最終話
翌日、午後四時半に児童相談所の職員が隣の部屋のチャイムを押した。突然のチャイムに戸惑いつつ、母親は玄関の扉を開けた。開いた扉から薄暗い部屋に光が差し込む。そこに立っている訪問者に向けて、マヤは目いっぱい叫んだ。『助けて』と。その言葉で、職員は母親の抵抗を振り切って部屋に入ることができた。
その後もしばらく、母親は虐待の事実を認めなかった。だがマヤの身体には傷が残り、俺が提出したICレコーダーには誰が聞いても虐待だと思うような音声が入っていた。言い逃れできないとわかると、彼女はあろうことか開き直った。やったことは事実だが私は悪くない。あれこれと自己保身の言葉ばかり口にしたが、その態度がかえって彼女を不利にし、実刑判決が下された。
マヤは保護され、児童養護施設で生活することになった。
騒がしかった隣の部屋はぱったりと静かになり、俺は土日の昼間にも洗濯できるようになった。
しばらくは、静すぎることが不自然だった。起きている間はテレビをつけたり音楽を聞いたり、常に何か音がないと落ち着かない。それでも夜、寝る前には静けさを感じずにはいられなかった。そんな時は必ず、マヤは今どうしているだろうと心配になった。待っていると言った手前、自分から会いに行くこともできない。
三か月程経った頃、マヤから手紙が届いた。
『殴られない暮らしにも、少しずつ慣れてきました』
冗談なのか本気なのかわからない言葉とともに、一葉の写真が添えられていた。施設の子供たちと一緒に、マヤが控え目にピースサインを作っている。俺は返事を書き、写真の代わりにおすすめの文庫本を一緒に送った。
それから、半年に一度手紙のやりとりをするようになった。回数を重ねる度、マヤの手紙には漢字が増えたし、写真の中のピースサインもさまになっていった。俺は彼女の成長に応じて送る本を厳選することに余念がなかった。
マヤは好奇心旺盛に学業に取り組み、またその努力を惜しまなかった。その結果、高校には特待生として入学し、大学では奨学生として授業料の半額を免除されることとなった。大学に至っては俺の母校で、しかも学部まで同じだから、中途半端な成績でくすぶっていた当時の俺よりマヤは優秀だということになる。
そして今日。
緑が鮮やかな七月の中旬。
八年の歳月が流れ、マヤはちょうど二十歳の誕生日を迎えていた。
二年前マヤから届いた手紙に、この日に会えないかと書かれていた。マヤは二十歳になる日をすなわち大人になる日だと決めたようだ。就職してから三年間ずっと仕事に追われていた俺は、その手紙であれから随分時間が経っていることに気づいた。
二十歳の男が二十八歳になるのと、十二歳の少女が二十歳になるのとでは、時間の密度が違う。きっとマヤにとってははるかに長く感じられる期間だっただろう。
腕時計を見る。
約束の時間にはまだ早いが、駅についた。改札を抜ける。俺がかつて通っていた、すなわちマヤが現在通っている大学の最寄駅だ。卒業して以来一度も足を運ぶことはなかったが、駅前のようすは八年前とあまり変わっていなかった。申し訳程度の小さな広場もそのままだ。俺はそこでマヤを待った。
蒸し暑い夏の夕暮れ。梅雨が明けてから一気に大気が熱を増して、呼吸をしているだけで汗が滲んでくる。だけど、少しも不愉快じゃなかった。太陽はゆっくりと沈み、空の色は美しく変化していく。これから夜になって一日が終わるというのに、まるで何かが幕を開けるような、そんな気にさせる季節。
大学から駅に向かって歩いてくる学生の数がどっと増えてきた。そういえば五時間目の講義が終わるのはこのくらいの時間だったなと思い出し、懐かしくなった。
人の波に乗って、もうすぐマヤが現れる。
健やかに成長した姿に、幼い頃の面影を少し残して。
八年前のあの頃、あの部屋でそうしていたように。俺はずっと八年間、彼女を待っていた。
俺がしたことを許してほしいわけじゃない。
マヤが実際にちゃんと大人になっているかどうかも、あまり気にならない。
俺はただ、もう一度会いたかった。
囲われた部屋の外。広い空の下で、マヤに会いたかった。
そして、隣を歩きたい。同じ道を同じ方向に向かって、並んで歩きながら、色んなことを話す。壁を隔てない澄んだ声で。
大人になりましたね。
マヤは少し緊張した面持ちで俺に言うだろう。
その言葉は俺が君に言うことじゃないか。
二人一緒に笑い出す。
君は、まだ子どもっぽい。
わざとそんなことを言って、彼女を怒らせてみよう。ちゃんと怒っている姿をこの目で確かめたい。いやなことをいやだと思って、それをちゃんと伝えられるようになったか。
当然、まだ不安定な部分もあるだろう。二十歳になったからといって、すぐに大人になれるわけじゃない。だが、焦る必要はない。これから時間をかけて、少しずつ大人になっていけばいい。
傷つかないように生きることなんて不可能だ。
それでも、もう二度と傷つくことに慣れてしまわないように。
俺はマヤを見守っていたい。
悲しい横顔に気づいたら、どうしたのと声をかけよう。二人を隔てる壁はもうない。大きな声を出さなくても名前を呼ぶことができる。呼ばれたらすぐに駆けつけよう。困っていたら手を伸ばそう。伸ばした手はきっと君に届く。なぜなら俺は、すぐ近くに。
君の隣にいるのだから。
隣の人 加登 伶 @sakamuke
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