幸福は続く、どこまでも

 入り口の水汲み場で水を汲み、夕輝の墓まで運ぶ。

 「中野家」と表面に大きく印字された桶を右手に、柄杓を左手に持って、階段を下りていく。墓場というのはどこも限界ぎりぎりまで墓を詰め込むもので、この霊園も例に漏れずそうであったから、非常に歩きにくい。何度かふらついて、水を溢しながら夕輝の墓に近づいていく。

 夜美は先に墓の前にいた。彼女はビニール袋から新聞紙に包まれた花を取り出し、半分に分けていた。僕は苦い思いを抱きながら、その花を見やった。

 花の絵を描いたのは、僕が夕輝の死を思い起こしたからなのだろう。


「こういうのって、作法とかあるんですかね」


 僕は桶を地面に置きながら、夜美に問いかける。夜美は僕の方を一瞥し、


「別に、誰が見てるって訳でもないんだし、どうでもいいんじゃない。他の墓に迷惑かけなければ」


 僕はそう言われて、霊園全体を見渡した。休日の昼間だというのに、僕たち以外の人は見当たらない。墓参りの時期ではないから、こんなものなのだろう。

 形や大きさの違う様々な墓が並んでいるが、夕輝の墓――すなわち中野家の墓だけは群を抜いて大きく、囲いまであった。死後まで財力に左右されてしまうものがあるということが、まざまざと示されている。


「ねえ、暇なら花入れに水、入れて」


「あ、はいはい」


 僕は桶から柄杓で水を取り、墓の前の階段を上る。花入れには、花が無造作に突っ込まれていた。こみ上げる苦笑を何とか噛み殺し、水を差し入れる。


「後は何すればいいんですかね」


「んー、お墓の掃除?」


 夜美は袋をがざごそと探りながら、返事をしてきた。僕は墓に目を落とす。立派な墓にしては、かなり汚れていた。誰も掃除をしないのだろうか。これを拭き取るのは、骨が折れそうだ。


「……」


 僕は続いて、桶に目を移す。そしてそれをやや荒々しく掴んで階段を駆け上がり、墓の上で勢いよくひっくり返した。ざばあ、という音を立てて、水が石の上を滑り落ちていく。石の色が濃い色に変わっていく。


「ちょっと! 何してんの」


 夜美は慌てふためいた様子で、こちらに駆けてくる。その手には百円ライターと思しきものと、緑色の線香が握られている。


「他の墓に、迷惑かけないでって言ったじゃん」


「囲いがあるので、水が零れることはありませんし。迷惑はかからないんじゃないかと」


「だからって……」


「ここに入ってるの、今は夕輝だけなんでしょう。ならこれでいいですよ。面倒だし」


「……君って、たまーに、ものすごく子供っぽいよね」


 夜美は呆れたように肩を竦めて、足を小さく前に蹴りだした。つま先から、ピチャン、と水の跳ねる音がする。


「あーあ、このサンダル駄目になっちゃった。だいたい、こんなんで、線香大丈夫なのかなあ」


「あ、線香入れるとこだけ、拭いときますよ。雑巾とかあります?」


「あるよ。ていうか、それ、もっと早く聞いてよ」


「すみませんすみません」


 夜美から真っ白な雑巾を受け取り、墓石の前にある線香皿にあてて、水分を吸わせる。


「はい、線香。甘粕の分」


 一通り拭き終わると、夜美が持っている線香の半分を僕に渡してきた。


「あ、ありがとうございます。先にどうぞ」


 僕は一歩下がって、夜美を促す。夜美はコクリと頷くと、墓の前でしゃがみこんだ。やがて、立ち上がって手を合わせる。僕は夜美の背を見て、それから、流れていく煙を見た。線香の細く動く煙は、いつも霊魂の形を想起させる。

 夜美のお参りは、存外早く終わった。


「もういいんですか」


「うん、どうぞ」


 今度は夜美が後ろに下がる。僕は水で湿った石の上を踏みしめるように歩き、墓の前で立ち止まる。

 中野家の墓。これを見るのは、葬式のとき以来だった。僕は機械的な動きで線香を線香皿に入れ、合掌した。

 目を閉じても、僕は何も思わなかった。祈らなかった。

 祈るという行為はすべて、自分の思いを整理することにすぎない。自分のためでしかないのに、他人のためだと当たり前のように思える。そこには、自己正当化のような気持ち悪さがある。

 だから、僕は祈らない。

 瞬きよりは長い時間、暗闇にいたと思う。目を開け、手を下ろす。


「もういいの」


 後ろから、夜美の声がする。


「ええ」


 僕がそう言うと、夜美は僕の隣へ歩いてきた。僕は前を見ていたので、彼女の表情は見えなかったけれど、多分僕と同じ無表情なんだろうな、と思った。


「私さ」


「はい」


「卒業式で泣いたことないんだよ」


「ああ。それは、僕もですねえ」


「今度の三月に大学の卒業式あるけどさ、あそこでも泣かないだろうね。ていうか、なんなんなら行きたくない」


「ええ」


「卒業式で泣くなんてさ、卒業式やる前から分かってたことだし」


「貴女は……よく小説を読んでいましたしね。夕輝の入院していた病院でも」


「うん。小説だけじゃなくて、あれは悲しいイベントだ、って皆が教えてくれるし。勝手に」


「そうですね」


「いろんなこと、そうじゃん。やるまえから、分かること多いじゃん。調べたら、すぐ、わかるし」


「ええ」


「そう思うと、もう、どんなことも、どうでもいいかなって」


「はい」


「どうでもいいって、ほんとに思うし」


「でしょうね」


「あのとき、兄さんが死んだとき、泣けなかったのも、そういうことなんだと思う」


 あのとき。彼岸花が咲く庭で、僕は様々なことを語った。でも、その内容をよく覚えていない。僕たちは大切な人の死に涙を流さなかった。だから、僕たちは共犯者。そんな文脈だったとは思う。


「死んだ人を生きているように扱っているとか、色々屁理屈捏ねたけどさ」


「ええ」


「結局、ただ、悲しめなかっただけなんだと思う」


 ただ、悲しめなかった。単純な事実が、ただただ痛い。


「そう、でしょうね」


 傷つかないことだけ、上手くなっていたのだ。

 僕たちは産まれたときからそれなりに恵まれていて、概ね幸せだった。病気もなく、飢えもなく、家族仲も悪くない。しかし、それが偶然の産物に過ぎないことも良くわかっていた。

 だから、守ることばかり覚えた。僕は傍観者になった。感情すら分析して規定して。色んなことを、「そんなもの」として、諦めていく。

 そうすれば、傷つかないことを知っていた。

 きっと誰でもやっていることだろうと思う。だけど、度を越していたのかもしれない。大切な友人の死すら悲しめなかったのだから。

 あのとき、泣くのが正しかった。悲しむのが正しかった。それは、あのときにしか抱けない感情だったのだから。

 それを取り逃がした僕たちは、一生この靄のような憂鬱を取り払えないのかもしれない。滑稽だと思う。傷つかないようにしていたくせに、傷つかないことに傷ついている。


「結局さ」


「はい」


「今になって気が付いたの。私、兄さんのことは大切だったけど」


「ええ」


「兄さんが死んだ瞬間から、兄さんのこともどうでもよくなった」


「ええ」


「それを、どうでもよくなってない、って嘘つくのは、やめたいんだよね」


 あの約束は。僕たちが共犯者という、あの約束は。

 僕たちを救うだけの、ものだった。

 一人ではなく、二人で「悲しめない」秘密を共有する。それは物語のように劇的で、悲劇の中の快楽だけを浴びたみたいな気分になれた。

 そこに夕輝は、一ミリだって介在していない。


「就活のときさ」


「……はい」


「母さん、よく言ってたの。『兄さんがあなたを守ってくれる』って。『あなたの最もいい道に導いてくれる』って」


「それは、それは」


「馬鹿じゃないって思った。兄さんは、普通の人間だし、そんな力あるかって。母さんは兄さんを無自覚に使っているだけだって」


「まあ、ですね」


「でも、気付いたら、就活のとき、兄さんに縋る自分もいたの」


「……」


「結局、そんなものなんだよ」


 僕は前を見る。灰色の墓石。これが夕輝だ。この石が、夕輝だ。

 色とりどりの花と、線香の煙と、水と。雑多なもので隠されて、その事実を隠そうとするけど。

 夕輝は石だ。物言わぬ、石なのだ。

 青白い肌。落ち窪んだ目。消毒液のにおい。細すぎる体。明るくて、無垢だった精神。もうそんな記号的なものしか思い出せないのだ。四角いパズルピースのように、それは変わることはない。心が動くこともない。

 分かっていた。全部分かっていた。分かっていても、楽になれるものではないけれど。



 

「しんじゃえ」


 霊園を出るとき、夜美は小さく呟いた。もしかしたら、彼女の本当の口癖は、こちらなのかもしれない、とそんなことを思った。

 彼女は兄を殺せたのだろうか。

 僕は夕輝を殺していただろうか。

 約束は、当然のごとく自然消滅してしまった。それでも、僕たちはそこそこ上手く、幸福に生きていけるのだろう。今まで通り。

 霊園を振り返る。地面には僕たちの濡れた靴が残した足跡が点々とあった。僕たちは足跡を残せる。何も思えぬ石にはまだなれない。それがなんだか重苦しくて、僕は空を見上げた。

 視界いっぱいに、夏の空の色よりは薄い青が移りこんだ。秋が始まるのだな、と思った。

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幸福は続く 森沢依久乃 @morisawaikuno

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