後編

凛花の母親はずっと否認を続けている。やがて、凛花のこともその母親のことも、段々と忘れ去られていった。

犯人はまだ捕まっていない。

警察というのは意外と薄ぼんやりとしているのだと、私は思った。

けれど、それも時間の問題かもしれない。

校門を分かりやすく黒い制服を着た二人組がくぐってくる。一瞬だけ、こちらを見上げたような気がする。

彼らが、プチシューの意味に自力で辿り着くことなんて、あるのだろうか。


凛花は自分が殺されることを予感していたのかもしれない。そして、同じように不幸な姿を私の中に見つけてしまったのかもしれない。

あの日凛花は夜どうしても眠れない時に何をしてやり過ごすのか教えてくれた。

「延々とバッハのカンタータ147番を流し続けるの」

痣のできた右手の甲を左手の指で隠しながら、凛花はスマホをいじる。

滑らかな三連符音が歌うように流れ出す。何もない、痛みと欠乏だけの空間には不釣り合いで場違いな音色だと思った。

「飽きない?」

「ぜんぜん」

凛花は笑った。そして、泣いた。

凛花は不意に立ち上がって、冷蔵庫からプチシューの袋を持ってきた。

「一緒に食べて、お願い」

カンタータは確か教会で流される神のための音楽だ。その背景に凛花は佇んでいる。


お願い。


本当は何を願っているのだろう。

「うん、私も食べたい」

あぁ、哀れだ。こんなものを愛情に重ね合わせる凛花も、延々と夜流れ続けるバッハのカンタータも、ここでは全てが哀れだった。

時折凛花は歌った。弦楽器の合奏の合間に、合唱が挟まれる。それに合わせて歌った。

明けない夜を思って、何度も何度も歌ったのだろうか。


Meines Herzens Trost und Saft,

Meiner Augen Lust und Sonne,

Meiner Seele Schatz und Wonne;

Darum laß ich nicht,

Aus dem Herzen und Gesicht,

私の心の慰めであり、潤い

目の歓びにして太陽

魂の宝であり 歓喜

だから放しません

この心と視界から


プチシュークリームは気まぐれに注がれる愛情と似ている。

凛花はよくそう言っていた。

全てが小ぶりで、肝心のクリームだって一口で足りてしまう。

そして、食べ終わった後は満足感よりも欠乏感の方が勝るのだ。

「いつも食べなきゃよかったなって思っちゃう」

凛花は哀しげにプチシューの詰まった袋を開ける。

普通のシュークリームじゃダメなのかと聞くと、凛花は首を振った。

「私みたいなのには、これがちょうどいい…というか、精一杯なのよ」

ふふ、と凛花が笑う。

プチシューは小粒な愛情だった。

それを待つ自分という存在も、所詮は気まぐれに愛される小粒なものにしか過ぎない。そう凛花は言いたげだった。

「私の心の慰めであり、潤い。目の歓びにして太陽、魂の宝であり 歓喜。だから放しません。この心と視界から…。ねぇ、プチシューのことを重ねて歌ってたの?」

凛花は目を剥いていた。

愛情を知らない子どもは哀れだ。けれど、本当に哀れなのは愛された記憶を持つ子どもだった。

幸せな人にはそれが分からない。

不意に凛花が泣き出した。

まだほんの少女だった。誰も助けてくれない。誰も振り返ってくれることはない。


私の心の慰めであり、潤い

目の歓びにして太陽

魂の宝であり 歓喜

だから放しません

この心と視界から


凛花が私を見た。

カンタータは流れ続ける。

だから私はプチシューを詰め込んだ。

帰る家を持たない子どもたちは哀れだ。けれど、帰る家があるのに居場所のない子どもたちはもっと哀れだ。

凛花はもう動かない。

プチシューを抱きしめる。こんなもので満足している凛花は間違いなく可哀想だった。

私はプチシューを詰め込み続けた。

誰かが、この意味に気付いてくれることを「願った」。


神が本当にこの世を見下ろしているのなら、私を罰しに来るはずだった。

犯人はまだ捕まっていない。

凛花の母親は虐待で捕まりはしたものの、殺人の容疑は晴れていた。


凛花が殺されたことを、他の誰もが忘れた頃に、犯人が捕まった。

神は見ていたのか、見ていなかったのか怪しいと思った。

「…どうして来たのか、分かるね」

校門をくぐっていたあの二人組みが、私の家の玄関に佇んでいる。

そしてちょっと怪訝そうな瞳で、周りを見渡す。

「ご両親は?」

「親はほとんど帰って来ません」

私は壊れようのない家庭を思った。こうして、扉の向こうの家庭が晒されることになる。

私は凛花に同情したのだろうか。それとも、凛花を使って復讐をしたかったのだろうか。

「…凛花さんを、殺害したね」

相手の顔は見えない。

ふと、あの優しいカンタータが蘇る。

「はい」


もう私の元には誰も還ってはこない。

死んだ凛花と、あの時詰め込んだプチシュー以外、なにもない。


私の心の慰めであり、潤い

目の歓びにして太陽

魂の宝であり 歓喜

だから放しません

この心と視界から

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プチシューを抱きしめて 三津凛 @mitsurin12

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