KAORI

藤田大腸

第1話

 今永千華いまながちか。見た目は二十代だが実年齢は読者の想像にお任せするとして、彼女には特技がある。それは犬なみの鋭い嗅覚を持っていることであった。


 千華は飯田香料という会社に採用された後、嗅覚の鋭さを活かして数々の製品開発を手がけてきた。新築の家の香りを忠実に再現した芳香剤、汗と脂が入り混じったどんなにえぐい体臭も爽やかな柑橘系の香りに変えてしまうデオドラント、従来品よりもストレス軽減効果の高いアロマオイルなどなど、彼女の功績は枚挙に暇がない。


 しかし千華の欲求は満たされることはなかった。彼女には長年抱き続けている悩みのタネがあり、それはどんなに功績を上げようとも打ち消すことはできないものであった。


 千華の様子のおかしさをいち早く見抜いたのは、社長の飯田未知子いいだみちこである。見た目は三十代後半だが実年齢はこれまた読者の想像にお任せする。とにかく、敏腕実業家の観察眼は千華の異常を察知したのだった。


「悩みがあるのでしょう? 遠慮なく言ってちょうだい」


 未知子は千華を社長室に呼び出して面談を行った。千華はうつむいて「うーん……」と唸るだけである。悩みが無いとは言っていないので、未知子は深く探っていくことにした。


「セクハラを受けているんじゃないの?」

「違います」


 千華は直ちに否定する。


「もしかしていじめは?」

「ありません。むしろよくしてもらっています」

「そう……あっ、もしかして他企業から引き抜きの話がある、とか……?」

「正直に言いますと、声をかけてもらったことはあります」


 未知子は青ざめた。


「えええっ!? 今あなたに出ていかれたらこの会社は成り立たないわ! ねえ、相手はいくら提示したの!? その二倍、いや三倍のお金を出してあげるからここにいて!」

「社長、落ち着いてください。もう先方には断りの返事をしています。この会社の方が好き放題できますからね」

「あら、そう。良かったわ~」


 未知子はホッと胸を撫で下ろす。


「じゃあ、あなたの悩みって何なの? 些細なことでもいいから打ち明けてちょうだい」

「その……」


 千華は最初口ごもったが、覚悟を決めて言葉を紡ぎ出した。


「昔、ある友達がいたんです。その子はとても良い匂いをしていて、こう暖かくて心地よくて、それでいてミステリアスで官能的ですらある香りで。毎日毎日彼女の匂いをこっそりと嗅いでいました」

「え、ええ。続けて」


 未知子は思わぬ告白に引いてしまったが、悩みを聞く姿勢を見せた以上態度に表すわけにはいかない。


「でも友達は中学校から離れ離れになってしまって今もどこで何をしているのかわからなくて……だけど彼女の匂いは忘れられませんでした。ですから香料メーカーに入って、自分で作って再現しようと決意したんです。でも、何度作っても違う香りになってしまって……私が作った製品はほとんどがその失敗作なんです」

「ええっ、あなたが作った商品はどれも大成功を収めているじゃない。それを失敗作だなんて……そこまで言い切るということはその子の香り、とても良いものなのでしょうね。商品にしたら面白いかもしれないわね。どうやったら再現できるのかしら」

「もう一度、生で彼女の匂いを嗅げば製法がわかるかもしれません」


 未知子は即決断した。


「わかった、我が社の総力を上げてその子を探しだしてあげるわ。名前は何ていうの?」

柚木ゆずきかおりです」

「香りだけにかおり、とはなかなか洒落ているわ」


 未知子は直ちに部下に命じて、ありとあらゆるネットワークを駆使して柚木かおりを探させた。


 そして三日後、未知子は再び千華を社長室に呼び出した。


「私、一生懸命、一生懸命探したわ。そしてかおりさん、見つかったわよ。どうぞ入ってちょうだい!」


 未知子が昔の某バラエティ番組の司会者のようなことを言うと、控室のドアが開いて、一人の女性が恐る恐る入ってきた。別れてから年月は経っているが、それは間違いなく千華の記憶通りの女性であった。


「かおり……!」

「あ、千華! 久しぶりだね~……ってそれどころじゃなかった。何か黒尽くめの男たちに連れて来られたんだけどさあ」


 言い終わる前に、千華はかおりを思い切り抱きしめた。


「ちょ、い、痛いって!」

「かおり! かおりかおり……」


 千華は鼻をかおりの首筋に押し当て、思い切り嗅いだ。


「! そ、そんな……」


 スッスッスッ、と鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ取ろうとするが。


「ちょっと! 何してんのよ~気持ち悪い……」

「香りが全然しない……かおりの香りが全然しない!」

「はあ!?」


 絶望に打ちひしがれた千華はへなへなと床に座り込んでしまう。未知子が慌てて抱き起こした。


「今永さんしっかりして! 我が社の命運はあなたにかかっているのよ!」

「ううっ……」


 その時、かおりの後ろから小さな子どもがひょこっと現れた。


「この子は?」

「ああ、娘のしおりだよ。一緒に連れてきていいって黒尽くめたちが言うから連れてきたの」

「えっ、結婚してたんだ……」

「そりゃするよ。何歳だと思ってんの?」


 その一言は千華に追い打ちをかけた。いまだに独身だからではない。千華はかおりの香りだけでなく、かおり自身も好きだったからである。


 もう千華の知っているかおりはどこにもいないのだ。そう思うと涙がとめどなく溢れだしてきた。


「千華、さっきから何なの? 何がしたいの?」

「うぇっ……ぐすっ……」


 もう質問に答えられる状態ではない。しかしそこに、しおりがちょこちょこと千華の下に歩み寄ってきた。


「おねーちゃん、どうしたの?」

「!!!!」


 鼻水にまみれていても、犬なみの鋭い嗅覚は確実に捉えた。あの暖かくて心地よくて、それでいてミステリアスで官能的ですらある香りが、紛れも無くかおりの娘から発せられていることを。


「これだ……これだよー!!」


 何かのタガが外れたかのようであった。千華はしおりに抱きついて、ズズズッと鼻水を啜る音とともに香りをこれでもかと堪能した。


「ああああたまらない! たまらないよおー!!」

「びええええ! おねーちゃんこわいよおおお!!」


 今度はしおりが泣き出す。かおりに子どもを守ろうとする親としての本能が働いた。


「何すんの!!」


 娘を引き剥がして、千華を思い切り突き飛ばす。千華の体はカーリングのストーンのように社長室の床を滑り、そのまま頭を壁に強く打ち付けた。さらに不幸なことに、壁に飾ってあったクリスマスローズを描いた絵の額縁が衝撃で落下して、千華の脳天を直撃したのである。


「いやあああ! 今永さーん!」


 未知子が駆け寄り、額縁をどける。千華は頭から血を流しながらも、口からはヨダレを垂れ流し、恍惚の表情を浮かべていた。


「そうか、そうだったんだ……あの香りとこの香りをこの比率で混ぜあわせてさらにこの香りを少々加えたら……うふふふふふふふえへへへへへっ」


 未知子は身震いした。






 飯田香料が開発した新香料「KAORI2018」はシンプルな名前とは裏腹に、革命的な商品となった。石鹸に入浴剤、芳香剤、香水などさまざまな製品に応用され、そのどれもが当たりに当たったのである。国内はおろか海外の企業からも注文が殺到し、莫大な利益を上げて飯田香料は一気に香料メーカー最大手にまでのし上がった。


 この画期的な香料の開発者は果たして誰なのか。メディアは取材を試みようとしたが、「KAORI2018」を超える新製品の研究開発に集中しているという理由で断られた。だが実際には開発者、今永千華はすでに会社を辞めていたのである。


 千華は狂ったように、かつての想い人の名前を冠した香料「KAORI2018」の開発に勤しんだ。いや、確かにその時はすでに狂っていた。柚木かおりと再会した日に頭を強く打ち付けたのが原因だったのか、その後に本人から「二度と顔を見せるな」と絶縁状を叩きつけられたのが原因だったのか、それとももしかすると、彼女と会ったその日から少しずつ狂いだしていたのかもしれない。






 飯田未知子はその日、仕事を定時で切り上げて帰宅した。「KAORI2018」で財を成した彼女は最近、麻布に邸宅を建てた。仕事に打ち込むあまりこの歳になっても独り身であったが、最近になって同居人が出来た。


「ただいまー」


 未知子が玄関を上がると、エプロン姿の女性が出迎えた。


「おかえり!」


 彼女は「KAORI2018」をふんだんに使った香水を身に付けた未知子に抱きつく。未知子も抱き返して優しく頭を撫でてやった。


、今日の夕飯は何かしら?」

のすきなカレーライスだよー」


 会社に貢献し、香りに身を焦がしたあげくに壊れてしまった千華の面倒を見ることが、未知子にとってせめてもの罪滅ぼしであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

KAORI 藤田大腸 @fdaicyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ