第2話
その三ヶ月後に母は死に、私は結局母が死んでも消えなかった。
消えなかったが、いよいよ私には何もなくなった。
母の年金も止まり、この狭い家はきっと相続税だとかなんとかで持って行かれて、私は住むところも食べるものもなく、その辺りで野垂れ死ぬのだろう。
それ以外のことは考えつけなくて、私は母と共に消えはしなかったけれどやっぱり生きてはゆけないのだと思った。
母の言う通り、母の視界の外では命なきものとして動きを止めてしまうのだ、箱庭の中の娘パーツは。
母が残していったのは足し算のノートだけ。
どのページも余すところなく数字が書き込まれていて、持つとずっしりと重みを感じる。数字が質量を持っているかのように。
けれどもちろんそんなのは錯覚で、ページの端をゆびさきで押さえて滑らせるだけで紙は軽くはらりと開いた。
母の筆跡を追うように一枚ずつめくってゆく。
びっしりと数字に埋め尽くされたノートの、最後のページで、目がとまった。
そこだけが数字ではなく、漢字とひらがなで書かれた文章だった。
桐箪笥の奥、とだけ走り書きがされていて、あの人は数字以外のものも書けたのだとはじめて知った。
滅多に入ることのなかった納戸に足を踏み入れ桐箪笥を開けると、着ているのを見たこともない嫁入り道具の着物の奥に、くしゃくしゃのアルミホイルに包まれた紙の束が入っていた。
開けたら入っていたのは通帳と現金、そして書類。
いつどのように手続きをしたのか、足の悪い母がもらっていた障害年金から少しずつ積み立てていたらしい預金と、生前贈与でこの家が私のものになっていることを記した書類。
混乱する。
どうして。
自分が死んだら私も消えると思っていたんじゃなかったの。
消える私に家もお金も必要ないんじゃないの。
どこからが妄想でどこからが現実なのかがもうよくわからなくなって、消えないじゃない、消えないじゃないと口の中でつぶやきながら、私は裸足のままふらふらと家の外に出た。
カーテンを閉め切った暗い家の中から出てみれば外はまだ真昼で、高校の制服を着た学生たちが家の前の通りを歩いていた。
その賑やかなさざめきの中に、朧気ながらも記憶にある顔を見つけて驚いた。
秋の風にリボンタイを揺らして制服を着て歩いている女子高生は、名前も忘れてしまったが中学の同級生だ。
母と過ごして失ったと感じていた永遠にも思えた時間は、たったそれだけのものだったのか。
同級生が制服を脱いでもいないほどの。
ぼんやりと立ち尽くしていた私に、昔の同級生が気づいた。
「あれ……和子?」
そして彼女は笑いながら駆け寄ってくる。
「すごい久しぶりじゃない、中学卒業以来だよね、ずっと会ってなかったけどどうしてたの……って、ちょっと、どうして裸足なの!?」
言われて自分の足を見下ろして、着たきりのすり切れたジャージの裾から覗く、靴どころか靴下もはいていない足と爪先を見つめる。
その足と向かい合った場所にある昔の同級生の、ぴかぴかに磨き上げられたローファーと、爪が伸びたままの自分の足とを交互に見て、ゆっくりと視線をあげた。
順に目に入る、クルーソックスの白、乱れなくプリーツが入った膝丈のスカート、ブレザーとトラッドな柄のリボンタイ、艶のあるさらさらの髪と、色つきのリップを塗った唇。
そして心配そうに私を見ている彼女の目。
衝動があった。
私の失ったもの。否、失ったと思ったものは本当に失ったままでいいのか。
取り戻したい。
母の箱庭ではなかった、この世界で私は、生きたい。
「わ……私……」
同級生の制服の袖を掴んで、私は言った。
「私も制服を着たい。高校生になりたい、今から」
そうしたら涙がぼろぼろ出てきて。
こんなふうに、久しぶりに会っただけの見窄らしい格好をした元クラスメートに、袖を捕まれて突然泣かれたらどんなに気持ち悪いだろうかと思うのに、止まらなくて。
けれどそんな私を、名前も覚えていないその同級生は真摯な目でじっと見て、頷いた。
「うん」
そして袖を掴んだ私の手を、掴まれてない方の手で、ぎゅっと包んでくれた。
箱庭で死ぬの 紅墻麗奈 @reinasakura
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