川のほとりのミ.三

 やがて、川の流れが見えてきた。


 森の奥にある川のほとり。


 そのどこかに古びた小屋がある。


 そこに潜むはジュソでも鬼でも、ましてや山姥でもない。化け物の類ではない。

 そこに住まうは女。

 ただの女。


 力も無ければ、鬼のような異能も持たない。ただの女だ。

 化け物に会おうものならたちまち食われてしまうであろう、人の子だ。


 小屋の前まで辿り着いた。 


 走ったわけでもないのに鼓動は何故だか少し速い。


 戸の前で立ち止まる。


 さあ、来たはいいが何と声を掛けよう。

 ふと、考えてしまっている自分が馬鹿らしくなる。いよいよばつが悪く、耐えられず戸に手を掛けた。情けない思いを振り切るように、そこだけ不自然に真新しい木で拵えられた戸を開く。

 レンから手渡された着物も野菜も、結局全部置いてきた。

 どの道俺は、レンさんに怒られるのだろう。


「キョウ、なぜ……」


「しぶとく生きてたか。行くなら支度しろ、この薄鈍」

「そんな、でもわたしにはもうヒナがいないのだぞ。ジュソを見ることも、斃すこともできないのだぞ」

「知るか、そんなこと訊いてないだろう。お前は本当に阿呆だな。行くのか、行かないのか、はっきりしろ」

「しかし……」

 ミは困ったように下へ視線を背ける。

「ジュソが現れてもこれまで通り俺が一人で相手をするのだから問題は無いだろう。お前に力があろうが無かろうが関係無い。お前は……そうだな、森の中をただ案内していればそれでいい。何も変わりはしない。さあ、どうするんだ?」

 正直、こいつの案内などもうあまり必要ではなかった。

 ミは押し黙る。こいつのこんな表情を見るのは初めてであった。

「キョウ……何故だ……」

「何故助ける。やめてくれ。これ以上わたしから強さを奪わないでくれ」

「助ける? 抜かすな。誰が助けると言った。ジュソは俺が斃すが、お前を助ける気は毛頭ない。油断して死ぬのは勝手だ。それどころかあまり邪魔なようならお前ごと切るからな」

 やはり駄目だ。柄にもないことをするものじゃない。自分が矛盾したことを言っているのは、言っている俺が一番わかっていた。苦しい。そう考え始めると急にその場から立ち去りたい気持ちが強くなってきた。もし、次の返事が曖昧なものならば、その時はもう知らん。置いて行こう。もう二度とこの川のほとりには来るまい。

 だがミの曇った表情は次第に変化して行き………、険しくなったかと思うと………最後にはまた困ったように視線を落とした。そして仕舞には、

「ふふ」

 と、小さく笑い声を漏らすのだ。


緋波ひなみだ」


「は?」

 急な言葉にそう聞き返した。

「わたしの名前、本当は緋波という。父上がわたしが生まれた日、何気なく見た川の波に映る夕焼けが綺麗だったからそう名付けたそうだ。でもヒナが名前を持っていなかったからあげたんだ。〝ミ〟だけを残してね。それに家を出た時にどの道、自分の名前を捨てようと思っていたし」

 先祖に罪人を持つ者は名を持ってはいけない習わしがあるので、こいつの先祖は罪人ではなく、元々この島の人間だったのだろう。まあ、呼び名も名前も、今となってはさほど変わらないのだが。

「随分と気前が良いな。自分には一文字残してガキに二文字くれてやるとは」

「お姉ちゃんだからね、当然だよ」

 得意げにというよりも、どこか寂しげにミはそう言った。

「まあ、どの道変な名前だな」

「ヒナはもういなくなってしまったが、呼んでくれる時は今迄通りミでいいよ」

 あの時の一度以外で俺がこいつの名前を呼んだことがあっただろうか。

「ちょっと待て、今着替える」

 そう言うとミは立ち上がった。

「早くしろよ」

 鈍感で神経の図太いこいつのことだ。俺に構わず、すぐにでも服を脱ぎだすに違いない。俺は早めに小屋の外に出ることにする。

 真夏の日差しはまだまだ強く、川の水に反射した光が眩くちらちらと光っていた。

 何気なく、小石を拾っては川へと投げ入れる。

 ぽちゃんと涼しい音をたてて波紋が広がる。

 この明るさでは、そう獲物の期待はできないだろう。

 相手が山菜となれば話は別だが。

「キョウ! 待たせた!」

 扉が勢い良く開け放たれる。

「遅いぞ、薄鈍」

「……………………、ちょームカつく……」

「あ? 蝶が何だって?」

 着物の蝶が翻る。

「何でもないっ! 行くぞ! キョウ!」

 落ち込んだと思ったら今度は子供のようにはしゃぎだす。単純なやつはこういうところだけは良いと思った。何と言って声を掛けようか悩んでいた自分が馬鹿に思えてくる。

 こいつはこういう奴だった。

「キョウ! わたしはキョウが好きだ!」

 少し距離が空いて、あの時の言葉を、けれどあの時とは全く違う語調で言ってくる。

 もちろん俺は、

「俺は嫌いだ」

 とだけ、返しておいた。

 それを聞いたミはなぜか満足そうに微笑むと、俺を置いて一人駆けて行ってしまった。

 期待はできないとは言え、今のあいつはジュソの恰好の餌食だろう。

 まあ、ジュソを討てないとはいえ、良い囮にくらいにはなってくれそうだ。

「キョウ! 何をしているー!」

 腰の刀を整え、少し大げさに嘆息するとミの声が聞こえた方にゆっくりと歩きだす。

 獲物の期待はできない。


 でも今日くらいは何もなくてもいいかなと、なんとなくそう思えた。

 



                           了







※続く? かもしれません。

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かわのほとりのみ 所為堂 篝火 @xiangtai47

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