを進める。カラオケ、二曲が終わり、弾き語り長渕剛の曲が二曲が終わり、化粧を済ませて勝洋が出ていく。それだけで皆がどっと笑う。

勝洋それだけで充分にうけた。勝洋もこれで満足していたが歌を歌った。歌はひばりのみだれ髪すると思って居た以上に拍手が多く勝洋思わず苦笑い。勝洋は船村徹の曲が好きで良く歌っていた。

その後もうたは続いた。勝洋入居者の皆さんに思い出やリクエスト、その他色々な話を聞いて回ると一人の老婆が、いいなずけに死なれ一生涯独身で生きてきたと言う人に

話を聞いて勝洋又もや船村徹の夕笛を歌う。老婆涙を浮かべ喜んでくれた。勝洋も貰い泣きしていた。帰り際皆さんからお褒めの言葉と、次のリクエストが寄せられた。


パーティー

   勝洋。友達に声をかけ行き付けの店を貸切、かくし芸パーティーを規格し、友達に連絡を入れパーティーを開いた。日曜日の昼12時から夕方5時まで、飲み物食べ物持ち込み

自由、カラオケ歌いたい放題、勝洋これからの慰問を考えて先ずは練習を兼ね、出し物を見てもらい、受け具合を見る為にも衣装、小道具、レパートリーと言ったその他色々。を練習することと、友達みんなでさけを酌み交わし楽しいひと時を過ごす事が、歳を取って友も次第に減り、生きていく活力に成る事も踏まえ、宴会芸に期待した。

友達1トップバッターカゴメの水兵さん、制セーラ服に着換え歌と振り付け。70歳の爺さんが真面目な顔で歌って踊って、皆さんに大受け元公務員、通称宴会部長。二番手ギターとハモニカで弾き語り、ボブディランの風に吹かれて。熱演の為ハモニカの演奏中、くびがとれ何処かに飛んでいくのではないかと思い、みんなも心配してみていた。が終わると拍手喝采。三番手ウクレレでハワイアン、四番手中国の土産の二胡で蘇州夜曲演奏。これが又下手な演奏で音が間延びし過ぎて、調子外れが見ように可笑しく、大いにうけた。下手な演奏でこんなに拍手を貰うとは、この次から慰問の秘密兵器としてメンバーの一員としてキープする事に。勝洋今日の出し物を1は顔を、黒く塗り憧れのルイアームストロングのこの素晴らしき世界。勝洋はこの歌には、かなりの時間を費やして練習に練習を重た。勝洋が学生時代ベトナム戦争が有った時代この歌が流れるたびに涙した。というのも勝洋が高1の時にベトナム戦争が有り、アメリカの休暇兵が日本に来て居て、休暇兵と知り合いになり、休みの三日間を東京を案内した。その後故郷のノースカロライナに無事帰還し手紙が送られてきたこともあり、この歌に対しての思い出は、曲が流れるたびに熱い思いが湧いてきた。そんな心の思いが皆が感じ拍手した。その後も歌有り演奏有りおおいに盛り上がる。その後勝洋に二回目の番が回って来た。勝洋前々から妻に、つくらせて置いたチャイナ服に身を固め頭にはラーメン丼をかぶり、歌うは夜来香「中国語で」皆さんの前に立つとそれだけで大きな笑いが?勝洋思わず心の中で「やっぱうけた。」これなら他でも受けると確信を持った。歌は適当、歌っている方も聞く方もどちらも歌詞を知らない。だから歌より笑いが多いほど勝洋は歓びに満ちた。妻も皆さんから服の評判が良く、妻も嬉しかった様です。最後に皆さんで我が良き友よを合唱しパーティーを終える。

ゴミは宝の山

    数日後、勝洋は喜び燥ぎ家に帰って来る。すぐさま妻の元に行き、拾ってきた物を見せる。妻「何それ?暖簾じゃないの、どうするの?」勝洋「これは宝物、これでプレスリーの衣装を作て暮れ」妻「どんなふうに?」勝洋「この縄のれんの縄だけを切り、洗って袖の部分に縫い付けて、後はフリーマーケットで見つけてきた光物をあしらい、後は適当に上手く作ってくれ。」妻「何時も簡単にいうね。」勝洋「それが俺のいい所」と言いプレスリーの曲を聞きに自分の部屋に行き、CDを聞いた。次の出し物にはエルビスプレスリーをやりたいがために。本当に極楽とんぼの夫。こんな人いるのか?いるのです。一の世もいるんですゆめを食べて生きるバグは?

暫くしてからコスチュームが出来上がり、試着してみる。まあまあの出来に勝洋もにんやり。後はDVDを見て振り付け、と曲の完成に全力で稽古有るのみ。然し発音が難しいのと同時に、エルビスの声良すぎる事にがっかりし、シリアスな気持ちに成る。いざという時はリーゼントのかつらをかぶり、テープでもみあげを作りオーバーリアクションでお笑いを。それが一番と悟りを開く。なんせ拾って来た縄のれんで作った品物。笑いのほか何もない訳だから、格好づけても生かし方のないこと。でも笑って頂けたらそれは最高に嬉しく、本来の目的達成したことに成る。いつできるのか楽しみに待つ事に。

ダンス

   勝洋次なる出し物を考える。爺さんだけのダンスチームを。衣装はセーラー服、歌はAKBと乃木坂とその他。勝洋録画に没頭する。最初は三人でスタート、次第に3人、4人5人遂に、7人のメンバーらが集まり、区の施設を借り練習をするが、爺さんばかり息も体力的に続かず、歳折にはハードなリハビリに過ぎなかった。足をつたり、筋肉痛になったりして、それぞれ散歩を始めて体力作りに勤しんだ。

二度目の集まりには、加齢臭の匂いでなく、膏薬の匂いが漂って皆が大笑いした。回を重ねるとみんなも体力が付、腰痛が治ったひとも居て、暗い爺さんが段々と明るく前向きに也、次第に早く人前で披露する事に意欲的になっていった。

これも勝洋の狙いで有った。勝洋は人生を楽しく生きて、ピンピンコロリを願って

居る一人です。結婚式に出たいが結婚式はなく、あるのは葬式ばかり。これではバランスが悪い、知り合い友達がドンドン減っていく。好きな芸人、役者、歌手、スポーツ選手、皆ドンドン居なくなる。うちらの番も曽於遠くでは無い。体を鍛えピンピンコロリを夢見てぴんころ地蔵に願い事が叶うようにピンコロリ地蔵にお参りに行く。

暫くして一人一人がそれぞれ考え、自分也の歌や踊りを考えて、衣装や小道具、振り付け、化粧等を見せたくて又店を貸切パーティーを開く。

先ずはAKBの歌と踊り、練習の成果上々歳折には80点。見に来た人も「今度俺も入れてくれる。」と言う物好きも出て来た。きけば定年後何もすることが無く、暇で退屈で趣味もなく毎日ぼーと過ごしていて、妻にもなんかやったらと言われて居たらしくやる気が出たらしい。来るもの拒まず。馬鹿な事は、多いほど楽しい。又馬鹿馬鹿しいと言われるほどよりたのしいもんです。科の偉大なるチャリチャプリンの映画も、あのばかばかしさが大衆に受けたわけで、ハロルド ロイド バスター キートンもみな馬鹿馬鹿しいのが良いわけある。馬鹿に付ける薬は要らない。馬鹿は最高の薬である。

ダンス2

    ダンスは今学校の授業でも取り入れてる。歳折だって毎日の生活に取り入れて寝たきり老人にならぬようにリハビリと思い、歳を取ったら捨てるものもないはず。老々介護

をするより、老々ダンスをと勝洋は歌とダンスを奨励した。歌は腹から声を出し、ダンスは普段使わない筋肉を使い、リズミカルな動きと汗をかく。これがリハビリぴんころ。

これをやっても寝たきり状態になってしまったら、その時は諦める鹿内。勝洋一言講座。

     

レンタルスタジオ

   勝洋今日は一人で貸しスタジオに行く。沢山の楽譜やら楽器を持ってスタジオに入り練習をする。先ずはドラムから体力があるうちに練習をする。ドラムは一番体力を使うので体力があるうちに練習をする。疲れた時には尺八を、いきが苦しく成ったらバイオリンを弾き、肩が凝ってきたらピアノを弾き疲れたら少しの休息を入れ、フルート、ケーナ、篠笛、と練習をする。大変疲れる。夜筋肉痛で目が覚める。歳折には少しハードでありぴんころとは行かず。翌日マッサージに行くが、その時だけが至福の時、すぐに楽器演奏をやると又直ぐに痛み出す。然し止められ無い。楽器を触っている自分が少しお金持ちに成った気分に也貧しかった時代から少しの優越感に成れた。幼いころバイオリンを持って歩いているだけでお嬢様と思い、イーコル金持ちと決めつけてしまう所があった。然しチャップリンとキートンの映画で貧乏人のバイオリニストとピアニストが居て、楽器を演奏するシーンが有り、貧乏人が楽器を演奏してもいいのだ?と思った。バイオリンを買い、習に行き、甥っ子にバイオリンを今習っているのだと言うと、甥っ子に[バ、バババイオリン」とビックリされる。矢張り貧乏人一族はバイオリと聞いただけでビックリしてしまう。生まれが分かる。然しバイオリン、チェロ、コントラバス、その他色々。の楽器を弾けても仕事が無く食べる物もなく失業中のミュージシャンの映画でオーケストラの少女と言う映画で貧乏ミュージシャンの映画が勝洋の好きな映画の一つで有った。昔は娯楽の王様は映画で誰しもが皆休みの日には、良く行ったもので、映画館は超満員で有った。

映画の黄金期時代で有った。今のような沢山の娯楽も無くスポーツと言えば野球と相撲、レスリングと偶にボクシングがあるくらい。

娯楽に甘いもの物はないが夢だけはあると言った具合。その何にも無い時代の思いが今日の勝洋の夢の一つ。夢は叶うもの、又叶えるもの。夢破れて山河あり。

    ドラムの稽古

   ドラムや登山で歳を取ると足がよくつる。そんな時に勝洋は直ぐに水をのむ、夜寝ていても歳を取ると良くつる。常にみずを持ち歩くことを勝洋の日課である。ドラムは烈しい

運動で足はつり、手は腱鞘炎に也、全て何でもが若いうちからと言う事で歳を取ると練習では無く、単なるリハビリに過ぎないのかもしれないが、それでも好きなものはやめられない

のです。

     母の見舞い

    妻のやすみに二人で見舞いに行くと、お産を終え出勤してきていた介護士が、話しかけて来た。話を聞くと何とビックリ自分の子供に母の名前のチカと名付けたというでは

ないですか?

勝洋ビックリまあなんと恐ろしや母親に似なければ良いが、もしも似たら親父の様な人がいなければ他に嫁の貰い手がない.そんなこと知らずに大事な我が子にしらないとはいえ、

余りにも気の毒に思うが、こちらに来たときは、しゃべらず寝てばかり手のかからない大人しく何でもハイハイと言い、静かな手のかからない寝たきり老人で世話人は楽で大人しく

良い歳おりでしたから、介護士さんも知らずに付けた名前でした。桑原桑原勝洋の責任ではありません。

     土作りの季節

    又寒い季節が訪れ、土作りの季節がやって来た。冬は蚊が居ないので蚊に刺される心配はないが、大きな穴を掘り生ゴミ、米糠、枯葉、石灰、貝殻、などを入れ時期が来るまで時を待つ。その間冬の花、梅、椿、木瓜、福寿草などの手入れと鑑賞。手を加えて上げると見事な花を見せて暮れる。勝洋家では、花さかじいさんと呼ばれる。だがしかし余り多くの花を咲かすと木も疲れ枯れてしまい、余り肥えた土は植木の為には良く無い事を花が教えてくれる。その他人の生き方も世間の風が教えてくれる。花も人も観察するのが良いかもしれない。

低山ハイク

    冬は低山ハイクがお勧め、天気の良い日の陽だまりハイクが良いので勝洋は夏山より冬山の方が背中に汗もが出来ず氷花も見る事も有り、静かな山歩きが出来た。空気が済んで富士や東京、スカイツリーと言った所が良く見え低山ハイクは冬がお勧め、夏山は高度が高くある程、ある程度の高さまで、乗り物で行くに限る。勝洋は室内も野外もどちらも得意だった。ダメなのは退屈、する事が無い時。これが一番苦手で直ぐに何かの遊びを考える。遊びの天才、妻も長年にわたり傍に居ると感化され、意外と面白いことを考える様に成った。俗に言う似たもの夫婦。いやですね。馬鹿ですね。親戚になりたくないですね。以上勝洋こ

れにて寝ます。

二度目の慰問

    こちらは二度目の慰問先。こちらは舞台が完備されており、機材も完備されカラオケも、ピアノも完備されていてとても充実した施設です。

そこで先ずは司会の挨拶の後、AKBの歌と踊りで飾った。この日の為に妻と勝洋は日暮里に衣装の生地を見つけ、買い揃えた。安い生地を大量に買い、コスチュームをこさえた。そして化粧をした。なかには化け物もいて、それは仲間同士が見ても腹を抱える位笑えた。髭ずらの上から白粉、口紅、桂、付けまつげと言った出で立ち。笑わずに歌う事がこれ程苦しいこととは、今までに無い我慢で有った。舞台に上がりカラオケの伴奏が始まり歌と踊りが始まると、客の一人が椅子から笑いこけた。他の人も大笑い。中には涙を浮かべ笑って暮れる人もいた。歌が終わり皆で顔を見合わせて、皆満足げに笑った。入居者の皆さんも其々悩み事や苦労が有るはず、本の一時でもいいからその悩みから開放することが出来たならば

勝洋の思惑が成功した訳です。少しの時間を貰い、話しの旨いものに、繋ぎの話とカラオケで間を稼ぐ。勝洋、紋付き袴、手には一もの長ネギ、出し物は白虎隊、歌詩吟剣舞、どれも

youtubeで見たもので、習った分けではない。所詮長ネギもっての猿芝居。旨い訳でも無い、ただ笑って貰えたらそれが狙い。然しAKBのあとは、何をやっても先程の笑い程受ける

事がないが、終わると中に下北の人が居た。勝洋はお爺さんに話を聞くことに、お爺さんの実家は元会津藩で、下北半島にうっり住、お爺さんは三男坊で東京に出てきたという.

話の中で時折会津の武士道が見え、どことなく伊藤正義に、似た感じがした。勝洋「前に冬の下風呂温泉にカミさんと二人で鮟鱇を食べに行き、大間から船に乗り函館に渡り湯の川

温泉で一泊し、函館空港から帰ってきた事があります。」と言うと、「そうかい、下風呂温泉は湯が良いんだ。俺は大畑だ。下北は薬研と下風呂がいい湯なんだ。」勝洋「大間はマグロと佐井の仏ヶ浦。映画で飢餓海峡をみました。三国連太郎、左幸子、が良い演技を見せてくれました。」「俺も仏ヶ浦へは行った事があるが、綺麗な所だ。」などと言い、終わりの時間がきたため、挨拶を済ませ又来ることを約束し施設を後にした。

勝洋の家により打上げをした。「あんなに受けるとは?思ってもみなかった。」「数さんのあの化粧を見て笑わない人はいない。」「あれは今後もうちらの秘密兵器そんじょそこらで見せらないよ。」「でも色々な人に見せて大いに笑ってもらえたら?」「俺もそー思う」「その方が宝の持ち腐れにならない。もっと色々な所で」勝洋「一層の事フル モンティ見たいにこれで世界を回るか?」数さん「ならば最初はカ―ネギーだな?」などと言いそのごお開きに。

     フル モンティとは日本語でスポンポンと言い、1997年ドラマ/コメディ1時間32分のイギリス映画。かつては鉄鋼業で大いに栄えた街で失業中の金欠男6人が、男性

ストリップ ショーで2000年にはブロードウェイでミュージカル化されトニー賞にもノミネートされた愉快なコメディ映画

      飢餓海峡

    1954年昭和29年9月26日青函連絡船洞爺丸沈没した海難事故。1155人に及ぶ日本海難史上最大の惨事となった。事故を水上勉が小説に、後に映画化。

    出演者      三国連太郎、左幸子、伴淳三郎、高倉健など、勝洋が留まった宿の女将さんもロケ地に見に行ったとか?「仏が浦」

    勝洋日お改め、下北半島出身のお爺さんの所に顔を出す。別れ際におじいさんが又話にこいや。と言われて寂しそうな目で言われて会いに行く事に。部屋を訪ねると、にこと笑みを浮かべ「来てくれたのか?ありがとう」と言われて「俺福島の人と下北の人にかって商売している時色々世話になり、有難く思っているのです。」「俺は何にもしていないけど。「誰でもいいのです。恩返しが出来れば。」[ありがとう。この間の白虎隊の紋付き袴で歌詩吟は、うちらのルーツ戊辰の戦で負け、下北半島に追いやられ、貧しい生活に追いやられ、寒い冬食い物も無く、自殺をする人も居たり、村から逃げ出す人も居たり大変な時代を生きてきたわけで、俺みたいな三男坊は家にいても仕方なく、仕事を求めて東京にきたわけで、いまでは東京方が長い。田舎は寒くてもお帰りたくない。子供も孫も皆東京に居るから。兄貴の子供が後を継ぎ、兄貴はとーに死んでるし、兄弟姉妹も皆東京、埼玉、神奈川、に来ている。だが兄弟姉妹が集まるときには東山温泉にいくんだよー」「そうですか?私も若い時に冬休みに東山温泉へスキーに行った事が有ります。背あぶり山をバックに猪苗代湖を眼下に、景色がとても綺麗なスキー場ですね。本格的に滑るなら猪苗代スキー場の方が広くてダイナミックですけどね。」「詳しいね。」「はい。会津も飯森山もさざえ堂も、恐山も薬研温泉もみんな行きました。」「なんだ。俺より詳しいじゃないか。」「恐れ入ります」などと言い、又来ます。と言って帰った。家に着くと自分の部屋に入り、こんどは自分の芸名を考えた。股旅ものの名前は、中村銀之助、大川龍之介、長谷川雷蔵、などどれを取っても全てインチキ臭い名ばかり。最後に東慎之介と命名した。

ラテンの名はドントコス フリオ フランス名はセバスチャン ミッシェル 英語名はボギーボガードと適当な名お付けたが、行く先々で、コロコロ名が代わった。何故と言うと、付けたなを忘れその場の雰囲気で適当に、所詮芸名など有っても無くてもどっちでも良いこと。然し勝洋その「めくり」が酷くお気に入り、いつか脇に置き縞の合羽に三度笠の時にめくりを傍に置き早速と出て行き、そこでコケる。飽くまでも笑いが取りたいがために。馬鹿ですね。良くあの父親からタガの外れた子が生まれて来たものだと言われるが、勝洋は以前気にせず、親父も本当はやりたかった事。然し照れくさい、人前にでるのが怖くて出来なかっただけ、普段は落語、喜劇、漫画をみてはまるで漫画だねーなどと言い笑っていた。愉快な人でした。特にお気に入りの文句は、かわいそうだよズボンのおなら、右と左に泣き別れ。と言ったことが大変受けていた。

自然薯掘り

   自然薯掘りの時期が来たようで掘ることに、意外に重労働で気をつけて掘るのですが、おらずに掘るのは意外に難しいのです。傷つけないようにほることは時間が必要なのです!細くて、ねじれて、もろくて、深くて、長くて神経を使います。時間をかけて掘起し、綺麗に洗い、細い髭を火に炙り、すり鉢ですりおろす。そこにだし汁を入れ、当たり棒で混ぜる。麦飯にかけたべる。出来た頃合いをみはかり、暇そうな友に電話をすると、意外に暇な奴らが多い。薯が足りず、急きょ長芋をスーパーに買いに行かせる。

その間軽いつまみで酒を酌み交わし、ネタを話しあい色々な意見交換する。が最後は飲みすぎてはなしをした事が覚えていない。この適当作が人間関係をより良いものになるのではないかな?と思います?

最後の締めに麦とろご飯を食べるが、お代わりする者も出て今度は飯が足りない。とわいえ時間も遅いので今日のところは、一先ずお開きと言う事で別れる。

      同窓会

 仲間一人が今度同窓会が有るので、その余興に酒とつまみは出すが、ノーギャラで会を盛り上げてくれないか。という話が有って博が勝洋の家に訪ねてきた。博「勝ちゃん、受けて暮れるかね」勝洋「俺は喜んで行かせて貰う。後はラインで連絡を入れとく。」「話が有るから後は携帯で。」「わかった。来たメンバーで、出し物決めよう。金貰ってやるわけでもないし、プロでもないし、皆さんに喜んでもらえればそれで最高。」などと言い別れた後で皆にラインを送った。暫くしてラインが、ぽっぽっ返事が入り、同窓会は一ヶ月先のことで、慌てることもなく様子を見ていた。

寄席に行く

   勝洋は久しぶりに、浅草の寄席に出掛けた。随分とご無沙汰していて、知っている芸人さんは時たま出て来る。すると不思議なことに見ている方がビックリ。あれまだ生きて居た。と言った具合に、早く亡くなる人も居れば長生きの人もいる。だからと言って取り分けて好きでも無い。話は聞くが然程面白くもない。こう言った噺家は講座降りて、言うことは決まって「今日の客ダメ、まるきし俺の芸が分からない」などと言って客のせいにする。これが一番早い解決方法、然もノイローゼになったり、うつ病になったり、なかには自殺をするものもいる。今日の客はダメ、笑わないよ。客が悪い。等と言って、安酒のんで寝てしまう。長生きの秘訣。そうかと思えば行くと超満員。地方からの団体さん講演中でも時間が来ると何十人がどっと席を立つ。前例席が大移動講演中でも、芸人さんもやりずらそう。静かに帰る訳でもなくガサガサ荷物を持ったり、酔っぱらって居たり、中にはテレビで見た事の有る芸人さんだと話しかけたり。講演中はお静かに。色々な事が有り寄席に行くのが遠のき、好きな噺家のCDを聞き家に居る。高校生のころは人形町末廣に良く行った事が有り、座敷で座布団を借り、文楽の明烏を聞くとき甘納豆が良く売れ、柳家小さんが出てくると、酒がよく売れた。都都逸にこの酒を、留めちゃ嫌だよ酔わせて遅れ、まさかしらふじゃいいにくい。等と言った粋な文句が、柳家三亀松、三遊亭金馬「藪入り、居酒屋等」 雷門助六「あやつり踊り」など 良く寄席で見たものです。知っているひとは、あの世に行って居る数の方が多い。そんな訳でどんどん寄席に行く数が少なく成る。

  映画も同じ、寂しくなるばかり。そんな訳で自分が馬鹿な事をやり、楽しんでいる。

客を観察する

   寄せ見ながら客の様子を見学する。色々な客が居てそれはそれで楽しい。話しなど、同でもよく酒を飲んでは寝て居る物や、色物だけ見て落語になると寝て居る人も「色物とは落語,講談以外の芸で主に漫談、手品、太神楽や曲芸等」テレビで見た人の時だけ起きて、知らない人になると寝て居るひとも。そうかと思うと、落語が終わると、待ってました!などというものも?詰まらない噺家が出てくると、弁当や酒を飲みだすものや、トイレに行くやつや、芸人をスケッチしてるやつや、其々思いのままで客を見ているのも以外に楽しいものである。噺家にも色々な噺家が居て、愚痴を言ってその日の、酒だい稼ぎに、噺家という商売は楽な商売で、座布団に座り、15分か20分ただしゃべるだけで、楽な仕事。その分生活が苦しい。等と愚痴を言って帰る。帰りに懐に余裕が有る人を探す。噺家が帰りには太鼓持ちに?今は噺家、芸人、漫才師などの人も大卒が多く也、東大、京大といった人もいる。たまに嘘だろう。みちまちがえてね?役者か女優さんにでもと言った人もいる。その反対で芸人と言う商売が有って良かったね!他に行く道はないよ。天職だねーと言っ他人も居るから、寄席に行くのも面白いかも?長い話は独演会に行かなければ聞けない。 勝洋は若い時には良く、一人で独演会へも行っていた。三遊亭圓生の「中村仲蔵」桂文楽≪明烏、寝床」古今亭志ん朝『五人廻し厩火事」等と言った所で、既に誰もいない、志ん朝が早すぎたせいで、もっと見ておけばと今は後悔が残るだけ。

       同窓会

   遂に同窓会の日がやってきた。待つこと30分、幹事さんから出番が言われる。「本日はお招きありがとうございます。家に居てもする事が無く、退屈していたとこら、歌を歌えば酒を飲ませてくれるということで今日は喜んでやってきました。中には嬉しくて、子供の頃遠足の様に昨夜は一睡も出来なかった人も?あ。。。。。俺だ」等と勝洋が久日振に挨拶をした。次に吉秀が「私には、妻が一人おります。怖いのです。普段酒を飲ませてくれません。だから今日は喜んでわたしが、最初の乾杯を歌はせてもらいます。よろしく。」挨拶をし、歌いだした。歌が終わるとアンコールがで泉谷しげるの春夏秋冬を歌った。すると未亡人の伯母さんにこっちにおいでと呼ばれ、早くも酒にありつくと言った具合に。このあたりが吉秀の得意なこと。すると二番手には、俺が俺がと名乗り出た。いずれにせよ面白い野郎の集まりです。二番手豊が、座布団を丸め風呂敷でくるみ髪は姉さん被りにし、一節太郎の逃げた女房、歌と振り付け。これまたバカ受け。すぐに酒にありつく。ともかく酒が飲めるとならば120パーセントの力がでる。みんなも其々試行錯誤考えて17番18番を携えての今日の出番其々力が入っての公演。勝洋は幹事さんとはなしおし、来ている人の話を聞き出す。すると意外に、同級生同士のカップルが何組か居たのを聞き勝洋、新井満のこの街でを歌い、やっと酒にありついた。宴会のおわり際に、感謝とお礼を言い最後に、勝洋が「同窓会とはいいものです。しかしながら年々数が減って来ます。活かし方のないことです。こればかりは、そこで4年に一度の同窓会を、2年に一度、或いは毎年といったぐわいにして、その都度呼んで頂ければ願ったり、喜んだり、酒が飲めたり、嬉しいかぎりです。本日は汚い芸を最後までお付き合いありがとうございました。一座の座長としてお礼もうします。」吉秀すかさず「誰も座長と思っていません」皆さんに大受け。勝洋「一生足引っ張ってやる。こう見えてこの人ものまねがうまいのです。上田吉二郎のものまねが?吉秀「かね払えねえなら

娘叩き売り飛ばすからそー思えガハガハ ガハ・・・・」勝洋「うまいでしょう。実際に仕事の合間に、アルバイトで取り立て屋をやっています。冗談です。」などといい家に帰り反省会を開く。

「 良かったんじゃない 」「打合せなしであのくらいできればいうことない。」「そうだとも。練習をしてもそんなに上手くならないよ。歳だし素人だし、ぶつけ本番の方が緊張していいんじゃない。」勝洋「いざとなったら売れない噺家、客のせいにする。駄目だった。今日の客は?これで一発解決簡単。」豊「あれだけ受ければ上等だよ。下手な芸人ジャあそこまで笑いが取れない。皆さん道間違えたかも?」「俺もそー思う」なだと適当な極楽とんぼの集まりでした。

次の出し物楽しみにしていますと勝洋が挨拶をし、別れた。

      翌日から又勝洋カラオケ通い。

勝洋はレパートリーを増やすために、図書館、CD,BSテレビ,DVD,YOU TUDEその他色々な所からレパートリーを探した。特にYOU TUDEが多かった。そして今レナード コーエンのDance me to the end of loveに思いを寄せ、練習に励む日々でした。その他お年寄りの年代にも好まれそうな、湯島の白梅、蘇州夜曲、旅姿三人男、島育ち、ゴンドラの歌、別れの一本杉、おんな船頭唄、みだれ髪、別れの時は、無法松の一生、好きだった、ブランデーグラスその他色々。二時間たっぷり一人で週2,3回通った。片道2キロ、歩いて5階受付、さらにもう一階上の6階の部屋に行き帰りも、歩いて一階まで歩き2キロの道を歩く、山歩きの為に、然し夏は熱い。リックを背負って山歩きもきっいが、炎天下のアスファルトの焼けた道を歩くのもきつい。然し施設で教えて貰ったことは、健康で歩けるという事の素晴らしさ、人の手を借りず、自分の足で歩けること、一までそれができるか?分からない。夏が終わり秋が来れば、山は錦絵美しいの一言。空は青く、山は赤、黄、青、そこに白が入る時もある。前にフランス人が日本の紅葉は美しい、フランスの紅葉は赤が少ないので黄色と青ばかりで、日本の紅葉の方が綺麗だ。と言われたことがある。カナダの国は国旗にもある様に楓の木が多く、赤が多く紅葉素晴らしい。

そんな紅葉も足腰が丈夫でなくては、いまいち面白みが少ない。人は足腰から衰えていくから、毎日の運動は大事です。

  8月4日朝から熱いが、特別変わった様子もなく、9時を過ぎ山に出かける。行先は高尾山である。家からのアクセスも良く、気軽に行って来られる。

その為ラッシュアワーの時間を避けて行くことが比較的に行きやすい。何時も夏は6号路を登り、細い川沿いに沿って高尾山を登らず、まきみちを通り城山へ行。帰りは稲荷山コースで帰った。途中で地下鉄が止まっており、途中下車し居酒屋で酒をのみ、山の帰りで腹も好き適当に飲み食いし、家に帰ると車が止まっており、身内の者が集まっていた。

どうしたのかな?と思って居ると、ドアが開き妹が「何やってんだ、とっとと入れば。婆さんが死んだよ。もーおお坊さんも帰ったよ。いつまでも何してたの?」勝洋「電車が止まり、動くまで飲んで待っていた。」妹「お上人も途中で電車が止まり、携帯に電話が入り、タクシーで急いで帰り、来てくれたんだ。家に電話が有ったんだけどね知らない番号からの電話だったので、出なかったら?和明が家に来て、ばあちゃん死んじゃったて、和明の携帯に電話が有って、二人で施設に行き、葬儀屋さんに行き、仏様を運んで貰い、お寺さんに電話を居れ、そして今さっき帰ったところ。」勝洋『よく出来た。初めてでは無いから、手際よくできたわけだ。偉かった。俺が居なくても大丈夫じゃないか。そんなことならもっとゆっくり飲んで来れば良かった」妻「つまらないこと言っていないで早く葬儀屋さんに電話をして、明日からの段取りを。」義理の弟「喪主の居ない、仮通夜は始めてだ。」と言い笑う勝洋「俺もそー思う然しこんなに皆が上手くやってくれるなら俺一でも安心してあの世に行ける。安心した。」葬儀屋さんに電話を入れ明日からの予定を隈なく済ませた。そして通夜、お葬式滞りなく済ませ、暫くして落ち着く.

母が居た施設に

  母が世話に成った施設に、お礼と慰問を兼ねて挨拶をしに行くと、大いに結構です。と言われ楽しみにしています。「是非来てください。お待ちしております。」

と言われ、都合の良いひとに連絡を入れ行く事に、初めての行く施設には毎回以前から受けている、スコップ三味線でこんかいは勝洋、スコップ三味線で北島三郎風雪ながれ旅を、やることにした。スコップ三味線を持って舞台に上がるときゃくは、呆然とした顔で勝洋を見た。脇にめくりに北海三郎と書いためくりを置き、カラオケの伴奏に合わせ、スコップの尻を叩きうたをうたう。歌が終わると、笑う人も居たが、何の反応もない人も居た。早く部屋に行き、よこになりたい人も居る。それでも時間がくるまでは、寝かせてくれない。続いてはベサメムーチョ、ソンブレロをかぶり、マラカス一人、ギター二人演奏をする。と矢張り世界の名曲で有って何処へ行っても受ける。その後歌は続き、勝洋はビデオを回し、客席を回る。すると一人の白人のお爺さんが居たので、話を聞くと、カルホルニア生まれのサンフランシスコと言われ、趣味は何ですか?と聞くと、若い時にギターを弾いていたと言われ、急きょカラオケの中にジャニーギターが有るか探し、お爺さんにギターを貸し、音合わせを済ませ、二人でジャニーギターを歌い、さびの部分をギターで演奏をした。終わると拍手喝采。お爺さんのギター演奏は大変上手く皆もびっくりしていた。勝洋は透かさず、リクエスト曲を言う。勝洋の好きなレナード コーエンのDance Me To The End OF Loveをリクエストすると弾き語りで歌った。勝洋は車椅子に乗ったおばあさんと少しの広い場所に連れ出し踊った。勝洋なぜ母親とこんな風に接し方がうまくできなかったのかと反省している。他の人だと誰とでも上手く付き合えるのに、何故か母親とだけは上手く付き合えなかった。勝洋以外にも、兄、妹も親父が好きだった。母が一人で嫌われ役をやって居ただけで、本当は寂しかったのかもしれない。

然し世界中で一番良い親父と結婚出来てよかったと、勝洋は何時も思っている。勝洋も親父の子供でよかったと、他の兄弟もそー思っているはず。

時間が過ぎ客は食事の時間が、勝洋はアメリカ人にお礼を言い、帰り際にお茶を頂き、又是非とも来てくださいね、と言われ嬉しい気持ちで家に帰るが、内二名は物足りず、歌の歌える店に行った。他三名は用がある為家に帰った。

歳も明け梅の花も

 母親が複雑骨折を起こし、病院に入院してから10年、色々な病院と家との間を行ったり来たり、最後は手におえず施設に3年半、10年の月日は長かった。

本人はどの様に思って居たかは分からないが?勝洋には10年前から車で日本一周の旅を計画していた。が車を買って10年はいささか長かった。梅の花が咲き始め桜の開花を楽しみに待っていた。その間にカメラの準備,アサペン6,7用ブロ-二ーフイルム、旅先では ブロー二ー、36mlリバ―サルフイルムは手に入れにくいため、予め用意して置くことが肝心で、暇を見て買いに行く。その他車の点検、弦楽器の予備の弦、楽譜のコピー、その他色々な物の準備に時間を費やし、桜の開花を待った。それと同時にピアノ、バイオリン、ドラムの稽古の終わりを伝え、3月末で一旦辞め、旅に行くことを伝え旅の準備に専念する。

我が家の梅も例年の如く、まんかいに花開き、蜜蜂が来るのを待ち、勝洋も自ら綿棒を持ち受粉をした。毎年の事で梅が大量に出来た。

         桜前線

 3月20日ごろから桜の花が咲き始め、23,24頃には7,8部に咲き、テレビで桜前線を良く見、ニュース、天候、気温、此れから行く東北方面の温泉場、食べ物、桜の開花時期、行くに当たってのルート、カーナビ、車での携帯の充電、バッテリー交換、日用品、布団、水、明かり、本、衣類、沢山の物を、車に詰め込み、4月6日愈々出発、10年以上待ちに待った日がやっときたわけで、一人ルンルンで出かけた。慌てることもなく、桜の開花を待って、北上する。

前々からの夢で、春は桜と共に、北上し秋は北から紅葉を追って南下する旅を夢見ていた。それが今桜を追って北上しスタートした。が・・・・・・栃木の板室温泉にきたが、那須高原板室温泉はまだ春遠く、車内で寝るのはとても寒く二泊して、福島県小名浜の三崎公園に場所を移し、風呂はいわき湯元温泉に通った。さはこの湯へ三日通った。朝起きると風呂の開くのを待ち、風呂に入り、温泉街で朝飯を探し、帰りにコインランドリーに寄り、洗濯を済ませ、昼は小名浜漁港の食堂に行き、夜はスパーへ行き刺身や総菜、果物を買い車の中で食事と酒を飲み、音楽を聴き後は寝るだけ。

二日目さはこの湯の駐車場に車を置き、歩いて温泉街を見て回り、車に戻ると数人の人が勝洋の車の中を覗きこみ、何やら話をしていた、そこに勝洋が戻り話を聞かれる。「東京からかい?」「そーですけど。」「俺も東京で、タクシの運転を25年やって居たけど、歳を取ってもどってきた。今でも深川に1Kの家がある。いいね!一人で桜を追っての旅かい。俺もしてーなー」『三春の滝桜が咲くのを待って居るところです。」「まだ先だ。今年は一周間遅くなるとか?」ほかの人が「諏訪神社のしだれ桜が今満開に咲いている。写真を撮りに行くなら明日がいい、天気もいい日」と言った具合に、情報を頂き風呂に入って朝飯を済ませ、三崎公園に戻り、公園内のベンチを見つけ、楽器の練習をする。お昼に也公園内の食堂を見つけて飯を食う。そこで又新たな情報をえた。福島県双葉郡富町の夜ノ森の千本桜が夜ライトアップされ、三春の桜より綺麗だといった情報を貰う。ならば昼諏訪神社の桜を見て、夕方から夜にかけ、夜ノ森へ行き、二か所の桜を見に行くことにした。 

       桜見学

  朝目が覚めるがまだ暗く、風呂もまだ開かず車の中でお湯を沸かし、お茶をのみ時間待ち、薄明るくなるとウグイスやほかの野鳥も泣き出し、徐々に明るくなって行き、時間が来たので風呂に入りに行く。公園から30、40分でさはこの湯に着く。すると何時もの人達が風呂に入り、勝洋の来るのを待っていたかのように、今日行くといいよ!と教えてくれた。「これから風呂を出たら、飯を食べたら行くつもりです。」と言い飯を食べ諏訪神社へ向かった。平日と有って人も疎らで写真を取るには、もってこいの日で有った。撮影を済ませ、その後で次に夏井川渓谷に行くと、ヤシオツツジが綺麗に咲いていた。写真を何枚か撮り近くの手打ちそば屋でそばを食6号線に戻り、ならは道の駅に行き日帰り温泉に入り近くの公園を教えて貰い、見て回り福島第①原発を目にし、そばに行って見る。後にあんなことになるとは、夢にも思わず、夜ノ森の桜を見に行くがまだぼんぼりに灯が無く、人もまばらで有った。暫くの間、海に行き海岸線を眺め暫く呆然とうみを見つめ時間が過ぎるのを待った。

 暫くして夜ノ森の桜の近くで灯りが付くのを待った。暫くして灯りが灯り桜に大きなライトアップが照らされて、人も車もにぎわい夜店も活気が出、桜のトンネルがより一層美しさをました。

車で二週し、三崎公園まで暗い夜道を一時間かけ何時もの駐車場に帰る。駐車場には水道、トイレ等有り生活には困らないが、夜遅く成るとおかしな車が次々と現れる。それを監視しているのも、退屈しのぎになる。二台の車で来て、一台を置いて2.3時間いなくなる。暫くして二人が帰って来て、置いて有った車に一人が乗り、別々の方向に去っていく。

ある意味二台では行けず一台を置いて行く。そうかと思うと一台の車が中に入って来て、様子を見て出ていき少し経ってから又やって来て誰かを待っている様子。すると少ししてから別の車がやって来て何かを車の中でやり取りをして直ぐに二台の車は立ち去った。次から次と色々な車が出入りする。次の日の夜8時頃一台のパトカーが駐車場に入って来て、ライトを付けたまま暫く勝洋の車を監視していたが、勝洋は動揺せずさけを飲んでいた。

10分位してパトカーはその場を去った。勝洋は又来ると思い用意はしていたが、夜中の3時に起こされるとは思ってもみなかった。夜中の3時にドアーを叩く音がした。勝洋ついに来たかと思った。「夜分すみません。」と言ってドアーを叩く「なんですか?夜中の3時に、昨日の8時に来た時になぜ来なかったのですか?」「これも仕事です。」「仕事は分かるけど昨日8時に来れば?」「すみませんが免許証を」免許証を渡すと別の一人が免許証を持ってパトカーに行き無線で調べ始めた。

何にも無い事がわかり、素直に帰ったがあのひつこい性格は又来ると思ったら案の定朝6時に又見に来たが、そのまま行ってしまう。勝洋ここはもういいやと思い、道の駅ならはに行く事にした.ここの施設は素晴らしい。とてもこんな田舎にこんな素晴らしい施設有るとは思えなかった。風呂に入り食事、寝所、トイレ、水道、休息場、すべてが整い綺麗に整備されたところだが、夜中に大きなトラックがやって来て、エンジンを切らず、朝までガラガラエンジン音がうるさく、三日で4号線に移動した。国道4号線沿いには温泉が無く、岳温泉か土湯温泉に出向いた。まだ三春の滝桜は早いため、暫くここで待つことに。すると寒波がやって来て、車の中で酒を飲んでいても寒くて、寒くてとても酔えず、店に行き熱燗を頂き車に戻り寝ることが出来た。

ここもトイレ水道、コンビニ、レストランが有り良いのですが?温泉がないために毎日温泉巡りに行く。主に岳温泉、塩沢温泉土湯温泉等を巡り時間を潰した。こちらで二泊し愈々三春に行く。三春町も既に観光客で賑わっていて、三春名物の三角油揚げのみせは、丁度昼の時間帯でどこの店も人であふれていた。食事を済ませ三春の町を見学して回り、やわらぎの湯が有りラジウム温泉と岩盤浴が楽しめた。滝桜は車窓から眺め明日妻と郡山で待ち合わせをして、明日二人で写真を撮りに来るつもりで、車窓からの見学で済ませた。

          二週間ぶり

 本日土曜日、二週間ぶりに妻と待ち合わせ。前日電話で打ち合わせをし、昼に新幹線で来ると言う事で昼前に郡山に行き、時間を見計らい、駅に行く。すると時間どおりにやって来て、腹が減ったと言うので車に乗り、高速道路で三春に行き、三春の名物三角揚げと好きなものを食べた後に、滝桜を見に行くが、土曜日桜は満開、天気吉、観光客で車は動かない。痺れを切らし妻だけをカメラ二台とビデオカメラを持たせて撮影にいかし、勝洋は進まない道をノロノロ行く、一時間も過ぎたころ、妻がカメラをブラブラ下げ歩いて もどってきた。矢張り正解これ以上前に行く事は不可能。車を切り替えす場所を見つけてUターンし、三春から高速に乗り二本松でおり、岳温泉に良い風呂が有るので岳温泉に行き風呂に入り、泊りは土湯温泉に行く事に支度。宿は空いており風呂も良かった。翌日は福島市に有る花見山公園に行くがこれまた凄い人人で車は全て河川敷の臨時駐車場へ車を預けバスで行く.行ってビックリこれが農家の庭か、然もただ?道楽もここまで行くと、福島の宝の山、見事の一言。観光客を沢山呼ベル。色々な花が咲き誇り、春の嬉しさがここにはある。三春の名の由来は「梅、桃、桜が同時に咲くことから三春となずけたらしい」梅、桃、桜どころか数えきれない花が、所狭しといった具合に春を演出している。妻も大喜するが、同時に直ぐに腹をすかす。次なることは食べ物探し、見る物見る物すべて食べたがる。良く入るものだと感心する。花見山公園を後にして少し遅めの昼めしを探し、ひつまぶしの看板を見つけ、妻がうなぎが食べたいというのでひつまぶしを食べ、福島駅で別れた。妻は新幹線で東京に帰り、勝洋は飯坂温泉に向かった。

福島県飯坂温泉

 福島駅からは飯坂温泉までは然程時間もかからず行けた。先ずは飯坂温泉で一番古い鯖湖湯へ行き中に入り風呂に漬かる。地元の人たちが多く、旅人たちも入りに来る。温泉街を車で回り、駐車場を探し車を置き、一杯やりに出掛けた。飯坂温泉は以前から何度か来ていたが、段々と客は少なく飲み屋も活気が無かった。

飲んで食べて車に戻り、朝又鯖湖湯に入り、米沢に向かう。

米沢城は時折しも桜まつりと大河ドラマ、天地人、直江兼続ブームと重なり合って凄い人で見学せずに、小野川温泉に行く。ここは小野小町や伊達政宗も愛した温泉で街の共同温泉に入るが、個々の温泉の湯の熱さはとにかく熱い。3分も我慢すると、茹蛸状態になる。とても何度も入れない一泊して次に天童温泉へ行く事に。途中で暫く歩いて居ないので、山寺で階段を上り下りし、玉こんにゃくを食べ天童へ。

         道の駅天童温泉

 この道の駅は無料で足湯が有り、大きなスパーが有り、温泉、トイレ、水、キャピングカーも多く滞在する車生活に最適な場所である。が先は長いので次の日は銀山温泉に行く事にした。

      銀山温泉

 天童温泉から尾花沢を通り銀山温泉へ行く事に、銀山温泉は昔、連続テレビ小説おしんのロケ地にも成った所で、かつては銀の採掘で大いに賑わっ手居た温泉場で大正ロマン漂う温泉街で有った。共同温泉を見つけはいるが、ここもまた物凄く熱い、ここも長くは入れない。写真を何枚か撮った後、秋田に向かった。国道13号をひたすら北に走り、途中で湯の沢温泉に入り、道の駅おがち。愛称は小町の里で一泊し、翌日横手、大曲から角館へ。個々の桜は前からきたくて写真の良い青空を待つことに、桧木内川の土手に咲く桜と川、と青空。武家屋敷としだれ桜どれも絵になる。が然し雨が三日続く。桜を見るのも難しい。4日目朝早くからやっている日帰り温泉に入り、天気予報を伺い当分雨が止まず、移動する事にした。そこで玉川温泉に行く事にした。途中乳頭温泉に、ここはまだ雪が多く残り、乳白色の温泉と雪見風呂に入り、玉川温泉へ行く。が然し夜は車内は寒く、一泊してやまを降りた。次は青森へ行く、大鰐温泉へ、個々の共同温泉は200円と安いが、ここも湯が熱い。それと名物がもやし、30センチはある。ラーメン屋に入りもやしそばを頼む。シャキシャキして旨い。

翌日愈々弘前城へ最後の桜を見に行く。

        弘前城の桜

 今回の桜は三春の滝桜、角館の桜、そして弘前の桜。が然しどれも良い写真が無い。弘前城に入るが時間が遅く、光線が弱い、そこで道の駅サンフェスタいしかわへいき、直ぐそばに日帰り温泉が有りレストランも良い、ここで風呂に入り、あとは酒を飲み、つまみを取り、店の終わり近くに店を出て、車に戻り寝た。翌朝目を覚ますと、そとは雨、仕方なく弘前城へは行くが、車から降りず、堀の周りをグルグル回り、青森の市場へ行く事にした。市場で昼を済ませ、魚を買って帰り、夕方に也道の駅で買って来た魚で一杯やり、酔ったあと日帰り温泉に入り、飲み直し車に戻り寝る。

翌日目が覚め起きると、又雨、仕方なく昨日と同じ、堀の周りをグルグル回り、撮影には成らず、青森市場へ行き魚を買い、車の中で飲み食い、温泉。次の日も同じ。4日目矢張り雨。諦めて浅虫温泉へ行く事にした。

         ゆーさ浅虫

 道の駅浅虫温泉『ゆーさ浅虫」は陸奥湾を一望できる展望浴場。眺めが良くレストランの定員さんも親切で良く気が付く、大間から函館へ行く連絡船の時刻表を調べてくれたりとても親切にしてくれた。翌日下北半島に向かう。途中で椿の自生北限地帯の標識をめにする。北海道には椿が無い。孟宗竹も無い。柿の木も無い。これらの植物はこの辺りが北限なのか?野辺地を通り国道279号陸奥横浜で道の駅よこはま 菜の花プラザで一泊し、翌日大湊に、海上自衛隊の地方隊が有り、少しの時間だが遠くから見学した。スタンドに入り燃料を入れ、早くから開いている温泉を聞く。すると10分ほど行くと、民営の温泉が有ると聞き、寒いので温泉につかり、暖を取ることに、中に入ると地元の人が居て、話を聞くと他にもいくつかあることを、教えて貰う。その足で別の温泉も行って見た。

その後、来た道を戻り、思い出の下風呂温泉に向かう。途中で釜臥山を撮影したり、恐山を見学したり、薬研温泉に寄っ他りして、下風呂温泉に、四月の終わり、鮟鱇は時期が遅く、共同温泉に入り、大間に行く。大間碕灯台へ行き、白と黒のツートンカラーの灯台を写し、天気が良く、函館山、恵山などが良くみえた。

愈々北海道だ。そして時間がまだ早いので、映画の舞台にもなった。仏ヶ浦に行く。映画飢餓海峡は1965年に映画化され、この地で三国連太郎が乗ってきた船を壊し燃やし、逃亡する事に。然し綺麗な水と切り立つ岩山はとても美しく、下北半島の観光の一つである。駐車場に戻る途中で地元の人が、あざみの葉を取って居た。そう言えば思いだす。青森市場で味噌汁の具にあざみの葉が入っていた事を。こちら青森の人は良くあざみを食べる事を知った。

         国民宿舎

 大間に戻り、寝るところを探す。町をうろうろすると、おおま温泉海峡保養センターと言う看板を見つける。すぐさま直行。駐車場も広く、温泉、レストランもあり、宿泊も出来るので、風呂に入り飲み食いを済ませ、宿泊が可能か聞くと、満室と言われる。勝洋も今夜は荒れる天気に、車で無く、やはり畳ないしベッドで寝たい気がした。が部屋は満室。車に戻るがつまらないので、又飲みに戻る。時間を潰し、閉店間際まで居て車に戻り、音楽を聴き寝る事にしたが、雨風が次第に強くなり。夜中になると車が倒されそうになる。無意識に体がいごいた。車が倒れて車の中で朝までいることを考えると一晩中眠ることが出来無かった。その雨が次第に雪に変わり、朝を迎えた。温泉は比較的に早くから開き冷えた体を温めてくれた。雪はやむどころか次第に強く也やむ気配もなく、次の船で函館に行こうと考えたが船着き場に行くと、大勢の人が待っていた。受付に行き申し込むと、船が出るか、出ないか今の所分からない?との事。勝洋呆然とした?この先どうすればいいか考えた。このまま雪が降り続けば、チェーンが居る。が今は4月の終わり、どこにチェーンが売っているやら分からない。外に出て町を見て回るがその様な店は無く、ホテルは見つけた。ここはキャンセル料を払っても部屋は確保して置いた方が得策と考え予約を入れて置くことにした。

雪は止まず勢いは増すばかり、船着き場に戻ると既に欠航と決まり、ホテルに戻る他にてはない。速く宿を確保することが矢張り得策で有った。

後は雪の止むのを待つだけだが、一向に止む気配が無く、ドンドン積もっていくばかり、ならば飲む事しかあるまいと覚悟を決め部屋で酒を飲む。

夕方5時に也、レストランに行き酒とつまみを貰い、30分もたつと笑点が始まり、テレビを見ていると、後から一人の親父さんやって来て、話かけてきた。如何やら船に乗れず、宿を探し、来たらしい。聞くと室蘭に帰るらしいが、船が欠航したために、足止めをくいこの宿にきたらしい。久渋りにテレビで笑点を見た。矢張り電気の有る生活はいいもんだなと勝洋は思う。昨夜の暗闇の中一人で車生活、暗く心ぼそく明るくなるのをひたすらに待つだけ。灯りのある生活てこんなにいいものとは、思わなかった。水、トイレ、風呂、洗濯、コンビニ、などには困らないが、電気ばかりはこの時初めてありがたみをしる。電池では幾らも持たず、わずかな時間しか持たないし、暗すぎる。

後から来た客が家に電話を入れ北海道の天気を教えてくれた。矢張り雪、多いところで30センチとか?愈々チェーンが必要か?と勝洋思い従業員にチェーンの売って居るところを聞くと、今はチェーンを付ける人おらず、全て冬タイヤだとか。もしスノータイヤを付けたと設楽、今現在付けているタイヤを外し、何処に置くかが問題だ。すでに車内は荷物で一杯、タイヤを載せたら寝るとこらがなくなる。矢張りチェーンが何が何でもチェーンが必要だがどこで手に入れることが出来るかが問題だ。するとホテルのスタッフたちも、窓際に集まり、外の景色を見ながら不安を募らせる。話しを聞くと全ての人が夏タイヤに、変えてしまい家に帰る人は20,30キロ離れて居て然も山道を走るとか?最悪の場合はホテルに滞在だが既に満室。勝洋覚悟を決め最悪の場合は延泊を考え、明日の予約を入れとく。とにかくチェーンが無いことには、函館から先も走ることが出来無い。後は運任せとならば飲むしかないと決め室蘭の人と話が弾む。聞けば矢張り一人旅東北を6日かけ旅を明日までには室蘭に帰る予定とか?袖擦れ合うも何かの縁、勝洋の妻も北海道出身、妻の伯母も室蘭に居る。互いに旅好き酒好き、はなしは弾む。

暫くしてレストランの終わり時間に、室蘭の人は外に飲みに行くと言うが、どこに行ったら店が開いて居るか分からないし、表は大雪、寒く東京生まれの勝洋には外に出る気は無かった。

一夜明け、空は青く気温もドンドン上がって雪も少しずつ解け始め、この分だと今のまんまのタイヤで従分走れ層に也、あとは船が出れば三日後又函館で妻に会える。と勝洋は一安心した。

レストランで後から室蘭の人が昨夜のみ過ぎたと言いながら、やってきた。話しをし船が出れば函館に一緒に行こうと話は決まり、朝飯を済ませ雪の解けるのを待ち、船会社に電話を入れ、運航状況を確かめる。

すると本日運行するとの事。9時になると雪もだいぶ解け、ノーマルタイヤでもゆっくり走れば大丈夫に也、船着き場に行き、船が出るのを待った。

船の所要時間約1時間30分然程時間もかからず、船に乗り話し込み軈て函館山が見え次に、金森倉庫街が見え港に着いた。

室蘭の人にお礼を言い、勝洋は函館朝市の前にあるビジネスホテルに向かった。そこは前に何度か留まった事が有り、アクセスも良かった。部屋をキープした後は、函館観光に行く。函館は風も強く雪も飛ばされ殆ど雪が無く車道は問題なく走れた。

先ずは谷地頭温泉に行。こちらの温泉も何度か来ていて、お気に入りの温泉で有った。風呂を出てから啄木に「函館の青柳町こそ悲しけれ友の恋歌矢ぐるまの花」会いに行。谷地頭温泉からは車で僅かな時間で行ける。

啄木一族の墓が立待岬の手前の道路脇に有り、墓参りを済ませ、そのあと立待岬へ。すると今朝までいた本州が雪化粧し青空の下に、大きく美しく良く見えた。

其のあと土方歳三終焉の地、五稜郭、湯の川温泉などの見学を済ませ、宿に戻り車を置き、夕飯を食べに行く。

      松風町

 飲み屋街松風町も全盛期と比べると店も少なくなり、人も少なく也、屋台も無く也寂しく成る一方です。これも仕方のないこと、と諦め店を探す。

矢張り海の幸を探す、良さそうの店を探し店に入る。目当ての干しゴッコのバター焼き、宗八カレイの干物、ゴッコの唐揚げ、鮟鱇といったものは、時季外れ仕方なく有るものを頂き、店を変えもう一軒行き、8時を回り宿に戻り、妻に電話を入れる。明後日妻が函館に何時に着くか。を聞くために電話で確かめる。

ゴールデンウィクに入り妻も休みを取り、故郷北海道に来るので、函館の港で待ち合わせをする。話しが済み部屋で酒を飲み、少し腹が空いたので、宿の隣の函館塩ラーメンを食べに行くが、「函館町より悲しけり」閑散として寂しそう。美味しいラーメンを出しても来ないのかな、寂しな?

翌日フロントで別の温泉教えて貰う。昭和温泉と言うところを教えて貰い、すぐに車に乗り風呂に行、風呂やの外見は豪華なパチンコ屋風で、中に入ると豪華な設備だが客はパラパラ、やっていけるのか心配になる。風呂からでても休憩室に一人ぽっんとしていても、面白くもなんともない。

車で函館の町をウロウロ行ったり来たり、仕方なく又谷地頭温泉に行き、風呂に入るが汗もかいていないし洗うこともなくただ時間潰しに過ぎず、早く夜になるのを待つばかりであった。5時になると同時に店に行、適当な店を探し入る。が一人時間を持て余す次第で、店を変え町をうろつく。〔咳をしても一人、尾崎放哉」一人のつまらなさが良くわかる。はるばるきたで はこだて さかなくなみをのりこえて か? 宿に戻り電話を待つ、暫くして妻からの電話、まもなくバスが発車する。明日の11時に函館に着くと言う事で、翌日10時にチェックしそのあと船着き場に行く。暫くすると船から降りてきて、車にのり腹が空いたと言われ、五島軒に行きランチを済ませ実家に行。道中兄から電話が入り、家に行くと外で待って居た。久日振の妻の実家、一泊して勝洋は昔世話になった増毛の友達を探しに出掛ける。

40年前に漁師の番屋に泊めてもらい、うに、えぞあわび、そい、等を食べさせてもらい、北海道の冬の厳しさ漁師の生活の厳しさ、かつて鰊で賑わって居た漁師町も鰊が取れなくなり、衰退の時期が来ていた。三才年下の彼らに、モリの使い方、作り方、ウニの取り方、泳いでいる魚のつかみかた等を教えて貰い、高三最後の夏休みを楽しく、過ごさせてもらった良き思い出を探しに行く事がもう一つの目的であった。国道5号をニセコ、次に右手に羊蹄山、そこから余市、ここはニッカウヰスキーの工場が有るところ。次に小樽、石狩、雄冬岬、そして遂に増毛に、だが40年もたち町は様変わりして、どこも覚えが無く、港から見える丘が、持っていた写真と一致した。其のあと片っ端から聞き回りをし他。歳は55歳双子の男の兄弟。手がかりは当時15歳、親は漁師、名前が伊藤か鈴木、佐藤いずれにせよありふれた苗字で忘れてしまい、双子の兄弟だけが、確かな記憶。昭和28年の増毛町には双子の漁師の子供は、そんなに居ないはずだが、誰に聞いても、どこに行っても分からず、漁師に聞くと鰊漁師は辞めて、帆立に切り替えた人だけが生き残り、他の人はほとんど辞めていったと言われ、知っている人は誰も居なかった。国破れて山河在りか?港から見る山は昔と変わっていないが40年の年月は全てを変えていた。

道の駅

 増毛町を後に、次なる今夜の寝床を探し北上し道の駅てしおに着く、早速温泉夕映へ行き温泉に入り、レストランで飲み食いを済ませ、空き部屋が有るか聞くと五月のゴールデンウイーク予約で満室、売店で地元の特産品を買い又の見直し、其のあとねることにしたが、連休で他府県ナンバーが多く綺麗な道の駅で、多くの旅人は夜遅くまで飲んだり、しゃべたり、騒いだり其々連休をエンジョイしていた。翌日稚内へ行く。サロベツを通り稚内へ行きノシャップ岬へ行き、戻って温泉を探す。すると以外に早く温泉童夢を見つけ、風呂に入り飲み食いを済ませ、車に戻り、車内で時間をつぶすが、持て余す。又レストランに戻り飲みなおす。が一人は一人時間をもてあそぶ。車に乗り酒をのみ、酔った勢いで寝る。次の日起きて風呂の開くのを待ち朝風呂に入り、宗谷岬に向かう。日本の本土最北端の地に世界地図にただ一人日本人の名を遺した探検家間宮林蔵の立象が有る。日本海とオホーツク海が、そして見通しの良い日には遥か彼方にサハリンが見える。写真を撮り次なる方向は南下、佐多岬に向かって。次なる道の駅は、道の駅さるふつ公園に行く。稚内から然程離れて居ないが、ここさるふつの道の駅が良くて、ここで一泊する事に支度。

今朝稚内の童夢で朝風呂を入って然程時間は経っておらぬが、この広い大地に一つポツリと聳える建造物。然し北海道の道の駅は温泉が有るところも多い、それと建物も立派だ。駐車場も広いし平日はガラガラ。風呂場が広くて空いている、申し訳ないが小さな旅館は気の毒だ。キャンピングカーで泊り日帰り温泉に入り、コンビニで済ませ、旅をする。勝洋もその一人。だがしかしこれも高3の時の旅の続き、高3の時40日のヒッチハイクをした後、この続きをいつかやると心に決め、あても持たず、日にちも決めず、行きたいとこれへ自由気ままに旅をする。地元の美味しいものを探し、温泉に入り、見たことのない景色を見、人に会い旅をしたことを、あの世までもっていき、足の不自由な親父に冥土で話聞かせる為に、そして改めて親父にありがとうの一言を。

翌日は道の駅流氷街道網走に、向かう途中で地元のパトカーにずーと後を付けられる。勝洋はすぐに分かった。他府県ナンバーを目の敵にするパトカー福島以来の事。どこまでついてくるのか?いつ止まれというのか、 待ってたが一向に来ない。最後まで後をついてきた。道の駅まで然し職務質問は無く、事務所に立ち寄り、暫く話をし出ていった。映画のランボーと同じ、よそ者は早くよその町行けか?そいえば角館の道の駅なかせんで、後から来た車の内側に、免許証のコピーと旅行中と書いた紙を貼り付けて居た人を思い出す。矢張り夜中に起こされ嫌な思いをされたのだろう。アメリカも日本も同じことか?それに色々な事件事故が多いから生かし方ないか?一泊して知床ウトロ温泉に行く。

ウトロに着き温泉に入り、ウトロ港を見学し、食事済ませ、羅臼に行こうとしたが、道が閉鎖され、翌日10時にゲイトが開くとか?夜路面が凍結するので4時以降閉鎖するそうだ。仕方なくウトロで一泊する。翌朝コンビニで朝食を済ませ10時前にゲイトに行くと既に多くの車が並んで待っていた。あとに並び、開くのを待ちゲイトが開くと次々と羅臼へ皆が向かった。暫くして今度は羅臼からウトロに向かう車が次々と連なって擦れ違う。矢張り10時のオープンを待ちウトロへ。

途中で車を止め1661メートルの日本100名山の羅臼岳を写真にお攻めた。残雪が沢山のこり、青空の中威風堂々聳え立つ姿は矢張り北海道の山らしく美しいものだ。

それからしばらく走ると羅臼に着き、羅臼温泉に入り、納沙布岬は前に行った事が有るので中標津を通り、一路釧路へ釧路から前に丹頂を撮影に鶴居村へ行った事が有るので、又丹頂鶴を見に行くが2月とは違い、求愛ダンスは見られずそこそこ釧路に戻り今夜の寝床を探す。そして道の駅しらぬか恋問が近くにあり、そこで一泊し翌日は帯広に。かって昔地元の人に黄金道路を走ったことが有るかと聞かれ無いというと案内され暗い夜道をガタコトガタコ揺られ襟裳岬まで行き岬で野宿し、知り合いの人を訪ね、日高へ行き牧場でアルバイトをした事が有るので帯広へ行き、モール温泉に入り、翌日は黒板五郎の故郷富良野へ行った。富良野は北海道のへそともいわれ、7月に北海へそ祭りが有るが今は5月記念館を見て夕張へ、ここは幸福の黄色いハンカチの舞台に、それと貧乏人には手が届かぬ夕張メロンが、夕張から千歳へ、苫小牧、室蘭、長万部で妻を乗せ函館に行き、谷地頭温泉に入り函館で一泊し、妻を船着き場に送り、船で青森へ。勝洋はそこから五所川原へ行き、金木へ。金木は津軽三味線の発祥の地とされ、他に太宰治の斜陽館を見学、一路鰺ヶ沢のヒーローに会いに行く。すると何人かのフアンが来ており、撮影の番を待ち写真に収めた。その名はブサイク犬。鰺ヶ沢のスパースター。駅前には舞の海の看板よりブサイク犬の方が大き名看板があり、至所に写真が有る。招き猫ではなく招き犬。店も犬のおかげで繁盛し遠くから来る客も多い。勝洋もその一人。次に千畳敷海岸へ行き、不老不死温泉に宿を取り、風呂に入り、夕陽を撮影し、海の幸を頂き、露天風呂へ行くと、日本カモシカが水を浴びに来ていた。スタッフに話を聞くと毎日の様に来るらしく、珍しいことではないとか。さるだって風呂に入るのだからカモシカだって水浴び位するだろう。と勝洋は思った。

 翌朝青森に行き、酸ヶ湯温泉のヒバ千人風呂に泊りに行。一泊するが二泊せず、後生掛温泉に行。後生掛温泉で旅の疲れを取るために7泊し、埼玉から来ていた人と親しく也、毎晩酒を酌み交わし、昼は車で西木町のカタクリの群生を撮影に出かけたり、玉川温泉に行ったり、ふけの湯に行ったり、藤七温泉に行ったり、八幡平は温泉も多く、七日間はあっと言う間に過ぎ、五月も終わりに近ずくと、熱く也。そろそろ夏物に変える時期が来た。これから夏に向かい南へ行。一旦東京に戻り衣替えと、夏支度等をしに先ずは家に向かうが、その前に盛岡へ行き、花の終わった石割桜を見、盛岡から宮古へ行き浄土ヶ浜、陸中海岸国立公園を撮影し、氣仙沼から一関へ向かい中尊寺金色堂、厳美渓、毛越寺等を見学し鳴子温泉で一泊し、翌日那須温泉で一泊し、家に帰る。

     家でのんびり三日間過ごし後半戦に出掛ける。渋谷を抜けて246号をひたすら西に向かう。道の駅筆柿の里で一泊し、翌日名古屋を通り、一宮、大垣、関ヶ原から伊吹山へ、頂上近くまで車で登り、歩いて頂上へ。次に長浜へ行き秀吉が築城した城を見、道の駅湖北みずとりステーションで一泊し翌日竹生島を見学し敦賀を通り美浜を通り三方五湖へ行。近くの温泉に入りその後小浜市へ行き温泉付きの広い駐車場が有り、レストランも完備され時間が早いがここに決め、風呂に入り酒お飲み、車に戻り休み夜遅く又風呂に行き車で寝る。

翌日舞鶴を通り天橋立へ行.駐車場に車を預け観光に出掛ける。日本三景の一つ天橋立、飛龍観展望、股のぞき、お寺、砂洲、井戸、神社等を見学し、近くの温泉に入り、愈々伊根に向かう。海岸線を経ヶ岬方面に走り伊根町へ、伊根に着くと観光案内の人たちが、観光船の案内を頻りにピーアールに来たが、観光船に乗るのでは無く、釣り船を探しているので、勝洋は自ら船主を探し、船を出して頂ける船を探した。舟屋を見て回り、鍵屋と言う舟屋を探し、船を出して貰う事に也、釣りに出かけた。漁場はすぐ近くで、糸を垂らすと僅かな時間で当たりがあり、小鯛がヒットし、べら、アオリイカ、ショウサイフグ、遂に船長に本命のグジが来た。グジとは東京ではアマダイ、がつれたので、宿に戻り料理をして貰う事にした。ご飯を炊いて貰い魚を裁いて貰う。【船長は元ふぐの料理人」分け合って実家に戻る。

料理に時間がかかるので、その間伊根の温泉を教えて貰い、温泉に行き、戻ると支度が出来ており、頂くことに、流石料理人綺麗に見事な包丁さばき、そして精米したての米、勝洋は普段ご飯は一善だがこの時ばかりはお代わりをした。そして帰りに魚とおむすびを貰い、伊根の道の駅に行き一泊し、翌日経ヶ岬を通り、丹後松島丹後町、豊岡、城崎温泉へ行。開湯1300年の歴史を持つ兵庫県随一名湯地。町中を車でウロウロして日帰り温泉に入り、次なる目的は余部鉄橋へ行。すると既に工事の真最中で下から、仰ぎ見て写真に収めた。そして鳥取へ行き、コインランドリーを探し洗濯を、その間鳥取の町を車でグルグル見て回り、次に目指すは、三朝温泉。遂にきました三朝、東の玉川、西の三朝等とがんに良いとされ、癌患者が多く湯治に来る有名な所です。三朝橋下に露天風呂が有り、タダで入れる。三朝川の河川敷に駐車場が有り、そこに車を止め、食事したり酒を飲み行ったり、他の温泉を入ったり、近くを車で観光したり何日か過ごす。

翌朝目を覚ましドアを開けると隣に石川県から来た人に顔を合わせ、挨拶をし、話し込む。息が合い食事を一緒にしたり、酒をのんだり、風呂を一緒に入ったり、一人より時間がたつのが早く感じた。翌日の夜ボクシングの試合が有るから見に来ないかと誘われ、見に行くことにした。試合前に話を聞くと、前立腺がんで、一人で湯治に来たという。何日居るか分からないので取り合えず、車で様子を見てから、ここにするか、増富するか?今現在は体調もすこぶる順調でどこも悪くないそうだ。翌日から一緒に風呂巡りをしたり、道の駅に行っ他り、食事に行ったり共に行動をした。旅立つ前の日に三徳山三佛寺投入堂へ行くが、入り口で一人の入山は断られ、暫くして東京から来たご夫婦にご同行させてもらい、投入堂にむかうが、高さ899.9メートルの然程高くはないが、登って分かる。結構きつい。毎年死者が出るそうで、一人の入山は出来ず二名以上で入山可能。必死で投入堂に着き、帰りは一人で先に下山し、温泉に入り一日の疲れ取る。明日から旅の続きをはじめるので、その為に夜の内に別れの挨拶をしておいた。翌朝明るく成ると同時に出発した。倉吉市から国道9号線を米子に、小雨の中から大山が雲に覆われ、大きな姿を見せるが、日本海側は雨続き登りたい気持ちはあるが、雨と寒さがきつい。いつかは登りたいと思い米子、松江、出雲は寄らず、以前に来ていたため、まだ見ていない世界遺産の石見銀山へ急いだ。石見銀山に着き駐車場が有り、車を止め先ずは腹越しらえ。その後見学に町を歩いて回る。銀の採掘でこの町も勝っては栄えたのだろう?立派な武家屋敷と立派な店構えの家並みが往時を忍ばせる。見学の後第二の目的の温泉津温泉へ行き温泉に入り浜田市、益田市、9号線の隠れた小さな温泉を見つけては入り、益田市から191号線で萩市へ行。萩の道の駅に行くと温泉から色々なものが完備され、充実していた。

中でも道の駅で刺身の多さに驚いた。先ずは温泉に入り、湯上りにビールと刺身で一人乾杯?後は日本酒と刺身を買い車の中で音楽を聴き、時間を過ごし、寝る前にもう一度温泉に入り、「本日5度目の湯」休んだ。翌朝先ずは吉田松陰先生をお参りに行。二度目で有る。その後萩城跡や高杉晋作の生家や武家屋敷見て回り、萩から山口市へ行き国道2号線を下関へ、途中で長府に立ち寄り、長府の町を見学、乃木将軍の生家を見たり、高杉晋作が1864年12月15日に騎兵隊等諸隊の決起を促して恭兵した場所の巧山寺を見、その後瓦そばを食べ、壇ノ浦古戦場跡後に馬関戦争の主戦争の一つであり、唐戸からは船に乗れば巌流島「正式名ふなしま」に行き武蔵、小次郎のの銅像が有り、写真に収めた。唐戸に戻り季節外れのふぐを食べ。愈々門司へ渡り国道3号線を博多へ行き、ビジネスホテルにやどを取り、夜博多の町を飲み歩くる。翌日は太宰府天満宮に行き、菅原道真をお参りした後、鳥栖市、佐賀市、有明海を諫早市、長崎へいき。長崎は高校の修学旅行以来40年ぶりで懐かしいが、車を止める所に困り余り見て回れず。仕方なく島原温泉に行き、日帰り温泉に入り、道の駅で一泊し、フエリーで熊本へ行き熊本を観光した後、スパー銭湯へ行きそこで一泊し、熊本から八代、人吉、えびの市、霧島市、国分市、桜島を見て桜島溶岩なぎさ公園足湯に入り、垂水市、根占町、遂に佐多岬へ着いた。車を置き歩いてソテツの自生地を通り本州最南端の佐多岬まで遂に来た。本州最南端の標識を写真に収め来た道を戻る。根占町に戻り日帰り温泉に入り、フェリーに乗り山川町へ行。そこからウナギ温泉へ、ウナギ温泉は西郷隆盛が愛した温泉で有名になり、温泉マニアには行って見たい温泉で、勝洋もその一人である。

風呂に入る前に温泉卵を注文をして置く。5個200円とリーズナブルな値段。個々の卵はスメで作った卵。(スメとは天然の蒸気を利用したカマドで作ったもの」これが普通のゆで卵とは違う。兎に角うまい。山川に戻り温泉旅館に泊り、翌日は開聞岳を目指し山登りを、その前にウナギ温泉に行き風呂に入り、卵を買いコンビニでおむすび、お茶、甘いもの水などを買い登山口へ行き駐車場に車を置きいざ開聞岳の頂上へ。下から見ると意外になだらかな山では有るが、登って見て以外にきつく。四つん這いに也、必死で登った。池田湖、長崎鼻を眼下に見下ろし、ドンドン高度を稼ぐ。頂上へやっと着き、埼玉からきた人に会い、軽く話をし、昼めしを食べ、写真に収めた。その後下山し車に乗り、日帰り温泉に入り、指宿を通り道の駅喜入に入り、温泉に入り、レストランで飲食を済ませ、公園のベンチでゴロリと昼寝。夜になって又レストランに行き酒を飲み軽くつまみを貰い、車に戻り熟睡。翌日は鹿児島市行き、宿を確保し、加治屋町に行。個々から西郷、大久保、大山、東郷らが輩出したところで、各氏の誕生地の石碑が立っていた。その足で城山へ行く、この城山は西南戦争の激戦地であり、西郷隆盛の終焉の地でもある。夕方に也宿に戻り車を置き、天文館通へ行き飲み歩くが、刺身の醤油がいまいち東京人には合わず、鹿児島の人は甘いものが好きで、聞くと、さつま揚げにはかなりの砂糖が入っているそうだ。鶏肉、豚肉、牛肉等は美味しく食べられた。朝9時にチェックアウトし、錦江湾沿いを隼人町、都城市、宮崎日南海岸は以前に行った事が有るので、今回は行かず日向市、延岡市、北川町、佐伯市、臼杵氏で宿を取り温泉に入り、酒お飲み、久し振りに畳の上で寝られた。矢張り広い畳の上で寝るのはいいものだ。と勝洋は思った。

 翌日はゆっくり休んで朝食を取り、10時に出発した。別府温泉に行き観光案内に行き、別府地獄めぐりを教えて貰い出掛ける。海地獄、鬼石坊主地獄、かまど地獄、おにやま地獄、白池地獄、血の池地獄、龍巻地獄の合計7ヶ所の地獄めぐりをし、駅前の温泉付きのビジネスホテルに泊まり、観光案内で聞いておいた城下かれいのお刺身を食べに行き、カレイ、りゅうきゅう、等の大分県の郷土料理を堪能した。翌日は国東半島をぐるりと杵築を通り大分空港の横を通り国東、国見、豊後高田市、中津市、たぶん福沢諭吉はこの近くの生まれで有るはずだが?先を急ぐ。中津川市から小倉へ、小倉城を見学。小倉と言えば、佐々木小次郎、と高杉晋作が勝洋の脳裏を思い浮かべた。その後本州へ山口県を通り抜け広島県に入り、廿日市で道の駅の看板を見つけ、道の駅 スパ羅漢に行。駐車場は幾らも車が無く、車を止めて、外で地図を開くと近くに止めて有った車の中から降りてきて、話かけられ予定を聞かれ、話をしていると又別に夫婦で来ていた二人ずれが加わった。一人は名古屋からと言い、夫婦二人は高松からだと言い、勝洋は明日四国に向かう予定。と話すと後で車に来ないかと誘われた。勝洋は取り合えず温泉に入り、レストランで食事と軽くビールを飲み、自販機で缶ビールを数本かい、四国の人に会いに行き、四国の話を聞かせて貰った。そして連絡先を交換して、翌朝勝洋は尾道へ行き、車を置きロープウェイで千光寺公園へ行き色々見学しながら下山し、名物尾道ラーメンを食べた後、しまなみ海道「西瀬戸自動車道延長59.4km ]を今治市へ行き道後温泉で一泊し、坊ちゃんの湯に入り、翌日は松山城、予讃線の駅下灘駅へ、海に一番近い駅とか、桜の開花時期は素晴らしいらしい。映画のロケにも使用され、遠く韓国からの観光客が来ていた。次に大洲城、内子座、内子名物おからのすしを食べ、宇和島市へ行き名物の黒はんぺんを食べ、西土佐村から四万十川へ行き、四万十川のうな重を食べ、中村市、土佐清水市、万次郎記念館、足摺岬、高知城、はりまや橋等を見学し高知で一泊し、翌朝室戸岬阿南市、徳島市からかずら橋、大歩危小歩危、で舟下り、道の駅大歩危で一泊し、池田町を通り金比羅山へ行き、金比羅参りを済ませ高松市へ行き、栗林公園を見学し、讃岐うどんを食べ、小豆島へ壺井栄の小説、二十四の瞳に会いに行く。映画村に行くとおなご先生と二十四の瞳が校庭で遊ぶ銅像が有った。見た後小豆島オリーブ温泉に入り、岡山に行き福山市で一泊し、翌朝鞆の浦へ行き、倉敷を観光し、岡山後楽園を見学し、次は赤穂城を見学し道の駅あいおい白龍城で一泊し、翌日姫路城へ行き城内見学した。其のあと神戸に行き宿を取り車を置き、バスに乗り観光して歩き、夕飯は中華街で中華料理を食べ宿に戻り、翌日六甲山に行くがガスがかかり何も見えず、有馬温泉、宝塚温泉、尼崎でコインランドリーを探し洗濯をし大阪、和歌山は以前から何度か来ているので、奈良から上野市、から四日市市、桑名市からナガシマスパーランドへ行き温泉に入り、食事し車に戻ると、一人一人が別々の車でやって来て、女四人男四人が9人乗りの車に乗り出ていくと、車内から双眼鏡で9人の車を監視、その後、後を付けたいった。勝洋不思議な光景を目にした。翌日名古屋、多治見、恵那市、中津川市馬籠宿を観光し、手打ちそばをたべ、次は妻籠宿を見、飯田市、駒ケ根市、諏訪湖に行き片倉館へ行き、深さ1.1メートルの千人風呂に入り、レストランで食事し、一泊した。

 翌日諏訪湖巡り、時計回りで見て回り、岡谷でウナギを食べ、茅野市から北杜市ここで日本三大桜の一つ山高神代桜を見た。花は終わっているが、樹齢約2000年とも言われ、枯れて居るが幹の太さは圧倒される。因みに日本三大桜は福島県三春の滝桜、岐阜の淡墨桜、そして神代桜。その他桜の名所は日本中どこにでも至る所に有る。甲乙は決めがたい?其のあと金峰山に行き、増富温泉で一泊し、翌日小説中里介山長編時代小説、大菩薩峠に行。後に1960年に映画化され、監督三隅研次、主演仲代達也の舞台に也、峠の山小屋に新聞の切抜きが、ショーウインドーに飾られていた。其のあと山頂に行き、下山して、勝沼から高速に乗り家に帰った。そして数日間は、ボーとして過ごす。その後又楽器にのめりこむ。車で移動しながら外でバイオリンなどを演奏していると、おかしな人が来ていると通報され、色々な事にでくわすので、余り弾けなかった。ので又レンタルスタジオへ足をせっせと運ぶ。暫くして友達に電話を入れ旅の話と写真を見せ、宴席を設けた。旅好きな友達は、水無温泉、玉川温泉、後生掛温泉、余部鉄橋、三朝温泉、投入堂、ウナギ温泉、道の駅などに興味を持って質間してきた。この辺りは東京人はあまり行人もいないから、興味深いのかもしれません。まして水無海浜温泉は函館市恵山岬町に有る温泉で、海が引けたときだけ、入れる温泉で、塩が満ちてくると海流で流されて来た献上昆布と混浴に也齧っても堅い。と言った話をした。こんな旅は勝洋と僅かな人位かも知れないが、勝洋は子どもの頃から、この様な旅が好きで、高校生の旅の続きを満喫したわけで、妻は絶対に行きたがらない。が勝洋はこれからも旅の続きを考えていた。

           慰問

 勝洋の帰りを待って居た仲間が何時慰問始めるの?と聞いてきたので、まずはうちは出、ネタ合わせをしたうえで、行くとならば行所はあります。出し物をモット増やして、喜ばれる物を其々が腕を磨き、客もうちらも楽しめる物をと言いたいところだけど、歳でもうこれ以上上手くならない。がそこは年の功喋りで誤魔化し、笑い倒す。これしかなーい?吉「そーだとも」豊「俺なんかウクレレが重たく也、首から釣上げて居ないと持って居られない」吉「年だね」豊「最近寝ていて足が良くつる?」勝洋「その時は、水を飲むといい。直ぐに治る。歳を取ると水分不足に也易いから、枕元に水を用意しておいた方がいいよ。」などとたわいもない話で解散し、日を改めてカラオケ酒場で皆が新たな曲を披露した。そして決まりこれでこの次は行こうとなった。何時もの事酒が入り酔っぱらったら口癖「最高じゃん」が友の口から出る。豊の口癖「いいよ?いいよ?」がお決まり、この日も目出度く此れにて解散です。

          慰問先が決まる

 二週間ご慰問先が決まり、張り切って施設に行き、暖かく迎えられた。勝洋薄ら笑い、目に涙。一人旅をし雨風に会い車が倒されそうになり、心ぼそく夜明けを待ち人恋しさをかみしめ、人は矢張り一人では生きていけない事を知り、今日皆さんに暖かく向かい入れてくれた人々に勝洋まずは先頭きって、マイ ウエイを歌った。これが何と受けた。勝洋心の中でガッポズやったね!と言った気分。豊、持ってきたウクレレで別れの磯千鳥を歌い、終わるとこれまた受けた。その後もおんな船頭唄、赤いランプの終列車、島育ち、故郷、等々を熱演し、勝洋最後に妻が来ていたので妻に感謝の気持ちから「別離の時は」を歌った。その歌に涙する人も居た。帰り際に一人のおばあちゃんが?「今の歌、何と言う歌ですか?」と、訪ねられた。「今の歌は、吉幾三の別離の時はといううたです。」といった。「そうですか。いい歌ですね。私の主人はどんな気持ちであの世に行ったのでしょうね?」「男は皆同じ気持ちですよ。出ないと天国へ行けませんよ。」「勝洋さんて、歌より口が上手いのね。」「いえ。歌の方が絶対にうまいはずです」と言って笑わせた。そして家に帰り打上げをして解散した。

          肉じゃが

 8月の半ば生ごみの中から芽を出し実を実らせ収穫の時期を迎え掘り起こす。すると大小其々のジャガイモが取れた。そこで暇な友に電話を入れ、肉じゃがパーティーを開くが、北海道のジャガイモの皮をむき生ごみと一緒に埋めた芋の皮から、立派な芋が取れたが味は全く別のものになっている。然し剥いた皮からこれだけの芋が取れたら、芋を買わず芋を剥いた皮を埋め繰り返し同じことをしていれば買わなくて済む。だがしかし芋が大きくなるには有る期間が必要である為、やはり買わなくてはならない。友達も皆笑う。ごみの中から取れたゴミの芋。豊 「てことは俺たちはごみを食わされいるわけ?」勝洋「俺なんか粗大ごみ回収、最安級3000円でゴミ屋に出される所神さんが3000円は高い300円と言い、話が纏まらず今こうして生きて居られるわけ。男は働無くなったら粗大ごみ。」豊「男を卒業して、次に人間卒業か?人生短いね?」勝洋「きゅうり、なす、オクラ、山芋、これらのぬかずけは、正規の苗木を買ってきて育て付けたもの、ごみからではありません。仕入れ値が掛かっています。お陰で貧乏になりました。」吉秀「魚取りに行こうよ?」勝「去年のウナギは美味かったけど、大変だった。」

 吉秀「今年は鯉に挑戦。みんなでバケツを持って公園に行き、みんなでバケツに水を入れ鯉の居るところを、目掛け滝だぞというと、鯉は滝と勘違いして鯉の滝のぼりと言いバケツに飛び込んで来る奴を捕まえ、洗いにして一杯」勝「それは、売れない噺家の落語。でも鯉は根氣強く待てば江戸川で何時か釣れるはず。ハゼなら秋の彼岸の時期になれば型も良く也、刺身でも天ぷらでもいけるし、9月に入ったらハゼ釣り大会をしない。釣た魚で一杯はどおー?」吉秀【それ決まり。後は日にちと天気次第。後の段取りは勝ちゃんに任せお開きに。」と言ったぐわいで解散した。

         ハゼ釣り

 9月半ばに也天気もいいので、5人が集まりハゼ釣りに行。勝洋庭のミミズを掘起しハゼの釣り餌に持っていく。勝洋は子供の時からハゼ釣りに餌代が無くミミズで釣りをしていたのでミミズで釣りは慣れていた。勝洋が子供の時代の夏休みの遊びは、川で泳いだり、川で釣りをしたり、金を使わず遊んでいた。

それでいざ釣りに成ると無言に也、色々場所を変え闘争心が自然に表れる。釣りとは色々と考えさせられるものです。人より一匹でも多く釣りたくなるもの。だがしかし、魚の数より人の数の方が多い様で、5人で3時間で18匹。勝洋事前にハゼ20、めごち20、穴子5匹を用意しておいた。釣た18匹は刺身にし、買って来た魚は天ぷらにし、宴会が始まる。次第に酒が回り豊がギターを持ち出し、「乾杯を」歌った。勝洋二胡を取出しでたらめの中国語で夜来香を歌う。その後も色々歌い時間が来たところでお開きに。

     10周年

  勝洋の行き付けのスナックが10周年を迎えることに也、その余興として勝洋のグループに来て賑やかにやってもらえないか、と言った話がきた。勝洋早速皆に連絡を入れ直ぐに話は決まり、行ことにした。元より何時もの事で、其々がてんでに思いつきに考え遣りたいことを、披露する。

当日の一番バッターは話の上手い、鈴木盛にご挨拶をして貰い、二番手に豊に「乾杯」を歌って貰いその後は適当に交代交代に出演し勝洋の番が来た。

勝洋、何時か来る日に前々から練習をして来た曲を披露することに。それはレナード コーエンのDance me to the end of loveを熱唱した。すると勝洋のなりきりに一同が拍手喝采した。勝洋、人に感動をして貰い、最高に気分よく、酒に酔いしれた。その後は、来ていた客たちが思い思いの歌を歌い、楽しい10年を終えることに最後のマスターからの挨拶がありパーティーは終わりになった。

一人カラオケ

 又翌日からカラオケ通いが始まる。次なる出し物は何か模索する。すると思い着いたのがイタリアの歌手のジリオラチンクエッティのNon Ho Letaが思い着いた。

勝洋の青春時代の思い出に残る好きな歌手の一人。かつて妻と二人でイタリアに旅をした時に、現地の添乗員に今でも、ジリオラチンクエッティは歌っているのですか、と,尋ねると?いまも元気に歌っている。最近もテレビに出て居ました。と言われ、勝洋生で見たい気持ちになるが、それは無理なこと。次にトッポ ジージョは元気ですか?と尋ねると、今もテレビに出てるとか?勝洋青春に浸る。次第にエド・サリバン・ショーを思い出し、エルビスプレスリー、ビートルズ、アンディ・ウィリアムス、ザ ピーナッツ、ブルーコメッツなどもエドの番組に出たことを思い出していた。

       雨の日

 勝洋は子供のころから雨の日が嫌いで時間を持て余す事が多かったが、退屈ですることが無く物置小屋で遊んで居た時に、古いレコードが出て来た。

他を探すと蓄音機が出て来たので、兄と二人で動かすことにしたが、良くわからず、父親に聞き使い方を教えて貰い試しに何枚かかけて聞いてみた。

ゼンマイがたるんで来ると音が間延びし、ゼンマイをまくと元度を利に也、それが何となくおかしく何回も何回も繰り返し、繰り返し、聞いていた。

 そんな時に一枚のレコードに出会う。柳家金語楼の落語家の兵隊と言うレコードが出て来た。それが子供のころ面白く、雨が降って表に遊びに行けず家に居ると、良く聞いた事を思い出してyou tubeで聞いてみた。そして亡き兄と交代、交代、でゼンマイを巻き面白く落語を聞いて居たころを思い出す。

だが今はyou tubedeで聞くが当時のレコードのすれた音が懐かしく思い出す。人も機械も時代に捨てられていく。これが世の常。美しくもあり、寂しくもあり、友は毎年減っていく、生きているものも痴呆症、入院中、体の不調、ヘルニア、がんの治療中、人生親を送ると直ぐに自分の番がくる。早いものだ?

残りの人生一日一日悔いの内容頑張って生きることしかない。後悔せぬように。となると今まで道理好きなことを、好きなだけやる今まだの人生でいいのだ。又慰問に行って先輩方に色々な事を教えて貰いに行。勝洋曰く「勉強は世間様が教えてくれる。」それを素直に聞く。

            慰問

 久し振りに下北半島のお爺さんに会いに行く。すると長いご無沙汰で以前よりかなりの老け込みようで、何故か申し訳無く思い、勝洋いきなり、今日はおじいちゃんの為に、白虎隊をやらして頂きます。と勝洋着換えに行。その間豊が、踊れる曲を選び「サントワマミー」を歌い、二曲めに吉秀が「ザ・ラストワルツ」を歌う。意外や意外結構お年寄りにも受けることが分かった。愈々勝洋の番が整い、紋付き袴に長ネギを持ち、歌とインチキな、剣舞を披露した。おじいちゃんに大受け。勝洋それを見て大いに喜び話をした。勝「この着物と袴は、親父が生きているときに、私の結婚式に頼んで作ってもらった物です。私が死んだときには、この着物を着てあの世に着ていくつもりです。そして親父に沢山甘えん坊になるつもりです。] [それはいい。俺も早くから田舎から出て来たものだから、親父お袋にかまってもらえなかったからな?帰りたいときも沢山あったよ。」勝「この前下北半島で足止めくい、約一週間いましたよ。」「下北、一週間は長いだろ、そんなに見るところもないし。」「悪天候に会い、船が出ず」「そうか?恐山行ったか?」「行きました。仏ヶ浦もいきました。薬研、下風呂温泉にもいってきました。」「俺も死ぬまでに、下風呂温泉に泊りに行きたいね。地の魚を食いたいね。」「ぜひ機会が会ったら一生に一度行きたいものですね?」「そうしたいものだな。」などと話をし、又呼んでください。と、挨拶を交わし、その後皆さんと別れ、家に帰る。

           映画

 朝からの雨、外に出るのも億劫で家にある、ビデオ、と、D,V,Dを探す。数ある中から今日の心境からは、森繁がいいと思い、世にも面白い男の一生桂春団治をみた。懐かしい女優さんが次々と出て来た。勝洋改めて八千草薫の若かりし頃の映画を見なおし、寅さんのマドンナ役を思い出し、永遠のマドンナといわれたわけだ。次に警察日記をみた。会津磐梯山麓の小さな町を舞台に人情味の有る、優しい気持ちにさせてくれる、現代映画に無いほんわかと、させてくれる日本の名画の一つである。その後は森繁のレコードを聞く、味のある人が段々と無くなっていく寂しい限りである。          

  焼き鳥パーティー

 勝洋暇を見てはリサイクルショップへ行のが好きで良く出かけていく。すると今回は電気コンロの焼き鳥機が目につき、買いこみ焼き鳥パーティーを開くことにし、早速皆に連絡を入れた。7時に皆が集まりパーティーが開始に、勝洋事前につくね団子を用意する。鳥軟骨、鶏ひき肉、卵、山芋、味噌、塩、胡椒、等を当たりバチで練り潰し串にさし、電気コンロで焼く、ねぎま、手羽先、砂肝、レバー,鶏皮、しし唐、シイタケ、ピイマン、銀杏、もつ煮、お新香、等でパーティーを開いた。味はそこそこ本命は酒と歌で大盛り上がり、要は何でもいい酒と歌が有れば直ぐにご機嫌。飲んで騒いで楽しければ、後は天国母ちゃん何時もごめんなさい。てなわけ?

 何時も最初に豊が酔いつぶれてしまう。そしてだだをこね。カラオケに行きたがる。勝洋は酔うと其のあと風呂に入るのが若い時からの癖で、町中で飲んで居ても、風呂やの看板を見ると風呂屋に行き、タオルを買い風呂に入り、又飲みなおす。そんなことをしているうちに皆も真似をし、風呂屋を見ると直ぐに風呂や直行するようになった。 

           同窓会

 再び同窓会に呼ばれる。勿論出席。勝洋は二度目を意識して、前回よりも、もっと笑って貰える出し物を考える?と同時に皆も同じ事を考えて居た。

当日。幹事の挨拶が終わり、一人一人の近況報告も終え、雑談も区切りの良いところで、幹事より紹介され、愈々出番が、一番手に吉秀がフリーマーケットで見つけて来たセーラー服に長ズボンの姿でカゴメの水兵さを歌と振り付けで披露した。次に幹久が女装し胸に椰子の実のブラジャーを付け腰に縄暖簾で拵えた腰巻を付け、ウクレレを持って小さな竹の橋を歌うと受けた。次に旭が女物の着物を着て付けまつげに厚化粧で、夫婦船を熱演。これは今までに無いくらいの拍手を頂き、旭嬉しがる。勝洋こうなれば鉄板ネタで勝負。出し物は矢張りチャイナドレスに頭にラーメンどんぶり、出ていくだけで大受けそこえきて夜来香のでたらめの中国語。爆笑。受けた受けた。次いで幹久が負けじと、以前の井出立ちでヤシの実のブラジャーと腰実の姿で【酋長の娘」を音程をわざと外し歌と振り付けし、大いに皆を笑わす。勝洋はこれはうちらの秘密兵器、又鉄板が増えた。最後に勝洋ドレスに着換え、髪は金髪の桂に付けまつげ、歌はベット・ミドラーのザ・ローズをしんみりと歌う。僅かな時間シーンとした後拍手が。帰り際に皆さんからありがとう。又来年もよろしくと言われ、みんなでカラオケに行った。

湯の川温泉

  ツアー旅行に妻と勝洋は参加する。6泊7日の湯の川温泉に行き、妻は途中で実家に帰り、勝洋は一人レンタカーを借り大沼公園や駒ケ岳を登山したり恵山を観光したり、そして何時も道理に恵山岬の水無海浜温泉へ行き風呂に入り、昆布の流れて来るのを待ち、昆布が流れてきたら拾い集め、ホテルに持ち帰り窓に干す。妻は実家に帰り同窓会に出席し二泊してホテルに戻り、函館を見たり、食事したり、谷地頭温泉に行ったり、自由市場に買い出しに行き旨いものを見つけに行。この日は丁度ふぐが有り「トラフグではありません。」皿売りで売っていたので、二皿買い、ほかにイカ、つぶがいのさしみ等を買い、ホテルに持ち帰り、風呂から出た後にふぐを刺身に切り「ふぐは頭、腹、皮、余分な物は全て綺麗に調理されたもの。」他の刺身と盛り合わせにし、部屋で飲み食いを始める。が 夕食も出るのでそーおくも食べれず、ふぐは竹の割りばしを、細く割り竹ぐしを作り、ふぐを指し、紐で吊るし、ドライヤーである程度乾かし昆布と共に窓に干す。その後東京に持ち帰り、パーティーを開く何時ものメンツが集まり先ずは、どんこ椎茸と昆布の煮物。みんなに昆布の成り行きを、話と写真を交えて説明する。皆が面白がる。豊「こんなことする人、初めて見た。良く思い着くね。」勝洋「こんなことは何時もの事。こんなことは旅行に行く都度にこれとは違うけど、これと同じことをやっている」吉秀「何が有っても二人は生きていける。」勝洋「人間死ぬ気で物事を考えれば、どんなことでも考えられる。」次いで出て来たのが、フグのから揚げ、これも話と写真で見せた。豊「ドライヤーは洗面所に置いてあるから、持って行かずともいいか?有るもんね。」吉秀「しかし良く次から次と考えるね。」勝洋「だって暇なんですもの。」その他にクマの缶詰、トドの缶詰、等をだし話が盛り上がる。

次なる遊びは、矢張りタコ釣りがいいかな、取ったタコを洗濯機に入れガラガラ回し洗ったら、刺身、しゃぶしゃぶでもいいし、タコ飯もいい、最後にデザートはタコのおしるこなんぞ、意外に旨い。又鹿島に行かねば等と何時ものたわいもない話で終わる。 


     木場公園

 10月に入り、気候も良く青空の下木場公園でバーベキューでパーティーを開く。会費3000円。相も変わらず同じメンツが集まり飲めや歌えの大騒ぎ先ずは豊「乾杯」で始まり、街の灯り、もしもピアノが弾けたなら、遠くへ行きたい、秋止符、赤色エレジー、好きにならずにいられにい、カントリーロード等々歌い飲み騒いでいると、豊何時の間にか他の女子グループに紛れ込み、女子からリクエストを貰い歌い酒などをご馳走になって居るでは無いですか?この辺りが豊の生まれ持った才能でしょうか。兎に角お見事の一言。暫くすると、豊が皆を呼びに来る。豊「女性陣が一緒にやりませんか?と、お誘いしてくれましたけど。行きましょうよ。」裕次「酒も少なくなったことだし、女性が酒を持って帰るのは、気の毒だし、帰りの荷物を少しでも軽くするのが、男の義務と言うものだ。」吉秀「裕次いいとこに気が付くね。そうだとも」裕次「俺、行って聞いてみてくる。」と言い聞きに行。直ぐに戻り皆でお邪魔した。豊ギターを持ち、メリージェーンを熱唱。女性陣からの沢山の拍手喝采、気を抑止、女性陣にビールをついで回る。旭「いい日旅立ち」を歌う。裕次「竹田の子守唄」を歌う。勝洋は「カントリーロード」を英語で歌う。そんなこんなで楽しく過ごし、友達に也、連絡をするようにし、又会うことを約束し別れた。

           リフォ―ム

 11月に入り然程寒くもなく、熱くも無いので、家のリフォームをすることにした。トイレの床の張替えをするにあたりホームセンターへ行き床材をやや大きめに買い、ボンドとカッターを買う他の道具は色々な所で買っておいてある。勝洋は暇を見てはリサイクルショップや、フリーマケットへ行き、職人さんが使わなくなった道具類を買い揃えるのが好きで、暇を見ては探しに出掛けた。そんな訳で以外に道具類はそろっていた。

フローリング材を置き、隅から型紙を取るように少しずつ、柱や便器の形を取り、フローリングが型良く切れたら、ボンドを塗りフローリングを張る。この様な作業は妻のお得意とすること、勝洋は邪魔にされる。壁紙は未使用の着物の反物を使い、同じ生地でトイレットペーパーホルダーも、小物入れのカーテンも妻が作る。これは勝洋には到底無理なこと。スパーで買い物した際ダンボ―ル箱に品物を入れ帰り、ダンボール箱を着物地で、のリとボンドを適当に混ぜ合わせ、箱にのりを付け着物地を張る。とても綺麗な化粧箱ができる。これも妻の方が上手い。他にも娘は家の壁にペンキで絵をかき、外階段も娘が色を塗る。其々DIYの得意分野が有り、其々がDIYを楽しむ。

           おでん

 12月に入り寒さが歳折には厳しい時期が到来する。そこで勝洋はおでんで忘年会をやることにした。この時期大根が上手く也、タコ、つぶ貝、牛筋、卵、その他練り製品等を買い集め、出汁を取り、大根を約8センチの大きさに切り、厚く皮をむき、コメのとぎ汁で下茹でし、そこから4日火にかけてはおろし、火にかけてはおろし、約4日かけて大根に充分出汁を吸い込ませやっと出来上がり。厚切りのコンニャクも同じく4日はかかる。4日目の夜6時に其々が酒を持ち込み、パーティーが始まる。一時間もすると豊の十八番「乾杯」を歌いだす。幹久が「安奈」を歌い吉秀が、「望郷酒場」を歌い旭が「雪国」を歌い勝洋は「ホワイト・クリスマス」を歌い、皆できよしこの夜を合唱し、今年最後の慰問先の出し物を勝洋はクリスマスソングを一部に二部は雪をテーマにした歌を歌うのはどうかな?とみんなに訪ねた。するといいね!と、皆も賛成し、勝洋は「どうだろう。一発目に皆でジングルベルを合唱するのは?」吉秀「いいね!ミッチ・ミラー合唱団の様に。」勝洋『まず。指揮棒を持ってリーダーを吉秀が演じる。服は前に有るポンチョを着るか。其のあとはめいめいがクリスマスソングを歌う。因みに俺はホワイト・クリスマスを歌うので、かぶらないように。」吉秀「俺、ジョンレノンのハピ クリスマスソングを歌いたい」勝洋【あとは其々で何か考えて、今からでも新曲作ってもいいかもね?」などと言い慰問の日を楽しみに待つメンツで有った。

           クリスマス イブイブ

 クリスマス前前日。1時よりパーティーを開催。2時よりショウタイム、5名がベレー帽にポンチョ姿で「メリクリスマス」と挨拶をし敏樹が「短い時間ですがどうか楽しんで下されば、私たちも幸いです。」と、挨拶しジングルベルを合唱した。終わってみると吉秀の指揮者は初めてとは思えないほど美味かった。この辺りが学生時代にバンドを組み、あちこちの余興に出て居ただけに、度胸は据わっていた。次いで勝洋は「ホワイト・クリスマス」ビングクロスビーになった気分で優しく歌った。吉秀『ハピ・クリスマス」を歌い、その後もきよしこの夜、赤鼻のトナカイ、サンタが街にやってくる、等の歌を披露した。

          二部には雪をテーマに

 先ずは勝洋は雪国、豊が雪は降るを歌い、吉秀が津軽平野、勝洋の妻が特別出演で津軽海峡 冬景色等の歌を披露した。すると前に一人のおばあちゃんの為にアル・ジョルスンのアニバーサリーソングを歌ったことが有る。おばあちゃんはあの日の良き思い出をもう一度聞きたくリクエスト曲にア二バ-サリーソングをリクエストして来た。

勝洋はそんなに喜んで頂けたとは、感無量でリクエスト曲に答えた。すると以前と同じく涙を浮かべた。それを見た勝洋は貰い泣きをし、つくづくうたの魅力をかんじた。

歌は人に感動と喜び生きる力与えてくれる。国は違えど歌は有る。人は自然と歌が生まれ口ずさむ。勝洋は歌に人の感動と喜びを与える歌をこれからも歌い、ひとを喜ばせ、楽しんで貰える様に心の中で精進して行事を心に決め、又来ることを約束し、施設を後にした。

          反省会

 リエ「初めて人前で歌を歌ったけど、最初は緊張したが二番、三番と歌っていくと緊張が解れ、歌って居るうちに楽しく也、もっと歌を練習したくなった。家に有るカラオケで練習をする事にする。」吉秀「それがいいよ。声が良いから直ぐに上手くなるよ。」リエ「歌が上手く成ったら、衣装を特別に作ってみようかな?」勝洋「好きに作れば、然しミニスカートはやめてくれよな、皆ぶったまげちまうからな。」豊「人は不気味なものとか、汚いもの、等を見たがる人もいるよ。」勝洋【バカなこと言ってんじゃないよ。俺が表歩けないよ。」と馬鹿馬鹿しい事で話を膨らませた。

 勝洋が来年1月に入ったら新年会を10日前後に景気良く、酒しゃぶしゃぶで新年会をやろうと思っているのだが、如何でしょうか。と尋ねた?

すると幹久が「酒しゃぶしゃぶてなあに。」勝洋「水を一滴も使わず、酒一升を鍋に入れ、火にかけアルコールを全て火をつけて飛ばし、酒のうま味だけで牛肉をしゃぶしゃぶして食べる。椎茸何ぞ肉の出汁をすいこれまた絶品。」豊[一升はもったない。五合ではだめですか?一升はもったないですよ。」勝洋〔五合だと足りなくなってしまう。後から酒を足すわけにはいかない。だから景気良く最初から酒一升を使う。」吉秀「来年じゃなくて、今年

でも食べたくなるね?」勝洋「来年のお楽しみ。と言う事で今日所は此れにてお開き。」と言い解散した。 

新年会

 年も明け、七草も過ぎ10日ともなると、寒さが強まり熱燗が一層上手く感じ、都々逸の文句に酒飲みは奴豆腐にさも似たり、始め四角で末はグズグズなんてね。

新年会を明日に決まり、勝洋明日の準備をする。先ず氷を2貫目を買い、冷凍庫に保管する。明日氷を削り雪を作り、鎌倉を作るために仕入れておく。其のあとカラオケボックスに一人で新ネタを完成させに行。其々新ネタを披露するのに合わせ勝洋も練習に余念がない。冬の1月矢張り春とか、南国、季節を先取りし、ハワイアン、とか北国の春、宗谷岬、別れの磯千鳥、等を練習していた時。勝洋はふと思い出す?そうだ昔三波春夫が酋長の娘を歌って居たことを思い出して、腰実のの代わりに紐に徳利をぶら下げて、椰子の実のブラジャーを付け、歌と振り付けで歌う事に気付く。

これだと思いすぐさま家に帰り徳利10本に一本づつ紐で結びそれをベルトに結び腰実を作り徳利をユラユラ揺らせ、顔は黒く塗り歌う。所々で音程を外す。勝洋は得意げに也、新年会を開く。

         当日

 6時集合が5時半には全員が集合した。聞けば酒しゃぶしゃぶは初めてなので早く食べたくて来たと皆が言って来た。勝洋は、わざと最初におからの炊いた物を出した。皆不服の顔をする。次いでふろふき大根を出す。と、皆が洒落は分かったから、本命を早く食べようよ。と、皆さんが口々にするので、焦らすのはこれぐらいとして、酒しゃぶしゃぶを始めると皆の目が鍋にくぎずけ。豊が「酒もったない。」と言いぐい飲みで一杯しゃくて飲んだ。すると他のメンバーも真似てぐい飲みでしゃくて酒を飲んだ結果酒が足りなく也、もー升を追加し、酒が発火点に達した時を見計らい、火をつけた。青白い火が約30センチ程火柱を上げ軈て消え準備が整い肉をしゃぶしゃぶした。吉秀『旨」誰しもが「こんなしゃぶしゃぶは食った事がない。これは旨い。」と皆が喜んだ。

鍋が終わり新ネタの披露する事に相成り、勝洋は先頭きって,酋長の娘を披露する。すると皆から面白いこれで決まりですね。豊「面白いことをやらせたら誰もかなう者はいない。良くそんなに面白いことを考えられますね?矢張り道、間違えたのでは無いですか?今からでも寄席に出たらいいのではないですか?」他の連中も「そだ、そだ」と連呼した。吉秀「俺矢張り、にのせんで行。お笑いはそんなに次から次へと考えられない。矢張り俺は持って生まれた二枚目、只管おやを恨むことしか出来ない。」勝洋「それ受ける。慰問で人前で、その顔で言うと絶対に受けるから、タイミングを見て言って。」吉秀「俺、笑いをとろーとして言ったつもりじゃない。」勝洋「そこがいいんだよ。本人は気づかずとも、客は其のギャップが面白い。」勝洋「どうかな。俺が湯島の白梅を歌うから誰かがお蔦主税をやってくれない。例えば旭が主税で幹久がお蔦をやるのはどうかな?」吉秀「いいと思うよ。」旭「俺はいいけど。お蔦何処からか、いい女探しに行かない。

例えば、木場公園で有った彼女たちの誰かから来てもらえる人を?」勝洋「それなら、豊に連絡してもらい、来てもらうように連絡を入れ誰か口説いてもらおじゃないか?」豊「いいですけど。でも幹久のお蔦も見るだけでも笑えるけどね。」勝洋「では、多数決で?」7名で決めることに也5対2で幹久が決まり、衣装をこしらえることにした。「婦系図湯島の白梅は泉鏡花の小説。後に映画化。主演山本富士子」

  慰問

 当日早目に行き準備を始める。ビデオの設置やマイクの設置アンプの具合カラオケの曲目、等を準備して置く為に早く生き、打ち合わせもした。

時間近く也車椅子に乗り続々人が集まり、スタッフによろしくお願い致します。と、挨拶をされ、今回は英夫が新年の挨拶と司会をやることに決まり、マイクを持って壇上に上がり軽く挨拶を済ませ、すぐさま着換えにかかり、男6人で前に受けたAKBの服で歌と踊りを披露した。最初は受けなかったが、皆が真面目にいい歳した爺さん連中が若い女の子の真似をしているので、馬鹿馬鹿しいやらおかしいやら、次第に笑いと拍手喝采に也、やってるメンバーも楽しく也、演技も大げさになる。          

最初にバカ受けすると、後がつらい。二番手には皆が引いたので、勝洋は自らフルートを出しここはしんみりと月の砂漠をフルートで一番は普通の音程で、二番は1オクターブ上げ、三番は普通に戻し、フルートの演奏の次にカラオケで歌った。これがおばあちゃんに結構受けたので、皆に童謡を歌う様に指示し次に竹田の子守唄、砂山、浜千鳥、花嫁人形、などを次々と披露すると、おばあちゃんたちも皆口ずさんだ。その他にも数曲歌い締めに湯島の白梅を勝洋が歌い、お蔦を幹久が出るや否やそれだけで笑いが取れた。狙い道理。それでも三人は笑わず真面目な顔で歌と踊りを披露した。が 最後は寛一御宮に也、足で蹴ると皆大笑い。狙い道理で無事終了。  

         バレエモンテカルロ

 勝洋は妻と二人で、トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団を見に行。他のバレエは見に行かずとも、このバレエだけは二人とも好きで、東京公演が有ると良く身に行。男性だけで構成されるアメリカのコメディ・バレエ団で兎に角面白い。それに技術的な物も凄い。見に行くと病み付きになる。バレエを見て帰ると、妻にバレエのコスチュームを作ってくれと頼む。妻「今度はバレエ団を作る気?」勝洋「あんなに旨くは踊れないが、笑いなら取れる。下手なりに。」妻「次から次と良くやるね?作る方は大変なんだから。」勝洋「シューズは学校の上履きで、1年2組と名前を入れる。コスチュームが出来ないのなら何処か宴会芸の店に有るはず。春に成ったらやる。冬は寒いのでダメ、風邪を引いてしまう。それまでは練習をして、春本番。」あきれたもんだ。 

        ミーティング

 日を改めミーティングを開く。勝洋は皆にトロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団を見に行った事を話、そしてパンフレットを見せ、次いでユウ チュウブを見せた。すると挙って面白い。これいい運動に成る。夜良く眠れそう。等とみなも賛成したので、やることにした。出し物は白鳥の湖ではなく、黒鳥の湖を適当に踊る。練習所として区民館等で練習をすることにした。CDを持ち込み皆で振り付けを考え、役柄をくじ引きで決める。そして余り熱心に練習をしないようにする。なぜなら歳折烈しい運動をすると、寝ているときに足をつる。そこで歳折酒を飲み水分不足になるので、寝る前に枕元に水を用意して置くように、勝洋皆に話をした。

 雨の日することが無く、フル・モンティのビデオを見ることにした。1997年度英国アカデミー賞、主要4部門制覇した。どん底の男たちが、スッポンポンになる映画で東京公演初日動員記録樹立。面白い映画で有るがこれは慰問には不向きであると判断しビデオを皆に見せることにした。

ひと月も過ぎたころ豊が、「あの映画面白かった。何処か違う場所でやったら面白いと思うけど?」吉秀「いいね?でもやると設楽宴会芸で、飽くまでも内輪でやるとか?」勝洋「結構芸人も下ネタの事をやっているけど、意外に綺麗に可笑しくパロディ的な事を織り交ぜて披露するてことは?・・・・・結構むずかいかもね?それと何を使うか。おぼん、うちわ、秘密兵器、その他色々考えて。」幹久「急ぐこともないし、先はいくらでもあるし。」等と話し合い、いつの日かやる時が来たらやろうではないか?と 言うぐわいで解散した。

         都々逸

 勝洋は忘れたころに、三亀松を思い出し録画したカセットテープを出しては都々逸を聞いた。聞いた話によると、子供がいないので、犬を乳母車に乗せ、奥さんと不忍池を良く散歩していたとか?寄席で2 3 ど見たことがあるが?兎に角色っぽい都々逸が好きでした。粋でいなせと言う言葉が最近では使わなくなりつつあるが、この言葉が良く似合う人でした。池之端の師匠と呼ばれ、桂文楽は黒門町の師匠と呼ばれ地名も粋でした。その後三代目三遊亭金馬の藪入り、と 居酒屋を聞く。が金馬の口調と声の良さ、そして風貌は落語家その物。この人は落語家意外に他の道は無い。と 思う位出てきて顔を見ただけで笑いが取れた落語家であった。話しが聞きやすく、リズミカルに歯切れよく、流石東京本所生まれ。

         春が来た

歳折には長い冬が終わり要約桜の花が咲き始め、人はこれ程に桜が好まれるのか?矢張り散り際の美しさ、花は桜木 人は武士 柱は檜 魚は鯛 小袖はもみじ花はみよしのと続くそうですが。兎に角着る物が軽くなり体も楽になる。寒いと体がこわばる、動きも悪い。天気の良さそうな日を選びポンコツ爺のお花見を実行する。

 当日は自分の飲み物と天ぷらにする材料を何処かで調達してくること。例えばタンポポの花、葉っぱ、根っこ、はこべ、あさつき、ゆきのした、柿の葉、等を持ち寄り桜の木の下で天ぷらにして、塩で食べる事を計画実行した。其々が公園や川の土手に行き、野草を取って持ち寄った。中には孫のおやつの残りのビスケットを持って来るものも。この様に落語の長屋の花見みたいに、金をかけず、面白いメンツが集まれば面白く、愉快にパティは開く事が出来長生きの秘訣のもととなる。

勝洋は種をまいて少し大きく成った玉ねぎと人参の葉っぱ、タンポポ、ハコベ、柿の木の新芽、お茶の木の新芽、等と鍋とキャンプで使うコンロと油、小麦粉、水等を用意し持って行き、皆が持ってきたものと合わせ、天ぷらにし、小さな玉ねぎは、みそを付けかじった。これが意外と酒が捗る。

酒が回り気分が良くなった頃。豊が持って来たギターを持ちだし例の乾杯を歌う。其のあとに勝洋は「まわり道」をうたった。その後桜に因んだ歌を選び桜の花の下で楽しい一日をお過ごすことができた。ラストソングに皆でわが良き友よを合唱し解散した。

ジジバレエ

 陽気も良く也愈々バレエ団を見せに行く日がやって来た。何回か場所を借り練習をしたが、したところで然程上手くもならず、前にも申した通り本番に強いメンバーで本番の緊張感が良い刺激に也、120パーセントの力が出るのである。舞台のそでにめくりに「黒鳥の湖」と書き、司会が挨拶をする。 

メイクアップをド派手に、笑える様な化粧に仕上げる。互いの顔を見吹きだす。そして其々が靴に学年と名前を考え、マジックで書きこんだ。

最早化け物。音楽が鳴り豊が先頭きって出ていき、後に続くと笑いの渦が。勝洋はこれで良し、後はストーリーも何もない適当にモンテカルロバレエ団をyoutubeで見たまま面白そうな動きを自分なりにやって居るだけ。ただ笑って貰えればそれでいいわけで、一羽の白鳥を四羽の黒鳥が蹴ったり、殴ったりし、後は其々適当に面白い動作で人を笑わす。何とか人より笑いを取ろうと皆創意工夫して踊る。仲間同士で吹きだす事もあり、終わって戻ると、アンコールが、皆がビックリ。アンコールがあるとは誰も考えて居なかった。仕方なく皆が舞台に立ち、勝洋が一人一人を紹介して、其々にスピーチをして貰い舞台を降りた。

 次の準備の間吉秀が繋いだ。田端義夫の島育ちを歌い、時間が足りないのでもう一曲歌ってもらう。歌はリンゴ村からを歌い終わると、勝洋が準備を終え舞台に上がる。めくりに旅姿三人男。歌は東竜之介と司会が挨拶を入れ音楽が流れると勝洋が三度笠から顔を出す。しまのかっぱを肩にかけ、何時も道理脇差は例の如く長ネギ歌の合間に長ネギを振り回す。例の如く笑いが起こる。勝洋はテレビやyoutubeで立ち回りを見、研究していた。どこで刀を落とすか、どこで刀を回すか常に練習をしていた。これまた終わると反響が多かった。其のあとは豊がテンポの良い歌を歌い他のメンバは車椅子の人を、連れ出しダンスを踊り、歌いたい人が居たら引っ張り出して、デュエット曲をかけ歌い楽しい時間を過ごし、時間が来たところで施設を後にした。

          反省会

 何時もの如く反省無く良かった良かったばかり。今日も受けたね。笑わしましたね。何をやっても受けるね?いっその事、メジャーデビューするか?等と一もの冗談が出る。勝洋がこれからもどんどんレパートリーを増やしたいから、色々面白い出し物を皆で考えて行こう。と勝洋が言うと豊が、「勝ちゃんみたいな面白い事は俺たち考えが浮かばない。良く次々と面白いことを考え付くもんだなと、感心しているんだ。何を見ても笑いにしてしまう人。仏事には向かない人て、居る。その一人かも?」勝洋「その通り、家の法事の時は最初にお上人に、有難いお経は私には分かるが他の連中はただ長いだけで、何を言ってんだかサッパリ分からないので短めでお願いします。と 頼んでいる位仏事には向かない。」豊「本当にそんな事言うのですか?」勝洋『話すと、お上人笑っているよ。よーはお金。だからなんまいだなんまいだと拝むだろう」皆が笑う。落ちが付いたところでおひらきにした。

          潮干狩り

 勝洋家に居ると潮干狩りの得意な友人から、アサリを取りに行くから、一緒に来ないかと誘われついていくことにした。塩が引くまでは船の上からルアーでスズキを狙うがスズキではなく、小型のフッコが三匹釣れ、塩が引いたら、アサリ取りをいい加減取れた所で塩が満ちて来て、カレイ釣りに変え、5匹釣り上げ、皆に連絡を入れフッコの刺身とカレイの刺身と唐揚げとあさりの酒蒸しで宴会。締めにあさりの味噌汁。皆も毎回毎回思考を変えての宴会に喜んだり飲み過ぎて転んだり忙しいことで、歳折残り少ない人生を満喫していた。豊群馬県生まれで潮干狩りをしたことが無く、今度一度連れていってくれないかと聞いた。勝洋「俺はもういい、潮干狩りは歳折には重労働で明日は足腰が居たくなるはず。アサリは買って食う方が得策。子供のころは毎年良く行ったから。」豊「そうなんだ。」勝洋「昔は一年に一度全校生徒で学校から歩いて潮干狩りに連れて行かされたもので、この年になるとあさりは買って食べるのが一番。」吉秀「そうだ。学校から海まで約2キロそこから半日海の中をウロウロし、そこから又2キロ歩いて帰ると一日中歩きどうし、家に着くとヘロヘロで風呂にも入りたくなく、寝たいが親に叱られ止む無く風呂に入るが眠りたくしかたがなかった。」等と幼い頃の潮干狩りを思い出す。昔の様な潮干狩りやスダテ遊びが学校の年中行事になったと設楽、今の子供たちはどう反応するだらう?

         種まきの時期が来た

 今年は何の種をまくか、考えて居た。矢張りゴーヤの種とオクラの種をまくことに決め、ホームセンターに行き、良さそうなゴーヤを見つけ、買ってきて、実の部分は食べ、種を肥料の効いた柔らかな土に種まき、陽当りの良い場所に置き、目が出るのを待った。オクラは種をまき発芽を待った。その他の野菜は自然に生ごみの中から出てくるのを待つことにした。毎年自然に出て来るものは、ちそ、つるむらさき、カボチャ、冬瓜、山芋、類は目を出す。今年も既に、梅のみがかなりの数が実を付けている。

 6月の20日頃に収穫する。その後梅酒にする。そして4か月位経った頃に成ると、リエが一人毎晩梅酒でほろ酔い気分。そして居眠りタイム。共に極楽とんぼ?

 暫くしてゴーヤが芽を出し、プランターから地か植えにし、添え木を立て追肥をやり、水を与え、余分な枝を取り除き花が咲いたら受粉してやり、沢山取れたらジュースを作り、健胃薬として飲む。苦みが胃に良く勝洋は良く飲んだ。オクラも夏に成ると朝早く花を付け、午後には花を落とす。其の落ちたばかりの、花を天ぷらにし、食べる。花もオクラ同様にぬめりが有り、美味しく頂きます。今年もカボチャが芽を出し、追肥をたっぷりと遣り、茎を育て茎を食べた。カボチャの実は売って居るが、茎は売って居ないので茎を育て蕗の様にして食べるのが、蕗より上手く勝洋は好んで茎だけを食べた。赤紫蘇は自然に前の年に種を取り、庭に地かにまき、自然に目がでた物を、移し収穫時期に葉を取り、赤紫蘇ジュースを作り、夏の健康飲料水としてのむ。青じそは、ニンニクと青じそと青唐辛子とじゃこで青じそ唐辛子を作って食べる酒のあてにも、飯のおかずにも、よく合う夏の食べ物。つるむらさきは手入れも然程いらず、良く出来る初心者向けの野菜で良く取れて、食いきれ無いので、人にあげたりする。今年も取れた野菜で収穫祭が楽しみである。

屋根の上のバイオリン弾き

 勝洋は次なる出し物は、屋根の上のバイオリン弾きを,演じたくなり、バイオリンの練習と歌の練習を始めた。サンライズサンセットの譜面とyoutubeから森繁の歌を聞き昔森繁久彌の屋根の上のバイオリン弾きを劇場で見た時の感動と喜びを思い出し、勝洋はサンライズサンセットを特訓する事にした。日生劇場で見た森繁のテブィエーに成り切り、日々練習をした。いつの日か何処かで出来る日を夢見て?

         おじいちゃんに会いに行く

 何時ものメンバーでおじいちゃんの居る施設に慰問に行。何時もながら歓迎され、暖かく迎えて貰う。先ずは勝洋がゴンドラの唄を歌うと、森繁が好きだと言う、おばあちゃんに、勝洋気を良くし、バイオリンを取出し知床旅情を演奏と歌を歌った。其のあとは皆が歌ったり、雑談したり、手品を見せたり、芸の幅を広げお年寄りにリクエストが増え有難いことです。

そんな時勝洋は下北半島のおじいちゃんのところに行き、話を聞いた。するとおじいちゃんの連れ合いが今月の初めに亡くなったことを聞かされる。勝洋はお悔やみの言葉を述べた後『、惚れた女が死んだとき」を涙を浮かべ熱唱した。すると聞いて居たおばあちゃんも涙を浮かべ聞き入っていた。勝洋皆さんにいちにちも長く生きてください。と 挨拶し施設を後にした。

監督ビリー・ワイルダー

 勝洋が映画監督の中で誰が好きかと尋ねられると、何時も決まってチャーリーチャップリン、とビリー・ワイルダーと答えた。今でもつまらないことが有るとチャップリンかワイルダーの作品を見ることが有る。ビリー・ワイルダーは生まれはポーランド スハ・ベスキズカ とオーストリア・ウィーン出身と有るがアメリカに来るまでには英単語100位しか知らなかったらしいです。それが映画監督、脚本家、プロデューサー等と活躍し95歳で亡くなった。アメリカの偉大な映画監督である。

ビリー・ワイルダーはユダヤ人で有りながら、あそこまで登り詰めた人は、のちに色々な人を育てた。偉大な人で有った。そして常に明るく楽しく愉快に、暗い過去を微塵も見せず、笑い顔がとても印象に残る監督で有った。その作品の中から、ジャックレモン、シャーリー・マクレーン、マリリン・モンロー、オードリーヘップバーン、ウォルターマッソーその他多数の作品を通して広く私たちに感動を与えてくれた人でした。そんな監督の作品を見るのが勝洋の心の癒しで有った。

映画鑑賞

 その日の夜、皆を集め酒を飲みながら、ビデオを見ることに成った。映画は勿論ビリー・ワイルダー監督のお熱い夜をあなたに、を見ることにした。この映画を見た人は誰も居なかったので、それと勝洋のお気に入りの一つである為、是非とも皆に連絡をし、美しいイタリアとのんびりしたイタリア人の、のんびりしたものの考えや、飲んで、歌って、恋をして、その合間を見て仕事をする。と 言った具合に生活する、イタリア気質が最初は嫌いだったアメリカ人がイギリス人と知り合い、やがて恋に落ち毎年イタリアで会うことにした、コメディ映画である。酒を飲みながら皆がゲラゲラ笑い、最後には皆が監督とジャックレモンのとりこに也、酒と会話が弾んだ。

次回は、お熱いのがお好きが見たいとか?アパートの鍵を貸します、が 良いとか?七年目の浮気が良いとか、恋人よ帰れわが胸に、が 良いとか色々な意見が出た。

勝洋「それは次回のお楽しみ。」と言い、お開きにした。

         タイ釣り

 ある日の事、千葉の友達からタイ釣りの誘いが有り、勝洋は千葉県大原港に出向き、友達と合流して船に乗り沖に出、港から出るや否や大波を幾つも乗り越え釣行ポイントを船長が探し魚探を見ながら、竿をおろし、待つこと30分で友達に当たりが有り、30センチ程の真鯛を釣り上げた。

暫くして、勝洋にも当たりが有り、釣り上げるとウマズラハギでした。これはこれで結構うまいもので、勝洋はニッコリし又釣りを続けた。暫くして勝洋に又あたりが有り、竿を上げると今度はカワハギが釣れた。その直後に友達に当たりが有り、竿を上げるとウマズラで、次もウマズラ、その次もカワハギと、如何やらウマズラのポイントに、入ってしまった様で、船長が竿を上げろと言うことで、魚探を見ながら場所を移動した。すると然程時間も掛からない内に勝洋に大きな当たりが有り、リールを巻くのに少しばかり手古摺らされた。直ぐに友達がたもを取出し、魚が顔を見せた時素早くたもで救い上げた。見事な目の下1尺の真鯛が上がり、勝洋は大喜び。勝洋「もう帰ろうか?俺これで十分。ウマズラもハギもあるし、これで酒が飲める?」友達「俺にも後1 2枚釣らさせてくれ。」「いいけど、余り遅くならないうちに、帰ってからの宴会が遅くならないうちに。」『わかった。後1時間で辞める。」「わかった」等と話其のあと直ぐに勝洋に当たりが有り上げると、たい焼き程の鯛が釣れた。鯛が居ることには間違いはないと確信し、友も俄然はりきり、何時もの釣り名人と呼ばれているプライドをかけ、全神経を竿の先に集中して挑む。この時ばかりは真剣な眼差し、普段はマンボウの様なぼーとした目つきがこの時ばかりは、鷹の様な鋭い目に。すると遂に石に立つ矢。鯛を釣り上げた余りの大きさで鯛も色が薄く也これは骨酒様にし、残りの時間に掛けた。

残り時間10分前に友達が30センチ弱の鯛を釣り上げ港に戻るや否や皆に連絡を入れ、酒を二升持って来るように言い、骨酒パティを今晩開くと連絡を入れ、急いで二人は家に戻った。そして鯛の刺身とウマズラ、カワハギを肝和えにし、一番大きな鯛は塩焼きにし、鍋に入れ熱々の燗酒を1升をなべに入れ、少し置きお玉で汲み骨酒を飲む。

物の5分と経たず内に1升の酒が無く也、もう1升を前と同じく熱々に燗をし注ぐ。すると皆が前より味が落ちたと言い出す。吉秀「こんなに味が変わる物かね?」勝洋「最初に良い出汁出ちゃったのだ。この次はただの熱燗に過ぎない。家に少し前の残りが有るからやってみるか?」と言い試すが単なる燗酒に過ぎず、鯛を食べてみるが、ちっとも上手くもなく、ゴミ箱に。後は肝和えの取り合い。豊「この次は寒ヒラメがいいですね?」勝洋「俺はダメ、寒くて耐えられない。冬の船の上は寒すぎて、俺には耐えられない。前に一度やった事が有るが、粉雪が降り寒くて、寒くて釣りどころじゃない、船長が帰ると行ったとき嬉しかった。それ以来真冬の釣りはお断り。」豊「残念。」釣りの友、吉野が「俺が釣てきて上げる。ヒラメの時期に成ると鹿島に行から,良い型のが釣れると思うよ。」豊「よろしくお願いします。」等と言い解散する。

吉野は酒を飲んでおり、勝洋の家に泊り朝早く勝洋が寝てる内に家に帰った。

利尻富士

 勝洋が以前から計画をしていた利尻富士登山をすることにした。何故ならば勝洋が65歳を過ぎシニア割引で稚内まで割引料金で行けるからである。但し空席が有ればの事で空いている日を選び航空機会社に電話を入れ空き状況を確認し、更に前日の日に電話を入れ、当日に空きが有れば乗れるわけで、飛行場へ行って見なければ確かなことは、分からないので日曜日に電話を入れると残り10席あるとのことで、行くことにした。

当日月曜日に行と残り5席が空いており、席を選ぶが左側の窓側席は空いておらず、後ろの通路側の席に着いた。何故左側の窓側を希望するかと言うと、稚内空港に向けて行くと空港近くに成ると高度を下げ上空から左に利尻富士が条件次第で綺麗に見えるから、その時がシャッターチャンスだからでる。案の定そのとうりになった。着陸態勢に入り眼下に海、右側に陸地、左側に利尻富士が綺麗に見えるが、写真に収めるのは不可能、弱いぎやっこうに照らされ水面に浮かぶ利尻島は是非とも写真に収めたかった。

空港に着くと時間が遅れ船の出る時間が残り少なく、タクシーで稚内港に急ぐ、すると道路の脇にルピナスの花が自然に咲き乱れていた。東京では考えられないことだ。

車は7分前に着き、急ぎ切符を買い乗船し空いている場所を探し、荷物を置き、カメラを取出し、宗谷岬、ノシャップ岬、利尻島を写真に収め船が港に着くのを待った。

船は16時40分発18時20分鴛泊港に着き、港に宿のおかみさんが迎えに来ていた。車に乗り5分ほどで宿に着き、荷物を置き利尻富士温泉に行と、何と外国人観光客が何人か居たので、どこの国から来たのか聞くとスペインのバルセロナから来たと言われた。船の中にも何人かの外国人が居たが、日本の外れの利尻富士温泉にも何人かが来ていると言うことは明日、利尻富士登山には何人の人と出会うのか?今や京都、奈良、大阪、広島、東京、だけでなく日本の隅々まで観光客が来ている。凄いことだ。

温泉を後に、地元の料理を食べさせてくれる店を宿の女将みから聞き、行って見た。矢張り観光客が来て居て、店は繁盛していた。

 翌日朝5時出発。宿の女将が行きは登山口まで車で送迎してくれた。そこからいよいよコースタイム10時間の登山が始まる。登山口の側にキャンプ場があり設備が管理され幾つかのテントが張って有った。そこにも外国人観光客が何人かいた。トイレを済ませ、ストレッチを済ませ、愈々登山開始、少し行った所に第一の目的の名水百選に選出された湧水[甘露泉水」が有りそこで水を補給し、下すら歩くが最初の30分位は心肺機能が余り発揮せず、暫くして心臓も肺も馴染んで来た。が・・・・・・一向に山頂は見えず森林の中を延々とひたすら歩く、海等何にも見えず木々の間を休み休み歩いて居ると登山客の中に外国人観光客が何人か居たので話しかけ、国を聞くとデンマークコペンハーゲンだと言った。最初にオランダ人に会い、温泉でスペイン人に会い、今度はデンマーク人に、日本は今凄い事になっている。そのまま雑木林の中を歩くと、細かい虫の集団が、幾つも有り、そこを通り過ぎたころ肩の部分の8合目に着き、やっと海が見えた。

視界も良く也、大きな木もなく也、日本海も見えドンドン高度を稼ぐが、気温が高く汗の量も多く、3リトルの水が心細くなるが、どこにも水場が無く、少なくなった水を大事に大事に持たせ、歩幅を小さく、なるたけ汗をかかぬ様にし登り、頂きからしまを見下ろし、ゆっくり休み休み降りて来た。3合目で水にたどり着き、たらふく水を飲み、ヘロヘロに也登山口までたどり着き、これ以上は歩きたくないので、タクシーを呼び、宿に戻り其のあと温泉に行き、疲れを取る。

 翌日は、花の島の礼文島に出向き、高山植物を見に行くが、時期が遅かったようで花は散ってしまった。この年はラベンダーが時期が遅れ、礼文の花は早く咲き、何時もながら花を見るのも難しい。となれば電動自転車を借り島めぐりに行くがどこも似たり寄ったりでつまらなく、港に戻り店に入り酒を貰い、つまみを貰い、其のあと礼文島温泉 うすゆきの湯に行き利尻に戻る船を待った。温泉から見る利尻富士は高く、あの山を登ったかと思うと、自分にご苦労様でした。と自分を褒めた。船に乗り宿に戻り、遅くまで酒を飲んでいた。明日は家に帰るだけで、待ち時間が多い為有る酒を全て飲みほした。

 翌日勝洋女将さんに、お礼を言港に行き、船を待ち時間道理に出港し、時間道理に稚内港に着き、バスを待ち空港へ行きチケットを買おうとして受付に行くと、何と満席と言われ、キャンセル待ちをする事に成った。離陸30分前になれば答えが出るとのことです?稚内空港から羽田は一日二便、然も後の便も満席、後は千歳空港まで高速バスで5時間で行き、千歳からなら便数は多く、席は取れるがバスで5時間?矢張り待つことにした。昔知り合いに、航空機会社の株主さんで、飛行機の事が詳しい人がいた。その人の言う事には、必ず3席は空けて有るはず。とか言っていた。お偉いさんが急に乗ることを想定し、必ず3席は有ると言っていたことを思い出し、待ってい居たら、30分前に放送され搭乗することが出来た。然も前から5番目、窓側・・・・・・隣と隣は空席。矢張りお偉いさんの3席であったのかな?ラキー。飛行機は定刻通りに羽田に着いた。それ以降混む時期はシニア割引での旅は考えてから行くことにした。シニア割引で行かずともLCC航空を使えばよいが、行先が限られる。が 飛行機は綺麗だ。

         アメイジンググレイス

 勝洋が一人部屋で考え事していた。暫くして考え付いたことは、お坊さんの衣装に坊主の桂、そして歌うはアメイジンググレイス英語で、パーカッションは木魚でやったら受けるだろう。と一人でニヤニヤする。そして親父の形見の紋付き羽織と着物でかみさんにミシンでそれらしく、面白く衣装を作て貰い、後は何処で披露するか?それが問題だ。

前に一度パティでアメイジンググレイスを英語で歌い、木魚でリズムを取ったら、結構仲間から受けたので、バージョンアップをして、桂と衣装で笑いを取る事にした。

後は誰のマネをするか?受けを狙うと設楽、ここはルチアーノ・パバロッティが受けるだろう。と一人でご満悦。

その日からパバロッティのアメイジンググレイスを何回も何回も聞き、口に綿を詰めパバロッティの歌マネをした。それと森繁の屋根の上のバイオリン弾きも同時に、練習をした。今は二人ともこの世にはいないが、私にとっては今でも生きていて、何時も人生の灯りをともす人でこれからも、人生の水先案内人であり、よきみちを案内してくれるはず。人に感化されるも居心地のいいものだ。それが偉大な人ほどいいものだ。

          8月収穫祭

 勝洋の庭で取れた野菜で恒例の収穫祭パティを開く事に、それと稽古の出来具合を見てもらうために、皆に集まって貰い、披露した。

取れたプチトマトとアスパラガスをベーコンでまき、塩コショウで味付けし、ホイル焼きにし出すと、これは皆が酒のつまみに良いと言い。次にオクラと長芋のぬかずけも好評、次にカボチャの茎の天ぷら、冬瓜と鶏ひき肉の煮物、最後に北海道名物、中山峠の揚げ芋。を まねた揚げいもを出した。先ず芋を皮をむき、適当な大きさに切り、塩ゆでにし、一晩冷蔵庫で寝かせ翌日、パンケーキミックスと砂糖、牛乳、塩、で油で揚げるが、ジャガイモが東京産の為芋がホクホクしておらず、いまいちで有ったが、他の皆は本当の味を知らないため、それなりに喜んで食べてくれた。暫くして酒が回り、練習をした芸を見せることにした。

先ずはパバロッティのモノマネを披露する。口に綿を詰めタキシードを着、アメイジンググレイスを英語で歌い、木魚を叩く。が・・・・ルチアーノ パバロッティを知らぬ者が居たので、ただじっと見ていて、後から質問された。「パバロッティ誰。」勝洋「イタリアのオペラ歌手、3大テノール歌手の一人パバロッティ、ドミンゴ、カレーラス三人がテノールの神様」豊「俺知らないけれど、ドミンゴをやらして」勝洋「やるかい。」吉秀「じゃぁ俺、カラス、だか何だか知らないが、残りのカラスに似たのをやらして。」勝洋「では三人で3大テーノー歌手をやるか。」豊「テーノー歌手なら練習をしなくとも、地で行ける。」吉秀「英語の歌もいい加減にThis is a penで?・・・かい。」勝洋「それらしく、真似てやれば、受けると思うよ。後は何時ものアドリブで?」そして暫くして勝洋がテビィエの真似をし、バイオリン弾き、サンライズサンセットを歌い、登場する。「サンライズ、サンセット、サンライズ、サンセット時は行く・・・・・・・・・・・・・・・」と歌いながら出て来た。吉秀「よーおー待ってました。森繁。」豊「まーあーつぎからつぎえと良く考えるねー?」勝洋「俺の趣味」吉秀「屋根の上のバイオリン弾きか?いいねこれもいいよ。絶対に良い。」豊「流れ石だね。」勝洋「流石、頂きました。星3つですか?」等と何時ものただの酔っぱらい爺の自己満足で平和の極楽とんぼで有った。が…・その後皆が足繁く勝洋の家に尋ねては、練習をした。と同時に3大テノール歌手を調べた足り、屋根の上のバイオリン弾きの歴史を調べたり、陰で以外に真面目に彼らなりに調べた。

         リュックサック

 勝洋と妻は日曜日に骨董市に出掛けた。すると、勝洋女物の袋帯を見て思い着いた。こんなに沢山の帯が捨てられ行き場がなく売られているのを見て、作った職人さんたちの事を考えた時、何時の時代も、時代に捨てられ行き場のない物に?・・・・・・・勝洋思い着いた事が、こんなに綺麗な日本の美がタダ同然に売られている。

世界にこんなに美しいベルトが有るか?刺繍をシタモノ、文字を書いたもの、絵を描いたもの、全てのものが丹精込めて作ったものを、行き場がなく捨てられる?ならば帯を締めることのできない人も、帯の美しさは他の国の人にも分かってもらえる。寧ろよその国の人の方が日本の美に対して良く知っている。

日本の着物、帯は世界の女性陣の憧れの的。誰しもが来てみたいものだが、着ることが出来ない。故にお見上げで高い帯を買い、家に持ち帰り、テーブルクロスにしたり、壁掛けにしたり、その他色々に。そこで勝洋の思い着きは、帯でリュックサックを作る事を思い着いた。お太鼓の部分を生かし、動く絵を。早速椿の絵の刺繍の袋帯を買い、家に持ち帰りリュックサックを妻に作らせた。案の定妻の愚痴が始まる。それでも出来上がると、満足感が有りそれなりに喜んだ。

 ある日の事。勝洋妻が作ったリュックサックを背負い、妻と出掛ける。昼に也、お蕎麦屋に入りお蕎麦を注文をした後で、女将さんがそのリュックサックをどちらで買ったのですか?と 尋ねられ?勝洋「私がデザインして、妻が作りました。」女将「本当何ですか?」妻「私が作ったものです。だから一つしかありますん。帯で作りました。」女将「売っているのですか?」妻「いいえ。趣味で作ったものです。」女将「すごいですね?売ったらいいですよ。売れますよ。」勝洋「作るのは簡単ですけど売るのは難しいですよ。」女将「絶対に売れますよ。」勝洋「値段ですよ!生地代、手間賃、時間給を換算すると、1万は最低出もかかります?そうなると買う人はいません。

女将「そうですかね?」勝洋「そんなもんです。」女将「いい物見せて貰いありがとうございました。」と 言い去った。  

妻店を後ににんやり。勝洋「ホラー見ろ褒めて暮れる人がいるだろう?良いものは誰が見てもいいのだ。」妻「今度は私の気に入った柄で創る」勝洋「いいと思うよ」勝洋「もっともっと評価される物を作ればいい。」等と言いながら家に帰る。

 その後帯からハンチング帽やトートバッグ、スコップ三味線の袋、ベスト、その他色々なものを帯でリメイクした。

 ある日の事、妻と二人で日暮里に布地を買いに行く。色々な店を見て歩き、蚊帳に適した生地を見つけて買ってきて、車内に使う蚊帳を作る事にした。寸法を測り、仕立てフックを付け窓を開けて寝られるように仕立てた。夏は蚊が多く窓を開けて寝られず、閉めると熱くなるため、車内の蚊帳が欲しかった。

基本的に自分たちで出来る事は自分達で作る。その楽しさ、苦しみ、愛着、完成された時の喜び等を味わい、色々チャレンジし、それを楽しむ。

        リホーム

 次なるチャレンジは家のリホーム。キッチンの床の張替え、流し台の張替え、棚の作り直し、壁紙の張替え、家の至る所のリホームがあった。

ホームセンターに行き、必要性が有るものを買いこみ、道具類は暇を見てはリサイクルショップやフリーマーケットやホームセンターで既に買い揃え、ある程度の道具類は用意して有った。作業の仕方は友人、職人さん、その他の人から見て習、後は自分達の自己満足でやる。これが結構な仕上がりで笑える。直したところを見て貰うと、内のも直してくれないか?と言われることが有る。妻リエは何時も服等の型紙を取っているので、フローリングカーペットなどの型を取るのは好きで、苦にならず勝洋が手を出すと怒った。「私がやるから手を出さないで。」と 言ったぐわい。ここは触らぬ神に祟りなし。と 行った所で勝洋部屋に戻りフルートの練習を始める。

暫くして勝洋作業を見に行くと、相変わらず張替えに夢中。声を掛けると噛みつかれそうでそっと部屋にもどり、今度はバイオリンの練習をした。

出来た頃合いを見に行と、仕事の後かたずけをしていた。仕事ぶりを見て勝洋はいまいち納得がいかず後日改めて、両面テープを剥がしボンドで張替えた。

娘の部屋は娘が自分で壁にペンキで花の絵を描いた。娘マキは二科展で二度の入選を下ことが有り、それなりの絵を描いた。勝洋とリエは絵が描けないため、ベルサイユ宮殿の壁の真似をして、着物を張り付けた。勝洋の父親は着物の仕立屋を営んでいたので、勝洋は生まれた時から着物地を見て育ち、着物の中に居ると妙に落ち着く訳で、父親の膝に抱かれているような何とも言えない安堵感に心の居場所を感じた。

風呂の脱衣場と廊下の壁は、掛布団の生地で柄を合わせ、張り付けた。汚れた壁紙が日本の美に変身。然も壁紙よりも安く、簡単に出来た。数年経ったら剥がし布は又何かに生まれ変わり、壁は又他の柄の生地を探し張ることにする。DIYは昔からどこの国でもやって居たこと。今更取り上げる事もないが、然し今は昔より遥かに安く、早く便利に素人でもリフォームが出来る為に職人さんに頼まずとも出来てしまう、他にもトイレのリフォームは凝りに凝って、壁、棚、トイレットペーパーのホルダーを全てを同じ着物の生地でリフォームした。馬鹿馬鹿しい事は言うまでもなく、馬鹿馬鹿しく面白い。この馬鹿馬鹿しさが人間として生きていく潤滑油に也、馬鹿馬鹿しさが生きる事に活力に成る。他の人から見ればつまらない事でも、好きな人から見ればそれが生き甲斐なのだ。女が好きな人には女につぎ込むことが生き甲斐で有り、光物が好きな人は、光物が生き甲斐で有り、車の好きな人には車が生き甲斐で有り、興味がない人から見れば、何とも馬鹿馬鹿しい事で、何の生き甲斐もなく生きているよりか、何かを好きに也、人生を楽しく、馬鹿馬鹿しく生きた方が人生の後悔も、しないで後悔した人よりも、・・・・・どちらも後悔はするがあなたならどちらの道を選択するか?

御岳

 勝洋は一人で奥多摩の山に出掛けた。軍畑で下車し、そこから日出山に向かい、山頂で野宿していたアメリカ人と知り合い、二人同行となり御岳山からロックガーデン、大岳山

に登り、下山途中で風呂に入り、湯上り後ビールで乾杯し、別れ際に又の再開を約束し、新宿で別れた。

 一週間後アメリカ人のポールが、勝洋に会いに最寄の駅に着き、再開をし勝洋の家でパーティーを開いた。何時ものメンバーらが自分の楽器を持ち込み、自己紹介をし、其々が得意の歌を披露した。先ずは豊の乾杯から始まり、吉秀の逃げた女房。これが吉秀の振り付けと、歌、身形がアメリカ人のポールには、とても大受け、外国人に大受けするのを知った。次に勝洋は尺八を取出し、カントリーロードを吹いた。するとポールが歌い出し、勝洋のギターで弾き語りを始めた。勝洋は奥多摩の山で知り合い、ポールがギターバンジョー、マンドリンを演奏をすることを聞いて居たので、家に招待しパーティーを開く事を計画した。勝洋はポールにshow me to the placeをリクエスト設楽ら、ポールが喜んで歌ってくれた。その後ポール尺八に興味をもち、勝洋から運指表と使わない尺八を貰い、練習をすることを約束し、又会うことを約束し、パーティーを終えた。

 それから数日後に、ポールから郵便物が届く。開けてみると、DVDと手紙が入っており、手紙を読むと、ロサンゼルスで録画したもので、友達とホームパーティーを開いた時のものだと書いてあり、DVDを見ると楽しいパーティー風景を見せて貰った。矢張りアメリカ人は遊びの天才なのかな?家の中にステージを作り、プレスリーの衣装を着、リーゼントの桂をかぶり、プレスリーに成り切り歌い、観客もそれに乗り、盛り上げる。この馬鹿馬鹿しさが何とも言えぬ至福の時で色々なアメリカ式宴会芸を見せて貰った。

 その後、DVDを皆に貸し出し見て貰い、今後の出し物のバイブルとして記憶に止める事にした。     

ブロードウェイは何と言ってもショービジネスの聖地、それとカーネギーホールは是非とも行って見たいとこらで有る

         慰問

 ポールも連れての慰問。Long time no see の下北半島じいちゃんに会いに行。勝洋はポールと二人でローハイドをやることにした。1959年から1965年までNET系で放送された西部劇 フランキー・レーンのダイナミックな歌い方で、一世を風靡した歌で日本でも毎日ラジオから歌が流れた。二人はテンガロンハットをかぶり、妻にローハイドを作って貰い、手作りの鞭を持ちステージに上がり二人で熱唱すると、下北半島のおじいちゃんに、大受けアンコ―ルが入り、急遽もう一回やることにした。勝洋はこんなに横文字の歌が受けるとは思っても居なかったので、やった勝洋の方がビックリした。ポールに聞けばカントリーソングの好きな人はアメリカでも受けるらしい。との事。

次に吉秀がスコップ三味線を持って風雪ながれ旅を熱唱。これまた下北半島おじいちゃんに受けた。続いてポールが紋付き袴で尺八でカントリーロードを吹き、その後ギター

に変え弾き語りを披露した。そして最後にぼけを一言「変な外国人」と言った。勝洋からのアドバイス。 

次に勝洋は高下駄を履き、ズボンのすそで下駄を隠し、足を長く見せ、石原裕次郎の真似をし、ブランデーグラスを真似て歌った。勝洋は足の短いのをコンプレックスに思い、足の長い石原裕次郎に憧れ、初の裕次郎の真似をした。長いズボンを履くことが勝洋の夢で、子供の頃のあだ名は10円玉。どうが90パーセントと残り10パーセントが足?等と言われ、今度知り合ったポールも足が長く、ここまで来たら短い足を笑いに変えて高下駄で出ると、ポールに偉く受けた。次なるは豊が紋付きと袴を着、手作りの槍を持ち、黒田節をレコードに合わせ踊るが、レコードが古く波を打ち、間延びするは二度歌うは。それに合わせ二度踊るはで、仕込んだネタが大受け、大爆笑をいただいた。勝洋の予想道理に行き勝洋心の中で大喜びで有った。そして最後にポールにShow me the plsceを歌ってもらうと、ポールの詩的な歌い方に皆が感動した。矢張り音楽には国境はない?・・・・・・・・家に帰り、反省会を開く。ポールが『また、きたい。呼んで下さい。」と言ったので、勝洋「of course]ポール「ありがとうございます。豊さん。おもしろかーたです。私にも、おしえてくーださい。」豊「ポールがやれば、もっと受ける事間違いなし。」吉秀「ポールが覚えて、どこかの寄席でやっても受ける事間違いなし。」勝洋「売り出すか?誰かマネージャーをやり営業して歩き、最終目的はアポロ・シアターに。」等と何時ものバカげた話に和気藹々酒が捗る。そしてポールも新メンバーとして皆から歓迎された。そして今後の出し物をポールも加え検討した結果、皆で顔に靴墨を塗り、ルイアームストロングの歌のWhat a Wonderful World をやることにした。そしてポールが女装してベットミドラーのThe Rose をやることにした。そして豊がエルビスのこの胸のときめきを、吉秀が明日に架ける橋などその他色々な出し物が次々と出た所でお開きにした。

          築地市場

平日の日にポールが時間を作り、築地市場に行く事を約束をし、築地本願寺じで待ち合わせをし、市場を見学した。勝洋が案内して歩くが、ふと振り返るとポールが居なく、よく見るとずーと後ろで写真を撮り、何やら話しかけ、聞いて居る様子で、確かに色々興味深く見ていたので、勝洋「ゆっくり見て居たら全部見ないうちに店が終わってしまう。」と言い、もう少し早く歩く様に と言い急がすが、又興味深い所で立ち止まり、写真と質問をしていたので、勝洋もそんなに喜んで貰えるのなら、好きなだけ時間を上げた。その後茂助の卵ご雑煮を食べた。ポール「rice cake ]勝洋「イエス 雑煮」ポール「ぞうに、はじめてです。スープがおいしー」等と話をした後、場外を見て歩くと包丁屋の前で止まり、包丁が欲しいと、言い出した。勝洋はここの包丁はプロが使う包丁で高いと言うと、一つはお父さんにプレゼントして一つは自分が使いたいと、言うので買うことにした。後から聞くと前から日本の包丁が欲しかったようで築地に行ったら買うつもりで居たらしく、築地に着たかったらしいが、築地を案内してくれる人が居なかったので来ることが出来ず、やっと来ることが出来たので今日は楽しかった。と言ってくれたので、今度時間が出来たら合羽橋商店街を案内する。と約束をし駅で別れた。

          合羽橋商店街

 一月後。田原町駅で待ち合わせし、車で合羽橋商店街へ行き、車を置き店を見て歩く。矢張りここでも興味を示し見る物見る物に楽しんで居る様子で、案内する側も遣り甲斐が有った。特にサンプルを見ると眼を大きくし、これサンプルと尋ねて来た。勝洋「イエス」ポール「beautiful] と言い何かを買をとしていた。暫くして寿司のイヤリングと寿司のかけ時計を買い、アメリカの母とイアリングは妹に送るとかで喜んでいた。その後たこ焼き器を見つけ、家でホームパーティーでたこ焼きパーティーを開くとかで、たこ焼き器を買い、その後かっぱ寺〈曹源寺、台東区松が谷」にカッパの手のミイラを見に行くが、予約をしていないため見せて貰えず、止む無くどぜうをたべに浅草に行き、ドジョウを見せ、食べた事が有るかと聞き、食べた事が無いと言うことで、食べて見るかと聞くと?イエスとの事で食べさせると?delicious.と言い上手そうに食べた。

     勝洋今度お好み焼きパーティーを開くから来るように誘った。

          スーパー銭湯

 一週間後にお好み焼きパーティーを開事にした。時間に早く来てもらい、二人でスーパー銭湯に行き、風呂に入る。すると客が少なくポール大きな湯船に感激し、大の字に也湯船にダイブした。そしてニッコリ微笑み、wonderful と言いその後色々の風呂に入り出よとしないので、勝洋は先に出て、ビールを飲んでまっていた。大分待たされ、やっと出てきたら、隣にいた知らない歳折からビールの差し入れが有り、ビールを頂き話をした。おじさんも如何やら楽しそうにポールと話をし、ビールを3本も頂き、ポールもご機嫌に也、家に帰り、お好み焼きパーティーを始めた。ポールに山芋をすらせ、キャベツの千切り、魚介類を入れ、小麦粉、卵、キリイカ、その他色々なお好み焼きを焼き、ポールに喜んで貰い、酔いが回った頃にカラオケボックスに出掛けた。

先ずは豊がイマジンを歌い、吉秀がレット・イット・ビー、幹久がイン マイ ライフを,勝洋がこの胸のときめきを歌い、ポールが上を向いて歩こうを歌いその後も、何曲か其々が歌い、解散した。

 暫くして、勝洋の知り合いから、施設の慰問に行ので、助っ人として来てもらえないかと、依頼された。以前にその友人に勝洋が世話に也、今度は助に行番で、喜んでメンバーを、引き連れて出掛けた。先ずは勝洋の鉄板芸のラーメン丼をかぶり、チャイナドレスを着て、二胡で蘇州夜曲を演奏しその後、カラオケで出鱈目な夜来香を歌い、大いに沸かし、ポールによる上を向いて歩こう、豊がサン・トワ・マミーを歌い、吉秀が逃げた女房を仮装し歌と振り付けし、皆を笑わす。その他にも何曲か披露し、お開きに也、勝洋の友人と共に居酒屋行き、乾杯をし楽しい時間を過ごした。

          ハゼ釣り

 9月も終わりに近づき、ハゼも型が良くなったと思いハゼ釣りをすることにした。ポールの休みに合わせ、勝洋、ポールにハゼ釣りを教え、釣れたハゼを天ぷらにして食べさす事を考え、沢山釣るように教えた。餌は家に沢山いるミミズで釣る事にし、其々が好きなポイン トを探し、散っていく。暫くして、ポールに当たりが有り、竿を上げると、ダボハゼが釣れた。勝洋「これは、食べない。捨てる。」暫くしてポールが30センチ位のミドリ亀を釣り上げた。ポール大喜びで「これ、食べるか?」勝洋「誰も食べない」ポール「ペット、飼、タートル、OK]勝洋「いいけど。入物有るか?」ポール「大丈夫。」勝洋「家に使わない水槽有るけど、持って行くか?少し重いけど。」ポール「サンキュー。いただきます。」等とやり取りをしていた。 勝洋は自転車にのり、皆の釣りの成果を見て回る。すると5寸あるかないかのハゼ2匹と3寸程のハゼが全部で12匹、ボラが1匹、フナが2匹、ボチボチ帰るか?とポールに聞くと「あと30分。釣りたい」ということで、30分間時間を延ばす。残り5分になった時、ポールが[eel.eel,]と叫んだ。勝洋たも網を持ってウナギの下にたもを添え、ガッチリ逃がさぬ様に釣り上げた。勝洋、ポールが何かを持って居る人だと再確認した。そして家に帰り、ポールに魚の下ごしらえを教え、ウナギは妻リエが裁いた。ポールそれを見て、「wonderful 「wonderful ]と連呼した。フナも、ぼらもハゼと同じく天ぷらにし、皆で食べたり飲んだり歌ったり、帰りに、水槽に亀を入れ、持ちやすく梱包しもたせた。勝洋「see you again]ポール「さよなら。また。」と言い帰っていった。

音楽会

  一月後、豊から連絡が有る。『田森さんから、ホールを5時間借りられたので、一緒に音楽会をやらないか?と 言われ行くと返事をしといたのですが?行かれますよーね?」勝洋「何時」豊「10月23日。11時から4時」勝洋「今回は秘密兵器を連れて行くか?」豊「ポール」勝洋「その通り。彼に何かをやってもらう面白いことを」豊「では、行かれると、返事をしておきます。それでいいですね?」勝洋「ありがとう。後はよろしく。近い内に会って話そう。じゃねえ。また。」と言い電話を切り、勝洋出し物を考える。勝洋は前々からやってみたい事が二つ有った。一つはジリオラ・チンクェッティの夢見る思いと、ベットミドラーのザ ローズを仮装し、金髪、付けまつげを付け、歌と振り付けで、皆を笑わす事が望みで有った。

翌日からせっせとカラオケボックスに一人勝洋は通った。部屋に入り、夢見る思いを歌うと、遠い昔の事を思い出す。1964年東京オリンピックの年、この夢見る思いが、サンレモ音楽祭優勝曲、当時ジリオラは16歳の新人。早速レコードを買い、毎日毎日繰り返し聞いた日の事を、当時ステレオでレコードを聞く事が何よりも楽しい至福の時だった。レコードをかけるまえに、必ずレコードふきでふき、大事に大事にレコードを傷つけず聞いた遠い日の思い出が蘇る。

 そして、次にザ ローズを練習する。この歌は1979年制作のアメリカ映画ローズの主題歌、27歳でこの世を去ったロックシンガー ジャニス ジヨップリンの半生を描いた作品をベットミドラーが勇気付け、そして心に癒しを与えたうた。日本では都はるみが「愛は花 君はその種」で1991年にリリース。

勝洋はベットミドラーのファンで全ての作品を見ていた。この二人の歌をどのように、仮装し、化粧し、イタリア語と、英語を如何にこなすか?

         寄席

  勝洋とポール日にちを合わせ浅草の寄席に行。二階席の一番前に座り、酒と弁当を食べながら見学をした。ポールは日本に来て、初めての寄席で、生の落語を見るのはとても、日本語の勉強に成ると言い、録音をしたいがそれは無理と教え、只管芸に集中させた。落語は難しく、曲芸や紙切りは反応が早く、講談、漫談は分かりにくそうであったが、楽しんで居る様子でした。寄席を出、手打ち蕎麦屋に入り、日本酒を頼み、生卵の黄身の味噌漬けを、食べさせると?「ワンダフル、デリシャス、」と偉く感激。初めての生卵に感激し、お代わりを頂く。酢の物を頂き蕎麦を待つ。ポール「能舞台は見ないのか?」と聞いてきたので「オーノ」と言って断った。「なぜ、見ないのか?」と聞く『能は難しくて、俺には分からない。」と言って諦めて貰った。すると今度は「歌舞伎は?」と聞くから「一度行ったが、俺は落語の方が好きで、歌舞伎も行かない、行なら英語の説明が有るから、行ったらいい」と教えそばを食い別れた。

音楽会当日

 音楽会当日、豊が勝洋の家に向かいにくる。何時ものメンバーに今回は隠し玉のポールを連れてホールに向かう途中で、連絡が入る。もう始まるから直ぐに来る様にとの事。で 直ぐに行と答え10分もしないうちに着き、司会者から一人一人紹介された。遠くは静岡から新幹線に乗り朝早くからこの日の為に来たという。

聞けば毎回楽しみで、新幹線に乗って来るそうで、ご主人を無くし、ウクレレとハーモニカが趣味とかで、最初に演奏をするが緊張がすごくがちがちになっていた。

 その後ギター演奏、二胡の演奏、フラダンス、ハモニカの演奏。その後も色々な出し物が続き、休憩が入り、この時勝洋のメイクと仮装し番を待つ。休憩時間が終わり、最初に勝洋の番が来たので出ていくや否や、ドット笑いが起きた。そしてカラオケに合わせ歌う、二曲を歌い終え、着替え、豊の歌の番が来たので、勝洋がドラムを叩いた。曲は泉谷しげるの春夏秋冬を歌った。次にイマジンを歌い、ポールが上を向いて歩こうと、カントリーロードを歌い、吉秀が安奈とロードを歌い、その後も歌と演奏は続いた。暫くして、終わりの時間が来たので、二次会をカラオケの店に行く事に也、参加者の一人がカラオケスナックをやっており、その店に行く事になった。店はホールから近く、店に着くと、乾杯をし直ぐにカラオケが始まり、最初に勝洋が指名され、勝洋。妻リエが居たので、新井満のこの街でを歌った。

 其のあとポールが尺八を吹き、カラオケに合わせアメイジンググレイスを歌い木魚を叩いた。すると、田森「誰だ。仕込んでのは?」ポール「私は、変な外国人です。」皆が笑う。ポールもニッコリ嬉しそう。その後皆で次々に歌い、終わり近くに又勝洋にマイクが回って来たので、勝洋「大した男じゃないのに何時もありがとう。吉幾三の別れの時は、を歌わせて貰います。」と言いカラオケの伴奏に合わせ心を込めて歌った。すると誰の歌、何と言う曲教えてと、質問される。勝洋少しでも皆さんに感動が伝われば、こんなにうれしいことは無かった。

田森さんから次の時も必ず来てよね。約束だよ。と言われ勝洋「ありがとうございました。又お声かけてください。来ますから。」と言い妻リエの運転でかえった。    

豊「しかし、レパートリーが広いね?色々な楽器を弾き、歌も何曲知っているのですか?ストイックですね。」勝洋「暇だから。何かをしていないと退屈で死にそう」吉秀「分かる。俺も役所に入りたての頃、暇で暇でやることが無く、部長の前の机で昼ねを設楽、嫌な顔をされ、その後は毎日眠く成ると、現場に行って来ますと言い、喫茶店でコーヒーを飲んで時間潰し、小遣いが幾ら有っても足りない。暇はつらいよ。」と吉秀ぼやいた。

豊「俺なんか、休みの日家に居ると、奥さんに有れやれ、これやれと色々言われ、自分の時間が欲しい。たまの日曜日、ゆっくり寝たいよ。」勝洋「人は必要とされて居るうちが花。」豊「私は花の咲かない枯れすすきが羨ましいです。」勝洋「美人の奥さんを貰ったのだから、それくらい我慢しなくちゃいけない。」豊「俺今度、関白失脚を歌おーかな?」勝洋「あれ、長いからな。」豊「長い分だけ目立つ。めだちたいの俺。面白さでは勝てないから、マイクを持ったら1分でも長く持って居れば目立つ。」勝洋「十分目立っている。あなたはおばちゃんのアイドル。憎いよこのばあちゃん殺し、」等と何時もの馬鹿げた話をして家に帰宅。            

      クリスマス会

11月半ばに、施設から今年もクリスマス会を開きたいので、来ていただけるか?との連絡が有り、勝洋喜んで伺いますと答えた。が何をやったら良いか、何も考えて居なかった。行くからには去年より更にバージョンアップを考え、着ぐるみ、仮装、雪、その他色々の事を考え、実際それが出来るか?が問題だ。後一月ちょい。で どこまで出来るかが問題。出し物としては、ジョンレノンのハッピー・クリスマス ビングクロスビーのホワイト・クリスマス、アメイジンググレイス、アベ・マリア、きよしこの夜等。どれをやれるか?アベ・マリアときよしこの夜とアメイジンググレイスの譜面は有るが、そのうちの一曲に選択し、歌はハッピー・クリスマスかホワイト・クリスマスのどちらかに洗濯し、練習をすることにした。

後日皆が都合の良い日に来てもらい、今年も去年と同じく施設からクリスマス会を開くに当たり、是非クリスマス会を盛り上げて欲しいとの事で受けた訳で、12月22日午後2時より4時までの2時間。都合の悪い人は?今のとこら誰も居ない。後は先の事だから生きているかが問題だ。と勝洋何時もの詰まらない冗談を言う。吉秀「俺生きて居られるかなー自信ないなーひ弱だから。」勝洋「貴方が一番長生きする。間違いない。誰からも香典貰えない。そんだね。」吉秀「俺、生きてるうちに葬式やっちまう。明日にも?」豊「俺も生きている内に、後まで宿題を残さないように、生きてる内に。」勝洋「馬鹿な話はそれ位にして、やる事決め手ネ。人に感動か笑いかどちらかを。期待しているから。」吉秀「笑点風に、なぞかけとか、お題を決め、一言、とか、お年寄りと二人羽織とか?」勝洋「それいいね。なぞかけ。二人羽織。良いかのね?」豊「それにきめましょう。他に考えても大した答えは出ないのだから。」勝洋「そうだな、それに決まり。決定。一件落着。」その後解散し、各自が出し物を考え、競居あうことに努力した。

高尾山の紅葉

      11月20日頃が高尾山の紅葉時期で、勝洋カメラを持って紅葉の高尾山に行。終点高尾山口駅で下車し、駅前広場を右に少し川沿いに行と、見事な紅葉が有る。

午前中は絶好の逆光、紅葉の写真は順光よりも、もみじの葉の中に入り、葉の裏側から太陽に向かい取る方がより綺麗に映る。そのポイントが駅からすぐの所に有る。但し晴れて青空の時。次に向かうは高尾山薬王院の紅葉で有る。然しカメラマンが多い。次に向かうは紅葉台に行。ここの楓は葉が大きく、夕日に染まる紅葉はとても綺麗で勝洋は毎週天気を見ながら写真を撮りに来る。その後温泉に行き、入浴後一杯やり、うつらうつらしながら家に帰る。

それと最近、山で蛇を見かけない。聞くと何でも山にイノシシの餌が無く、マムシでも他の蛇でも何でも食べてしまうそうで、高尾山には猪、タヌキ、ハクビシンは見た事が有る。

家に着くと、暫くして吉秀からの電話が「もしもし、かつちゃん、次の出し物、俺ザ・ロネッツのBe My Babyt とシュプりームスの恋はあせらずを、やろーと思うのだが、どうだろう。」勝洋「てことは、俺と豊に手伝え、て ことか?」吉秀「話が早い。其のとうーり。」勝洋「てことは、黒く塗る。」吉秀「そのとーり」勝洋「口パク。」吉秀「いや。俺がセンターで歌う。」勝洋「では、衣装はクリスマス色の赤か?ド派手にサテンの生地で、日にちが余り無いから、裏地無で寒いけど我慢。」吉秀「歌はばっちり覚えるから。」勝洋「一番受けるかもね?」吉秀「だといいのですけど。」勝洋「期待している。頑張ろう!」と言い電話をきり、豊に電話を入れ、その旨を話、了解して貰い、出て貰う。

翌日エリと二人で日暮里に行き、安い赤のサテンの生地を買い、先ずは勝洋のミニのドレスを作り始めた。

 暫くしてドレスが出来上がり、勝洋が試着して見る。鏡の前に立ち、自分を見る。勝洋「靴下は、網タイツか?髪はロン毛の黒、顔と見える部分は黒く塗り、後はバックで踊りとコーラスか。」リエ「どお。これでいい?」勝洋「良すぎる。モット不格好の方が、笑える。まあーこれでもいいけど。」リエ「不格好に作ると私が恥かしい」勝洋「笑ってもらう為に行くのだから、笑ってくれたら最高だ。」リエ「あとの二人の寸法を明日にでも。」勝洋「今連絡しとく。」と言い明日来てもらい寸法取りとデザインを聞くことにした。

次の日の夜、先に豊がやってきた。勝洋のドレスを着せた。すると豊「俺のは、もっと胸を開けて、胸に詰め物沢山入れるから。靴下は真っ赤な色で、首に内の犬の首輪をつける。髪は黒のおかっぱ頭。それでどお」勝洋「お好きなように。」と話をしていると吉秀が「こんばんは」と言い入って来て豊を見るなり、大笑いする。吉秀「この格好で出れば歳折みんな吹きだす。歌要らないかも?」勝洋「はい。お次貴方の番。服を脱いでドレスに着替えて、寸法を測る。」吉秀「内に嫁入り前の娘が居る。これで一生嫁に行けない。」勝洋「出たり入ったしなくてすむ、これで安心。」吉秀「俺のはこのドレスよりもっとシンプルにして長めに。何たってセンターで歌と振付。私が主役。主役を食う様な事はしないで。でも食われそう。」リエ「余りシンプル過ぎても面白みがないのでは?」吉秀「あくまでも歌で勝負。毎日特訓中」勝洋「俺も良く、youtubeを見て振付を見ているが、ひな壇の上で水着の様な服で踊って居るギャルが居るが、あれ真似たらドカンと受けると思うが?」吉秀「受けるの間違いない。前に椅子から転げ落ちて笑わせたことも有ったが、笑い過ぎてだれも歌を聞いて居ない。今回俺、主役。くれぐれもよろしくお願い。」リエ「出来たら一度仮縫いする。」豊「いいですよ!みんな分かりはしないのだから。あとは適当に。」等と言い帰って行った。

翌日勝洋は日にちも迫りつつ有るため、出し物を決めた。アベ マリアはフルートで演奏し、歌はハピークリスマスに決め、特訓に励んだ。

本番当日

 施設には1時半に行き、トナカイの着ぐるみを着、発泡スチロールでこさえた雪をざるに入れ、竹棒に吊るし上から降らす。余り良い出来ではないが、この方が可笑しく笑えたので、納得し本番に挑む事にした。

2時に也、いざ本番に也、早々に挨拶を済ませ、先ずは勝洋のフルートに寄るアベ・マリアを演奏。次にハピークリスマスを熱唱し、豊がきよしこの夜を弾き語りで歌い、吉秀がホワイトクリスマスを歌う。勝洋、着ぐるみを着、豊、雪を降らし、リエ、鈴の音を鳴らし、旭、照明を落とし、幹久がダンボールでこさえたソリに乗り勝洋トナカイが、それを引く。吉秀本日初の主役。をバッチリ決め、拍手喝采を浴びる。本人もご満悦そうであった。

その後旭に司会を任せ、三人は仮装に行。先ずは肌を黒く塗り、真っ赤なドレスに身を包み、桂をかぶり、付けまつげを付け、子供だましの首飾りと、豊、犬の首輪を付ける、真っ赤な口紅を付け、いざ本番に出る。旭照明を落とし、真っ暗なステージに幹久が三人を案内し、旭がライトを当てる。と思っていたどおり爆笑が。そして吉秀がセンターでビー・マイ・ベイビーを歌うと、豊が今までに見せた事がない、ダンスを披露する。と観客は一同が豊に目が移動し、笑いが起こる。吉秀、一瞬やられたと思い、演技を派手にした。次にシュープリームスの恋はあせらずを吉秀、熱唱した。三人が下がり、着替えに行き、幹久がマイクを持ち、お年寄りと、童謡を歌う。これも毎回受ける。月の砂漠、花嫁人形、浜千鳥、等を歌い、着替えが済み、第二部のお笑いのタイムに。なぞかけを最初にやることにした。先ずはお題をスタッフから聞く。スタッフ1「勝洋さん?」吉秀「勝洋さんと掛けて、梅雨時と説く、そのこころは、何時も降られっぱなし。」旭「上手い、煎餅一枚」幹久「勝洋さんと掛けて、重い荷物と得。その心は女には持てねだろ。」旭「上手い。一枚」 勝洋「勝洋と掛けてダイヤモンドと、得、その心はどちらも女だったら欲しがる。」旭「ダメ、顔に墨」勝洋「帰ったら、酒なし。」旭「煎餅二枚」等と笑いを取り、次にお年寄りと組み、二人羽織をやる。これまた大いに沸かす。次なるは勝洋のバイオリンに寄る。音真似を披露した。先ずはバイオリンの開放弦のラとミを弾くと。ラミラミと繰り返すと、救急車のピポピポと聞こえる。お年寄り、クスクス笑い、次に勝洋「今度は、猫がトタン屋根を滑り落ちる音」と言い、弓でゆっくり弦にしっかけ弾く。ギィーギギギーと猫が爪を立てトタン屋根を滑る音がする。するとメンバーもスタッフもお年寄りも笑った。

そして最後に勝洋、タキシードに着換え、吉幾三のありがとうの唄を熱唱するとお年寄りの女性、何人かが涙を浮かべ拍手した。帰りに又来てくださいと、多くの人から言われる。

 帰りの車の中。豊が「流れ石だね?最後にいいとこ、持って行ってしまう。俺のダンスは何だったんだ。一生懸命に練習をしたのに?」吉秀「流石、遊び人最後に泣かせる何て、憎いよ。この年増泣かせ。今日はウヰスキーストレイトでごちに成る。散々歌練習をしたのに、最後にいいとこ持って行かれた。いい勉強になりました。」と言い家に着くと、用意しておいた酒で乾杯し、冗談が始まり和やかなパーティーが始まる。

      氷柱花

 クリスマスも終わり、今年も残すとこもう僅か。勝洋、高尾山薬王院に、一年間、遊ばせて頂き、お礼を言いに出掛けた。お参りの後はもう一つの楽しみが、この時期に見られるかもしれない、氷の花が出来る。それを楽しみに気温がぐんーと下がった、良い天気に出掛ける。雨が降っても、雪が降ってもダメ、兎に角気温が低く、晴れた日が良い。霜柱の花です。その為気温が上がると、解けてしまう、儚い寿命で枯れた植物が、水を吸い上げて出来る自然の芸術品を写真に、収めたく日の当たらぬ北斜面を見て歩く。とはいうものの、毎年出来る場所は決まっている。近年都心では霜柱を見ることも、霜柱の上をザクザク歩くことも無い。昔は学校の校庭も冬に成ると、良く霜が降り、朝の内校庭が霜でバリバリに也、日中に成ると、霜が解けてぐちゃぐちゃに也、田んぼの様に成った。それが小、中の思い出で有る。目当ての場所に来てみたが、氷の花は有ることは有ったが、写真に取るほどのものは無かった。これも自然又年明け5日過ぎにでも、新年のお参りに来た時にでも、又見に来る事だし、温泉に入って帰る事にした。

 年が明け、七草も過ぎ、鏡餅も壊し、細かく砕き、日向で干し、揚げ餅にして、新年会を開く。皆の都合を聞くと、10日が良いとの事で、10日6時で決まり、各々が酒を持ち込み、新年の抱負と希望、新ネタ、その他気が付いた事を言い合い、慰問先で喜んで貰える様に、誰しもがボランティア活動に恥を捨て、夢中に成れる喜びを皆が持って居た為、もめることもなく、お年寄りから生きるすべを教えて貰い、今日に至るわけで、私たちが今日、平和で贅沢に生活が出来るのも全てが、みんなお年寄りのお陰で有る。と勝洋は思い、皆に協力をして貰い、今年も健康で有るよう、山登りと歌と花と野菜作りをし、自分が耄碌ないように頑張って慰問に行。勝洋先ずは今年の出し物を話す「今年早々、下北半島のおじいちゃんに会いに行くので出し物が、すみだ川にしょうと、思うのだが、協力して貰えるかな?」豊が「どんな事をすればいいの?」勝洋「豊ちゃんが、まるいメガネをかけ、直立不動ですみだ川を歌い、吉秀ちゃんが田中絹代の台詞を。」吉秀「あの、あなたが二十歳、私がイタチ?のあのセリフ?」勝洋「そう。あなたが二十歳、私がイタチ。そして俺が、女ものの着物を着て、踊る。これどう」豊「俺は良いけど。」吉秀「俺田中絹代みたいな、女の声でないよ。」勝洋「敏ちゃんなら出来る。めっぽう色っぽくやれるはず。」吉秀「じゃあやりますか?俺も日本髪かつらをかぶり、お化粧し、紅を付け、色っぽく、下北じいちゃん口説いてみたい?」勝洋「じいちゃんビックリして死んじゃったら大変、やるなら死なないていどに頼む。」吉秀「お熱いのがお好き、見たいに、逆に口説かれたらどうしょう?」勝洋「その時は、映画の様にすればいい。」吉秀「財産が入ったら、皆にやらない。俺。独り占めする。」等といっもの場合羽話に花が咲き、今年も相も変わらず皆の健康と幸せを乾杯し、豊に寄る乾杯を皆で歌い新年会を閉めた。

          梅の花

 昨年12月20日に紅梅が一輪花が咲き、元旦には5輪の花を付け、10日に成ると紅白で15輪の花が咲き、20日に成ると、紅梅が終わり、ピンクの梅が咲き、来月20日頃に成ると、南高梅が毎年見事に花を咲かせる。知らない人が写真に撮ったりして暮れたり、嬉しい限りです。他にも花が咲いているときに、見知らぬ人から、何時も綺麗に咲かせますね?と言われると、お袋の楽しみは、これだったんだと知らされる。人に癒しを、花が人の心を感動させてくれる。私たちは音で人に感動を与えようと頑張るが、花は無言で人に感動を与える。料理人は美味しい物を作り、感動を与える。人それぞれに感動を与え、生きていく励みに精を出す。感動に乾杯。

そしてこの寒い時期に土作りに励む。この時期仕事がしやすい、良い土壌が出来れば後は、綺麗な花が咲き、野菜も出来る。故に公園に行き、枯葉を大量に貰い、米糠を貰い、鶏糞を貰い、貝殻を入れ、後で工藤石灰を入れ、なるべく中性に近づく様に、リトマス紙を使い土を見る。小学生の理科の実験結果の要で以外に楽しいものである。これからの時期木瓜の花が咲き、椿、桜、などが次々と咲くので、辛く寒い冬も花に力を貰う。

          日舞

 勝洋、次回に備え日舞の練習を、youtubeやテレビで見て習、蒲鉾板に家元勝洋流日舞とし、玄関に飾り、受けを狙った。

先ずは5分で学ぶ日本舞踊の基本、日本舞踊花柳流教室、藤娘坂東流、夜桜お七、等色々見、あとは一ものアドリブと適当プラスお笑いを交え、役に成り切る。

ここが勝洋の特技。何となくまとめ上げる。不思議なことに先生に付いて習うより、独自でやる方が上手い。何と不思議な人である。子供の頃から落語、演芸、ダンス日舞、詩吟、浪曲、等のレコードが有り、雨の日に兄と二人で蓄音機をいじり遊んでいた。帰らぬ遠い思い出。良く喧嘩をし、口を利くものかと思うが、直ぐに口を聞き遊ぶ、今生きて居たら酒を飲み、喧嘩をし又一緒に酒をのみ、あでもない、こでもないと言っては小さなことで言い合い、馬鹿だ、チョンだと言ってもめる。兄弟ていいな。我が家の人間は先祖代々芸事が好きな家系図である。

妹も母親の影響で日舞を習、娘道成寺、八百屋尾お七、藤娘、手習子、お祭り、と言ったことを発表会と題してやって居たことを思い出す。今思えば母親の貧乏人の女の夢であったはず。綺麗な着物を着て、日本髪を結い、白く塗り、紅を指し、人前で踊ることが母親の夢で有ったはず。そんな日舞を勝洋流のコントで、新年会の慰問先の施設でバッチリとやることに。

勝洋、すみだ川を演じる前に、東海林太郎の名言集をyoutubeで見て納得。流石に東海林先生長い間、歌の世界を生きた人。今も久保田城に銅像が残され、秋田人の誇である。それをどお演じるか?が・・・・・・勝洋の見せどころ。

          慰問新年会

 遂に来た。新年会の初踊り。めくりにすみだ川と題して、カーテンが開き、勝洋が仮装し、後ろ向きでしゃがむ。伴奏が始まり、ロイドメガネを掛けた、豊が直立不動で歌い出す。それに合わせて踊り出す。流石好きこそ物の上手なれ。と言った具合に中々堂に入る。しかし台詞で吉秀緊張の余り、声がひっくり返り、ドット笑いが起き勝洋つかさず、ユーモアを入れ踊る。と更に笑いが起き、終わると思って居た以上に拍手喝采に也、怪我の功名に也、家に帰ると、皆で大笑いした。人間万事塞翁が馬で有った。勝洋これからも楽しく失敗を恐れず、直ぐにリカバリして、見ている人からはこれは芝居だと思わせれば……それはすごい。それにはドンドン失敗して場和夫踏むしかない。と言い乾杯を。いつもいつもプラス思考の反省会で有った。 

           お寺からの依頼

 近年お寺離れが深刻に也、特に若者が寺に余り来ぬ様になり、墓じまいや、無縁仏に成る傾向も有る。それは色々な理由「わけ」が有り、やむを得ず寺に来ることが困難に也、寺離れが深刻なことになっている。その他にも寺離れの理由は有る。そこで勝洋達の慰問活動を何処かで聞き、寺の大広間で何か余興をやってもらえないか?と・・・・・頼まれた。勝洋も近い内に寺に行事だし、ご先祖様も世話になって居ることだし、何か役に立つ事ならお手伝いを、させて頂きます。と返事をし、日にちと人集めをして貰い、お上人の法話と、お上人が若い時にギター演奏をしていたと言うことを聞き、一緒にコラボを考え、勝洋の案でベサメムーチョと吉幾三のありがとうの唄とこの街でを、歌うことにした。お上人も人前でお経を読んだり、お話をすることは慣れているが、人前でギター演奏をし、歌う事はしておらず、その日から特訓を始めた。スペイン語でベサメムーチョを歌う事に、少しばかりの恥じらいが有るようで。ベサメムーチョとは沢山キスして、と言った意味で、お上人としては、恥ずかしいと思われ、最初は乗りきではなっかた所を、クラッシックギターの腕と、お上人の声の良さで勝洋に押された。勝洋は普段お上人の堅苦しい性格が、若者や子供がとっつきにくい、親しみ憎い、特別の人で有り、気軽に話せず、相談にも生きずらい、近寄りがたい存在で有るがため、勝洋の思い切った考えで、親しみ易いキャラに変える事にし、何でも相談に行ける明るいお寺になるように考えた。

 法話とコンサートと題して、日曜日の午前10時から始めた。お上人の挨拶そして法話、そしてコンサートが始まる。先ずはベサメムーチョから、メインボーカルをお上人が歌い勝洋と豊がバックコーラスをやることにし、ソンブレロをかぶり、ポンチョを着、黒いテープでもみあげを作り出ていくと、普段のお上人とは違い、ドット笑いが起き、親しみ易く、好感度を上げた。 歌い出すと普段から毎日のお勤めでお経を読んでいるので、声が通り腹式呼吸で鍛えた歌は中々のもので、歌が終わると沢山の拍手喝采で、お上人もにんまりして嬉しスであった。次にありがとうの唄を勝洋が歌い、この街でを皆で歌い盛り上げた。すると観客の中から、歌いたいと名乗りを上げてくれた人がいて、歌って頂くことに。生まれは岩手出身歌は南部牛追い、聞けば民謡大会で二位を取ったとか?上手いはずで有った。次に中年の女性がオカリナ演奏を、曲は故郷。お寺で聞くオカリナの音は、心に響き癒しとなり、来た観客も又来たいと言う気持ちにさせた。そして最後に勝洋、お上人に衣装を借り、坊主の桂をかぶり、木魚うを叩きアメイジンググレイスを歌った。すると皆に大受けし、アンコールがあり二度目はお上人にやってもらうと更に笑いが起きた。

そして最後にお上人から終わりの挨拶が有り、又何時かコンサートを開きたいので、そのせつは色々な方をお誘いしてきていただくようにお願いします。本日はお忙がしい中来て頂き本当にありがとうございました。と挨拶が有りコンサートを終えた。

           ロシア音楽

 勝洋次なる挑戦はロシア音楽に決めた。黒い瞳、百万本のバラ、カチューシャの三曲に決め図書館に行きCDを借り、歌詞はコピーを取り、練習をすることにした。

勝洋は以前からバイオリンの練習曲として、カチューシャの譜面は持っており、ギターとバイオリンで弾いていた。カチューシャは勝洋が若い時に、アル・カイオラ楽団がエレキギターを取り入れ、編曲し一世を風靡した。ロシア歌曲。youtubeで調べるとカタカナで歌詞が書いてあったので、勝洋は写し取り、練習をした。

 百万本のバラはロシアのアラ・ブガチョワが歌ったオリジナル曲で日本では加藤登紀子が1987年にヒットさせた。ラトビアの悲劇の歴史が描かれた歌謡曲を勝洋が仮装し、歌う事に挑戦する。何時もながら選曲は良いが?果たして結果は・・・・・・・?先ずは、黒い瞳をギター演奏で弾き、歌はデュエットで伊藤久雄と黒木曜子風に。カチューシャはバイオリンで弾き、歌はロシア語で、百万本のバラはロシア語で歌い、衣装は仮装してやることにした。youtubeで歌詞をスマホで移し、必死で覚えた。が アラ・ブガチョワには程遠かった。

 ある日の事豊、が勝洋の家に尋ねて来た。話しによると木場公園で有った、女子チームから「カラオケパーティーをやりませんか?」と連絡が有り、来たわけで?勝洋「日にちは何時?」「決まってないそうです。」勝洋「場所は?」豊「うちらで決めていいみたい。」勝洋「なら簡単。いっもの店でどうだ。貸切で?」豊「俺もそう思い、それらしいことは言ったんだ。」勝洋「俺今、ロシア音楽にハマっていて、何処かで披露しょうと思って居たとこ。これで発表する場所を得た。一丁やったろかい。面白く成って来た。明日から特訓だ。」豊「今度はロシアですか?何時もながら良く次から次干支気が付きますね。見上げたモンだよ勝ちゃんふんどし、だね?」勝洋「そーよ。おいらのふんどし錦の袈裟でできている。そんじょそこらの屋根やのふんどしとはちょいと違う。」豊「大したモンだね勝ちゃんのふんどし」勝洋「あたぼうよ。」豊「なんですか?あたぼて?」勝洋「じれてな。当たり前べらぼめをちじめて、あたぼよと言うの。」豊「勉強にならました。然し余り役にはたちそうもないですね?」勝洋「そんなにおいそれとは役にたたん。俺なんか何の役にも立たず60年以上生きて来た。そこで今少しでも人の為に何か出来るかと思い、ボランティアの真似事を?」豊「人の事言えませんね?私も自分と家族のことしか出来ません。ボランティア活動も自分が好きで、歌いたいからやっていることで、自分が一番楽しんで居る」「それで、いい荷駄。自分が楽しくなけらば他人も楽しくない。」等と話、夜も遅く也帰って行った。

            パーティー当日

 11時半には全員が集まって久し振に挨拶を済ませ、12時に也乾杯をし、豊が音頭を取り先ずは乾杯の歌を歌い、次に女子チームが二人で、手作りの衣装でピンクレディの歌と振り付けでにぎわした。かなり色々な所でやって居るようで、中々道が入ったもので、男子チームは見とれていた。次も女子が鼻を黒く塗り、北島三郎の与作を歌う。勝洋。この人結婚しているのか?していないのか?気になった。多分未婚だと思った。然し慰問の時に一緒に出て暮れたら良いキャラしていると思い、歌が終わると、勝洋話し掛けた。すると直ぐにOKがでた。吉秀の番に也、エルビスプレスリーのこの胸のときめきを、を歌い、幹久があなたのすべてを歌い、女子がキャンディーズの春一番とザ・ピーナッツの恋のバカンスを歌い、豊が長渕剛のとんぼを歌い、勝洋の番が来た先ずは、バイオリンでカチューシャを弾き、二番を日本語で歌い三番をロシア語で歌った。流石人のやらないことをやると、人は一目置かれた。次に幹久が女装して、みだれ髪を披露した。が歌が下手でリズムも外れ、そこが逆にバカ受けをし、拍手喝采に成る。勝洋やられたなと思い、念入りにバッチリメイクをし、付けまつげを二枚付け、胸も二重に盛り、特注のドレスを着、力が入り愈々本日の18番の百万本のバラを披露した。すると誰もがききほれてシーンと也、歌い終わると、拍手喝采に也アンコールが起きた。そこで勝洋が用意して来た黒い瞳をギター演奏と歌とを披露した。すると皆が立ちあがり拍手を贈った。勝洋皆に感謝しお礼を言い、最後に我が良き友よを合唱し、パティを閉めた。

            アビーロード

 店を閉めた歳、妻が胸の腫瘍を取る手術をした。結果はOK一安心。この三年毎年誰かが入院した。勝洋身も心もズタズタそんな時どうしても行って置きたい所が有った。

そこはアビーロード。勝洋の青春時代。1966年6月29日遂に日本にやって来た。午前3時39分ものすごい勢いで日本中が祭り。勝洋16歳もつべきものは友。考えもしない所から偶然にビートルズのチケットが4枚手に入り武道館公演に行く事が出来た。夢の30分何が何だか分からない内に終わってしまった。本当に夢の様な出来事であった。

その夢の続きを、妻の快気祝と勝洋の亡き兄と亡き友を忍んでアビーロードに行。

そこはビートルズの聖地、三人の家族ずれが横断歩道で写真を撮影していたので、勝洋家族三人の写真を撮ってやる。すると皆で撮ろうと言われ、ご一緒させて貰い、話をするとアメリカから来たという。ニューヨーク生まれで、子供の頃にニューヨークでコンサートを見たと言う。歳も勝洋より一つ年下で、大のビートルズフアンで話が弾み、その後ロンドンの町を一緒に観光したり食事をしたり、ハードロックカフェに行き、ジョンレノン直筆のイマジンの詩のメモを見た。

流石天才直筆のメモを見て分かった。何か偶然に天から降りて来た言葉を、近くに有ったメモにスラスラと書いたと思われる直筆のメモ、卑しいかな、このメモ、オークション に出したら,いくらで落札されるかと考えた。嫌ですね?貧乏人の考えることは。然しあの名曲がこんな小さなメモ用紙にスラスラと思い浮かんで書いたとは?その他日本に来た時の日本航空のハッピーも懐かしく思い。その他にもスターの使用したギターなどが沢山展示されていた。

その後マイ・フェア・レディの舞台コベェントガ―デンに行き、見学した。夜に也、アメリカ人の子供デュロウがお腹が空いたと言うので?何が食べたいか聞くと、ワンタンが食べたい。と言ったので、ロンドンに有る中華街に誘い夕食を食べ、連絡先を交換し、プレゼントを贈る事を約束し、明日はお互いに帰国。いつかニューヨークで会える日を約束し、別れた。

日本に帰り早速リエ、お手製の世界に一つの袋帯でこさえたリックと着物で作ったドレスシャツ、帯で作ったハンチング帽、その他柿の種、日本茶等を贈った。

暫くするとアメリカ・デラウェアからマイク・プライスが色々な物を送って暮れた。その中に何とビートルズの日本武道館公演のDVDが入って居た。その他にも記念アルバム、その他ビートルズのグッズ等色々な品が入って居た。   

勝洋直ぐに海外文通と海外分通ハンドブックから文章を抜粋して文章を作り、エアーメイルで送ると、今度はエアーメイルで長文が届いた。

勝洋頭が痛くなる。辞書を引き調べるが、分からない単語が有り四苦八苦する。そんなやり取りを何回かしていると、娘がニューヨークへ行と言う。そこで勝洋娘がニューヨークへミュージカルを見に行と、手紙を送ると、いつ来る?ホテルは何処?名前は?年は?等と書いてきた。そこで娘の写真とホテル日にち、を書いて送ると、ホテルに向かいに行と言う。そしてディナーを一緒に行こうと誘ってくれた。娘も大喜び、ニューヨークに一人旅。誰も知り合いも無く、言葉もろくに出来ず不安ばかり、そこに来てのアメリカ人の知り合い、勝洋プライスファミリーに感謝致します。と手紙と贈り物を贈った。

            ニューヨークで

 ニューヨーク一人旅。着いた翌日の夜6時に、プライスファミリー三人がマキの部屋に迎えに来てくれた。そして予約をしておいた店に招待され、ステーキをご馳走に也、会話が弾む。『ドュロウ・プライス8歳、この子は可愛い男の子。明るい物怖じしない性格。マキにとっての良き先生」ドュロウ早口で一人、しゃべくりまくる。

マキひっひで聞くが、初めてのアメリカ人の会話のスピードに仰天。すると父マイクが分かり易くスローテンポで優しい英語で話をしてくれた。マキ、ドュロウ8歳に 圧倒的に感化される。ドュロウの習い事、空手道、ギター、ドラム、ピアノ、ボーイスカウト、アイスホッケー等多彩な習い事。ギターテクニックは子供ながらプロ級。父マイクもドュロウに大きな期待を持って居た。食事の後音楽を聞きに行き、ワインを飲みながら、マキの趣味を聞いて貰う。先ずは絵、映画、音楽、カラオケ等を紹介するとドュロウが描いた絵を見たいと言われ、帰ったらドュロウに描いて送る事を約束し、ホテルまで送ってもらい、今度は家族で来いと言われた。2週間の旅も終え、帰るや否や英会話教室に通う事に成る。マキにとっての初の先生に感化される。時間を見て和、マリリンモンローの似顔絵を描く。出来上がるとそれとドュロウのステージ衣装を勝洋がデザインし、リエが縫製した。リバーシブルでスタンドカラーで表に大きな音符の絵が、裏には細かな音符の絵が、ひざ下20センチの長めのステージ衣装を作り、それと勝洋が手作りの大きな絵皿と、日本の絵ハガキ、切手、日本茶等を入れ、それと大事な礼状を書き、贈った。

  すると然程日にちもたたず内に、エアーメイルが届く。又もや長文。辞書を引いたり、ヤフー翻訳で調べたり、知り合いのポールに聞くが、余り日本語が分からず苦労する。然しドュロウのからのマキ宛の手紙に、絵が上手い、続けて書くようにとの文が書かれて有った。8歳ドュロウ先生のお言葉。その後何年かして本格的に絵を描き始め2度二科展で入選した。夢はあきらめないこと。

           ビデオレター

      次なるレターはビデオ。これなら分かり易いと思いビデオを編集し送る。暫くして贈り物が届く。ビデオレターと文章に寄る質問が。ビデオは分かり易く、住んでる家

、家の中、親子でのギター演奏。親戚の女の子の歌。これが凄く上手い、いい声。ドュロウがプロのミュージシャンと共にステージに上がり演奏。兎に角圧倒される。 因みにマイク・プライスの仕事はアメリカのトヨタで仕事をしている。生まれはニューヨークの島で生まれたとか。妻シンディの生まれがデラウエアとか。ドュロウは遅く出来た子とか。可愛いのが良く分かる。それにドュロウが良く答える。素晴らしい家族である。

その後もちょくちょく手紙やらはがきやら、DVDなどもやり取りを繰り返す。本当に有難い友で有る。

そして遂に勝洋ファミリー3人がニューヨークで会う事が出来た。時間道理にホテルに会いに来てくれた。マキがフロントに行と時間道理に来た。其のあと部屋に来て貰い。お見上げの交換をし、日本茶を出し30分程会話をし、マイクが予約をしておいた店に行き、ディナーを食べ、その後ミュージカルのオペラ座の怪人を見に行った。 

次の日、マイクがニューヨークの町を案内してくれた。勝洋がメトロポリタン美術館に行きたいと言うと、今日は休館日と言ったが、中に入れずとも外観だけでも見たいと言い。案内して貰いその後、セントラルパークに有るストロベリー・フィールズ・フォーエバ。メモリアルモザイクの「イマジン」ジョンレノンの記念碑を見学した。其のあとマイクがジョンレノンが射殺された現場を、案内してくれた。何とも言いようのない寂しい気持ちに成る。ジョンレノンが好きすぎた結果の事。

何とも言えない複雑な気持ちに。その後公園の中を歩き映画で見た場所や桜や、リスを見た後、のども乾き、少し疲れたので、ニューヨークで一度泊まることはできないが、お茶位なら出来ると思い憧れのホテルプラザホテルに行。因みに映画ホームアローンの舞台になったホテル。映画の最後のシーンで父親がケビンのホテルの明細書を見てケビンと大声を上げる。其のとうーり6人でイングリッシュティのセットの料金が一人約日本円で4500円お茶で良かった。その後も色々な所に案内されたがB.Bキングブルースクラブ&グリル。スタジオに案内されランチをご馳走になる。その後も色々な所に案内され夜はレストランに誘い、その後ジャズ聞きに行き、ホテルまで送ってもらい、マイクも仕事が忙しい為翌朝早く、客との待ち合わせに帰った。勝洋家族一生涯忘れる事の出来ない良き旅行をした。 家に帰るや否やマイクに電話を入れた。そして礼を言いまたいつの日か会える事を楽しみに電話を切り、プライスファミリーの服の寸法を聞いたので、着物地でドレスシャツを作り送ることにした。

             最後の家

 勝洋、最後に入る自分の個室を作る事にした。萩から土を取り寄せ、手びねりで作る事にした。先ずは土を菊練りし、底に成る部分を平らに伸ばし、焼きあがると2,3割がた縮むので大きめに作る。其のあと粘土を紐じょうに伸ばし、そこの部分から張り付けるように、巻き上げて、上に上にと巻いては張り付け、スキマの内容に先ずは壺を作り、蓋を後から作り、暫く乾かす。其のあと素焼きをし、其のあと釉薬を塗り、本焼きをする。

暫くして、焼き上がりを見るとなんと、釉薬が流れ、壺の部分と蓋の部分が釉薬の流れたことで蓋がくっいており、蓋が開かないでは無いですか?何処から勝洋入ればいいのか悩んだ。

次によせばいいのにプライスファミリーが日本茶が好きなのを知って居たので、急須を作り送る事を考え、急須作りにチャレンジする。今度は電動ろくろを使い、土を練り、先ずは急須の胴体部分を作る。次に注ぎ口を作り、最後に蓋を作り、暫く乾かし、削り出しをし、サイズの調整をし、胴体に注ぎ口の穴を開け、注ぎ口を付ける。次に胴体と蓋を削り出し、微調整を取り、乾燥し、素焼きをし、釉薬を塗り、本焼きをした。二日後取出し、見るとまあまあの出来ぐわい。これならマイクに送れるかと思いきや蓋を開けようと設楽?またもや蓋がくっいて開かない。これまた失敗。とならば手びねりで、抹茶茶碗を二つ作り、抹茶と柿の種、羊羹、落雁、八つ橋、高橋竹山のDVDと羽織を入れ送った。

そして暫くすると、マイクからビートルズの記念の限定1000枚のガラスの絵皿にAll You Need is Love と書いた絵皿が届いた。勝洋これにはたまげた。

勝洋が作った抹茶茶碗が、限定1000枚のビートルズの記念の絵皿に。勝洋悩む。直ぐにE-メールを送ると、直ぐに返事が来た。すると、マイク何時も送って貰う物に、何時も驚かされる。本当にありがとうと言われる。勝洋本当にあなた方の親切に感謝致します。とメールを打ち、いずれ何かの形でお返ししたいと思う。

  

      妹癌発覚

 妹が勝洋の家に尋ねて来た。様子が可笑しいので聞くと、健診で癌発覚。一週間ご手術をする。と言われ、まさか大丈夫なのか?と聞くとがん研究センターでするので、大丈夫だと言い、見舞いは良いから、お寺さんに行ってお参りしといて、と言われそのとうりにした。

手術が終わると義理の弟が、結果を知らせにやってきた。結果は腫瘍が細かく数が多いため取れず、放射線治療で取り除くとか?開いて見て直ぐにふさいだ。とか?

なので、入院は短く、一週間で退院。暫く家で薬を飲み放射線治療法の為入院。その後退院して来たが、顔色もよく、痩せた様子もなく明るく振るまう。勝洋先ずは一安心。兄34歳で亡くし、友逹19歳で亡くし、28歳で交通事故で友を亡くし、4か月後、姪6歳で事故で亡くし、その後31歳で姪癌で死亡。その他にも何人かの友達知り合い、そして数年前母親を亡くし、人の死はもう沢山と言うほどに見て来た。何が何でも妹は先に行っては成らぬ。と勝洋心の中で叫んだ。

          アニバーサリーソング

 勝洋辛い時、悲しい時、そんな時、家に籠って居ると余計に辛くなる。そこで慰問に出掛ける。慰問先は何時も明るくにこやかなおばちゃん。ダンスでご主人と知り会い、恋に落ち結婚。平凡な人生。時に二人で出かけ、ダンスをしたり映画を見たり、食事をしたり、クルーズ旅行に出掛けたり、子供が居ない分妻に優しく接して暮れたご主人。そして二人が愛した歌。アニバーサリーソング。この歌を聞くと二人は黙って席を立ち、踊りだす。映画の1シーンの様に。勝洋今日はタキシードに着換え、ジョルスン物語の様にアニバーサリーソングを感情を混めておばあちゃんの為に歌った。その後はアンチェインド メロディを歌う。おばあちゃんの目に涙。そして、あなたのすべてを、最後に吉幾三のありがとうの唄を歌い、おばあちやんにお礼といつまでも元気に長生きしてくでさい。近い内に又皆で来させていただきます。と言い帰って行った。勝洋心の中のもやもやが、僅かの時間で有ったが、癒された。

          カワセミ

 妹天気が良く、体の体調が良い時には散歩に出掛けた。顔色も良く元気に話す様子を見ると一安心。今日カワセミを見たと言う。行って見たら、と言われたので、カメラを持って天気の良い日にカワセミを探すが、一度もお目にかかれず、メジロ、鴨、バン、サギ、カワウ、その他冬の渡り鳥しか見ることが出来なかった。

河津桜にメジロが良く、蜜をすいにくるが、勝洋一度も家の近くではカワセミを見ることが出来なかった。

行徳の塩を運ぶ「塩の道」新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路が今は千本桜が2キロ川の両側に咲き乱れる。一番先に河津桜が咲くとメジロがやって来る。

勝洋青空の日には毎回カメラを持ちメジロを撮影に出かける。次に寒緋桜が咲きここにもメジロがやって来る。梅の木にもやって来るが、ソメイヨシノが咲くころにはメジロの姿は無く山の方に行ってしまう。渡り鳥も行ってしまうが?よそに行かずヒナをかえし、一年中新川に住み続ける鴨も居る。親子で泳いでいる姿は、癒しその物立ち止まり写真を取る人が沢山居る。以前は川に近ずく人も居なかったが、今は朝早くから夜遅くまで、ジョギングをする人、ウオーキングをする人、釣りをする人、花見をする人、犬の散歩をする人、その他色々の人が集まる観光地に変身。死んだ兄も、親父、お袋も、ご先祖様も皆見たら驚くに違いない。

石垣島

 シニア割引で東京から飛行機で一番遠くの飛行場は石垣島で有るので、桜を見に行く事にした。羽田空港に行き空席を調べ、空きが有るので、行くことにした。

所時間3時間25分矢張り遠かった。飛行場からバスに乗り、離島ターミナルに行き、広告を見てレンタカーを借り、ホテルを探し荷物と車を預け、島唄ライブハウス安里屋へ行き、海の幸と、アグー豚を注文し、泡盛を頂く。暫くしてライブが始まる。先ずは三線と歌が始まり、ライブを楽しむ。が島唄の言葉が分からずいまいち楽しめず、泡盛ばかりが捗る。少し時間が経つと客が大勢に也、そこで沖縄伝統楽器三板「サンバ」を渡され使い方を習う。慣れたところでライブに参加する。歌、三線、太鼓、それにお客の三板でのライブの始まり。歌の意味は分からずとも、三板を持たされリズムに合わせ三板を叩き、音を楽しむ。これが音楽。暫くしてライブが終わり帰ることにした。そこで帰り際、三板を買い、他の店に行き、沖縄料理を食べ、酔ったところでホテルに戻り、風呂に入り布団に入るが、ここは石垣島、羽根布団が熱くて寝られない。他に掛ける布団も無く、布団を掛け無いと寒くて寝られず、掛けると熱くて寝られず。沖縄に羽根布団はいるのか?疑問に思った。

翌日車に乗り島の見物に出かける。先ずは川平湾。国の名勝に指定されているので見に行。シーズンオフの為観光客も少なく、閑散としている。

次に米原ヤエヤマヤシ群落に行き、見学をしさとうきびジュースを飲み平久保岬に行き、ホテルに戻る。島を一周したが、何処にもまだ桜は咲いて居なかった。

石垣島は桜の木がないのか、季節が早いのか、沖縄本島は1月から2月にかけ早咲きの寒緋桜が咲くはず。しかし島一周しても見られ無かった。時間を見計らい、飲みに出掛けた。島の特産品の夜光貝のさしみ、モズク、ゴーヤチャンプルー、アグー豚、沖縄そば、泡盛で良い気持ちに也ホテルに帰り寝た。

 翌日石垣港離島ターミナルに行き、竹富島に行。高速船で約10分、ブーゲンビリアと赤い屋根、石垣と水牛、白い砂浜、大きなお墓、綺麗な海。然し今は冬、誰も居ない海。歳折一人、土産の星の砂を買い、ホテルに戻る。見せが開いたので飲みに行き、後一泊するつもりが急遽明日帰る事にした。矢張り勝洋は山の方が向いているようだ。

翌日時間は早いが、部屋に居ても仕方が無いので取り敢えず、飛行場に行き、空きが有るか調べ、空きが有ったので、切符を手に入れ、レストランで時間潰しをする。

何時もながら、飛行場では退屈と時の流れの遅さに飽きが来る。そしてやっとの思いで、搭乗し飛んだが石垣島から羽田は矢張り遠かった。シニア割引でも、もお良い近くにすることにした。

          花の手入れ

 今日は体の体調も良いと思われる。花に水をやり、手入れをしている。良い事だと思い、話を聞くと良く成っている。と言うので一安心。何より健康が一番。

映画のDVDが有るので見るか?と尋ねると、録画した映像が沢山有るのでいいと言われ、何か食べたい物が有るか?と尋ねると刺身が食べたい。と言うので翌日市場に行き魚を届ける。食欲が有る事は良いことだ。食べて早く元気に成って、花づくりに勢を出して貰いたい。

翌日久し振りに、マイクにメールを入れる。直ぐにメールが来た。翻訳と辞書で長文を訳すが?良く分からない所が所々出て来る。如何やらシンディのお父さんが、入院したらしい。然も癌らしい。シンディは一人娘で、母親と父親を見ているようで有る。毎日病院と母親を訪ね、疲れも来ている様子。休みの日には、家族三人で父親と母親を見舞いに行って居る様子。

勝洋老いの現実、厳しさ、誰もが平等に来る老化。体の痛み、筋力低下、老眼、歯の減少、耳の廊下、その他諸々全てが悪く也、治り難く也、苦しみぬ気、地獄を通り抜け最後に極楽へ行。生まれた者は皆、平等に死がやってくる。勝洋最後の住まい、安いプラスチックの家か?納得する。

 妹明日から又一週間の、放射線治療法に行。ここ数年目出度い話はとんとない。あるのは誰誰が亡くなった。とか入院中とか、通院中とか、具合が良くないとかその他諸々、歳を取ると笑う事が少なくなる。半面嫌な事が増える。そんなこんなで、メンバーに連絡を入れ、皆でカラオケに誘うが一人、ヘルニア手術で入院。これも歳の精、何処も悪く無い人て、それだけでも幸せなのかもしれない。人数は一人減ったが、来られるメンツで陽気に愉快にやることにした。

先ずは豊、黒の舟唄、次いで吉秀が赤色エレジーを歌い、幹久があなたのすべてを歌い、旭が君こそわが命を歌い、勝洋現在練習している曲の中からアンチエインド メロディのエルビス風に真似た。何時もながら盛り上げる。その後酒も回り、陽気に進む。その後時代おくれ、夕焼け雲、心凍らせて、まわり道、二度目のマイクが勝洋に又もやエルビス風にマイ・ウェイを歌った。勝洋最後に大きな声で歌い、ストレス発散に成った様だ。

   

       メール

 暫くしてマイクからメールが入り、義理の父が退院したとの事。難波ともあれ良かった。勝洋今までの慰問先での受けた映像、歌、踊り、ダンス、女型、二人羽織等の面白い映像を抜粋し、干し柿、干し芋、煎餅等日本のものを一緒に入れ送った。

 その後2か月が過ぎたころ、マイクから小包が届く。中を開けてみると本とDVDが入って居た。本の内容はマイクが自費出版したもので、とても厚くどう見ても訳す事が無理と諦め、マイクにメールを入れると、如何やらマイク家のルーツを書いてあるらしいが、とても分厚いので積読事にした。

DVDはホームパーティーの快気祝での、映像がとても見事な演出で、マイクとシンディが二人でプロデュースしたもの。流石パーティーを数をこなすお国柄見て居ていても感心する。流石ショービジネスの町に生まれたニューヨーカー勝洋良い勉強に成った。

 妹も退院はしてきているが、家の中から出てこない。矢張り放射線治療法のせいか、髪の毛のせいか?いずれにせよ余り体調が良くないのであろう。10回の入院らしいので、これからも病気と、自分との闘い。体調が良く成ったら友達とカラオケにでもいき、好きな歌を歌い気晴らしでもして、一日でも早く良く也、娘と一緒に旅行にでも行く事が良い。 陽気が良く成り、土いじりには最適な時期が到来。勝洋とリエは土を耕し、種をまき水をやって居ると、妹も家からでてきた。すると、チューリップの球根をプランターに植え水をやり、花の咲くのを待った。妹はチューリップの花が好きで毎年植替えをしていた。

勝洋今年はモロッコインゲンの種をまき、発芽を待った。それから暫くして、妹が又入院した。一週間も過ぎたころ、弟が勝洋の家にやってきた。神妙な顔をして、玄関に入り話をする前に、「勝洋不吉な予感が?」した。『実は医者が言うには持って一ヶ月。既に癌が全身に転移していて、手の施しョウがない。と言われました。」

勝洋「やっぱり駄目だったか。今まで色々ありがとう。後は成る丈苦しまないように頼む。」『わかっています。この後又病院に行き、先生と色々話が有るので、病院に戻ります。」「よろしくお願いします。」家に戻り車をとりに行き病院に出掛けた。

勝洋の妻リエと勝洋の妹、そして義理の弟は、三人同じ学年で有った。勝洋。妹から癌で手術すると言われた時から、最悪の事も考えては居たけれど事実残り一ヶ月と言う事を聞かされると、何とか奇跡が起きないものかと、佛単を拝む。

それからの一月針の筵に座る思い。辛く長くやり場のない気持ち。電話が成るとビックリオドオド。仕方のない事。全ての大事な人の不幸は電話からの連絡。何時も急な電話。然も皆若い人。何度経験しても辛く悲しい。こんなに辛いのなら、俺が先に行きたかったと屡々思う。

一月が経ち、容態は以前変わらず、何の変わった様子もなく。以前と同じとの事。勝洋奇跡が起こるかもしれない。と こころの中で呟く。一週間が過ぎたころに、弟が今日か明日と言いに来た。勝洋覚悟は出来た。ダメとならば余り頑張らず、苦しまず、亭主、子供にも長く苦労を掛けず、安らかに成仏して貰いたいと勝洋心の中で呟く。その後亡くなるまでの、4日間広い個室に家族4人で夜は過ごし、5日目の夕方5時13分に亡くなる。折しも妹が植えたチューリップの花がプランターの中で、色とりどりに満開の花が、主の帰りを無言で待っていた。

9時過ぎになって無言の帰宅。その後勝洋チューリップの花を枕元に飾った。そして林芙美子の、花の命は短くて苦しきことのみ多かりき か?と心の中で呟く。

そして、最後に残るは俺一人か?心の中で呟く。いい奴ばかりが先に行、どおでもいいのが残せれる、ほーれた女が死んだよは、何を言いても愚痴になる、・・・・・と小林旭の惚れた女が死んだ夜は。を一人家の台所でひやざけを飲み、口ずさむ。その後お葬式も終え四十九日も終え、勝洋白馬三山に出掛ける。

新宿から京王高速バスで白馬駅へ行き、バスを乗り換え猿倉へ行き、白馬尻小屋で一泊し、翌日大雪渓を登り、ガラガラの道を急登し、高山植物の咲くねぶかっぴらを通り白馬山荘に一泊し、翌朝白馬岳に行き、杓子岳を通り、鑓ガ岳を登り、鑓温泉に入り、猿倉へ。大自然の中に居ると、人間の小ささが良くわかり、人の一生など極々小さいものに築かされる。人は死んでも魂は残る。そして生き続ける。そしてそばにいる。

勝洋、辛い時は山が心の傷をいやして暮れた。山に感謝。猿倉からタクシーを呼び白馬駅行き、高速バスで東京へ帰る。その日の夜は熟睡できた。翌日は気持ちの良い朝が来た。白馬三山ありがとう。然しきつかった。

 山の疲れも有り、DVDを見ることにした。1988年のイタリア映画二ュー・シネマパラダイスを見ながら考えた。なぜ勝洋は生かされているのだ?

幼いころ川で溺れ三途の川を見、運よく助けられ、その後も何度か死にそうに也、今日まで生きている。兄34歳で亡くし、妹62歳で亡くし、一番先に死ぬと思って居た勝洋が一人生きている。

今生きているのはなぜなのか?なぜ生かされているのか?今後どお生きればいいのか?呆然と二ュー・シネマパラダイスを見ていた。すると答えは映画の中にあった。

好きな事を一生やればいい。勝洋今までの生き方でいいのだ。悪い事をしなければ、人に迷惑を掛けなければいいのだ。大した男でも無くてもいいのだ。助けてくれた人に感謝し、自分の出来る範囲で、ボランティア活動をし、自分が先ずは楽しむ。ことに改めてしる。このまま元気が有るうちは、やることに喜びを改めて励む事にした。

          メール

 勝洋気持ちを新たにマイクにメールを送った。日頃慰問先に出掛け、何人かのメンバーで毎回志向を変えお客様に喜んで貰える様に努力し、仲間同士が健康で好きな音楽を何時までもやりたい気持ちで頑張っていることをメールに翻訳した分かりずらい文章で送った。

すると二日も設楽、マイクも義理の父母が施設に入り、そこにボランティア活動でメンバーを集め、慰問に行っている。と言うメールが届く。

勝洋、そのメールを見るとどうしても、シンディの両親に慰問に行きたくなりメールでマイクに家族でシンディの両親の施設に慰問に行き、セッションをして両親と施設に居る皆さんに見て貰えたら嬉しいのですが?とメールにしたため、送った。

暫くして、マイクから返事が来た。施設からもOKが出たので後は日にちの問題。飛行機のチケット、ニューヨークからの行き方。デラウエアでのホテルの手配等その他細かい打ち合わせを、その後メールでやり取りをし、行く日を決める。

プライスファミリーからのリクエストがメールで来ていた。以前送ったDVDを見て、勝洋の女形、日本髪かつらに着物姿、チャイナ服にラーメン丼、長ネギを持って歌と剣舞、スコップ三味線、その他色々なことが書いてきた。勝洋以前送ったDVDがここまで受けていたとは驚きである。楽器は持って来なくとも良いとの事。

勝洋嬉しくて、練習に励む。が楽器のテクニックではとても叶わない。勝洋は端からお笑いで皆さんに見て貰う事が何よりの喜びで有った。

勝洋はリエにお土産を作る様に伝えた。先ずは帯でリックとベスト、ハンチング帽、着物地で暖簾、それと帯でテーブルクロスを土産として、娘マキは、デュロウに感化され、二度二科展で入選をした。なので絵を描いて持って行くことにした。

勝洋はメールで用意して貰いたい物をメールで伝えた。スコップ、長ネギ、を当日に用意して貰う事を頼んだ。すると直ぐにメールが届く。ニューヨークへ向かいに行くとメールが入った。

次に飛行機チケットを予約をし、ニューヨークに何時に着くかを知らせ、ホテルの予約を取って貰う。

段取りが順調に進み、後はいざニューヨークへ行ばかりに也、勝洋は化粧の仕方、着物の着付け、「リエが着物の着付けは習、着付けの手伝いは出来る。」それに詩吟の間、夜来香の中国語の発音。少しでも似ている様に発音の練習。それに何と言っても本場での英語の歌。これはどうにもならない。困ったが生かし方ない。なまった英語で、笑いを取るしかない。笑って貰えたらそれだけで嬉しい。後は売れない噺家の決め台詞。「今日の客はダメ、俺の芸が分からない。」と言って安酒のんで寝る。か? 

       

       遂にデラウエアへ

 10年前に、ロンドンのアビーロードで知りあい、今日に至るまでの楽しい時間をプライスファミリーに感謝し、良き友を得た事に最大の喜びに居たり、そしてまた再たび再開できる事に感謝した。共に慰問が出来る喜びを全ての人に感謝し、生かされている事に何よりも感謝した。成田空港からニューヨークまでの長旅が、特に長く感じ、今日の飛行機は何時もの飛行機より遅いのではないかと思う次第。やっとの思いでニューヨークへ着き、荷物を受け取り出口へ行と、プライスファミリーが出迎えに来てくれていた。先ずは抱き合い喜びを分かち合い、デラウエアに行。ホテルにチェックインし荷物を置き、マイクが予約をしておいたレストランへ行き食事を済ませ、ホテルに戻り、明日からの予定を軽く話し合い、その日は爆睡。翌日はシンディの両親の居る施設の下見に行き、両親と面会。明日10時から来ると言いプライス家に行き、準備をした。先ずはスコップを化粧し、スコップ三味線を作り、立派な帯で出来た袋に入れた。次に長くて刀になりそうな長ネギを一本貰い、持ちてを作り、明日の剣舞の舞に用意し、明日のプログラムをマイクと打ち合わせをし、夕食を作りたいので、台所と材料の仕入れをする為に店を案内して貰い、見つけた魚で、鯛の塩釜焼きを、後はちゃわん蒸し、天ぷら。お好み焼き、肉じゃが、肉豆腐を、作り、明日のメンバーも集まりパティが始まる。料理も大変大受けし、酒もはかどり気分が良く成ったころ、マイクの友達がギターを持ち、スタンド・バイ・ミーを歌い出した。その後マイクもブルースをギターでデュロウと共に演奏した。そしてマイクがイマジン、デュロウがレット・イット・ビー、その他何曲か歌い、勝洋にも何かやれとの事で、フルートを借りイエスタデイと、長ネギを持ちだし、白虎隊を詩吟を入れて披露する。アメリカ人こんなの初めて見たので、真剣に見ていた。暫くして終わるとスタンディングオベーションをして呉れた。勝洋明日が楽しみになる。

          本番当日

9時半に現地入り、音合わせ出番の打ち合わせ、カメラのセッティング、衣装の順番等色々準備し、10時本番開始。シンディに挨拶をして貰い、デュロウがトップを飾る。

見事なギター演奏を披露した。次いでマイクがイン・マイ・ライフを歌う。勝洋の番がきた。紋付き袴姿で大事そうに三線を持ち、おもむろに中からスコップ三味線を取り出す。観客目が点に成る。勝洋の風雪ながれ旅の曲をかけ、音楽に合わせ歌と三線の代わりのスコップを叩き歌を歌う。終わると皆が笑い、拍手を、次にその衣装まま長ネギを持ちだし白虎隊の歌と詩吟をやる。これまた大受け。次いでマイクの友達Aが思い出のサンフランシス、次いでギターの先生がジャニーギターを披露した。

 その後、デュロウの従妹の女の子がフルート演奏をし、暫くして勝洋の番が来た。準備は整いチャイナ服にラーメン丼の姿で出ていくと。最初からバカ受け。顔を白く塗り付けまつげを付け夜来香のカラオケを流す。適当な中国語で歌い大いに客を笑わす。衣装の着換えの時間、マイクとデュロウと友達が交代で場を盛り上げて暮れ次に湯島の白梅の女形の変な踊り。これも受け、次いでエルビス、拾って来た縄のれんの衣装で、好きにならずにいられない。と最後にタキシードに着換え、アニバーサリーソングを心を込めて歌った。するとシンディの両親が涙を浮かべ喜んでくれた。勝洋下手な英語の歌が本場アメリカ人に感激を与えたことに。勝洋自身も涙を浮かべ、それを見ていた妻と娘も涙を流す。と それお見ていた人も涙流し、盛大の拍手で幕がさがる。

その後ドリンクパティが始まり和気あいあいと也、翌日ニューヨークへ行き、6人で夕食を取り、その後アポロ・シアターへ行。勝洋ショーの素晴らしさに納得。

勝洋次なる夢はここアポロ・シアターに出たいと言う夢。


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