ざわめき

鳥ヰヤキ

ざわめき

 小鳥の鳴き声が聞こえる。

 森林内で聞くものとは僅かに異なる響き。どこか牧歌的で、安らぎながら互いに語らい合うような、楽しげな囀り。

 この白船はとうに堕ちて、深緑の底に湛(しず)んだ――そんな物語を感じさせる、巨大な廃墟ホテル。豊かだった時代を象徴するかのような、美しい曲線紋様を描く漆喰の鏝絵も、今は直す人もいないまま崩れかけて放置されている。

 それでも白亜の風合いは保たれていた。深刻な変色や汚濁を受けることもなく、経年劣化による清らかな衰退を感じさせながら、ゆっくりと老いていった建物。それは、どこか幸福なものにすら感じられた。

 どこかで、水が流れていく音がする。涼やかな調べ。井戸水のパイプか何かが、どこかで割れているのかもしれない。俺の仕事は本来、そういう故障箇所や崩壊について点検・報告をすることなのだが、少なくとも今日は真面目に仕事をする気になんかなれない。

 こんな春の陽気の中じゃ、のほほんとしてしまうのも仕方ないだろう?

 廃温室の屋根は落ち、天井を覆っていたのであろう硝子は欠片となって足下で燦めいている。黄金色の陽射しを乱反射させて、さながら砂粒のように光っている。

 どこからか種が紛れ込んだのか、それとも温室の生き残りなのか。光を贅沢に浴びながら、多種多様な花々が、遠慮なく咲き乱れている。さながら色彩の洪水、緑の怒濤図だ。鳥籠を思わせる背景と、瑞々しい虹色のコントラスト。

 気が遠くなる程、その光景は美しかった。

 壊れかけたベンチの表面をサッと手で払い、座り込む。胸ポケットから煙草の箱を取り出し、ゆっくりと燻らせようとした。……いいだろう、別に、一服くらい?

 楽園のような陽射しの中、火を付けることに一抹の罪悪感のようなものを覚えつつ、ライターを探していた。

「…………」

 ようやく、金属の硬質感を指先に感じた。と、同時に、自分に注がれる視線があることにも気がついた。

 目の前に、小さな子供が立っている。片手に安っぽいぬいぐるみを抱え、もう片手の指をおしゃぶりのように咥えている、幼い子供が。俺は言葉もなくその場に静止していた。驚きで息が止まった。

 周囲に車が入れるような場所はなく。こんな僻地、子供一人で来れるわけもなく。どこからか湧いてきたとしか思えないその人影を前にして、驚きのあまり動けなくなっていた。年甲斐もなく。

『……ちーちゃん、なにしてるの。早くおいで』

『はぁ~い』

 ああ、なんだ……親がいたのか。幽霊かと思って驚いてしまった。そう、溜息を溢したのも束の間。視線の先で手を繋ぐ親子の姿が、崩れた壁をすり抜けていく。いよいよ腰を抜かしそうになり、ベンチの背もたれに腕を置いた。

 そして、見る間に……続々と……。

 人々の影が集まってくる。

 花を指差し笑っている人。楽しげに声を掛け合う学生集団。両親の間で飛び跳ねる兄弟。腰を曲げた老夫婦。

 小鳥の囀りと井戸水のせせらぎに混じり合うように、ささやかなざわめきが、ノイズのように折り重なる。

 もちろん、全て、現実ではないと分かっていた。だって皆、とっくに壊れ果てたものがまだそこにあるかのように動き、ある筈のないものを愛で、そして消えていったから。

 驚き、恐怖、そういったものが一通り胸の中を通り過ぎていって……今、俺の中に残ったものは、なんとも言えないノスタルジーだった。

 ライターからはとっくに指を離した。煙草も箱の中に戻した。

 廃温室が見せる、この残像を眺めること以上に、陶酔できることなんか無かったからだ。

(ああ、これは、心から愛されたものの記憶なんだ)

 ぼんやりと、そう思った。ここを通り過ぎる人々の顔は、どれも皆、笑顔だったから。

(もしもここが直って、新たな人々が来るようになったら、きっと――また、新たに愛されるようになるのだろうな。この景色のように)

 幻影は、過去のものだ。誰一人、俺の存在に気づくことも触れることもないまま、ただ花々の色彩に紛れて泳ぐように、流れるように、去って行く。

 その静かな幻を心地よく感じながら、目を閉じて……そして次に目を開けた時にはもう、その景色は、文字通りの幻のように消えていた。

 再び、一人になる。いや、最初から、一人だった。花々と光に囲まれながら、時の流れの底に座っていた。

 唇に笑みを浮かべる。そして、ゆっくりと立ち上がる。

 仕事に取り掛かろう。

 これは、やり甲斐のある仕事になりそうだ……。


 (終)

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ざわめき 鳥ヰヤキ @toriy_yaki

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