箱庭で死ぬの

紅墻麗奈

第1話

 母の趣味は足し算だ。

 とにかく足すことが好きで、1+2+3+……と順に足していったり、ある数とある数を足して次の日はそこから一桁取り除いた数を足してということを繰り返していったり。

 人生の時間のほとんどを、ただひたすら数を足し続けて過ごした、そんな人だった。


 私が物心ついた頃には、父というものはおらず、級友のママたちと比べて随分年を取っていた母の足は病気で動かなくなっていて、小学生の頃に既に私は母の介護らしきことをしていた。

 思えば母の血縁者というものに会ったことがない。ノートに数を書き連ね続ける母に、ふと思い立って親兄弟というものについて聞いてみたらば。


「親なんていません」


 つん、と細い顎をそらして彼女はそう答えた。


「生まれたときから私はこうしてここにいたし、この世界は私の為にあって、私が見ていないときに人は動いていないのよ」


「……何言ってるのかよくわからないんだけど」


 そう私がつぶやくと、母は数字を書く手を止め、呆れた顔を向けてくる。


「わからない? 

 だからこの世界は私のために存在していて、すべての生き物は私の視界に入っている間しか動いていないし、私が聞いている場所でしか音はしていないの。

 私がうしろを向けばそれまで目の前で動いていた生き物は皆動きを止めていて、私が振り返った瞬間にあるべき位置に一瞬で移動して、さもずっと動いていたかのように思いこまされてるのよ」


 母の妄言に頭痛を憶える。

 ついに呆けが始まったかとも思ったが、足が動かないだけで相変わらず矍鑠としていた。


「誰がそんなことしてるの」

「私の神様」


 そしてまたノートに書き付けられてゆく数字、増えてゆく桁、数があふれる。

 あふれた数は美しく紙の余白を埋めてゆく。

 今何の計算をしているのか私には既に理解ができない。母だけが自分の独自の感覚で把握して理解している。

 まるで今の母の話のように、母にしかわからない。


「私が死んだらこの世界は消えてなくなるの。

 だから私は死なない、だってここは私のためにある世界だから」


 何を言っているのかよくわからないが、それでもその言葉にだけは妙に納得してしまった。

 母が死んだら消えてなくなる世界だから、私は本来ならするべき心配も何もせずに、ここでこうして外界と違う時間の流れの中で生きているのだろうか。

 年老いていて足も動かない母の面倒を見るために、学校は中学までしか行かなかった。

 学歴がない上に母の介護に追われて就職もできず。

 思えば昔はぼんやりとした夢や目標を持っていたような気がするけれど、私が夢を追い外へ出たらこの面倒な母親の面倒は誰が見るのだろうと考えてしまった時点でもう既に、家を出るという選択肢を失っていた。


 もしかしたら本当に母の言っていることが現実で、母が見ていない間は私も活動を止めているのかも知れない。

 それをそうと気づかされずに、母の視界に私が入った瞬間、空白の時間の記憶が捏造され続けているだけ。

 母の神様が、母のために置いた、母のための娘というパーツ。それが私。


 妙に納得がいった。

 もし私がこの母のもとに生まれたのでなければ、私は私の人生を生きていたかも知れない、などという架空の物語よりは余程。




 母は相変わらず足し算をしている。

 けれど最近気がかりなことがあった。

 母の計算が単純化している。

 以前は足した数からいくらかを引いて更に足したり、時折割ったり掛けたりと、さまざまなバリエーションが存在した。

 それが近頃はただ数を足すだけになっている。


 1と1を足して2、2と2を足して4、4と4を足して8、とただひたすら増えてゆくだけの単調な計算が続く日々。

 そして9007199254740992+9007199254740992の計算をしようとしていたある日。


 母が余命宣告を受けた。


 自分は死なないと信じているあの人はどうやらこれからたった三月のうちに死ぬらしい。

 そんなことを言われても現実味がない。

 母が言うところの、母の神様が作った箱庭は終焉を迎えるのだろうか。

 母の視界に入らなくなった私の時間は止まったままになるのだろうか、本当に?


 こうなってみて初めて私は現実に対して恐怖した。

 私は私が自分の人生を生きていたら持つはずだった金も家も恋人も友人も仕事も、生きていくために必要な何もかもすべてを持っていない。

 そして自分が死んだら何もかもなくなると思っているあの人は、きっと私に何も残さない。

 だって同時に私も消えると本気で思っているだろうから。


 計算に没頭している母に文句のひとつも言おうと思い近づいた。

 けれど彼女の書く数字を一目見て、私は投げつけようとしていた言葉を飲み込んだ。

 計算がもう合っていない。

 桁がいくつあるのかもわからないその数は、見ただけで計算違いを見つけられるようなものではないはずなのに、わかってしまう。

 ノートにあふれた数はゆらぎ、輪郭を保っていない。


 ああこの人は死ぬのだと、私は確かに理解した。

 箱庭は失われる。母の妄想が現実でもそうでなくても、母の視界に私が永遠に入らなくなったところで私の未来は潰える。


 乱雑に書き込まれた数がページを埋め尽くし何も書けなくなったところで、母が顔を上げた。

 その視界に私が入る。


 母の妄言が真実なら、さまざまなことを考え続けていたように思える私のここまでの数分は本当は空白で、胸一杯に詰まった不安も、今この瞬間に母の神様が私の胸に詰め込んだのだろうか。


「和子」


 唐突に母が私の名を呼んだ。

 それは随分と久しぶりだった。

 ふたりきりで暮らしていると名を呼ばずともすべてのものごとは済んでしまう。話しかける相手は他にいないのだから。

 母はいつの間にか私の名を呼ぶことがなくなり、私も母に呼びかける言葉を長いこと失っていた。


「私が死んだら世界は終わるって前に話したの、覚えてる」

「うん」


 忘れるはずがない。

 その話を聞いて以来、私もそうなのかも知れないと思いながら生きているのに。

 母のための箱庭の娘パーツ、母の命の終わりと共に私も終わるものなのだと。


 そして母はそれが既に間違いのない決定事項なのだという前提で話をする。


「どうして神様は私と私のための世界を作ったんだと思う?」

「わかんないよ、そんなの」

 そう答えると、母が笑った。


「和子に会うためよ」


 思いも寄らぬ言葉が母の口から出てきて、私は一瞬、何を言われているのかがよく理解できなかった。


 ぽかんと口を開けた私に、母が重ねて言う。


「この世界は私のためにあると思っていたから、すべての困難も障害も私のためにある。

 だから足が動かなくても他の人ができることができなくても構わなかった。

 けれど和子、あなたが先に死んだらそのときは私も死のうとずっと思って生きていた」


 ぱらりと母がノートをめくる。

 あらわれたのは何も書いていない紙が半分だけ。

 右側はつるっとした白い厚紙。表紙の裏側。最後の一枚。


「そう思わないと、正気を保ったまま一日を過ごすこともできなかった。

 危険で怖くて一歩も外に出したくない。

 あなたを私の目の届かないところに行かせたくない。

 あなたが私のすべてだった。

 和子に会うために私は生きてた」


 私はただベッドの横に突っ立ったまま、口を半開きにして母を見ていた。

 母とふたりきりの世界で、家からも出ず、短い言葉を交わす程度にしか喋りもせず、長く頭をまともに使っていなかったせいで、今心を占めているこの感情がどういうものなのかが理解できない。


 刺激のない日々の中で私は知性すら失ってしまったのか。

 そして閉ざされた場所でこうならないために、母は数字を書き続けていたのだろうか。


 ただ、何も言葉にならないのに、目の奥が熱くて、痛い。

 喉の奥は大きな鉄の玉が落ちたように詰まっていたけれど、漸く私は、ひとつの言葉だけを声にした。


「おかあさん」


 久しぶりにそう呼ばれた母は、照れたように鼻を鳴らして笑って、私から目をそらした。

 今、母の視界に自分は入っていない。なのに私はこうして、胸の奥にざらざらと落ちるなにかを感じている。


 母の神様。どうして私は止まっていないの。

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