王子と私

青瓢箪

王子と私

 ……っはうっ!?


 ウチは胸に感じる感触に我に返った。


ミーはこの国に誰もフレンズが居なくて寂しいんだよ……』


 目の前で涼し気な声で。

 憂いをたたえた瞳でささやく外人さん(超美形)。


 中東の浅黒い肌、彫りの深い目鼻立ち、凛々しい眉毛。

 砂漠と月とラクダと銀の鞍がバックに似合いそうな。

 王子様といっても違和感のない麗しい容姿。


 しかし、その手はウチの自慢のお椀型Cカップに置かれ。

 あまつさえ、揉みしだいていた。――


 ……も、も、揉まれとる……!


 いつの間に?!


 ウチはあっけにとられて、ゆっくりと形を変える自らの胸を見下ろした。


 なんという手際! なんて、恐ろしい男……!――――





 ――半刻前。

 東京の学校に入学して五月病やったウチはサボって日比谷公園でぼーっとサンドイッチを食べとった。

 そうしたら目の前を通りかかった外人さんがウチの隣のベンチに座って、話しかけてきたんや。

 かっこええ外人さんやなあ、とウチは眼福のためにその外人さんを凝視して、適当に相槌をうち続けた。


 ……それが。

 いつの間に、こんな事態になってるんや……?

 いつ、こんなにパーソナルスペースにまで来よったんや?

 いや、いつウチに触れだした?


 混乱したウチは状況が信じ難く、胸から隣の外人さんに視線を戻した。

 目が合ったウチに美形の外人さんは、うっとりするような魅惑の微笑みを返した。


『あ、あの。チチ、揉んではりますけど』


 ウチの声を聞いた瞬間、外人さんはハッと我に返ったような表情をしてウチを見つめた。


 ……いやいや、あなたも揉んでたことに気ィつかへんかった、てことやないでしょう?


 それからは見事なスルーやった。

 外人さんは自然にウチの胸から手を離し(ホンマに。書き物をしとったペンを手から離すような感じで)、あくまで自然にベンチから立ち上がり(食事を終えたテーブルから離れる感じで)、天を仰ぎ見た後(労働途中の一休止にふと空を見上げる感じで)。

 こちらを優雅に爽やかに振り返った。


『それじゃあね。楽しかったよ、子猫ちゃん』


 まるで映画のワンシーンのよう。

「世紀の美男子ラマーン」みたいなオビがホンマにその外人さんの顎のあたりにウチには見えた。


 立ち去っていく肩幅の凛々しいその外人さんの後ろ姿を見て。


「なんやってんやろう、今の……」


 ウチは夢でもみたようにぼんやりとつぶやいた。――


 *****


「何度もいうけど……いや、普通気がつくやろが!」

「それが全然気がつかへんねんて! 滅茶苦茶、自然やねんて! 知らんうちに胸に手があってんて!」


 懸命に弁解するウチにアッハッハッ、とユミちゃんは笑い続ける。


「嫌っちゅうか、怖いっちゅうか、それ以前にウチ、感心してもうてな。逃げるのも忘れてあっけにとられたわ」

「すごいなあ、さすが外人さんは手慣れとるわ。何人なにじんやったっけ?」

「ネバーランド人……いや、ネアンデルタール人やったかな?」

「ちゃうやろ、それ」

「とりあえず、めっちゃ男前さんの外人さんでなあ。顔に見惚れてたんも、気づかんかった理由かも」


  ウチはちゅー、と目の前に置かれたバニラアイスの浮いたソーダ水を飲む。


 ああ、もう何年前の事やろ。十年になるか。

 私が『公園で見知らぬ外人さんにいつの間にか乳を揉まれとった事件』は美味しいネタとして何度も使わせてもらってる。


 目の前にいる女友達、ユミちゃんとマコの二人には何回話してもウケるみたいや。

 二人とは小学校の時からの仲良し友達。

 ユミちゃんは男ウケする華やか顔美人。

 マコは初恋の男と十年付き合い続けてるっていう、奥手な子。このままその相手と結婚したら離婚するんちゃうかな、とウチは心配してる。

 ちなみにウチ、キエコはシングルマザーです。

 相手の子を妊娠した時、相手とはどうしても結婚が考えられんくて、この道を選んだ。

 息子のタロウは今、隣のスイミングスクールのプールで背泳ぎを習得中。

 この週に一度の夕方、タロウが泳いでる最中の一時間が、仕事以外でウチが育児から解放される素晴らしい息抜きタイムなんや。

 ああ、最高! ゆっくりとソーダ水、飲めるんも。こうやってしゃべくり倒すんも。


「そういえば、今度のキエコちゃんが自由になる日の夜、どないする?」


 マコがウチに聞いてきた。


「キエコちゃんのしたいことでエエで。なあんでも」

「うふふ、どないしようかなあ」


 ウチはニンマリと顔が綻んでもうた。

 もうすぐ、スペシャルデイが来るんや。

 息子のタロウが保育園で一日お泊りするという、涙が出るほどラッキーな行事がな!


 年長さんだけの保育園のそのイベントを知って以来、ウチは一年前から楽しみで楽しみでしょうがなかった。

 その夜はホンマにホンマに子供のことは忘れて、自由で居られる夜!

 ああ、そんなこと、何年ぶり?

 ホンマにウチ、何したらいいのん?


 うふふふふ、とウチはにやけてもうた。


「カラオケ三昧? 居酒屋ハシゴでもする? ホテルのエステツアーとかしてみる?」

「いや、もうゆっくりと外食が出来るだけでもウチは幸せなんやけどな」

「じゃあ、イタリアンの個室で女子会コースとか。あ、もしくはいっそ、スーパー銭湯の女子会コースは?」

「ああっ、それ、ええなぁ!」


 ユミちゃんの提案にウチは叫んでもうた。

 風呂入って、サウナ入って、岩盤浴して、マッサージしてもうて、ビール飲んで、ゴハン食べて、ビール飲んで、また風呂入って、休憩室で寝て、また風呂入って……最高やわ。そして、その間中ずっとみんなでガールズトークぶちかます、ってことやろ? ホンマ、最高やん!

 ウチは想像するだけでドーパミンとアドレナリンが放出して、クラクラしてもうた。


「よっしゃ決まりじゃ。ウチがエステもつけて予約しといたる」


 ユミちゃんが決定して、ウチは舞い上がってちゅー、とソーダ水を一気飲みし、もう一杯お代わりを頼んだ。

 それからは『彼氏以外に他の男を知らん奥手なマコが実はエロい男好き』かもしれん、という疑惑の話題で大いに盛り上がり。

 ウチらは笑い合ってスッキリして、タロウのスイミングの時間が終わると同時に別れた。


 * * * * *


 (夜やけど)洗濯して、風呂洗って、洗濯物干して、明日の弁当の準備して、保育所の荷物を用意して。

 ウチは隣の部屋の布団でスヤスヤ寝てるタロウを確認してから、こっそりとテレビをつけた。始まったドラマを字幕にする。

 タロウが起きないように、ウチはいつも字幕で、音声は最小限にしてドラマを見ていた。

 子供が寝てから、ドラマとともにコーヒーとコンビニのスイーツを楽しむこのひとときもウチの至福の時間。

 大事な時間やと思う。自分でも張り詰めていた心が少し緩むのを感じるから。


 たまに、無性に不安で怖くなるときがある。


 ウチはちゃんと正社員やし、割とええ給料もろとるし、シングルマザーの補助もらって、今のマンションを買った。週末には、タロウを連れてサーフィンにも行ってる。サーファー仲間とも仲良くしてもろてるし、仕事も趣味も子育てもそれなりに全部してるはずなんや。


 それでも。


 夜中に汗をかいて起きたり、心臓がドキドキして眠れんようになることがたまにある。

 ウチはこのままで大丈夫なんやろうか。

 いや、大丈夫なはずなんや。

 ちゃんと毎日、必死にこなせてる。

 タロウは良い子で丈夫で元気に育ってる。

 だから、ウチは上手くやれてる。


 隣で寝るタロウを見て、ウチは自分に言い聞かせて寝ようとする。


 その繰り返し。


 * * * * *


 その日――『スペシャルデイ』は、有給を取った。朝から、タロウをお泊りセットとともに保育園に放り込んだ後、ウチはマンションの部屋を大掃除をした。こんな機会でもない限り、大掃除もできん。今晩の楽しみを考えたら、一仕事は苦じゃなかった。

 ウチは朝からアドレナリンが多く出てるみたいで、自分がメラメ◯イオン(by 妖怪◯ォッチ)に取り憑かれたんやないかと思った。

 ピカピカに台所とお風呂を磨き上げたあと、汗をかいてもうたからシャワーを浴びて、ウチはもう何年ぶりかという勝負服? を着た。そういえば、タロウが生まれてから、ウチの私服はユ◯クロしか着とらん。

 化粧もフルでしてみた。これから、スーパー銭湯に行ってすぐに化粧落とすのは分かってるけど、せずにはいられんかったんや。もう、アイラインをここまでか、ちゅーぐらい埋めて引いたった。

 最大限の努力で自分を盛り立てて、時計を見たら。

 十五時。

 マコとユミちゃんはまだ仕事が終わっとらん。

 早くキメ過ぎたな、とウチは手持ち無沙汰で、コーヒーを入れて、とりあえずテレビをつけた。

 この時間はワイドショー。

 タロウも居らへんし、隣人さんも仕事で居らんやろうし、と思って久しぶりにウチは音声を思いっきり大きくしたった。


「ホンマにかっこようて。イケメンさんでしたわ。ひゃー、私、あんな男前さんみたん初めてどす」


 映ったのは、京都の芸妓さんやった。リポーターに興奮した様子で話している。

 なんや、ハリウッドスターでも祇園に来たんかいな。

 ウチは興味を持って、コーヒーを啜りながら次の映像を待った。


「これがヒタチ王子のお姿です!」


 ごふっ。


 ウチはむせそうになったコーヒーをかろうじて飲み込んだ。

 こ、この外人さんは……。


「ヒタチ王子はなんとイケメン過ぎてネーデルタランド王国から追放された悲劇の王子さまなんですね! はあ〜、それにしてもこの容姿。追放されるのもわかります」


 見覚えがある。

 見覚えがありすぎるやろ!


 ウチの胸を揉みまくったあの外人さんやないか!

 なんや、この人、ホンマに王子さまやったんかいな?!


 ウチはあまりの衝撃にコーヒーカップを口に当てたまま、目を白黒させて画面を見つめた。

 中東のズルズルした白い衣装を着て、つくりもんみたいに完璧過ぎる御顔からは目が離せん。

 こ、これは、あの時よりも更に男を上げよったわ。

 すごいな! ウチ、こんな人にチチ、揉まれてもうたん? 王子、王子やで! いや、これ、どういう運なんよ?

 判明した事実にまだついていけへんウチをほっぽりだして、テレビではヒタチ王子の複雑なお生まれを説明しだした。

 非嫡出子のため、王位継承権はないらしい。それでも他の王家の人たちよりも、国での人気は絶大やったんやって。まあ、そりゃそうやろうな。この顔やったら。

 ところが、王子が美形すぎるために王子を慕う女性たちが嫉妬で刃傷沙汰を起こしたりしたんで、国を追い出されたんやって。

 うーん、漫画に出てくるみたいな悲劇の王子様やな。ウチのチチを涼しい顔して揉んだ男とは思えん。


 ……ええい、よう分からんけど、とりあえず、イケメンさん、こんな日本によう御越し!


 ブブ、とスマホが震えた。ウチはいつもマナーモードにしとる。

 マコから電話や。


「はーい」

『もしもし、キエコちゃん?』


 それと同時に玄関のインターホンが鳴った。

 なんやろ? 宅配かな?

 頼んでいた化粧品がそろそろ届く頃やったはず。

 ウチはスマホを耳に当てたまま、立ち上がって玄関に行った。


『キエコちゃん。ウチ、今日、はよ終わってん。出先から直帰オッケーやってん。もしよかったら、はよ出て、ユミちゃん終わるまで、一緒に茶ァとケーキでもせえへん?』


 マコの話を聞きながらドアの前まで行ってドアスコープを覗き込む。

 そしてウチは雷に打たれたかのように固まってしもうた。


『この間、良さそうなお店見つけた、て言うたやろ? フランス帰りのパティシエさんが開いたお店。モンブランがすっごいねんて。他の店の三倍の高さらしいで』


 ……ウ、ウチは夢でも見てるんやろうか。

 今、ドア一枚を隔てて外に居られるあのキラキラと花と星、背負ってる、このど綺麗な外人さんはどなたでっしゃろか。


『キエコちゃん、栗好きやーん? ウチ、奢るわぁ。折角の日やし。なんぼでも食べてええよ』


 先程、テレビで映って居られた方やないですか。

 何? なんで? どうして?


 ウチはスマホを耳に当てたまま、震える手でドアの鍵を解錠し、ゆっくりと押し開けた。


「こんにちは。やっと逢えたね、仔猫ちゃん。君のことが忘れられなくて。失礼かと思ったけど、とうとう興信所を使ってまで、君のことを調べて此処に」

『キエコちゃん、もしもし? 聞こえてる?』

「……ゴメン、マコ」


 ウチは目の前の王子様を見つめながら、電話向こうのマコに謝罪した。


 ああ、今日は。

 ホンマは女子会三昧で、子供から久々に解放された尊い夜を、有意義に過ごすはずやったのに。

 何カ月も前から楽しみにして、女友達と計画してたんやで。

 それやのに。


「……ウチ、頭痛と腹痛と生理痛と吐き気で、なんか今日アカンかも。ゴメンやけど、今日は諦めて休ませてもらうわ」

『ええ〜! そら、あかんわ! 寝て寝て! 残念やけど、休んどって! ユミちゃんにはウチから言うとくわ。お大事に〜』


 ああ、ウチ。


 ウチは電話を切って、耳から離した。目の前の下界に舞い降りた王子様を見上げる。


「……とりあえず、中に入ってください」


 人生で初めて。


 女友達より男をとる、ていう選択をしてもうたわ……。






 * * * * *



 ……うーむ、やっぱり、こんな展開になってもうたか。


 次の日の朝、まだ暗い夜明け前。

 ウチは王子より先に起きて隣に眠る王子の顔を観察した。

 十月の朝は涼しくて。布団の中で感じる人肌の温かさは心地良くて。


 おかしいな。

 最初は和やかなムードやったんやけどな。


 ヒタチ王子さまを部屋に入れて、コーヒー出して、これまでの王子の波瀾万丈な半生を聞いて。

 夕方になったから、夕飯に何食べたいですか、て聞いたら、日本のカレー、ておっしゃるから。

 それから二人で和気藹々とカレー作って。

 上手くできて、美味しいね、て仲良くお代わりして食べて、食後テレビ見て寛いでたら。


 ……どうしてどうして、いつの間にか布団の中に連れ込まれたんや?

 うーむ、いつの間に? 分からんわ。

 さすが、外人さんやな。

 いや、王子様やからか? この前もわからんうちにチチ揉まれとったしなー。


 ウチは、つくづくとヒタチ王子様の寝顔を横から眺めた。


「……ふふ。めっちゃ、男前さんや」


 薄暗い中、浮かび上がるヒタチ王子の顔は、信じられんくらい整っていて。

 ウチは微笑んだ。

 そっと手を伸ばし、額から鼻筋のラインをなぞる。

 凛々しい太い眉毛に。彫りの深い目鼻立ち。長い睫毛。砂漠のラクダみたいやな……。


 ああ。それにしても。


 この自分の身体全身に満ちる、笑えるくらいの半端ない『スッキリ感』よ。


 なんなんやろう。

 身体は正直、ちゅーか。

 何年ぶりよ、こんなん。


 くく、とおかしうなって身体を揺らして笑ったら。王子が起きてしもうたらしい。


 ウチらはほのかな光の中、ジッと見つめ合った。

 ああ、ホンマに。

 こんな濃厚な時間、何年ぶり……?

 ウチは意識が飛びそうなくらい、クラクラした。――


「……キエコ。君さえ良かったら。僕は君との関係をこれで終わらせたくない。もし、良かったら。君と君の子供と一緒に、僕の側へ来てほしいと思っている。出来るなら一緒に暮らしたい」


 ヒタチ王子の言葉に、ウチは目を見開いた。その瞬間、ウチの頭の中ではいろんなことがグルグル回って。

 王子のフクザツな家庭のジジョーとか、なんか面倒くさい一族の家族だとか、国を追放されたとか、色んな国先で女の子と刃傷沙汰まで起こしたとか、まあ、見るからにプレイボーイであるとか。

 それらが頭を一周して巡り巡って。

 出たウチの言葉は次のそれやった。


「王子さん。……ウチ、タロウの父親も貴方ほどやないけど、王子さま、やってん」


 ホンマにそうやった。

 フィリピン人の船乗りさん。

 ジャニーズに入れそうなほどのイケメンさんで優しい人やった。

 出逢って、しばらく付き合って、タロウを妊娠してもうて。

 こら、結婚せなあかんわ、と腹を括って、彼の実家へ行ったら。


 大豪邸やった。

 お城みたいに大きな家で。

 メイドさんが何人か居て。

 そんでもって、大家族で、親戚の人も何人か住んでて。


「この人と結婚したら働かんでもウチはここで左団扇で暮らせる。でも……ウチには無理やと思ったんや」


 金持ちやったら親戚の人を丸ごと面倒見る、ていう文化。

 それもびっくりしたけど。

 一番重大なことは。


「ウチは日本人やねん。やっぱり日本が好きなんや。日本に住みたいねん」


『こんなところに日本◯妻』みたいな番組とか見ると、みんなスゴイと思う。

 ウチはあんな風なツマにはなれん。

 よくみんな、外国であっさり暮らすのを決意するなあ、と感心する。


「日本人に囲まれて、日本の建物に囲まれて、ショーユの匂いに囲まれて、日本語を話して、味噌汁と漬け物とお茶漬けをウチは毎日食べて暮らしたいんや」


 ウチは融通の利かない、純日本人やとその時、認識した。

 無理、絶対に無理。日本以外の外国で暮らすなんてウチには無理。


「だから、結婚せんと、日本でタロウと二人暮らすのを選んだんや」


 それは今でも後悔してへん。


「タロウと二人で暮らすだけで幸せで満足やと思っとった。でも……貴方と昨日、こんなことになってもうて」


 同じ人肌でも、子供じゃなくて、男の肌が与えてくれた安心感にびっくりした。


「ウチは男が居らんでも大丈夫な女やと思ってた。世の中にはそういう人もいるけど、でもウチはそうやなかったみたい。ウチはやっぱり男が居らんとあかん女みたいや」


 ウチという女にはこんな時間が必要やったんや。男と過ごす時間が。少しでも母親から女に戻らせてくれる時間が。だって、さっき起きた時、あまりの爽快感に驚いた。あんなにぐっすり安心して寝たの、何年ぶり?


「だから……貴方とは」


 ウチは次の言葉を躊躇った。

 打算的やと思われる?

 いや、でもこれが本当の本心で、多分一番現実的。


「お妾……さんにしてくれはる?」


 ヒタチ王子は分からない、というような顔をした。うーん、通じんか。


「愛人さん、二号さん……えーと、ラマン?」


 英語でなんて言うんやろう。


「お妾さん。ウチは日本に住んどって、貴方が日本に来た時の現地ヅマ」


 ウチが言いたいことを理解した王子は複雑な表情をした。


「僕は……君と誠実な関係でいたかったけど。……君がそう望むなら」


 それからはなんだかビジネスライクな話になってしもうた。

 月々の補助額、とか。彼が求める時の拒否権はウチには無い、とか。プレイはどこまでならOKでどこからNGか、とか。

 後でウチはまとめて契約書を作ろうと思った。


 朝食を食べて、食後のコーヒーを飲むまでびっしりとそれについて話し合って。

 保育園にタロウを迎えに行く時間が近づいてきたから、王子は席を立った。


「それじゃ、仔猫ちゃん。とても楽しかったよ」


 王子は素晴らしく男前な笑顔で、玄関で爽やかにウチに言った。


「またね」


 ホンマやろか。

 二回目があるんやろか。

 これからの関係について話し合ったけど、実はこれっきりのバイバイ、とちゃうんやろか。


 疑惑を持ちつつ、ウチは最後に王子とキスをした。

 朝チュンみたいな、軽い、唇と唇が触れるだけの優しいキス。

 はは、やっぱり外人さんはキスが上手いわ。

 昨夜のめくるめくような濃厚な舌使うキスもよろしかったけどな。

 顔を離したとき、少し切なくてウチは胸が痛んだ。


「ほな、さようなら。……貴方が来た時は、貴方の理想の私でお会いしますから。寛げる素敵な空間と時間を提供しますよってに」


 王子の望む私を。従順な可愛い大和撫子。そしておそらくフクザツな家庭のジジョーを持つ彼が、本当に欲しいものである家庭的な雰囲気を。


「また、一緒にカレー作りましょう」


 ウチが微笑むと、王子も微笑んだ。

 そして、ウチらは別れた。



 * * * * *



 化粧落として、シャワー浴びて、ユニク◯の服に着替えて。

 ウチは普段のウチに戻った。

 マンションを出て、爽やかな朝の中、保育園までの道程を歩く。

 また、いつも通りの日常がやってくる。

 歩きながら、ウチはあの映画のラストを思い出していた。


 ローマの休日の。

 オードリー・ヘップバーン演じるアン女王が去った後の記者会見場から。

 アメリカ人新聞記者のジョーがゆっくりと歩き去るシーン。

 グレゴリー・ペックの歩くだけの名演技。

 あのときのジョーの心境、てどんなものやったんやろう。

 夢から、現実に覚めるまでの道程。

 本当に一夜限りの。神様から贈られたおとぎ話のような休日。

 観客であるウチらはそれを見ていて切なく胸が締め付けられたけど。


 実は、当の本人はそんなに悲しくもなかったのかもしれへんな。

 ……今のウチのように。


 ――ホンマに、いい夢、みさせてもろうたわ 。


 昨夜の余韻を思い出して、にんまりとウチは笑った。


 ウチはこの思い出を動力源にして、また毎日を生きていける。


「ママー!」


 保育園のバルコニーからお友達と一緒に、ウチを見つけたタロウが手を振るのが見えた。

 ウチは思いっきりの笑顔で手を振り返し、朝の光の中、保育園に向かって駆け出した。


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