僕と先輩とこの坂と一駅間の時間
綾部はるか
*
通り雨が過ぎると町は再びその暑さを取り戻した。いや湿気が増した分より暑苦しくなったというべきかもしれない。僕はここ最近の異常気象とそれを引き起こしているであろう世界各国に対して恨み言を呟きながら駅へと続く長い下り坂を下っていた。
漫画やアニメでよく描かれるような異常なまでの急坂という訳では無いけれど、地味に続く地味に急な坂は毎日の通学を憂鬱にさせる一番の要因だ。自宅から一駅電車に揺られその後待ち受けるのがこの坂。
一応駅から学校の真ん前までを直通で結ぶ路線バスが走っているし、住宅街の中の抜け道を通れば少し通学は楽になるということは知っている。
でも僕があえてこの坂を昇り降りする理由はただ1つ。
「あの先輩」が僕の歩いている途中に自転車で駆け抜けて行くのを見れるから、だ。
クラスの友達にもこの理由は言ったことが無いが、もし告げたところで馬鹿馬鹿しいと一笑されるのがオチだろう。
そんなに興味があるなら一言声を掛けてみたらどうかだって?
僕にそんな勇気があるはずも無いし、猛スピードで坂を下っていく彼女に話しかけることも、一度でも途中で止まったら負けだ、みたいな顔をして必死に坂を登る彼女を呼び止めて話しかけることも出来るはずがない。
何と言っても初めて彼女を見てから約半年、季節とともに移り変わる彼女の長い黒髪に小さなアクセントを添えている髪飾り(や制服の隙間からちらりと見えた下着)についてはある程度分かってきたけれど、彼女の名前さえも知らない。
制服とネクタイの色で僕と同じ学校の先輩なんだなと分かったぐらいだ。
でも正直僕はこのままでもいいと思っている。僕と先輩は絶対に釣り合わないことは誰が見てもすぐ分かることだし、実際に話してみることでこの先輩への一種の幻想的な物が壊れることも少し怖かった。
後ろで自転車のベルが鳴った音が聞こえた。
先輩がもう少しで降りてくる。僕は偶然振り返ったような顔で後ろをこっそり見る。
ブレザーとカバンを前カゴに入れてピンク色のシャツ姿の先輩が見えた。
心の中で「こんにちは」と小さく挨拶して僕は再び駅への道を下り始める。
その数十秒後、勢いに乗った先輩の自転車が僕の横を猛スピードで走っていって……
壮大にスリップしてズッコケた。
そして次の瞬間、僕を彼女のカバンとブレザーが直撃した。
重いものにぶつかった衝撃と、でもふんわりとした優しい匂いに包まれた感じとで複雑な心境のまま立ち上がった僕の目の前にあったのは僕の方を心配そうな、そして少し痛みを堪えるかのような表情で見つめる先輩の姿だった。
「だ……大丈夫ですか?」
「僕は大丈夫です。それより先輩こそ大丈夫ですか?相当派手にすっ転んだようですけど」
「私は……多分大丈夫」
恥ずかしいところを見られてしまった//みたいな感じで少し照れたような、でもやっぱりさっきと同じく少し痛みを堪えてそうな表情の先輩。
「後輩にこんな格好悪いところ見せてしまうなんて私ってダメダメだね」
先輩は足を打ったのか少し足を引きずるようにして自転車を持ち上げる。
僕も華の香りのするブレザーと鈍器並の重さのカバンを持ち上げてカゴに乗せる。
「カバンとブレザーです。それと……あの、良かったら坂の下まで押していきましょうか?」
「いや……いいよ悪いし。私が一人で馬鹿なミスしただけだし」
「いくらなんでもその歩き方してる人に無理させられませんって」
「本当にごめんね……」
申し訳なさそうに僕の方を見る先輩の整った顔は相変わらず美しく、でもいつもの見慣れた顔では無かった。
坂を下る間、僕も先輩も何かを話そうと話題を探したがどちらもなかなか切り出せず結局駅前まで来てしまった。
「あの、先輩ってお家どこですか?俺はここの駅から電車なんですけど」
「わ……私もここから電車」
「じゃあ荷物は持ちますから」
なぜこんなに積極的に行動出来たのだろう。少なくとも下心とかそんなつまらないものじゃなくていつも見ているあの先輩が辛い顔をしているのを見たくなかったのだ。
そして自分が少しでも役立てたらいいと思ったからだ。
「えっと……峯岸芳樹くん……?今日は本当にありがとうね」
「いえ、木崎先輩」
電車の中は少し混んでいたが先輩を座らせることが出来るぐらいの座席の余裕はあった。この場でやっと僕と先輩はお互いの名前を知った。
木崎美咲先輩。僕の通う高校の三年生。先輩も僕のことに前から気付いていたらしい。いつも坂を一生懸命昇り降りしている後輩。でも僕と先輩の関係はそれ以外に接点は無く、こんなことでも無ければお互いのことを知る機会も無かった。
色々と話したいことはある。通学のこと、学校のこと、部活のこと。
色々と知りたいことがある。好きなもののこと、嫌いなもののこと。
でもそれを語るには電車一駅分の区間は短すぎた。
到着案内の放送が流れ駅が見え始めた。
「じゃあ僕はここの駅なので、お疲れ様でした」
僕は先輩の返事を待たずに開いたドアからホームへ飛び出した。
連絡先を交換?いやそんなことをしなくともまた僕も先輩も必ずあの坂を明日も登るはず。ならば僕と先輩はまたすぐ会える。少なくとも今度はお互いを知った状態で。
僕と先輩とこの坂と一駅間の時間 綾部はるか @haruka_ayabe
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