第19話 明日は分からない
僕は、白い世界にいた。ただただ白いだけの空間が広がる、白の世界に。
そんな世界を、曖昧な意識で歩み続ける。どれほどの時間を経て、どれだけの距離を歩いたのか、それは分からない。だけれども、気づいたらそこに、彼女はいた。
彼女の姿はおぼろげで、よく見ることができないけれども、不思議と、僕は彼女がどんな人物なのか、分かるような気がした。
「あなた、何しに来たの?」
「君こそ、ここで何をしているの?」
そう問い返すと、彼女は少しの間を開けたあとで、返事をした。
「…………待っているのよ。向こう側にいる、私にとって一番大切な人をね」
その言葉を聞いて、僕の胸がドクンと跳ねる。
「…………そうなんだ。……僕もね、向こう側に大切な人を置いてきちゃった気がするんだ」
「ふーん」
彼女は関心が無さそうに返事をした後、続けて言葉を発した。
「だったら、その人の所に戻ってしまえばいいんじゃない?」
「え!?」
その言葉に僕の胸はさらに高まる。しかし、すぐさまに諦めの感情が沸き上がり、その期待を覆い隠してしまう。
「…………それは無理だよ。僕は、人生において果たすべき使命をすべて果たしきってしまったんだ……。……だからもう、これ以上、僕には生きる意味がないんだ…………」
そう言うと、叱るような勢いで、彼女はすぐさまに言葉を浴びせてきた。
「あなたね……! それはおこちゃまの考え方よ…………!! …………いい? 人生に果たすべき使命なんてないの!! 大事なのは己の欲望! つまり、自分がどうしたいかってことなのよ!!」
「僕自身が、どう生きたいのか…………」
「そうよ!! きっとあなたは、今まで心の奥にあるものを抑圧して生きてきた! だけどそんな人生に意味なんてない! どんなに無様でもいいから、生きて、生きて、自分が望む
彼女の凄まじい熱弁を聞き、あっけらかんとすると同時に、尊敬と憧れの念が胸に沸き上がってくる。
「…………すごいね。僕は君みたいには生きられないや」
なんとなくそう言うと、彼女はまた激しく
「そんなことないわ!! 今からでも私みたいに……じゃなくて、私が言ったみたいに生きてみなさい!!」
「でも……ここからどうやって出ればいいのかも分からないし…………」
「大丈夫よ! ほら、向こうを見てみて!!」
彼女が指差した方を見てみると、そこには扉があった。木製で縦長の、取っ手のついた扉が、白色が広がるだけの空間に浮き出ている。
「ほらね?」
「本当だ…………すごい。……あのドアを開ければ、向こうの世界に戻れるのかな?」
「ええ、あなたはもどれるわよ」
「そっか……そうなんだ…………」
嬉しさに、思わずため息が溢れ出てしまう。
さっきまで抱いていた諦めの感情が、希望の感情へとひっくり返ってゆく。
「ありがとう。君のおかげで、僕が何をしたいのか、何となく分かってきた気がする。…………僕は、ただ生きて行きたい。大切なあの人と一緒に、もっとたくさんの時間を過ごしたい」
「そうなのね~」
さっきの熱心さと対照的な様子に、肩が下がってしまいそうになるが、そんなところが彼女の長所なんだなと考え直し、優しく微笑む。
「君も一緒に行こう!」
そう言って彼女に僕の右手を差し出す。
「…………え? 私も?」
僕の誘いに、彼女は思わず動揺しているようだった。こんな風に、落ち着いているようでいて感情豊かな所に、きっと彼女の大切な人は心惹かれたのだろう。
「…………ごめんなさいね。私はもう、手遅れなの。…………それに、私は向こう側にいる間、数え切れないほどの罪と業を重ねてしまったわ…………。今の私には、あの人に、あの世界の人々に合わせる顔なんてないの………………」
彼女は少しだけ悲しそうに顔を
「それでも!」
「…………え?」
また彼女は動揺している。だけれども、今の僕に、彼女に掛ける言葉へのためらいなんてない。
「それでも、僕と一緒に行こう! …………君が犯してしまった罪は、そう簡単には償えないものなのかもしれない!! けれど、君はたった今僕に教えてくれた! 生きて、生きて、最後まで本当に自分がしたいことをするのが、真の人生だって!! …………だったら、もう一度、僕と一緒に生きよう!! 最後の最後まで、僕たちなりの人生を、精一杯生き抜こう!!!」
「…………生意気言うわね、仔猫ちゃんのくせに。……でも」
彼女は差し出された僕の右手を取り、
「でも、そんな馬鹿げた話に応じてみるのも、悪くないかもしれないわね」
微笑みながら、優しく力を込めてくれた。
「ありがとう! それじゃあ、一緒に行こう!」
「ええ」
承諾を得ると、すぐさま彼女の左手を引っ張るようにしながら、扉の方へと走ってゆく。
扉は結構遠くの方にあるようで、急がないと消えてしまうような気がしたのだ。
そうして二人で走り続けて、気力も尽きそうになってきた頃に、ようやく扉の前までたどり着くことができた。
「やった! ついに来れたよ!」
言いながら、左側の手で扉を開いた瞬間、
――ありがとうね、最後に夢を見させてくれて――
頭に響くような声が聞こえ、後ろを振り向くと、そこにはもう彼女の姿はなく、僕の右手には、儚い白色のリボンが握られていた。
―――――――――
――――――
――――
――
暗闇の中にあった意識が、徐々に明るさを灯していき、重くなってしまっている瞼を何とかこじ開け、目を覚ます。
最初は現れる景色の眩しさに上手くものを見ることができないが、次第に視界の明るさは正常になっていき、ぼやけてはいるが、周りの様子を捉えることができるようになった
……ここは、寝室……いや、病室かな?
この国らしい、黒を基調とした塗装が施された部屋なのだが、以前僕が寝泊まりさせてもらっていた部屋とは違い、包帯や手拭い、固形の薬らしき物や、なんだかよく分からない液体などが置かれており、ここが病室なのだということを、僕に実感させていた。
身体の感触を確かめてみると、どうやら数え切れないほどの傷を負っているらしく、動かそうと思ってもなかなか動かすことができない。
「……あ、あ」
試しに声を出そうとしてみる。幸いにも、喉は傷つけられていなかったようで、
「僕は、今、生きているんだ……」
力を振り絞って右手を挙げ、指を動かして、生の感触を精一杯に味わう。
一度は死を覚悟したはずなのに、今、こうして、僕は生き延びてしまっている。そのことが、嬉しいような、悲しいような、少し複雑な心境だった。
そんな風に僕の意識が明確になり始めたところで、病室の扉が静かに開かれる音が聞こえてきた。
「…………!! レイオス! 目が覚めたのね!」
誰かが声を発し、僕の方へと駆け寄ってくる音が聞こえる。そして、僕の顔を覗き込んでくれたのは、僕を助けてくれたあの優しい女王様だった。
「……クシェリ」
「よかった! 生きていてくれて! 意識ははっきりしている? 身体は大丈夫!?」
「…………ありがとう。僕は大丈夫だよ」
「よかった! 本当によかった……!!」
彼女は心底安心した顔をして、僕の頭を撫でてくれた。
久しぶりに聞く彼女の声は、とても暖かく、なぜか懐かしくも感じた。それと同時に、彼女が王であることによる、僕との間の隔たりも、今は無くなっているような気がした。
「クシェリ、聞かせて欲しい。あの後、一体何があったのかを」
それから、彼女は戦いの
「そうか、そんなにたくさんのことがおこったんだね……」
「ええ……。今回の戦いで、スウァルテルムは多くの民を犠牲にしてしまったわ。だけど、すべてが悪い方向に向かっているわけじゃない。セイレンブルクは、これ以降全面的にこの国の味方をすると約束してくれたし、サントニアも、クーデターを通して、少しでも戦わない方向に向かってくれるかもしれないわ」
クシェリは、感情の見えない顔でそう言った。
「…………君は、恨んでいないのかい、……サントニアの人々を……」
問いかけると、彼女は複雑そうな表情で言葉を返した。
「……あなたに言っていいのかは分からないけれど、正直、私はサントニアを憎いと思っているわ。本当は、今すぐにでも滅ぼしてしまいたいくらい。…………だけど、私は思うのよ。このまま戦い続けて、一体何が残るのかって。…………国は守らなきゃいけない。そのためなら命だってかける。だけれども、戦いは、虚しいものよ…………」
彼女の瞳にはわずかに涙が溜まり、さっきまで見えてこなかった、悲しみの表情が
「クシェリ、大丈夫だよ」
右手を持ち上げ、彼女の髪を優しく撫でる。
「僕が、この国を守ってみせるから」
「……ありがとう。だけれども、こんな無茶はもうしないで。民のみんなは、あなたのことを黒の英雄だと褒め称えてくれている。でも、でも、死んだら何の意味もないのよ…………」
「クシェリ…………。大丈夫、分かっているよ。……僕の望みは、君と、君たち黒の民と、少しでも長く生き続けられることなんだ。だから、あんな無茶はもうしない」
僕の言葉を聞いて、少し驚いた表情を見せた後、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。
「ふふ、レイオス、あなたは変わったわね。……言葉遣いだけじゃない。何か、心の支えになってくれる新しい何かを見つけたような、そんな気がする」
「そうだね。そうなのかもしれないな……」
そう言いながら、僕はさっきまで見ていた夢のことを思い出していた。
残念ながら、もうほとんどその夢の内容は覚えていない。ただ、最後に、僕の右手に白色のリボンが握られていたことだけは、よく覚えていた。
「クシェリ、お願いがあるんだ。…………僕に手の甲を見せてはくれないかな」
「? ええ……」
彼女が僕に左手の甲を見せてくれる。
少し無理しながらも、何とか起き上がり、彼女の左手を取る。
「クシェリ、これから何が起こるのか、明日のことは分からない。だからこそ、僕はこの国で精一杯に生き、君を守りたい。だから、これからも黒の民として、あなたのそばに居させてください」
そう言い終え、彼女の手の甲にそっと口づけをする。
「ええ、ええ……! もちろんよ……!」
彼女は瞳から大粒の涙をこぼし、その頬に暖かな笑みを浮かべて、再び僕のことを受け入れてくれた。
「これからも、ずっと一緒よ!」
――陽の光が注ぎ込む窓際には、黒と白の二つの薔薇が、寄り添うように優しく生けられていた――――――
甘やかな香りと闇の眷属 オオカミ @towanotsuki
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