第4話 一人称 と 三人称

「……それで、人称のついでなんだけどぉ?」

「……あぁ……」


 またもや多重人格のように切り替えて体を離す彼女。

 何度目かのやり取りだが同じように姿勢を正す彼であった。


「お兄ちゃんって……まぁ、私やラノベの真似まねをして書いているだけなんだろうけどぉ? 三人称と一人称って、どっちが簡単で、どっちがむずかしいと思う?」

「え? ……確かに真似して書いただけだから、一人称も三人称も実は全然知らないからなぁー。……でも、一人称って自分の視点で書けるんだよな? 三人称って全体を見ているイメージだし、自分の目の前のことだけ書く分、三人称よりも楽なのか?」


 あくまでも彼女の作品とラノベを真似しているだけの彼は、特に意識して書いていたのではなかった。

 まぁ、そこを意識していればコロコロと視点が切り替わることも実はないのだろうが。

 彼女の質問に自分なりの答えを提示する彼。ところが。


「うーん……こんな質問しておいて、アレなんだけどぉ~。実は、どちらも何も変わらないんだよぉ~」

「……なんだよ、それ?」


 彼女は苦笑いを浮かべて「どちらも変わらない」と言い放っていた。

 そんな答えに唖然あぜんとなっていたのだが、怪訝けげんそうな表情に変えて言葉を返す彼。


「よく『一人称の方が楽だ』とか『三人称の方が難しい』って言う人とかぁ? もちろん、その逆の人もいるけどねぇ……中には『どっちがいいですか?』とか『どっちが読みやすいですか?』なんてアンケートを取る人を小説投稿サイトで見かけるの」

「そうなのか?」

「うん……でもね? 本来は一人称と三人称って、何も変わらないはずなんだよぉ? だから、お兄ちゃんに質問したの。知っている人なら……例え、引っかけ問題だとしても、個人の好みはともかく『どちらも同じでしょ?』って答えが返ってくるはずだから」

「そ、そっか……なるほど、な」


 彼女の言葉に理解を示す彼なのであった。

 なお、彼女の言ったことは活動報告や小説の前書き後書きで見かける事案である。

 しかしながら、一人称と三人称。実のところは彼女の言葉通り『どちらも簡単であり、どちらも難しい』のが正解なのだと考えている。

 そもそもの話。

 一人称と三人称を「簡単だから」とか、「難しいから」などで書き分ける作者などいない。否、小説を書ける作者ならばいないはずだ。

 一人称と三人称は、物語の構成によって書き分けるものである。


 一人称のメリットとデメリット。

 主人公目線で描くことにより、本人の心情や思考を深く詳細に伝えることができるのがメリットだろう。

 逆に、自分以外の情景は見える範囲でしか描けないから、大きいテーマの場合には向かない。

 つまり、一人称とは自分の周辺の小さなテーマを深く掘り下げるのが特長だろう。

 簡単な例だと、恋愛もの。ホームドラマ。日常系作品などが一人称に適した代表作だと思われる。


 三人称のメリットとデメリット。

 第三者目線で描くことにより、全体的な状況を描け、多人数を同時に描写できることがメリットだろう。

 逆に、人物の表情と言動しか描けない、個人の心情や思考はあまり深く描けないから、小さいテーマには向かない。

 そして、進行が第三者であることから。

 一人称のように当事者でない以上、語り部に必要以上の感情を持たせないことが主だと思われるので、地の文での感情起伏きふくがなく、堅苦かたくるしく淡々たんたんと話が進んでいくのだろう。

 つまり、三人称とは舞台全体の大きなテーマを広く浅く描くのが特長だろう。

 簡単な例だと、推理もの。スポーツドラマ。戦争ものなどが三人称に適した代表作だと思われる。


 もちろん、例は必ずしも当てはまる訳ではないが。

 自分の作品のテーマが「小さく深い」のか「大きく浅い」のかで、どちらにするかを決めるのが本来なのだろう。

 なお、「小さく浅い」は日記だろうし。「大きく深い」を書けるのは膨大ぼうだいな知識量と類稀たぐいまれなる文才によるものだろうから基本はこの二つが小説には適しているのだと思われる。

 私の場合は心情系作品。つまり「小さく深い」作品を書くのが好きなので基本一人称を好む。とは言え、テーマによって三人称作品も書いているのである。


「そもそもさぁ?」

「おう……」

「本当なら一人称と三人称って『誰が』話を進めるのかって部分の話でぇ、書き方には何も変化がないんだと思うんだよぉ?」

「そうなのか?」


 彼女の言葉に驚きの声をらす彼。

 なお、一人称と三人称がテーマで書き分けられていることは彼女も知っている。そして彼女の「何も変化がない」と言った意味は、あくまでも一人称と三人称の『書き方』の話である。


「まぁ? そうは言ってもラノベでも一人称だと『一人称でしかない書き方』になっているから同じだって思えないかもねぇ~?」

「なんだ、そりゃ?」


 苦笑いを浮かべながら答える彼女の言葉に疑問をぶつける彼。

 一人称なら『一人称でしかない書き方』なのは当たり前なのではないか?

 そんなことを考えている彼に言葉をつなげる彼女。

 

「簡単に言ってしまえば、一人称って……主人公の目で周りを見ているんだよね?」

「いや、当たり前だろ?」

「そう言うことじゃなくてぇ……アドベンチャーゲームみたいだってこと」

「あ、あぁ……いや、だから当たり前じゃないのか?」


 彼女の言葉に反論する彼。

 アドベンチャーゲームのゲーム画面は基本主人公の目線でゲームが展開される。

 現実の自分を主人公にしているような感覚だろう。

 そう、一人称なのだから主人公目線になるのは当たり前。彼はそう思っているのである。ところが。


「本来違うんじゃないの?」

「え?」


 彼女は怪訝そうな表情で言葉を紡ぐ。


「だって、作者は主人公じゃないんだよ? あくまでも登場人物の代筆者なんだよ?」

「お、おう……」

「だったら主人公を動かさないで、どうやって主人公を描けるの?」

「え?」 

「文字しかない小説で、どうやって作者にしか見えていない主人公を読者に理解してもらえるの?」

「は? ……」


 そんな彼女の繋がれた言葉に困惑する彼なのであった。


 そう、小説において主役は登場人物であり、作者は単なる代筆者である。

 一人称は主人公が物語を描いているように思われるだろうが、実際には主人公は自分の普段の生活をしているに過ぎない。決してストーリーテラー。語りではないのだ。

 主人公の普段の生活を文字に起こしているのは代筆者である作者なのだろう。

 つまり、一人称小説とは主人公が物語そのものを語りながら進めているのではなく、主人公を中心に物語が進んでいく様子を作者が代筆している。そう言うものだと思われる。


 ところが最近の小説ではアドベンチャーゲームのように、主人公の目で見て。

 そして、主人公の思考や感情だけで話を進める作品が多く見受けられる。つまり主人公が語りになっているケースが多いと言うこと。

 さて、どのようなものか簡単に文章を作ってみよう。


 

■ 


「……それで、人称のついでなんだけどぉ?」

「……あぁ……」


 突然人が変わったように俺から離れて真面目な顔で言葉を紡ぐ妹。 

 毎度のことながら、なんでこうもコロコロ態度が変われるもんかね? お前こそ多重人格なんじゃないのか?


「お兄ちゃんって……まぁ、私の真似をして書いているんだろうけどぉ? 三人称と一人称って、どっちが簡単で、どっちが難しいと思う?」

「え? ……真似して書いただけだし、三人称は知らないからなぁー。……でも、一人称って自分の視点で書けるんだよな? 三人称って全体を見ているイメージだし、自分の目の前のことだけ書く分、三人称よりも楽なのか?」


 唐突に俺へ向かって質問してきた妹。

 なんだよ、それ? えっと、どっちが簡単でどっちが難しいと思うかだって?

 俺は素直に自分の考えを妹に紡いでいた。ところが。


「うーん……こんな質問しておいて、アレなんだけどぉ~。実は、どちらも何も変わらないんだよぉ~」

「……なんだよ、それ?」


 訳がわかんねぇ。どちらも同じとか……だったら何で聞いたんだよ?

 苦笑いを浮かべた妹は「実は、どちらも何も変わらない」とか言い放つのだった。

 



 冒頭の話を彼の一人称で書いたのだが。申し訳ないが私は、このような書き方をしないので上手く伝わるのかが理解できない。

 要は主人公である彼の視線と脳内だけで地の文をつづっているのだが。往々おうおうにして、こんな感じなのではないだろうか。

 だが、このような書き方で主人公が描けているのだろうか。きちんと主人公を脳内で再生できるのだろうか。

 彼女が言いたかったのは、こう言うことである。

 では、同じ文章を普段の私の書き方……つまり、本編の書き方で書いてみよう。 




「……それで、人称のついでなんだけどぉ?」

「……あぁ……」


 突然人が変わったように俺から離れて真面目な顔で言葉を紡ぐ妹。

 毎度のことながら、なんでこうもコロコロ態度が変われるもんかね? お前こそ多重人格なんじゃないのか?

 そんな呆れた感情と戸惑いを混ぜたような表情を浮かべて妹に相槌を打っていた俺。


「お兄ちゃんって……まぁ、私の真似をして書いているんだろうけどぉ? 三人称と一人称って、どっちが簡単で、どっちが難しいと思う?」

「え? ……真似して書いただけだし、三人称は知らないからなぁー。……でも、一人称って自分の視点で書けるんだよな? 三人称って全体を見ているイメージだし、自分の目の前のことだけ書く分、三人称よりも楽なのか?」


 唐突に俺へ向かって質問してきた妹。

 俺は驚きの声を漏らしてから苦笑いを浮かべて素直に言葉を返す。

 そして、少し斜め上を見ながら俺は素直に自分の考えを妹に紡いでいた。ところが。


「うーん……こんな質問しておいて、アレなんだけどぉ~。実は、どちらも何も変わらないんだよぉ~」

「……なんだよ、それ?」


 苦笑いを浮かべた妹は俺の予想のはるか斜め上の答えを言い放つ。

 一瞬斜め上すぎて答えを見失っていたのだろうか。理解が追いつかずに唖然としていた俺。

 ……いや、待て? 「どっちが簡単で、どっちが難しいと思う?」って質問だったよな?

 なんで答えが「実は、どちらも何も変わらない」になるんだよ? それ、答えになっていないだろうが……。

 少し不機嫌さを含ませた声色で怪訝そうに言葉を紡ぐ俺なのであった。




 簡単に書いてみたのだが、違いは理解してもらえただろうか?

 

 私は『普通の書き方』をしているのではないから断言はできないのだが。

 大抵の作者は、自分の目を主人公の目にしているのだと思われる。つまり自分が主人公に憑依ひょうい。ゲームのプレイヤーのような立場として演じながら文章を書き起こしているのだろう。


 最近のは知らないのだが、ゲームの主人公とは往々にして目の描かれない人物が多かった。

 それはアニメで言うモブキャラに目がないのと同義だろう。

 主人公はプレイヤー。だから必要な要素である顔を不明瞭ふめいりょうにすることでプレイする「自分が主人公なのだ」と感じさせることを指し示しているのだ。

 つまり現実の自分の視線の先がそのままゲームの世界になる。そんな感覚なのだろう。

 そして、そう言う感性で小説にも反映しているから上記のような書き方になってしまうのだと推測すいそくする。

 

 しかし、私の場合。どちらかと言えば三人称、つまり第三者視点で主人公のことも見ているのだと思う。

 その上で、別モニターで彼の視点を見て、スピーカーで彼の心の声を読み取っているのである。

 私も詳しくはないので違うのかも知れないが『一人称俯瞰ふかん視』と呼ぶのかも知れない。

 なお、俯瞰とは『高いところから見下ろす』と言う意味である。

 つまり一人称でありながら全体を見回す三人称の視点もあわせ持つと言うことなのだろう。

 とは言え、神視点と呼ばれる『主人公が知らないはずの話の展開も全部知っている』なんて馬鹿げた代物を指す言葉なら別物ではあるのだが。

 私の場合は主人公が客観的に自分を見つめているに過ぎない。

 感情や思考に主人公の表情や行動を添えて文字に起こし、それにより台詞を補完しているのだ。

 

 これは以前書いたことなのだが。

 会話では人物の描写は不可能である。当然ながら地の文に感情や思考だけを羅列られつしても同じこと。

 主人公にも描写は必須なのだと思われる。

 そう、彼の目で描写をすれば彼自身など読者には伝わらない。

 当たり前だ、知らない者へ「彼の台詞はこう言う心情と表情と行動から導き出されるんですよ?」と教えずに勝手に自分だけで進めて、誰が理解できると言うのだろうか。

 唐突に目の前で会話を始める人がいて「何やってんだ? 頭大丈夫か?」などと不審に思わないだろうか。本人的にはハンドフリーの通話をしているだけだとしても……。

 これが、きちんと電話を耳に当てて会話を始めていれば、人は「電話なんだな?」と思って何も思わないのだろう。

 そう、相手に伝わるように彼の表情や行動描写を入れて、はじめて彼の台詞と心情が伝わるのである。


「きちんと読者にも主人公の言動を伝えないとぉ~」

「……伝えないと?」 

「外側から読んでいる読者には、薄っぺらい紙切れに人を書いたような『何か』が動いて会話しているとしか思えないんだよぉ?」

「――うぐっ! ……」


 ジト目で紡がれた彼女の言葉に、ぐうの音も出ない彼なのであった。


 小説を読む人間にとって、小説はゲームではない。

 まして三人称が存在する小説において、自分を完全な主人公目線で読み進める人物もあまりいないのだと思われる。

 そもそもゲームのように選択肢によって自分でストーリーを読み進めることもなく。

 作者のいたストーリーを淡々と読み進める他にないのである。

 それなのに読者が主人公になりきって物語を読み進める必要があるのだろうか。

 普通に世界の外側から……アニメや漫画のように物語を眺めていれば問題ないのだろう。その上で主人公に共感なり考えをめぐらせれば問題ないのである。


 それが主人公をまったく表現せずに主人公目線で描かれれば彼女の言葉通り、紙切れに『主人公』とでも書かれたものが右往左往うおうさおうしているだけなのではないだろうか。

 作者の脳内には主人公像が浮かび上がっているのだろうが、文字で表現しない限り読者には伝わるはずもない。簡単に言えば主人公は微動びどうだにしていない状態で、会話と感情を漏れ流している移動式のカメラでしかないのだろう。


「だからねぇ? 本当に読者へ理解してもらえる小説を書くのだったら? 仮に一人称でだって三人称のような書き方を加えないと無理なんだから、そう書くしぃ? 三人称にだって一人称の心情なんかを適度に加えないと理解できないんだから……結局どちらを書いたとしても同じような書き方になるんだよぉ」

「そ、そうか……」

「まぁ? 逆に全然理解を求めない自分勝手な妄想を書く場合だって? 三人称も一人称と同じような……ただ目で見たことと自分が考えたことしか書かないのだから、結局同じなんだけどねぇ?」

「……」


 呆れた表情で紡がれた彼女の言葉に言葉を失う彼であった。


 彼女の言葉を要約すれば。

 テーマによって一人称と三人称を書き分けるとは言え。

 それはあくまでも視点の違いなだけで描写においては何も変わらない。両方の視点描写を駆使くししなければ相手には伝わらない。

 つまり、両方の視点をもちいている時点で、二つの人称に違いなど存在しない。

 逆に理解を求めない場合も、単なる視点の違いだけで描写においては何も変わらない。目の前に起こっていることを淡々と綴っているだけなのだから。

 そう言うことなのだろう。

 

 わかりやすく言ってしまえば、そもそもの小説の一番大事なこと。

 相手に作者の思い描く内容を理解してもらう。

 この基本部分が一人称だろうが三人称だろうが変わらないのであれば、書き方が変わらないのは当然なのである。


 とは言え、この普通の書き方を否定しているのではない。きちんとメリットも理解しているつもりだ。

 それは――大幅に文字数をけずれること。冗長じょうちょうにならず話が簡潔に進んでいくこと。

 冗長とは『述べ方が長たらしく、無駄のあること』である。

 事実、私の作品は冗長だと思う。それもまた読む気を失せる要因なのだとも考えている。

 しかしプロの作品が「こうだ!」からと言って、同じように真似をしてはいけない。

 何故なら書籍として形になっている作品と、一発書きに近い個人投稿の作品を一緒にするのは間違いなのである。


 書籍化されている作品と言うものは、緻密ちみつで膨大なプロット。

 そこからなる書籍の形の、その何倍もの文字数を費やし、改稿かいこうに改稿を重ねて最低限の進行まで削り取ったのが書籍化なのだろう。書籍には文字数制限と言うけられない問題があるのだから。

 仮に主人公視点で描かれていても削られた部分が存在する。そう、行間として確固たるメッセージが残っているのである。

 要するに、プロの作品には行動や状況など一つ一つの文章にすら作品を彩る伏線ふくせんが張られているのと同じなのだろう。

 つまりは表面上だけを見て「プロが書いているから真似よう」と思い、同じように書いたところで。

 描写に何も意味を持たないスカスカの文章。単純に主人公の日記や独り言にしかならないのである。


 だから私は冗長だとしても、あえて描写一つ一つを丁寧ていねいに手をかけているのだ。

 プロットを作らない私にとって、作品そのものがプロットなのである。当然、完結を迎えたら更に修正を加える予定ではいる。

 しかし――。


「そもそもねぇ?」

「お、おう……」


 ため息まじりにつぶやく彼女に驚いて返事をする彼。


「こう言う書き方で……何日も経過してから読み返してぇ、お兄ちゃんは主人公を把握はあくできるのぉ?」

「え? ……できないのか?」

「できる訳ないじゃん。何日も経過してからって、一週間とかって話じゃないからね? ……それに、書き続けているなら、その間にだって物語を進めているんだよ? どんどん内容が蓄積ちくせきされているんだよ? 最初の頃の部分まで覚えている訳がないんだよぉ。それに把握って言っても書かれている部分の話じゃなくて、行動だったり心情だったり……もっと言えば、行間にあるメッセージを読み取れるのかってことだよぉ?」

「……」


 彼女の言葉に唖然となる彼。

 私の言った「冗長だとしても、あえて描写一つ一つを丁寧に手をかけている」理由はこれなのである。

 確かに書いた直後数日間ならば、思い描く映像は脳裏に残っているだろう。

 だが時間が経過してから読み返した時、思い描いていた主人公の映像が脳裏に再生されるだろうか。

 まして、連載をするとなれば新しい話の展開が次から次へと脳内に積み重なっていくのである。

 文字として残してあるものを脳内で常に保存する必要もないのだと思われる。小説を読み返せば済む話なのだから。

 ところが、時間が経過してから読み返すのに何も描写がされていない、主人公視点のゲーム展開で描いていた場合。


 書かれていることしか把握できないのではないか。

 書いた時に思い描いていた主人公の映像が把握できるのだろうか。

 更に、まったく描いていない行間を読み取れるのか。


 特に最後のが一番厄介やっかいなのである。

 描いていない行間とは、隠しているメッセージや本当の心情や真実。本文を読んだくらいではたどり着けない領域りょういきである。

 つまりヒントとなる要素を盛り込まなければ考察することは無理なのだろう。


 私の本編は彼の一人称で書いているのだが。

 あくまでも彼の脳内の考えしか文章に起こせないのだ。当たり前だ、彼の一人称なのだから。

 つまりヒロイン達の、彼の目に映る描写や会話は書けてもヒロイン達の本心は書けないのである。

 ……もしかしたら、書かれていることが全部真実だと思っている読者がいるのかも知れないが、私は真実だけを書いているつもりはない。作品に書かれていることだけで理解されても困るのだ。

 当然、作者である私は彼女達の心意を理解して、その上で彼女達の行動の意味を考え。

 そして、理解した上で彼の的外れな解釈を綴っているのだ。


 私の小説が冗長になる理由。

 行間を読み取らせるヒントを含ませていると言うこと。

 そこから導き出す真実を理解できるようにしていると言うこと。


 時間が経過すれば自分の作品ですら他人の作品と変わらなくなってしまう。

 長期連載になれば最初の頃と矛盾むじゅんしょうじてくる。それは時間の流れなので当然だとは思うが。

 特に捨て置いても問題ない部分と、絶対に取り違えてはいけない部分が存在するのである。

 その見極めに重要なのが、行間を読むと言うこと。行間は作品にとっての核だと考えている。

 それが、何も描かれていなければ行間を読み取ることなど不可能なのだろう。

 そう言う不安を解消する役割をになっているのである。


「だから、まずは自分が読者になって……時間が経過しても自分で理解できるように書かなくちゃダメなんだよぉ?」

「そ、そうか……」

「そうそう♪ だからぁ~、理解してもらえるように書くには一人称も三人称も書き方には何も違いがないんだよぉ」

「なるほどな……」


 彼女の言葉に納得の笑みをこぼして言葉を返す彼。

 最初から理解はしていなかったのだが、きっと知っていたら違いについて悩んでいたのかも知れない。

 だけど実際には視点の違いだけで、読者に理解を示すことには何も変わらないのだと理解する彼なのだった。


「……そもそもねぇ~♪」

「……な、なんだよ?」


 理解されたことを確認した彼女はほほを染めて、ニンマリとした笑顔を浮かべ、おもむろに彼に近づいてくる。

 そんな彼女に焦ったように後ずさりしながら声をかける彼。当然、彼も理解していることなのだが。

 

「私から見れば、お兄ちゃんは『私の旦那さま』的な『彼』だけどぉ……お兄ちゃんから見れば『小豆の旦那さま』的な『俺』じゃない? だけど結局呼び方が違うだけで、お兄ちゃんが私の『旦那さま』なのには変わりはないの!」

「……は?」

「つまりぃ、人称が違っても『小豆の最愛の旦那さま』には変わらないってことなんだよぉ~♪」

「って、変な『認証』まで加えるんじゃねぇー!」


 言い切るや否や、彼の胸に飛び込む彼女にツッコミを入れる彼。

 ……こんな『にんしょう』違いなアピールをする彼女なのであった。

  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小説の書き方を勉強していこうと思います いろとき まに @minamibekoyori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ