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「麗奈……」

 もう名前を呼ぶことしかできなかった。すがる気持ちと、諦めも混じっていた。

「お願い、てっちゃん。わかって……?」

 三年間で初めて哲哉は一人床で寝た。客用の布団など持っていなかったのでタオルケットを適当に敷いた。ベッドは麗奈に譲った格好だ。今日くらいは一緒にベッドでも構わないと麗奈は言った。正直心が揺れた。しかし、意地が勝った。俺はもう麗奈と一緒に寝ていい立場ではない。

 朝起きた時には、麗奈の姿はなかった。麗奈が置いていた私物はほとんどなくなっていた。



 これで良かったのだ。

 まだ薄暗いなか、麗奈はパンパンに膨らんだキャリーを引いてずんずん歩いていた。一睡もできなかったので目の下のクマがものすごい。

 私物を置き過ぎていたみたいだ。お気に入りのTシャツ、最近見かけないと思ったら哲哉の部屋にあったとは。無理やり詰め込んだキャリーはパンク寸前だった。

 始発の電車で二駅乗った。駅から自宅までは十分ほどだが、部屋の鍵を開けるころには汗だくになっていた。

 玄関にキャリーを打ち捨て、ベッドにダイブした。

 枕に顔を埋める。近所迷惑になってしまう。限界だった。

 ――もういいよね。

 枕を顔に押し付け、麗奈は唸るように一人慟哭した。

 ずっと一緒にいたかった! いられると思ってた!

 猫、飼いたかった! 想像したよ。幸せだっただろうな。

 君の子どもを抱きたかった! 一人目は女の子、二人目は男の子で……。

 でももう戻れない。

 ごめんなさい、ごめんなさい……。


 一年前、医者に告げられたのは、ある婦人科系の病名だった。

 生理痛は昔から酷い方だった。高校の時は学年集会中に倒れて保健室に運ばれたこともある。

 生理痛は女性の宿命だと諦めていたが、暇つぶしのネットサーフィンをしていた時「生理痛はないのが当たり前」という記事を見つけ、麗奈はうろたえた。だるかったり腰が重かったりという程度ならともかく、薬で痛みを抑えるほどの症状は本来「ない」ことが正常らしい。

 ないのが普通なのに、動けなくなるほど酷い私は……? どこか悪いんじゃないの? と心配になって、麗奈はおっかなびっくり婦人科を受診した次第である。

 診断結果は、不妊の原因にもなる有名な病気だった。子どもができないことに悩んでどうしようもなくなって医者にかかり、そこで初めて病気でしたと発覚する例もあるらしい。必ず妊娠できないわけではないが、重症例だと確率は大きく下がる。

 麗奈は重症例だった。

 進行を遅らせるためのホルモン療法を行うことになった。

 どうやって自宅に帰ったか覚えていない。気づけば真っ暗な部屋で煌々と光るテレビを前に、うつろな目で座椅子に寄りかかっていた。

 テレビではひな壇で芸人がゲラゲラと声を張り上げている。

 なにがそんなに面白いんだ。

 リモコンをひっつかみ、テレビに向かって振りかぶる。しかし理性がすんでのところで投擲を妨げ、結局麗奈は電源ボタンを押すに留まった。

 哲哉に連絡する前に、もっと病気のことを調べておこうと思った。どういった薬や治療法があって、どのくらいの効果が見込めるのか。妊娠の可能性はどのくらいなのか。私自身がまだ病気をよく知らない。

 哲哉が子ども好きなことくらい明々白々だ。電車やバスに乗っている時、哲哉はよくお母さんの死角から子どもをあやしていた。イクメンという言葉も嫌いだった。自分の子どもなんだから育てるのが当たり前だろ、なにがイクメンだ、じゃあ女性はイクジョとか呼ぶか? 呼ばないだろ、というのが理屈である。

 哲哉には迂闊なことは伝えたくなかった。

 しかし、調べてから調べてからと思っているうちに麗奈は、哲哉に相談するタイミングがわからなくなってしまい、一人抱え込むことになる。

 ある日、不妊治療を行っている夫婦の旦那さんがネット掲示板へ書き込んだ文章をたまたま読み、麗奈は打ちのめされた。

『頑張れとは言えない。妻はもう十分頑張ってきた』

『もうやめようとも言えない。今までの妻の努力を否定しているように聞こえる』

 しかし、本当に旦那さんが参っていたのは奥さんの豹変ぶりだったという。妊婦さんとすれ違ってはデブじゃんとせせら笑う。子連れで仲の良い家族を見かけた日には、これ見よがしに子どもを連れ歩きやがってと髪を振り乱して泣き叫ぶ。心が痛む数々のエピソードが書き綴られていた。

 もし私が、子どもができないかもしれないことを哲哉に伝えても、哲哉はそれでもいいから一緒にいようと言ってくれるかもしれない。私の知っている哲哉なら、本心を押し殺し、子どもがいないならいないで幸せな夫婦の形があるのだと折り合いをつけて私を愛してくれるだろう。

 でも、私は自分の子どもすら抱かせてあげられないかもしれない女だ。ネットで綴られていた夫婦のように嫌な女になってしまうかもしれない。

 私のせいで君が不幸になるのが嫌だ。

 相島旅行の動画で子どもが映った時、全身がこわばった。止めろと叫びそうだった。そしてそんな自分に戦慄した。私は子どもを見ることが怖いと感じる女になっている。嫌な女に片足突っ込みかけている。

 哲哉も結婚を考えていてくれたことを知って嬉しかった。しかし哲哉の口から何気なく発せられた結婚というワードが、私にその資格がないことを容赦なく暴き立てた。

 子どもができないかもしれないので別れてください、とは言えなかった。俺が子ども好きだから気に病んで……と哲哉の心が悲惨なことになるのは火を見るより明らかだ。

 しかし、嘘をついてあんな振り方をしたのが正しかったのかは、今となってはわからない。



 麗奈は枕に顔を押し付け、布団を頭までかぶってぐずぐずとしていた。

「末永く一緒に……いたかったな。」


「なんだ、お前もか」


 弾かれたように振り返った。

「どうして……」

 息を切らした哲哉が寝室の前にいた。膝が笑っている。どれだけ走ってきたのか――。遅れて、玄関扉の閉まる音がした。

「朝起きたらお前がいなかった。まだ暗いのに一人で帰る奴があるか、危ないだろ。せめて送らせろ。これは麗奈が恋人とか恋人じゃないとか関係ない」

と、いきなり怒られ、麗奈は気まずくて目を逸らせた。大急ぎで追いかけてきたのだろう。寝ぐせだらけで、普段コンタクトなのにメガネだった。服もタンスの上から適当に取ったようにチグハグである。

「それに、俺もお前の部屋に色々私物置いてるからな。鍵も返さないといけないし」

 チャリンと振って見せたのは、笹かまをかぶったご当地キティちゃんストラップがついた鍵である。去年宮城で買ったものだ。

「私物、持って帰ったほうがいい? 鍵返したほうがいい?」

 コクンとうなずいた。今更引っ込みがつかない。

「俺と一緒にいたいんじゃないの? 本心では」

「そんなことない」

「嘘つくな」

「うるさい、出てって」

「出ていかない。俺と一緒にいたかったと目を腫らしてくれる大切な人を置いていけるか。事情があるんだろ、話してみろ」

 ベッドに腰かけ、完全に話を聞くモードになった哲哉を前に、麗奈はやっと病気の件を相談するタイミングを取り戻した――。

 この一年抱え込んでいたことを全部吐き出した。哲哉はただただ聞いてくれた。そっか、辛かったねと受け止めてくれた。

「最後に質問」

「なに?」

「俺のこと好き?」

「……好き」

 良かった、と哲哉は微笑んだ。



 哲哉の親は、言葉には出さないが難色を示した。しかし哲哉は強引に説き伏せた。

「あんたたちがそんななら、もし子どもができても会わせねぇぞ」

と、ほとんど脅しだ。ご両親も心配してくれてるんだから、と麗奈がフォローに回る始末である。お前どっちの味方なんだと哲哉に呆れられ、できたお嬢さんねとご両親からはなぜか株が上がった。哲哉は「作戦通りだ」と胸を張ったが、ただの結果オーライだろそれ。

 新居はペット可物件を選んだ。次の休みに猫の保護団体が主催する譲渡会に行ってみる予定だ。

 動画サイトで見つけたルンバ猫に憧れたと言って、哲哉が一言もなしに勝手にルンバを買ってきた。いくらしたのと聞くと口笛を吹きながらトイレに逃げていったので、後で膝を詰めてお説教である。

 三十代に入ると妊娠確率がますます下がるらしいので早めにとは考えているが、こればかりは授かりものだ。二人で相談して、もし子どもができなくても不妊治療はしないことにした。

「本当にいいの?」

「いい。子どもがいてもいなくても、麗奈と一緒にいるのが俺の幸せだから」

 幸せは人と比べても仕方がない。二人の幸せの形を築いていくつもりだ。

 二人で、末永く一緒に。


Fin.

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君と一緒に猫を飼いたい 深瀬はる @Cantata_Mortis

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