炎舞の調べ

藤枝志野

1

 この話に登場する梅沢という男は、惜しまれつつ世を去ったピアノ演奏家ではなく、あくまでも私の高校以来の心友である。したがって彼の名前に一切の敬称をつけないことを、この端書きで断わることにする。



     ×



 一年ほど前、私は梅沢が珍しく自宅にいるところを訪ねた。他の日は都合が悪いとかで、彼が地方での演奏会から帰宅したその日のことだったと記憶している。


 彼はN町でも殊に静かな界隈に住んでいた。私は昼過ぎに自宅を出て停車場へ行き、電車に三十分ほど乗った。N町の停車場からはそれほど歩かない。彼の家は、大通りを外れて小さな林の脇を通り過ぎたところにあった。


 家の前に着くと、梅沢が縁側に立って庭を眺めているのが見えた。


「やあ」


 私は手を挙げ、向こうも気づいて


「やあ、来たか」


と答えた。


 石敷を歩いてゆくと引戸の開く音がした。彼が微笑を浮かべて立っていた。


「上がってくれ」

「ああ」


 靴を脱いでいると奥から彼の夫人が出てきて、瓜実顔に上品な笑みを広げた。


「お久し振りです。お変わりなさそうで何よりですわ」

「おかげさまで。奥さんもお元気そうで」


 夫人は笑顔のまま軽く頭を下げ、それから奥へと戻っていった。


 私は彼の家で一番広い部屋に通された。壁のうち一面が硝子張りで、そこから庭が見渡せる部屋だ。中央にピアノが置かれ、黒塗りの表面に庭や部屋の風景を歪めて映していた。


 私と梅沢は椅子に掛け、夫人の運んできた茶をすすりながら、しばらく雑談を交わした。高校時代の級友と会った時の話から始まり、尽きることなく話題を出し合った。


 それが一段落したところで、彼は


「何か弾こう。今日は調子が良くてね」


と言いながら立ち上がった。


 今推測するに、「今日は調子が良い」というのは、単に気分が良いということだけではなかったのであろう。あの時彼は、病を――その命を奪うに至った病を得ていたのだ。彼はきっとそれをひた隠しにしていたのだと思う。全国を駆け回っては演奏し、疲労が重なっていたにもかかわらずである。


 おそらくまだ軽い症状であったとはいえ、私は気づくことができなかった。いや、ほとんどの者が気づいていなかったに違いない。


「贅沢だな。名演奏家の舞台を独り占めか」

「ははは。そんな大げさに言ってくれるな」


 梅沢はピアノの鍵盤の蓋を開け、臙脂色の布を取り払った。


「さて、何にしようか。注文はあるかい。ベートーヴェン、シューベルト、……」

「あいにく作曲家には詳しくなくてね」


 私は苦笑した。


「持っている音盤の曲目も、ろくに覚えちゃいない」

「そいつはいけないなあ」


 彼はおどけたような笑みを浮かべて、しかし少し残念そうに言った。


 そして一つ息をつくと、舞踏の始まりに婦人に触れるような恭しさで、両手を鍵盤にのせた。


 静まった空気をほどなく揺らしたのは、重く強烈な二つの響き。続いて滑らかな音の流れが湧き出し、うねりながら部屋に満ちはじめた。どこかに恐ろしさを隠した、麗しい旋律であった。


 調べを紡ぐ彼の指のひらめきに、私はあるものを見た。何か。蝶である。蝶が羽をせわしなく動かして、月と星の光を浴びながら、花咲く森の中で舞う……それに似ている。


 私はその神秘的な映像を脳裏に浮かべていた。だがわずかののち、違和感が頭をもたげてきたのに気づいた。映像の中の蝶を追うとどうだろう。私は、その淡い山吹色の羽の隅に刻まれた、目玉のごとき模様を認めたのである。


 その途端、風景が一変した。


 幽玄な森は跡形もなく消え、蝶を――否、蛾を包むように、深く広い真っ暗闇が広がった。続いて闇の底から、ごうという音が聞こえたかと思うと、紅蓮の火柱が噴き上がった。


 曲調が穏やかなものへ変わっても、元の流れるような旋律に戻っても、蛾は酔いしれているかのように軌道を描き続ける。炎の周りで、時にその中へ飛び込んで、身を焦がしながら飛び回る。炎は絶えず渦巻き、闇に鮮烈な朱を浮かび上がらせている。


 やがて彼の左手が、夜明けを告げる鐘のように荘厳な音を鳴らしはじめた。旋律が終末に近づくにつれ、炎も徐々にその勢いを失っていく。蛾もいよいよ狂ったように飛び巡る。


 そしてついに炎は消えた。あとには空虚な闇と、ほのかに白く光る、動かなくなった蛾が残された。


 我に返ると、動きを止めた梅沢の指が鍵盤から離れるところだった。


「ショパンだ」


 彼が言った。わずかに息を切らしていた。


「ショパンは、自分が死んだらこの曲の楽譜を処分するよう言ったらしい。しかし誰かが題名をつけて公表したそうだ」


 そのあと私は再び彼と雑談に興じ、空がすっかり暗くなった頃に彼の家を辞した。


 彼は私を見送るべく外に出た。


「風邪をひくなよ」


と私は言った。


「ぐんと冷えるぞ」

「寒い日は部屋にこもって音盤三昧さ。だろう?」


 彼が言った。彼の顔にあったのは、私を迎えた時と同じ微笑であった。


 それ以来、ついに私は彼に会わなかった。会わないまま、今年の秋の終わりに、彼の訃報を聞いたのである。




 終

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炎舞の調べ 藤枝志野 @shino_fjed

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